2010/10/31

大力物語―菊池寛

大力物語―菊池寛

ノブくんの評論

 この作品では、幾人かの力持ちの女性、男性のエピソードが紹介されています。このいずれもが事実として存在するとは考えにくく、著者自身もこれらの物語は誇張されていると考えています。では、なぜこのような誇張された物語を作品として発表しようと考えたのでしょうか。
 この作品では、〈表現するとはどういうことか〉が描かれています。
 この作品に登場するエピソードの中の人々というのは、七尺の大きな岩を動かしたり走っている馬を手で止めたりと、明らかに人智を超えた力を持っています。ここから私達は、このような表現は大げさすぎる、きっと誇張しているに違いないと考えるはずです。それは著者も例外ではありません。では、何故彼はこれを表現しようとしたのでしょうか。何故物語は誇張されなければならなかったのでしょうか。実はこの作品の登場人物たちには、もう一つ共通点があります。それは、女性であったりと僧侶であったりと私達が力持ちとは想像し得ない人々ばかりということです。恐らく、彼らの力を間近で見た人々というのは、私達が想像している以上に驚いたことでしょう。これを必死に他の人々に話そう、表現しようとするうちに、その驚き、衝撃を理解してもうおうとするうちに誇張が加わってしまったのでしょう。それは著者も例外ではなく、「この話なども、蹴られて、積んであった材木の上にのっかっていた程度であろうが、それを話しているうちに、だんだんやぐらの上にのせてしまったのであろう。」と自身でもその事を認めています。
 この事実から、表現することと誇張することは同じであると言っても過言ではないかもしれません。


わたしのコメント


 この物語は、人並外れて力持ちの女性を主に扱った説話集の形をとっています。力士を鍛えた「大井子の大力」、浮気した夫を絞め落とした「近江のお兼」、盗人と闘った「尾張の女」、船を陸まで引きずった「尾張の女」、矢竹をにじりつぶすほどの力があった「大井光遠の妹」の話がそれです。筆者も言うように、「これらの大力物語のいずれも誇張に違いない」ものですが、その工夫が大げさすぎるために、むしろ「その誇張が空とぼけていて、ほほえましい」ものとなっているわけです。

 論者の言うとおり、おそらくこの物語の元となった出来事に遭遇した人は、それを誰かに伝聞しようとして工夫をするがあまり、その表現がつい大げさになったのでしょう。そこから、「表現することと誇張することは同じである」、という結論が導かれてきても、何らおかしな点はないかのように思えます。
 しかし、はたしてそうでしょうか。「誇張」ということには、「意図して」大げさに言うというニュアンスが含まれていますから、自分の経験を自慢したくてなにかを言う、という捉えられ方をします。
 さてそこまで考えてみて、「それでは、体験した出来事を割り引いて言う場合にはどうなるだろうか。それは表現ということばの中には含まれないだろうか」と考えてみることのできる姿勢を身につけて欲しいものです。

◆◆◆

 では、誇張というものは、どのような構造を持っているのでしょうか。少しつっこんで考えてみましょう。

 説話というものには、いくつかのパターンがあります。それを読む者に教訓を与えようとしたり、今回のもののように、教訓めいてはいないが、誇張された出来事の伝え方が、かえって読む者を楽しませるものです。後者のような説話をわたしたちが楽しむ時には、暗に陽に「伝聞」というものがもたらす作用に眼を向けているわけです。

 「伝聞」における誇張には、大きく分けて2つあります。
 ひとつに、その出来事を直接に目の当たりにした当事者が、第三者にそれを伝えるときに、つい大げさに話してしまったり、またその経験を自慢するために意図して話をふくらませてしまうことが挙げられます。この物語についていえば、筆者は「それを話しているうちに、だんだんやぐらの上にのせてしまったのであろう」という推測のなかで、「のせられてしまった」ではなく、「のせてしまった」という表現を使っています。ということは彼は、ある人物が主体的な意図をもってそうしたのだ、と考えているわけです。

 二つめには、当事者は正確に表現をしたつもりでも、それが数人の伝え聞きを経たころになると、はじめの言明とはかなりの隔たりを持ったものになる場合です。いわゆる「伝言ゲーム」も、ここに現れている誤り方を逆手にとった形になっています。ただし、少なくとも伝言ゲームでは、簡潔な言明しか用いられません。それに対して現実の複雑な言明を含んだ伝聞となると、伝聞によってどのような様変わりが起きるかは想像してみただけでもわかろうというものです。
 さてそうすると、伝聞における誇張のうち、こちらの誇張の場合には、ある体験をした当事者とそれを伝えた者たち、彼らに「特定の意図がないにもかかわらず」、誇張という現象が起きているわけです。そうすると、それはなぜ起こるのでしょうか。

◆◆◆

 問題を整理するために、人間の認識のプロセスを確認しておきましょう。まず、ある人が何か事物を見たあと、それを表現しようとする場合を考えてください。人間は、物質的な「対象」を、五感で受け止めた像を「認識」として結実します。その頭の中にしかない認識を、物質的な形で表したものが、「表現」と呼ばれているのです。

 対象→認識→表現

 そうして、あらゆる人間の労働一般が認識を経て行われるために、私たちは創作活動をすることができるのだし、発展の機会を持つことができるのです。ところが、認識を媒介として表現に至るという構造には、私たちが対象を自分勝手に改変できてしまう、という側面も含まれているわけです。

 ここでもし、ダヴィンチの描いた「モナリザ」を10人で模写することになったとしましょう。それを同時に模写する場合には、それほどの問題はおきないのですが、もしそれを、ひとりずつ模写することにし、次の人は前の人のものしか参考にできないとすればどうなるでしょうか。そうすると、10人目の作業が終わる頃には、はじめのオリジナルとはいくぶん違った模写になっていてもおかしくありません。
 この問題は、例えで示したような複数人で伝え合う場合だけではなく、まして模写という活動だけに限定されることでもなく、なにかを「独習する」という場合には、やはり問題として残ります。たとえば、ペン習字のことを想像してみてください。一文字目は手本を見ながら忠実に書き、さほどの狂いがなかったものでも、二文字目、三文字目と書き進むにつれて、文字が乱れ始めることは誰しも経験したことがあるのではないでしょうか。その原因は、書き進むと同時に、手本の書体ではなく、自分の書いた書体を参考にしてしまったことによるものです。

 はじめはわずかな差であったものが、それが積み重なることによって、結果としてまったく違ったものとして現れる、<量質転化>のひとつの例がここにあります。何事の修練にも、初心においては独習だけではなく、常にそれを先達の目から見てもらい、修正してもらうということが必ず必要になってくるのは、ここに落とし穴があるからなのです。

 この物語における「伝聞」の場合には、オリジナルとなった体験談が、言語化される際に、すでに認識を媒介とした改変が加えられていることに加えて、オリジナルそのものが明確な対象ではないことによって、あとで伝聞された人たちが拠り所とできるものが存在しない、というところに問題があったわけです。

◆◆◆

 さてそもそも、なぜいち評論に、ここまでくどくどと突っ込んだ話をしなければならないのか、という声もありそうです。その説明を一言で述べておきますと、理解の浅さが、言葉の端々に現れてしまっている、ということになります。
 論者は、この物語の一般性を<表現するとはどういうことか>と言っていますが、ここまで一般化してしまえば、どんな物語についても同じことを言うことができてしまいます。たとえれば、どんな物語についても、「この物語は<人間とはどういうものか>を描いている」と言っているのと同じです。しかしそんなことは、夏目漱石を読んだときにも、芥川や太宰でも、またダヴィンチの名画や建造物であるサグラダファミリアの感想を述べたときにも、ほかのどんな創造物に対しても同じことが言えてしまうのではないでしょうか。それは、この一般性の抜き出し方が、「一般的すぎる」ということに問題があるからなのです。
 たとえるなら、「怒ればワンと鳴き、喜ぶとしっぽを振る四本足の生き物」を、「動物だ」と答えてしまっている、ということになります。

◆◆◆

 そもそも論のついでながら、この評論という作業は、向き合った作品の論理を読み取り、それと同じだけの論理性を備えた作品作りに活かす、というところに主眼が置かれていますね。そのもっとも重要となるものが、一般性の抽出、という作業です。
 イメージの描き方として言うならこうなります。一般性とは、その物語にしっかりと向き合い、この物語の要点を一語で言うならばどうなるか、という問題意識に照らしながらある原石として抜き出し、その仮説を念頭において物語を再度読み進めてゆくなかで核だけが残り、あるひとつの宝石へと磨かれてゆくものです。
 それが完全な形になっているならば、たとえばその一般性を誰かに伝えたあと、彼がその一般性に沿って物語を読み進めるときに、物語の中にどんな表面上の逸脱があったとしても、必ずそこへもどってくることによって、その作品の要点を再度確認することができるはずのものです。これは、さまざまな動物を見てきた経験を一般化して、コリーであってもチワワであってもブルドッグであっても、「犬」という概念でくくれるのと同じことです。

 一般性の抽出という作業は、その生い立ちの中で、「目の前の現象に論理の光を当てて見てきたか否か」という経験が最良の訓練となっているものですから、それが自然に出来ていない場合には、やはり意識的に訓練をせねばなりません。


 ですから、あなたに必要な訓練を整理しておけば、以下のようになります。
 まず第一に、この物語をはじめとした評論という活動においては、自らが一般性の原石を抽出し、それを元にしながら再び作品に向きあって、その一般性の原石によって、その作品が確からしく読み解けるか、と確認してみなければなりません。そうして、原石が宝石となるまで、作業を繰り返すよう心がけてください。
 第二に、上記で考察したように、もし自分の立てた一般性によって物語が解けない場合には、「よりつっこんで考えてみる」ということが必要です。そのために、弁証法の三法則が助け舟となるはずです。私が冒頭で、「それでは、(「誇張」とは逆に、)体験した出来事を割り引いて言う場合にはどうなるだろうか。それは表現ということばの中には含まれないだろうか」と言ったことは、物ごとの両面を考えたという意味で、<対立物の相互浸透>ということができます。

 最終的には、意識的な鍛錬を経た論理性が、自然発生的な論理性を凌駕するのは必然です。そのことはいくら強調してもしたりないほどの必然性がありますから、日々の、「意図的な・目的的な」鍛錬を欠かさぬようにお願いしておきます。

2010/10/30

iPad対Air

ああ遅い。。。

何がって、我が家のメインマシンMacBook Proである。
以前から愛用していた初代MacBook Proが、なんだか限界のようだったので買い換えたのが今年の2月。

さっき記事にしようと写真を撮るついでに数週間ぶりに電源を落としたのだが、
一旦電源を消してしまうと、付けるのに3分。
常用のアプリ(Safari, iTunes, Evernote)を起動し終わるまでを合わせると、
かれこれ6,7分はかかっているではないか。

仕込みしておいた具材を火にかけて、風呂を入れて、写真撮って、手洗いに行ったのに、
まだアプリが完全に起動し終えてなかったのを見て、さすがに悲しくなっちゃったぞ。
(いろいろとソフト入れすぎなのもあるけれど)

Airが届いてから快適すぎて、Proさんはさっぱり触ってなかったものなあ。
慣れとは恐ろしいよ。

◆◆◆

さて、どうでもいいひとりごとはさておき、
せっかくいろいろ無駄に持ってるので、道具選びの参考になればと並べてみた。
わたしもiPadとAirは、どちらを持ち出すかはちょっと悩ましいところがあるので整理がてら。

ここで大事なのは、画面サイズと本体サイズのバランスだろう。
わたしのように、いろいろ変遷しなくても最高の道具を見つけられるように参考にしてください。


写真は上から、
・ピカチュウのiPad(9.7")
・MacBook Air(11.6")
・初代MacBook Air(13.3")
・MacBook Pro(15.4")



ライティングと背景にはツッコミ無用です。ちゃんとやってると野菜が焦げそうなもんで。。

◆◆◆

ここで、学生さんの場合には、可搬性と価格から言ってほとんど検討に上らないであろう下の二つを外すと、こんな具合。
前回の雑記でも述べたように、iPad(左)に比べてAir(右)は、いかに画面の横幅が無駄かがわかろうというもの。





ただ、持ち運びのしやすさを考えると、やはり画面とキーボードがすべてひとつになっているAirが有利。

iPadをフル装備で持ち出すと、どうしてもゴチャゴチャしてしまう。
キーボードは無線なので電池も要るし、iPadとの通信中は電源も減りやすい。
それぞれをケースに入れたりしようものなら、めんどくさいのなんのって。
ここらへんが、いまだにハードウェアキーボードの呪縛から逃れられない旧人類には悩ましいところだろうか。(せっかくAppleが画面だけを切り離してくれたというのに!)


なぜか持ち運びできるスタンドがあんまり出ていないのだけど、
唯一バード電子さんのところで売っているものが、外出先でもまともに使えると思う。
(写真のはバード電子さんのiPod touch用を加工したものなので違います)

ただiPadは見た目に反してそこそこ重いので、画面タッチで後ろに倒さないようにしてね。

◆◆◆

AirもマウスやACアダプタが要るからもっと荷物増えるのでは、
と思われるかもしれないけど、ちゃんと朝出る前に充電しておけば、
文字をタイプするくらいなら、4時間以上はちゃんと持つのでなんとか耐えるのではないか。

ついでにマウスも、となりそうだけど、
今のMacはマウスよりもトラックパッドのほうが便利なのだ。
それはマルチタッチでジェスチャーが使える(詳細は以下)からなのだが、
おかげでデスクトップ用にもトラックパッドが出たくらいのものだ。

ここらへんも、とんでもなく窮屈な思いをしながら小さいトラックパッドをせこせこなぞっていらつき、風呂上りに湿気た手で触ろうものならポインタが飛びまくって、「買ったばかりなのに故障した!」と騒ぎ立てていた頃とは隔世の感がある。
(海外の空港にいるビジネスマンは、たいていあのころも機敏に使いこなしていたけども)

Bluetoothマウスを使うと余計にバッテリーを食うし、Airをご購入の際には、
騙されたと思ってトラックパッドを使ってみてください。

◆◆◆

新しいMacを買った場合、
トラックパッドを使う際にあると便利なものは、
ひとつには"BetterTouchTool"というアプリ。


これはわたしの設定だけど、こうしておくと、

・3本指クリックで英語の意味調べ(こんなふう)

・3本指で左/右になぞることで、ブラウザのタブを切り替え

…ということができるようになる。
ほんとはもっと多機能なので、あとはお好みで。

◆◆◆

ふたつめは、"Expogesture"。


これもわたしの設定。
・時計回り/反時計回りになぞって、ブラウザの戻る/進む
・横に数回ふってなぞって、すべてのウィンドウをずらっと並べて表示
・縦に数回ふってなぞって、デスクトップを表示
(あとの2つは、"fn"キーを押しながらF9, F11をそれぞれ押してください)

◆◆◆

もはやどれが欠けても研究に支障が出るほど重宝しているもの。
卓越したプロダクトは、もはやソフトウェアなくして成り立たない。


ところでなぜかはわからないが、
わたしは子供の頃に、自分が頼っている文明の力を、
ひとつずつ頼らなくてもすむように生きていこうと思ってきたのだけれど、
いまやこのMacという道具にだけはなかなかアタマが上がらない。

その気になれば捨てられるのは確かだけれど、その時でもないしね。
機械類に限っていえば、いい関係を保てているのは、
後にも先にもこの会社の出すものだけかもしれないなあ。

2010/10/27

MacBook Air 追記3

ああ…またやっちまった。

新しい道具を手に入れると、いろいろといじくりまわした挙句、
普段は自省を利かせて仕事に戻るようなことでも、いろいろと書いちゃう。

しかし読者のみなさん、
文字ばっかりの、やたらと批判めいた、堅苦しい論文調の、こんなBlogをよく読むね。
変わってるって言われませんか。

◆◆◆

さて追記3つ目です。
iPadと新Air、一般ユーザーにはどっちをすすめるべきか、というテーマをもう少し考えてみた。

「どっちも買えばいいじゃん!」っていうのは、実はちょっと問題ありなのだ。
というのも、iPadというのは実は、母艦となるMacかPCが必ず必要な製品で、
母艦側にもバックアップが残るために、iPad以上の容量が必須だから。

そうすると、16GBのiPadを買うと、64GBのAirはそれだけ消費されちゃうわけだ。
わたしが今回買ったAirは、全容量64GBのうち、OSが18GBほど確保しているので、
残りの40GBくらいから16GBぶんが引かれてしまう。これはつらいだろう。


そういう理由で、他に母艦となるPCがあれば良いのだが、
iPadの母艦としてAirを買うのはおすすめしない。

◆◆◆

さて、じゃあどちらかとなったときにどっち選べばいいか、というと、
前回も言ったとおり、結局は用途次第、ということになるが、
比べられるところは比べてみた。

まずブラウザの表示。画像をクリックすると、実物大で見れるはずだ。
iPadでの表示

新Airでの表示

ちょっと驚いたことに、表示領域としてはほとんど同じなのだ。
双方ともに、Appleの誇るデザイナー、ジョナサン・アイブのお姿が映るか映らないか、
というところまで表示されている。

ところがこれ、実はAirについては、ブックマークバーとステータスバーを非表示にしたときのものである。
デフォルトではブックマークバーが表示されており、さらに右側にあるDock(アプリケーションのランチャー、アイコンが並んでいるところだ)が下側に配置され、場所をとっている。

これを見ると、新Airでの画面の手狭さというのは、画面の小ささと、アスペクト比率が従来の16:10とは違った16:9になっていることからきていることがわかる。

MacOS Xの次期バージョンでは、アプリケーションの設計が、iPadのような全画面表示を前提としたものへと変えられてゆくようだが、PCにおける画面比率が、どんどんワイドになっていっていること、言い換えれば縦の長さが少なくなっていっていることとも関係がある。
(iLife '11のiPhoto ’11などを使ってみると、全画面表示を体感できる)

◆◆◆

では、PC業界は、なぜにそこまでしてワイド化を進めているかといえば、
そこで想定されている用途が、「動画」に類するものだからである。
単純化していえば、アスペクト比率4:3のノーマルサイズであったものが、
人間の視野と同じだけのサイズをより確保するために、16:9のワイドサイズになっていった。
これは映画業界が推進したビスタ・サイズが家庭内にもDVDといった形で普及してゆくのに伴って、家庭で用いられるテレビもが、ワイド化する必然性が出てきたためだ。


その流れを受けて現在出回っているPCは、ほとんどが16:10、最近では16:9が主流になってきつつある。
そこで目指されているものは、「動画」、そしてまた「映画」ということだ。


それにたいして、iPadといえば、4:3の画面比率を採用している。
これは、9.7インチもの画面をタッチパネルで作るという必要のために
既製のパーツが使えなかったということ以上に、
そこで目指されているものが、「紙」、そしてまた「本」だということだと推測できる。

手持ちのA4用紙は、いくら半分に折っても、常に同じ比率が維持されるようになっている。
これは、その比率が√2:1(約4.24:3)だからだが、iPadの画面比率はこれに近い。


文庫本などではより縦長のサイズもあるが、iPadがそれでも4:3を採用したのは、
横画面にしたときにも、「本」らしくなるように、とのことだと思う。

◆◆◆

そういうわけで、iPadとAir、どちらを選ぶべきか、となると、
歴史的にそれぞれが目指してきた過程を考えてみると、一般的には整理ができる。

iPadは「本」、Airは「映画」である。
選び方も、それに伴ったものになるはずだ。


事実、わたしはiPadをジップロックに入れて風呂に持ち込み、「i文庫HD」を常用している。
これは青空文庫をアプリ化したもので、Appleの公式BookStoreが日本上陸の目処さえ立ちそうもない現在においては、iPadの面目躍如、といったところだろう。
学術書のPDFやマンガビューアーとしても、これ以上ないアプリだと思う。


そうしてiPadは縦型をベースにしていることから、ブラウザの表示も、PCより遥かに快適だ。
上で比較した画面を縦向きにすると、こうなる。


雲泥の差である。

横書きという形態しか持ち得ない英文というものの制限から来ているとは言え、下へのスクロールを想定したWebページが、本来の用途であるPCではむしろ見づらいものになっているとは、なんとも皮肉である。
Webでも日本語の縦書きのフォーマットがしっかり整備されていたなら、英文よりもはるかにワイドスクリーンとの親和性が高かったはずだ。

◆◆◆

こうしてみると、キーボードというしがらみに捕らわれることのないタブレット型の機器は、
「縦にでも横にでも使える」ということが、いかなる利点になっているのかがわかってくる。

携帯電話業界でも、いわゆる「ガラケー」が、テンキーの存在に縛られ、
縦型の画面をベースにせざるをえないことは、論理的には同じ苦しみを抱えている。
iPhoneは、そもそも本体を縦にも横にもすることが容易なことで、この問題をやすやすと打ち破っている。

日本メーカーは、ガラケーからの類推で、画面がガチャガチャ回転して、
縦長の画面にできるノートPCなどでも出しそうなものであるが…
わたしはああいう小細工はバカバカしくて、どうしても好きになれないけれども。

◆◆

というわけで、ずいぶん話が遠くまで来てしまったけれど、
PCをこれまでにずっと使ってきた人や、積極的に創作活動をする人以外には、
実はiPadのほうがずっと使いよいのではないか、とも思うのだ。


平成生まれの学生さんたちを見ていると、「PCでどうやってメールアドレスを取得すればいいのかわかりません」といった人たちもたくさんいる。
そのうち、調べ方すらわからない、調べる気がない、という内に閉じこもりがちな人間も多いのは、教育における大問題なのだが、少なくとも彼らは、携帯電話でなら、けっこうな調べ物ができるのだ。
中には卒論まで携帯電話で書いた、なる人物もいるくらいである。あれにはさすがにたまげたが。

そういった人たちは、当然ながらタッチタイピングなどできるはずもないのだから、
そうなると、キーボードがないことの悩みなどもともとないのである。


情報を受け取ることがメインのタブレット型が、
彼らの創造性をさらに閉ざすことになるのでは、
という危惧もないではないが、そこは使い手の心がけに委ねたい。

もとより認識へ外界の反映を強いものにしようとすれば、
手を動かして直接文字を書くしかないのだから、
やっぱり万年筆で紙にバリバリ書きまくるに越したことはないのだし。


わたしのBlogも、手書きをスキャンすることにしようか、どうか。

MacBook Air 追記

Appleについて語りだすと、他のことが手に付かなくなるので困るのだけど、ちょっと追記。

・秀逸な記事を発見

MSが新「MacBook Air」を恐れるべき理由--フラッシュストレージがもたらす可能性 - CNET Japan
 MacBook Airが高速であることの理由の1つは、単にフラッシュストレージを使っているということだが、もっと大きな理由は、Appleが新しいMacBook Airを、従来のハードドライブがなくなるという前提で設計したことかもしれない。

この記事で書かれていることを補足して流れを見ておくと、

新しいMacBook Air(以下Air)をAppleが「ノートブックの再発明」なる仰々しいキャッチコピーで宣伝しているのを見て、誰かが大げさすぎる、と言ってもやむなきことかもしれない。
それは、少なくとも外見上はそれがこれまでの延長線上のノートブックの形をしているからであり、すこしつっこんで見ても、それが「フラッシュストレージを標準採用」しただけである、というようにしか見えないからである。
事実、Windows OSを採用するVaio Xは、同じような価格帯で、Airよりさらに薄く、軽い。

ところが、いざAirを使ってみると明らかになる最大の特徴は、iPhoneやiPadのように、「一瞬で起動できる」ことなのである。
もちろんそれは、完全に電源が切れた状態から復帰させるのではなくて、スリープ状態からの復帰なのだが、この製品はそのスリープ状態を1ヶ月保っておける仕組みを一から作ることで、一瞬での起動を実現しているのである。

それは、「フラッシュストレージを採用した」というハードウェア的な要素だけではなく、「Appleが起動に時間のかかるハードディスクのオプションを排除した」という立場上のフットワークの軽さに加えて、「スリープ状態でもほとんど電力を消費しない」というソフトウェアによる工夫を凝らしているからに他ならない。

その結果として、Airは、これまでのノートブックのあり方に縛られることなく、iPhoneやiPadなどといった製品を使い慣れたユーザーからも批判のでないユーザー体験を、自然に実現できているわけだ。
そしてそれは、これからのApple製ノートブックの未来を、暗示していると言えよう。

ではこれと同じ進化を、幾多のメーカーのサポートを必要とするMicrosoftが、足並みを揃えて実現できるかといえば、相当に困難なことだと言わざるをえない。

◆◆◆

達見である。

この記事では、MSを引き合いに出してはいるが、それは形の上でだけのことだ。
その論理として、「レガシー(旧世代)のサポートを必要とする立場」とこれまでのしがらみを振りほどき、「ユーザーにとっての最高の体験とは、という観点から物事を考え、製品づくりをできる立場」のあいだに、どれほどの隔たりがあるか、という一般論まで議論されているわけである。


メディアにしろ文学にしろ学問にしろ、仮にも創作活動に携わっていることを自認するなら、見たままの事実や知識の背後に、どういう論理が横たわっているかを引き出してこその、真っ当な仕事である。

それが、単に「結果として」新しい知見、に見えるだけにすぎない。
わけのわからない新しいアイデアだの思想だのに飛びついたり、それを使って現実の動きを分析しているように見えても、結局は自分のたどり着きたい結論ありきで、都合の良い証拠をつなぎあわせているだけなのである。
それは、「創作」とは言わない。


もっと悪いことには、こういう電子機器を扱ったメディアというもののほとんどが、徹底比較とかこつけて、やっていることはCPUが上がっただの、新しい機能がついただのということしか書けず、なにも「論じられていない」ことだ。
そんなものは、メーカー公表のスペックシートをExcelでまとめればいいだけのことで、ライターとしての誇りにかけて、このレベルの記事を論じてゆける力を育んでほしいものです。

MacBook Air 追記2

・友人からのメール

曰く、
古いMacBookを使っているし別に潰れてもいないのだけど、お前の浮かれた記事を見ているとAirも欲しくなってしまったじゃないか、どうしてくれるのだ。


…うん、気持ちはよくわかる。

自分でなにか明確な目的があって、なにか道具を作るならまだしも、こういう新しい既製品がポンと出てきてしまうと、それを買うに当たってはやっぱりなにか理由が欲しくなる。
家族を持つと、白をグレーとすっ飛ばして黒にするくらいの、とんでもないレベルの理由付けが必要だというし…。

で、この友人はMacBookの黒モデルをお持ちなのだが、実はスペックを探し出してくるほどのことでもないのだ。
というのは、今回の新Air、ノートブックに見えて、実はそうではないのである。


実は同じ88,800円のMacBookとAirを比べると、Airはスペックではほとんど負けている。
CPU、ディスプレイ、容量を比べると、こうなる。
・前者:2.4GHz、13.3、250GB
・後者:1.4GHz、11.6、 64GB

それなら、なにがそんなに違うかといえば、やはりハードディスク(以下HDD)を搭載していない、というところが、最大の要因なのだ。


馴染みのない人に説明しておくと、「HDD」というのは、レコードを何枚か重ねたような仕組みのもので、データを格納しておく場所である。
パソコンがスリープから覚めると、レコードの針が盤面へ向い、蓄積してあるデータを取り出してきてくれる。

こう書くとイメージがわくと思うが、想像の通り、この処理がとっても遅い。

そういうわけで、データを一時的に利用するために、読み出しの早い「メモリ」というものを用意して、体感速度を上げる工夫を随所に凝らしているのだ。
「CPU」に搭載してあるキャッシュというのも、少しでも早く、を実現するためのもの。


イメージとしては、
HDDは引き出しの数、メモリは作業場の広さ、CPUは作業員のかしこさ、と思えばいい。

◆◆◆

ここまで書いてくると、PCメーカーというのは、「少しでも早く」を実現するために、いろいろと工夫をこらしてきており、モデルチェンジのたびに「スペックが上がった」といえば、ここの数字が上がった=早くなった、ということだった。

今までは。


ところが今回のAir、ハードディスクという、コンピュータの足を引っ張っていた部分を、「メモリ」と同じような性質の「フラッシュメモリ」に変えてしまったから、話が変わってきた。


これまでのノートパソコンを、「馬力はあるが初速がとっても遅いクルマ」だとすると、
Airは、「馬力はそれほどでもないけど初速からフルスピードの出るクルマ」、ということになる。

ぜんぜん違うものだっていうことがわかるでしょ。


「でも馬力を出してからはこれまでのほうが早いんでしょ」と言われば、たしかにそうなのだ、ただし、パワーの必要な同じ作業をずっと続ける場合には、である。

PhotoshopでA1サイズのモデルさんのお肌をスベスベにレタッチしたり、
保育園での学芸会のわが子の様子をビデオ編集したり、
浮動小数点演算を一晩中続けたり、
創作活動に没頭するタイプの作業では、やはり馬力があったほうがいい。

ただ、メールをチェックしたり、Webで調べものをしたり、レポートを書いたり年賀状を印刷したりするのに、それほどのパワーが必要かというと、やはりそうではない。


事実、iPadには1GHzのCPUと256MBのメモリが搭載されているけれど、遅い、と言われることはまったくない。
ところがこれを、同じスペックのPCに置き換えたら、とても常用に耐えない、と思われること必至である。(5年前のノートパソコンはこれくらいだった)
 
これらがすべて、HDDを排除し、フラッシュメモリを採用したことで、新しいステップに上がることになったのだ。
AppleのCEOが新Airの発表時に、「iPadから学んだ」と繰り返し述べていたのは、ひとつにはこのことを指している。
 

結果として、スペックは見劣りするものの、ユーザー体験としてはこれまでにない快適さを、新しいAirは確保できているということだ。

これが、Appleをして「ノートブックの再発明」と言わしめる所以である。
(iPhone発表時は、「携帯電話の再発明」だった。同様の重みがかかっているのだ)

 

さて、ここまで説明しておけるようにしておけば、なんとなく決心がついてきたのではないかと思われるのだけど。

とりあえず、
「こここれは見た目はノートパソコンだけど、実は違うんだって!」
という言い訳はどうでしょうか。浮気したときの言い訳よりも、たぶんずっと楽です。

◆◆◆

さて、とにもかくにも、この4,5年でのこういう道具の進歩はめざましすぎると言ってもいい。
iPhoneに続きiPad、新MacBook Air。

これからの未来に脈絡と続くはずの製品群が、互いの高めあいとともに、お互いがそれぞれの形を確たるものとし、渦を巻いて噴出するかのごとく一気に花開いたように「見える」。
大げさではなく、これらすべての仕事が単一の組織によるものなのだから、驚きということばでは足りなさすぎるというものである。

わたしたちは、歴史の転換期を目の当たりにしている。

何度も言うが、決して大げさではない。
与えられたものを享受するだけの人間や、見た目の変化にだけしか目を向けられない人間には、決して読み取れない数えきれないほどの試行錯誤の積み重ねが、あたかも「突然現れ、たまたま成功した」ように見えるだけだ。

2010/10/26

MacBook Airが届いた。


メインにMacBook Proの15インチを使っているし、
外出するときにはiPadを、キーボードとスタンドと一緒に持ち歩いていたので、
果たして使い分けができるかどうか、と思いながらも注文。


初代のAir
実は、初代MacBook Airも発表された瞬間にぽちっとなして持っていたのだ。
あのときは、Appleもついに持ち運べるノートを出す気になったか!
これはPowerBook 2400cの再来だ!と思ったもの。

見た目には文句なしに素晴らしい製品で、
ひんやりとしたアルミのパームレストに、
滑らかでゆったりした大きさのガラス製トラックパッド、
宙に浮くようなアールのかかったライン、
ケーブルを全部捨てろと言わんばかりのポートドアなど、
どこをとってもうっとりするような、思想性あふれるものだった。

ところがいざ使い始めてみると、
熱を持つとレインボーカーソル(考え中のマーク)がくるくる回りはじめ、
数分経っても止まずに作業が停止されるという、私にとっては致命的な欠陥があり、
父親のPCが壊れたときにあっさり譲ってしまった。


私は機械は単なる道具だと思っているので、
その道具が自分のやりたいことを阻むようなものは本末転倒、こっちからお断りなのである。
というわけで、あっ思いついた、となったときに、
考えの逃げないうちに、ぱっと開いてさっと記録できないと、持ってる意味ないわけだ。
(遅い道具をずっと使い続けられる人はうらやましい。)


そのわりにお前は道具に拘るな、という友人がいるのだけど、
単なる道具だからこそ、こだわらざるをえない、というのはそれほどおかしなことだろうか。
今やりたいことがあって、それをこなしてゆくための手段として道具を選ぶのだから、
やりたいことを妨げたりうまくやらせてくれないのなら、むしろ無いほうが良いわけです。

形から入って、さてPCでも買うか、という人たちには、なかなかわかってもらえないようである。
その気になれば、道具なんかどれも捨てられるもの。
(そんならおくれ、といってもあげません)

◆◆◆

さて、そういう経緯があって、今回は大丈夫かな、と思って注文した今回のAir。

わたしが注文したのは、下のモデル。
・11インチ:64GB
・プロセッサ:1.4GHz Intel Core 2 Duo
・メモリ:4GB
・キーボード:US

メモリを増やしてあるから、学割と消費税入れてお値段95000円弱。
とにかく一番の目的は、「文字をストレスなくタイプできる」ということだから、
一番馴染みのあるUSキーボード、遅くなったら嫌なのでメモリは倍。

(1万円でプロセッサを1.6GHzにアップグレードできるけど、
同じ値段でメモリを増やしたほうが、体感速度ははるかに上がるはず。
あとで足したりはできないので、買う前にちゃんと考えましょう)

◆◆◆

今日一日使ってみた限りでは、
5時間持つというバッテリーはまったく問題なし。
2時間ほど文字を打っていたが、まだ70%残っている。
ワイヤレス(Wi-Fi、Bluetooth)をオフにしてのタイピングだけなら5時間はしっかり持つと思う。


あまりメディアで触れられていない点として、
・キーボードはファンクションキーだけではなく、スペースキー側も2ミリほど短い。
 (日本語変換するときに右下の方向キーをタイプミスする以外は問題なし)
・キーボードはこれまでのMacBookシリーズなどよりも、ストロークが浅い。(違和感あり)
・キーボードはバックライトは搭載されなくなった。(悲しいがキートップの印字はシルバーで高級感がある)


あと個人的な感想として、
・ポートドアが廃止され実用的だが、デザインとしては後退したと思う。(横から見るたびにがっかり)
・強度のためか、液晶の縁がやたらに広い。(いつになれば狭縁に戻ってくれるのか)
 チタンPowerBook G4を愛用していた人間としては悲しいぞ…あれは最高にカッコよかった。
・キーボードの下にスピーカーがあり、ステレオになった。音もいい。(これは飛び上がるほど嬉しい!)
・解像度アップで、11インチでも旧13インチ並みに情報量がある。
・液晶のバックライトはLEDだが、初代ほど綺麗ではない。(コストダウンだろうね)
・アスペクト比が16:9になったことで、文字を読むには縦が狭すぎる。(UIを再構築すべき時なのだ)
・とにかく軽い、かさばらない。PCかついで研究に行くぞ!という気構え無用。(ケースほしい)

◆◆◆

総評としては、今回のMacBook Airはひとまず誰にでも進められるバランスは持ち合わせていると言って良いと思う。
見た目の良さだけでなく、中身で選んだときにでも、十分におすすめできるほどに成熟している。
(余談だが、アップルはメジャーアップグレードの偶数番号に当たりが多いのだ。
 リスクをとりながらも論理的に考えている証拠である。だれか本でも出さんか。)


たとえばPCを新調したいのだけど、
となった場合にどれを買えばいいかとなると、けっこう悩ましいものがある。
わたしが選択肢を挙げるとすれば、以下の二つ。

・iPad(48,800)+キーボード(6,800) ※PCがあることが前提
・MacBook Air 11インチ(88,800)


そのうちどちらになるかは、ビューアーとしての使い方がメインなら前者、
創作活動が中心で、レポートの執筆からビデオの編集までしたい、となれば後者ということになる。

他の13インチMacBookや同Proは、もはやおすすめしにくい。
それほど、今回のモデルチェンジは大きかったということでもある。


◆◆◆

しかし9万円ほどでこれだけの物が手に入るようになるとは、時代の流れとは、
努力を積み重ねる人間というものの行く末というものは恐ろしい。
初代Airの64GBモデルといえば、当時出たてのSSDを使っており、40万ほどしたのだ。
あれから2年でこれほどまでの進化を遂げるとは、誰が予想したであろう。

もしAppleが、
iPadを開発していなければ、
フラッシュメモリの買い付けが世界一でなければ、
Mac OSが成熟の域に達していなければ、
バッテリーマネジメントがここまで発達していなければ、
ニッチなシェアでなけば(出荷量が多すぎるとアルミ削り出しはむしろコストアップなのだ)、
…どの要素が欠けていても、ありえなかったことである。

「もし」という仮定は想像の中にはあるが、もはやそれがありえない世界に我々はいる。

こういう存在の行く末を見ていると、歴史的必然性というものは、
積み重ねている者のところにしかないと、いつも思う。
それも、圧倒的な正しさをもって積み重ねられた者にだけだ。
ガムシャラにやってもダメで、積み重ね方そのものを、しっかり考えておかねばならない。

これまでの延長線で物事を考え、1を2にすることだけを考えていた人間と、
0から必死の努力でもって1を創り上げようとしてきた人間との差が、そこにはある。
後者は、方法論を含めて独力で創り上げてゆかねばならないからこその、まったくレベルの違う大難事なのだ。

どちらが儲かるか、といえば圧倒的に前者であろうが、時代を作るのは紛れもなく、後者だ。

2010/10/25

女類―太宰治

・ノブくんの評論

 戦争が終結し、東京で雑誌関係の仕事をしている伊藤は、行きつけの屋台、「トヨ公」のおかみに惚れられ、ねんごろになっていきます。そんなある時、彼の郷里の先輩、笹井氏がたまたま「トヨ公」にやってきます。そしてやってきたかと思うと、「聞いた。馬鹿野郎だ、お前は。」といきなり伊藤を怒鳴ってきたのです。どうやら彼は伊藤が女性と親しくしていることが気に入らず、その行為自体が「地獄行きを志望」しているというのです。一体どういう事なのでしょうか。
 この作品の面白さは、笹井にとって「真実とはどのようなものなのか」というところにあります。
 この笹井という人物は、「若い頃、その愛人にかなり見っともない形でそむかれ」以来女性を非難し、男類、女類説(男と女では動物学的に違い、決して相容れぬものではないというもの)を述べるようになっていたのです。
 そしてこの男類、女類説を伊藤とおかみの前で言ったことにより、伊藤とおかみはすれ違いを起こし、やがておかみは死んでしまったのです。こう考えると、笹井氏におかみが死んだ原因が必ずしもないとは言い切れないでしょう。ところが、笹井氏は「なんだ、怒っていやがる。男類、女類、猿類が気にさわったかな? だって、本当ならば仕様が無い。」と、あたかも伊藤とおかみのすれ違い、またおかみの死について自分には全く原因がないと言わんばかりの発言です。
 しかし、こう豪語する彼にも自身の説に揺らぎを感じているようです。それはこの発言をして、伊藤たちにボコボコにされている時、「男類、女類、猿類、いや、女類、男類、猿類の順か、いや、猿類、男類、女類かな? いや、いや、猿類、女類、男類の順か。ああ、痛え。乱暴はいかん。猿類、女類、男類、か。香典千円ここへ置いて行くぜ。」と、明らかな動揺を見せています。そして何故か香典に千円という大金を払おうとしています。この奇妙な行動から、恐らく笹井氏も自身に原因があることを心のどこかでは認めていることが推察されます。ですが、自身が犯した罪にどうしても耐え切れなかった彼は、男類女類説を持ち出しその罪を逃れようとしたのです。
 彼にとって真実というものはどうでもよく、重要なことは自分にとって都合のいい事実だった、ということが言えます。ですが、この苦しい彼の説は、真実の前では蟻のようなもので、それを必死で振りかざそうとする様が私達には滑稽に見えてしまうのです。


・わたしのコメント
 論者は、「なにが『おかみ』を自殺に追い込んだ直接の原因であったか」という問いに答えようとしているようです。そこでは、「真実」と「事実」の区別を用いて、前者を「笠井の男類・女類説によるものである」という笠井を除く周囲の見方と、後者を「私が何を言おうと、起こるべくして起きたことなのだ」という笠井の見方が対比されています。しかし、どちらが真実らしいかといえば、とくに何等の根拠も述べられていないのですから、論拠とはなりえません。
 そういう論じ方を見ていると、まるで論者は、「真実と事実」という概念を披露したいがために、その図式を物語に当てはめ、押し付けて論じようとしているに過ぎない、と邪推されても故のないことではないのです。事実、論者の論じ方では、この物語の本質に触れることなく、なぜか一人物の真理の捉え方なるものに脱線して、結局本題に戻ることがないまま終了してしまっています。

 ところで、日頃身の回りにはびこっている形而上学的な考え方から抜け出すには、弁証法の論理性を身につけるしかありません。そしてその論理力の向上のためには、まずは弁証法の三法則を土台として、つまり唯一の土台として、それに沿って物事を理解すべきであるとお伝えしてあります。
 身の回りには「真実と事実」や、「原因と結果」、「内容と形式」、「存在と価値」などといった二分法的な図式がよく用いられているために、それをツールとして使ってしまうということになりがちです。しかし何度も口を酸っぱくして言うように、「ニワトリかタマゴか」や「ソクラテスは死ぬ」の論証などといった平面的な論理では、森羅万象の立体構造を決して捉えることはできません。世のビジネス書や自己啓発書にいくらそのような図式が踊っているとしても、一流を目指す人間の論理性としては、進歩どころかむしろ大幅な後退ですので、それらをふまえてしまってはわかることもわからなくなってしまいます。形而上学的な割り切りは、口論や詐術のツールとしてしか効力を発揮しえませんから、学んではいけません。正しい論理性が身に付き始めたときには、これらの概念を用いることは有用な場合もありますが、初心においては、あくまでも弁証法の三法則を基礎に据える訓練を怠らぬようにお願いしておきます。


 さて、この物語の論じ方としては、以下のようになります。
 まず「僕」の回想として、物語の中頃にすでに一般的な男女にまつわる悲劇の形式が述べられています。
 「男というものは、女からへんにまじめに一言でもお世辞を言われると、僕のようなぶざいくな男でも、にわかにムラムラ自信が出て来て、そうしてその揚句、男はその女のひとに見っともないくらい図々しく振舞い、そうして男も女も、みじめな身の上になってしまうというのが、世間によく見掛ける悲劇の経緯のように思われます。」

 では「僕」の経験は、その一般的な悲劇をなぞらえるままになってしまうのか、ということが描かれてゆくわけです。

 そういった展開の中で現れる登場人物は、言うまでもないことながら「笠井」という作家です。彼はある女性にふられてから、めっきり女性不信に陥って結婚もせずに暮らしており、男類・女類は互いに相容れないという持論を持つ人物です。そしてまた、彼と、その持論が物語にとっても重要な転機となるのです。

 そんな彼の発言のうち、彼の女性観をもっともよく表しているのは以下の箇所です。
 「あのひとの個人的な事情なんか僕は、何も知らない。僕はただ、動物学のほうから女類一般の概論を述べただけだ。」

 さて、ここまで指摘しておくと、彼のどういった論じ方が、巡り巡って「おかみ」を死に至らせた原因となっていったのか、という理由が読み解けてきたでしょうか。

 さらにヒントとして他の手がかりを示しておくと、以下の箇所となります。
 「女の事は気をつけろ。僕は何も、あの女が特に悪いというのじゃない。あのひとの事は、僕は何も知らん。また、知ろうとも思わない。いや、よしんば知っていたって、とやかく言う資格は僕には無い。僕は局外者だ。どだい、何も興味が無いんだ。」
 個人の女は知らない、論じる資格もないし興味もない、だが女一般は知っている。それが彼の持論です。その持論を譲らない、彼の精神構造と、その女性観というものが、どういった結果へと変転してゆくのか、という流れが読めてきましたか。


【正誤】
…以前から常々指摘しているように、あまりに誤字が多すぎます。
とくに固有名詞の間違いなどは、ことばを扱う仕事を目指す者として、その誠意を疑われかねません。
経験から、自らの認識のあり方とその欠陥はわきまえられるわけですから、それに対する対策をきっちり行い、誤字脱字がないよう厳に謹んでください。
修練とはいえ、毎回の評論というものは、自分の作品であるという意識を忘れてはいけません。

・「笹井」→「笠井」
・見っともない形でそむかれ→見っともない形でそむかれて
・ボコボコにされている→小突かれている、など。(文章に格式を持たせようとするなら、口語表現は慎むべきです。)
・真実の前では蟻のようなもの→(このような表現はありません。創作する場合にでも、もっと的確な喩えがあるはずです)

現代とは―坂口安吾

なんだか、Bloggerのシステムっていうのは変によく出来ていて、
.txtファイルをコピペすると独自の解釈をする(行の書き出しの一マスを削除したり、行間をやたらととったりする)が、
.rtf(リッチテキスト)ファイルからコピペすると、フォントの指定までそのままコピーしてくれる模様。

わたしはいつも、すっぴんの装飾なしテキストでばりばり文字を書くので不都合なわけだが、これも慣れか。
ちょくちょく表示が変わると思いますが、どうぞご容赦を。


◆ノブくんの評論

http://blogs.yahoo.co.jp/earthsea_quartet/26308463.html


 この作品では、〈世代間における芸術の価値基準の違い〉が描かれています。
 まず、著者は「昔の芸人は芸がたしかであった、今の芸人は見られない」と過去に捕らわれ、現在の変化を認めようとしない人々を批判しています。そう、彼らの価値基準はその当時、「流行した」、つまり「生活に根付いていた」ものにあるのです。
 ですが、時代というものは変化しています。その変化はかつての流行を伝統という言葉に変え、過去にしていくのです。しかし、この変化を認めず、自分たちのかつての流行に全ての価値基準を置き、現在のものを批評している姿勢を著者は非難しているのです。


◆わたしのコメント
 論者は、この作品についてこう理解しています。

 「伝統」という過ぎ去ったものに捕われて現在の「流行」を認めない人たちがいる。しかし、時代というものは変化するものなのだ。そう考えると、「伝統」というものもかつては「流行」であったものなのだから、現在の流行を批判している人物も、結局は自分たちがなじんできた過去を、「伝統」の美名のもと信奉するという単なる懐古主義でしかないのである。この作品の中で、人々のそういった姿勢を批判しているのだ。

 論者の作品理解の構造をみると、以下のようになります。
(あくまでも、論者の理解の論理性であって作品の論理性ではありません)

 「伝統」というものは、その時間軸が異なるだけで、「流行」とさほど変わりがないものであって、「伝統」は言い換えれば「過去の流行」なのである。そういう観点から見れば、「伝統」も実のところ「流行」という一語に解消されるのだから、「伝統」に重きを置く人間というものはすなわち、自分の批判している「流行」の立場に立っているに過ぎず、流行への批判は的を射たものとはいえないのである。

 筆者は「伝統」を「流行」に解消している、ほんとうにそうでしょうか。それほど平面的に理解してよいものでしょうか。


 結論からいえば、否、です。それを見てゆきましょう。
 筆者は冒頭に、「伝統は全て否定しなければならぬというものではない」としています。では、彼は肯定されるべきものと、否定されるべきものはどこに線引きがなされていると考えているのでしょうか。それは、「実質あるものは否定の要なく」というように、伝統であろうが流行であろうが、「実質的であるかどうか」で判断されるべきだ、と言っているのです。

 そうすると「実質的である」とはどういうことなのかというと、「現実の喜怒哀楽にまことのイノチをこめてはたらくところ」なのだと彼は言うのです。そういった、過去においては日常生活に密着した文化であったものが、現代においては時代の変化に取り残されたがために、現代人にとっては典雅なものに映るにすぎない、というのです。

 彼の主張によれば、このようです。こと芸術というものが過度に持ち上げられがちだが、伝統というものは、歴史的な観点によって評価されるのだ。それに対して、永遠に在る人間一般とは違い、今しかいない個人が生きるだけの現代においては、「生活というものが現実だけのイノチによって支えられているヌキサシならぬ切実性」によって、文化は評価されるのだ、と言っているわけです。

 ここまで整理してみると明らかなように、筆者は「伝統」も「流行」も結局は同じなのだ、と言っているわけではありません。歴史的な「伝統」も、現代的な「流行」も、それが評価される尺度が違うのだ、と言っているのです。それは、「伝統」は「歴史的な観点」によって、「流行」は「生活」やそれが寄って立つ「現実だけのイノチ」に照らして評価されている、とするのです。そうであるならば、「流行」を、「歴史的な観点」から判断して、「現代の貧困」などと言う論法は間違っているし、逆に「伝統」を、「生活」から判断して、「伝統の否定」と一口に済ましてしまうのも誤りである、と考えているのです。

 これらを一言で要すると、筆者は、「伝統」も「流行」も、それぞれ別の基準によって評価されているのだから、それぞれはお互いの分別を守らねばならない、と主張していることになりますね。ですから何度も言うように、筆者はある対立軸の区別を曖昧にしただけの相対主義的な主張を繰り広げているわけではなく、むしろその対立軸を明確にし、それぞれに別の原理が働いているのだ、と線引きをしたのです。論者が筆者の主張を取り違えた原因としては、評論における表現の拙さ、必要十分な説明の不足に加えて、もっとも大きな原因はといえば、認識の問題、それも論理力の不足にあると言えるでしょう。


 論理力と言っても、いわゆる形式論理学や、ましてやロジカルシンキングなるものをいくら熱心に勉強しても、身につくものではありません。あの論理性といえば、ソクラテスが使っていた「善とは何かといえば、悪ではないものである。では悪とは何かと問わるるに、善ではないものである」というレベルでしかないからであり、どれだけよくてもアリストテレスの三段論法の、誤解されて矮小化された形でしかないものだからです。そんな脇道に逸れて人類2000年の蓄積を無駄にしないためにも、指定した教科書の論理性を、日常生活と自らの専門分野に当てはめて、実感として理解する形で探求するように願っておきます。その形態は、「勉強」というよりも「実践」というものになってしかるべきです。さらに念を押して言うなら、「知識」ではなく「論理」的習得であるという基本線を、常々心がけておかねばなりません。


・この作品の論理性とは
 余談になりますが、この作品そのものの論理性に批判を加えるとすると、生活に接した「流行」が、いかに「伝統」になってゆくのか、という過程の理解がまったく欠けているということです。「まったく」と言ったのは、そこに陥穽があることに気づいてすらいない、という意味です。筆者は歴史的な観察法が現代には通用しない理由を、現代というものは生活という視点に照らして評価されているからなのだとしていますが、そうやって価値基準が永遠に分断されたままでは、「流行」が「伝統」になってゆくということ自体がありえなくなります。

 歴史上に数多ある人間の創造物をみると、ある一定の数があったものがふるいにかけられ、残ったものが名作や古典と呼ばれる扱いを受けるようになってゆきます。それは必ずしも、当時的に評価されていたものの中から選ばれるだけではなく、その当時にはまったく認められないながらも、現代において再評価されるものもありますね。そういったことを指して、「歴史というふるいにかける」と表現することもありますが、歴史そのものが意識を持って選別に当たっているわけではありませんから、そのものを評価しているのは、やはりその時代時代の人間なわけです。
 そうすると、当時としては評価されたが後の世では忘れ去られたことや、その逆のことが起こりうるのはなぜかという疑問が自然に起こってくるはずです。答えから言えば、私たち人間というものが自覚しようとしまいと、私たちは「歴史性」という判断をによって、物事が正しいか、美しいか、美味しいかなどということを見ているのです。一言でいえば、広義での「論理性」です。
 たとえば画家であるゴッホは、当時的には食うに困るほど生活は困窮していたのですが、今や個展となると、たいへんな賑わいとなることを思い出してください。彼のような人物のことを評して、「時代が追いついた」などと言いますが、それは私たちの認識の力や幅というものが、彼の作品を理解できるところにまで到達した、ということなのです。

 大きな論理性として芸術の世界でゴッホの絵が理解されるようになった理由に触れましたが、小さな論理性としては、あなたにも、衝動買いした音楽CDを、初回はなんだかよくわからないと思いながらも、わからないながらに捨てるのも惜しいと何回も繰り返し聴いてみると、あるときふと、「おや、これは良い音楽だ、買ってよかった。しかしあのときはなぜこの良さをわからなかったのだろう…?」と思った経験があるのではないでしょうか。
 そうして、人間の認識は、彼や彼女が触れた対象との相互浸透が量質転化してゆく中で育まれてゆくものです。その発展の過程は、大きな歴史としても個人の認識のそれにも含まれていますから、それを一語に要して「歴史性」と言うのです。

 私たちが大きな意味で、「論理性の正しさ」というものは、その「歴史性」の階段の上り方が、一歩ずつ着実なものであるかどうか、ということを言っているわけです。もしいくら歴史的にみて真っ当なことをしていたとしても、階段を数段飛ばしで登ってしまえば、その表現は周囲からは正しいものとして認識されにくいですから、それなりの年月を経たあとに評価される、ということになるでしょう。
 ここまで理解できれば、歴史という風雪に耐えるだけの作品をものしている人物が、必ず実践してきたことがなにか、という問いもしっかりとした答えが出せるようになっているはずです。ここでは「歴史から学ぶ」、「巨人の肩に立つ」、としておくといいでしょうか。


 さて、ここまでお話すると、ようやくこの作品の筆者の論理性の欠如が、どのような箇所に顕れているか、ということに触れられる段になりました。それは、次の箇所が決定的です。「人間は永遠に在るが、自分は今だけしかない。」

 というのは、「人間が永遠に在る」という考え方をしていては、「歴史性」というものは、決して実感としてわかってゆかないからです。「人間」というものは、当然ながら地球創世の過去から存在していたものではなく、生物が魚類らしきものとして形を整え、両生類、哺乳類として進化し、猿、ヒトとして発展しながらもなお淘汰され、生き残った種族が文化を築けるまでに精神性を磨いてきたものです。そこまで言えば、ヒトが人間にまで辿り着くまでにも相当な変遷があったのであり、ましてや精神性を持たない猿から人間への進化といえば、物質から精神がどのようにして生まれるか、という大問題を解かねばならないことになります。そうすると、現在の精神性を持つ人間が、ある瞬間にポンと生まれてきたわけではないことくらいわかりそうなものです。結論からいえば、人間は永遠の昔から在るわけではない、ということです。
 もし人間が永遠の過去から同じく存在し、その精神性も変わりがないとするなら、いったいそのどこに歴史というものがありえたか、と問うてみればよかったのです。

 もし彼にしっかりした論理性があれば、まずは「伝統」と「流行」とを区別したあとで、それらの現象形態が移行しあう過程に目がいかざるをえなかったはずであり、その構造の解明にまで至らずにしても、それらの概念を区別と連関として統一して考えられたはずなのです。彼・坂口安吾は、自ら「常識の人」(小林秀雄との対談などで)というように、天皇制批判の『堕落論』など、世情にとらわれない冷静な観察眼と、その鋭利な論じ方に定評があった作家ですが、その論じ方が鋭利に見えるということが、どのような別の側面を持ったものなのだろうか、と理解しようとする姿勢を身につけてください。それをどのように乗り越えようとするかは各人の自由ですが、そこにこそ、後進の成すべき仕事があるのです。


 以上、論者が評論をまとめそこねた原因としての違和感は、この論理性の欠如にあったのでは、という思いがわずかながらあったため、追記しておきました。もし明らかな理性による認識ではないとしても、これらのことを違和感として持てたのなら、その感性的認識には相応の評価をしてしかるべきです。


2010/10/21

どうでもいい雑記

・趣味
できた。。。

デジカメケース。

愛用のデジカメは4年前くらいに買ったLumix LX-2という、16*9のワイドで撮れるもの。
コンパクトデジカメのくせに、わざわざレンズカバーを外さなくちゃならないわ、
フラッシュは手動だわという酔狂なモデルだが、一部のコアなファンがいるらしい。

後継機のLX-3, LX-5はモデルチェンジしたときに本体が大きくなってしまったので、
もし買い換えたとしてもこのケースは使えないものの、いちおうできたことにはできた。


前回試作したときには、オモテ面は格好がついたものの
裏面の液晶・ボタンの切り欠きがズレまくって、常用に耐えたものではなかった。

というわけで、試作を2つ潰してようやく完成。(自分なりに)

いくら型紙を完璧に作っても、なかなかうまくできないものだね。
その矛盾というものがないと、人類全体としての発展がありえなかった
(物質と認識のあいだの相互浸透です。)とはいえ、当事者は大変である。
それをほんの少しながら思い知った。


・MacBook Air "11買った。(やっぱり…)
初物は腐る前に食わねば。

いまメインで使っているのがMacBook Proで、
研究に持ち歩いているのがiPad + Wireless Keyboard。

使い分けできるのか?という疑問がふとアタマをよぎったような気もしなくもないが、
気づいたら注文していた。

しかしアルミの削りだしで作ったノートパソコンが、円高もあいまって88,800円で買えてしまうというのは…
消費者は嬉しいだろうが、これじゃ日本企業が太刀打ちできるはずもない。

しかもこのモデル、ノートパソコンのあり方を劇的に変化させるかもしれない重要な過渡期の製品である。
(これについては届いたら書くかも)
コンピュータのあり方を歴史的に追っている人間からすれば、触らないでいいわけがない。

というわけで、学生のみなさんには、これからiPadかこれをおすすめすることになると思います。
もし買うならクロック周波数はそれほど必要ないけど、メモリは4GBにしておきましょう。
常用するにしても、MacOS Xはメモリ2GBじゃ絶対に足りません。
あとで追加できませんしね。

さて、革でケースつくるか。

2010/10/20

芸術ぎらい―太宰治

http://blogs.yahoo.co.jp/earthsea_quartet/26221800.html


◆ノブくんの評論
 この作品では〈何が芸術でないものとは何か〉が描かれています。
 この作品での著者の主張は、「生きる事は、 芸術でありません。自然も、芸術でありません。さらに極言すれば、小説も芸術でありません。小説を芸術として考えようとしたところに、小説の堕落が胚胎していたという説を耳にした事がありますが、自分もそれを支持して居ります。」というところにあります。つまり、芸術を突き詰めたところに真の芸術はないということなのです。それよりも、ただ「創作に於いて最も当然に努めなければならぬ事は、〈正確を期する事〉であります。」芸術的に、と芸術を突き詰めるよりもありのままを表現する方が、傑作により近づくことが出来るのです。


◆わたしのコメント
 作品中に筆者が、一般的な表現で記した主張を抜き出してきたようですが、これでは単なるあらすじであって、評論とは呼べません。
 こういった極めて短い随筆では、端的であるがゆえにその行間を読むことがかえって難しくなるものですが、再読を繰り返せば、少なくともどこが最も大きな問題として横たわっているかには気づくことができるはずです。
 筆者は、創作にとって必要なのは、<芸術的>という「あやふやな装飾の観念」ではなく、<正確を期する事>であるとしています。それはこの作品をそのまま読めばよいだけの話ですから、これを指摘するだけでは、なんら新しい意義などないのだと思わねばなりません。この作品に向き当たって解かねばならない最大の問題は、下の部分にあります。筆者の表現を引用してみるとわかりやすいでしょう。曰く、「重慶から来た男」という映画は、「いやらしい『芸術的』な装飾をつい失念したから、かえって成功しちゃったのだ」、と。


 芸術的な趣向を凝らした映画よりも、そういったものを失念するほうが、<かえって>成功するものなのだ。筆者のこの主張は、いったいどんな論理を示しているのでしょうか。「ガラスの玉は、本物の真珠をきどるとき、はじめてニセモノとなる。」(ディーツゲン『人間の頭脳活動の本質』)という命題を手がかりにしながら読みといてください。まずは、「ガラスの玉」、「本物の真珠」、「ニセモノの真珠」が、文中ではどれにあたるのかを考えてみましょう。それが整理できれば、それらの間の関係について調べられるようになりますから、全体の構造が見えてきます。次回までの課題とします。

おしゃれ童子―太宰治




近頃、とみに集中力が高まっているようで、時間を忘れてなにかに没頭することが多い。
身体には負担をかけているようだが興味が止まない。これも北海道ツアー効果かしら。

そういえば最近倒れてないな。そろそろかもしれん。
というわけで、こんな時間ですが息抜きがてら溜まっているコメントを。


◆ノブくんの評論

 少年はたいへんお洒落が好きで、終業式の際、自身の、シャツの白さが眼にしみて、いかにも自身が天使のように純潔に思われ、ひとり、うっとり心酔してしまう程でした。彼はこの自身のお洒落な性質のために苦労し、やがて落ちぶれていくのです。果たして少年の考えるお洒落とは、彼にとってどのような位置づけなのでしょうか。
 この作品では〈物質的なものを求め続けるある少年の憐れさ〉が描かれています
 少年にとってお洒落とは、「現世唯一の命」であり、世界のすべてだったのです。そんな彼は、その性質よって翻弄され、やがては自身の恋人をも、この自身のお洒落感によって欺かなければいけなくなるのです。このような少年の姿をみて私達は彼を憐れに思い、彼の憐れさは何所にあったのだろうと考えます。すると、私達は彼のお洒落感とは対照的な「精神的」なものに着眼することでしょう。精神的な部分を無視したことが彼の不幸を招いているからこそ、私達はそれに注目し、その重要性を改めて知ることになるのです。


◆わたしのコメント
 論者はこの作品を、物質的な価値観への批判として理解したようです。お洒落好きの童子が、いかにおしゃれに心酔し落ちぶれていくかということを見て、それを一般的な仕方で理解すれば、そう言えるでしょう。
 しかしここで立ち止まって考えてみてください。「待てよ、しかし物質と精神の対立を描いた作品は、他にもかなりの数があるのではなかったろうか。たとえば花咲かじいさんなどの昔話、ヴィヨンの妻などの近代小説もそうだと言えるし、そもそも学問を二分する世界観もそうして分かたれていたはずだ。それは人間の歴史の中で、そういった対立が繰り返されてきたからなのだ…」と。そうすると、物質と精神の対立は、森羅万象における極めて大局的な対立であることがわかりますから、どんな物語でも、究極的にはそれらについて語っていると言っても過言ではないのです。


 こういった一般化の仕方における誤りを、「過度の一般化」と呼びます。とはいえこの作品では、その対立が物語の本質に近いところにありますから、あながち間違いとは言いきれません。中学生の読書感想文では合格をもらえるでしょう。しかしここで問われるのは、一流の評論としては、どのような論理性が引き出されるべきなのか、ということです。それを少し見てゆきましょう。


 おしゃれに心血を注ぐこの少年の価値観は、一言でいえば「 瀟洒(しょうしゃ)、典雅。」ということに尽きており、それは彼の人生の目的すべてを貫いていると言っても過言ではなかったのです。そうして外見ばかりを気にする性質を持って生まれた少年は、いつどこで何をしていようとも、飽くなきお洒落への探求をやめようとはしません。小学校の修業式、中学校の入学式、高等学校へと進学し都会に近づいていっても、その熱意は燃えつきませんでした。校規のきびしい中学校に入ったときと、大学時代に左翼思想にかぶれたときには、一刻の暗黒時代となりましたが、恋人ができたとなると、やはりお洒落をせずにはおれません。「洗いざらしの浴衣に、千切れた兵古帯ぐるぐる巻きにして恋人に逢うくらいだったら、死んだほうがいいと思いました。」という具合です。


 さて、ここまで物語を追ったときに、この少年の中に、お洒落ということにたいしての情熱があれど、ある時には暗黒時代を迎えていることを、例外だとして片付けてしまってよいものでしょうか。この少年は、強烈に熱する時があるかと思えば、その逆に、まったくの極端に振れることがあるのではないでしょうか。文中にも、それを的確に言い表した一文があります(ある段落の一行目です。どこにあるか探してみてください)。


 その疑問が解けると直接に、彼のお洒落のあり方というものが、周囲には彼の思惑とは違った形で現象していることの理由に合点がいくことになるはずです。




 以上、「お洒落の暗黒時代の存在」と「お洒落についての周囲の受け止め方」の謎が解けるでしょうか。ややもったいぶった言い回しになっていますが、それもあなたが独力で、この物語のもつ構造に気づいてほしいからです。最近は、太宰治の作品を努めて読んでいるようですが、その太宰作品への必要性の認識はいまだおぼろげなものであったとしても、決して故なきことではありません。自信を持って精進を重ねてください。

世界的―太宰治

世界的―太宰治 - 文学批評集 - Yahoo!ブログ


 ◆ノブくんの評論
 この作品では〈日本がいかに文化的な国か〉ということが描かれています
 著者はヨーロッパ人が書いた「キリスト伝」を読んだのですが、あまり感服できなかった様子。何故ならそこに書かれていたのは「聖書を一度、情熱を以て 精読した人なら、誰でも知っている筈のものを、ことごとしく取扱っているだけ」に過ぎないものだったのです。それよりもむしろ著者は、それを素早く理解している日本人に感心しています。日本人は自分たちがキリスト教をある程度理解していることにより、それを著者と同じく大したことがないと判断を下しています。これはキリスト教の問題だけではなく、外国の思想そのものに対してもそう考えています。この人々の様子を見て著者は「日本は、いまに世界文化の中心になるかも知れぬ」と、予言しているのです




◆わたしのコメント
 この作品は、作者である太宰が、身近な体験談を記したものです。内容はといえば、ヨーロッパ人が書いたキリスト教についての本を読んだが、聖書を深く読んだとはとても思えないものだった、というものです。ここだけを読めば、論者の言うとおり、〈日本がいかに文化的な国か〉を一般性として認めてもおかしくはありません。


 しかし彼は続けて、こう言ってもいます。しかし翻ってみれば、私たちも馴染みのあるはずの仏教についてはうまく説明できないのだ、と。だからこそ結論に、「あまり身近かにいると、かえって真価がわからぬものである。気を附けなければならぬ。」と、わざわざ自ら一般性を付け加えているのです。最後の「日本有数という形容は、そのまま世界有数という実相なのだから、自重しなければならぬ。」という一文が、ある種の自戒と皮肉を込めていることすら読み取れないという体たらくでは、一体何を評論したのか、との批判を免れることはできません。重く受け止めてください。




 付け加えておけば、「あまり身近かにいると、かえって真価がわからない」という逆説を、論理性として読み取ることが出来れば、世の中にある逆説は、一般的にそのほとんどが読み解けるものです。(これは弁証法の法則に照らしていえば、どの法則に当てはまりますか?以前に議論の中から導き出した、「あえて」の論理です。)


 ヒントとして、次の現象を挙げておきます。
・アメリカ人は、なぜキリスト教が必要なのか。(日本人が国教を必要としない理由と対比させて考えてください)
・歩くという当たり前の運動を意識すればするほど歩きにくくなるのはなぜか。(武道の基本技が完璧にできていればいるほど、なぜ人には説明できないのか、と読み替えても結構です)


 どちらも、論理性としては、この作品での結論と同等のものです。次に会ったときに答えてもらいますので、しっかりと考えておいてください。

おさん―太宰治


おさん―太宰治
http://blogs.yahoo.co.jp/earthsea_quartet/26249951.html

◆ノブくんの評論
 「私」と夫は東京の空襲を免れる為、「私」の実家である青森に疎開していました。ですが、一家の家は空襲によって衣類や家を焼かれ、夫の仕事もなかなか上手くいかず、彼らは落ちぶれた生活をしていました。そんな中、「私」は夫に自分とは別の女の影を見ている様子。「私」と別の女との間に揺れ動く夫に対し、彼女は何を思うのでしょうか。
 この作品では、〈革命とはどうあるべきか〉について描かれています。
 結局のところ、この夫は自分の妻への思いをとうとう捨てきれず、別の女と心中を図ってしまいます。その時、「私」は自身の夫をこう非難しています。「気の持ち方を、軽くくるりと変えるのが真の革命で、それさえ出来たら、何のむずかしい問題もない筈です。自分の妻に対する気持一つ変える事が出来ず、革命の十字架もすさまじいと、三人の子供を連れて、夫の死骸を引取りに諏訪へ行く汽車の中で、悲しみとか怒りとかいう思いよりも、呆れかえった馬鹿々々しさに身悶えしました。」つまり彼女は、夫がどちらも選べなったことを非難しているのです。夫は全ての未練を断ち切り、どちらかを選ぶべきだったのです。


◆わたしのコメント
 題名になっている「おさん」は、近松門左衛門 作『心中天網島』に登場する妻の名前です。作中との共通点は、愛人への愛と、妻への義理との間で煩悶する夫の悲哀を描いたものだというところです。
 さて、この物語に登場するのは、夫との間に三人の子供のある「私」です。物語は、妻である「私」の独り言の形をとって展開されてゆきます。


 論者は、<革命とはどうあるべきか>を描いた作品だと述べていますが、そうでしょうか。作中の「夫」は、たしかに遺書の中で革命とはかくあるべき、と述べていますが、姿勢としてそうであっただけで、本心としては実はどちらでもよかったのではないでしょうか。「妻」にいたっては、「革命」の内実などというものは、結論からいえばどうでもよかったのです。そこには二重構造が隠れていますから、少し詳しく見てゆくことにしましょう。以下のコメントは、二重構造とは何と何なのか、と注意しながら読み進めてください。


 戦争で家を焼かれてのち落ちぶれ、適当な言い訳をみつくろって外へと出て行く「夫」の姿を見て、「妻」は、彼の影に女の姿を見て取ります。ここにこの物語の最大のポイントがあります。というのは、「妻」は、「夫」が言外に匂わせる煩悶と、そこに至る彼の弱さというものを知悉しているのです。しかし彼はといえば、「妻」のそんな気づきなど露も知りません。結局彼はそのことを、愛人と心中するそのときまで、知りもしなかったのです。


 そんな彼だからこそ、心中するそのときにまで、「妻」にこう手紙を書いているのです。
『自分がこの女の人と死ぬのは、恋のためではない。自分は、ジャーナリストである。ジャーナリストは、人に革命やら破壊やらをそそのかして置きながら、いつも自分はするりとそこから逃げて汗などを拭いている。実に奇怪な生き物である。現代の悪魔である。自分はその自己嫌悪に堪えかねて、みずから、革命家の十字架にのぼる決心をしたのである。ジャーナリストの醜聞。それはかつて例の無かった事ではあるまいか。自分の死が、現代の悪魔を少しでも赤面させ反省させる事に役立ったら、うれしい。』


 いうなれば彼は、自分の死を、ジャーナリストへの革命を迫る、といった形で美化しているわけですが、「妻」は、そんなことは後付けの言い訳にすぎず、彼の本当の苦しさは、妻と子がありながら、愛人のことを愛してしまったというところからこそ来ていることを知り抜いています。
 「妻」にとっては「愛人」だの「外泊」だの「妊娠」ということなどは、「たったそれくらいの事」でしかないのだから、それをあっさり自分で認めて、「妻」である私にも公言してくれさえすれば、私も明るい顔でそれを応援できるのに、そしてまた、彼にとっても「革命」だのなんだのと言い訳を無理に思いつく必要もなかったし、ましてや自殺する必要などまったくなかったのだと言いたいのです。


 そのように、この物語は、「革命」ということばを、まったく違った<意味>と<用法>で把握していた二人の夫婦を描いています。「夫」は、社会を糾弾するかの体をなして、実は自分の弱さを美化するための道具としてそれを使いましたが、「妻」は、「気の持ち方を、軽くくるりと変える」ことだと言うのです。これが、<意味>の違いです。
 「夫」は、言い訳をするために「革命」ということばを思いつき、それにとらわれるあまりに死を選ばざるを得ませんでした。いうなれば、彼は「革命」ということばを使うつもりが、最終的には使われてしまったわけです。こちらは、<用法>の違いということになります。


 この作品は、本心の外に目的らしきものをでっち上げたとしても、結局はそれに向かう手段さえもが歪んでしまうことから、手段が目的へと転化せざるを得ないということを表現していると言えます。そんな「夫」に対して「妻」は、あくまでも「気の持ち方」のほうが、「意義だの何だの」や「見栄」よりも大切だという価値観を強く持っているがゆえに、「革命」などということばは単なる手段であることを自覚し、そんなものには振り回されずに強く生きていることができるのです。彼女はこう言っています。「革命は、ひとが楽に生きるために行うものです。悲壮な顔の革命家を、私は信用いたしません。」と。


 さて、ここまで読み進めて、この物語の<一般性>というものを、どういった形で表現すればよかわかったでしょうか。それがしっかりと表現できるならば、あなたの論理性も、ある一定の段階まで上がってきたということができます。

移転しました&ごぶさたしております

新しいことをはじめたり、
前に出会った人のところをまわったりしておりました。
確認できたのは、やっぱり間違ったことはどうしてもできんな、ということ。
「間違ったこと」というと、そんなものは解釈次第でいくらでも変わる、との周囲からの声があり、
ことに子供のときには、大人からのそういった声の影響で、
「結局は勝ったものが正義」などと過程を無視しがちなもの。
ですが、大人の仕事の一つには、そんな相対主義に陥らずに、
真理と誤謬の転化を意識しながら、それらの間に一定の線引きを行うこと、
そうして後進を正しい道へと導いてゆける価値観を築くこと、が含まれていると思うのです。
そうするためには、「言っていることとやっていること」が一致していなければならないのは当然です。
これはあくまでも最低限の条件としてです。
私が昔から強く響いてきた人たちは、
不器用で生きづらいながらもそういったことをしっかり守ってきた人ばかり。
今回の旅をとおして新たに出会えた人たちも、やはりそう生きてきた・生きようとしている人たちばかり。
彼らの実力からすれば、経済的・社会的にはもっと大きな名声を勝ち取れたであろうに…
と、子供の頃は社会に向けて文句のひとつでも言いたくなったものですが、
今からすれば、そういった苦労こそ、彼らの勲章の一つでもあったのではないかと考えられます。
私はといえば、
まだ道ははるか遠くまで続いているとはいえ、ささやかながらも志を同じくする同士を得て居るわけで、
それはこれ以上ない僥倖であると思うのです。
というわけで決意も決まったことだし、
学生の諸君から、
「サボってないで毎日更新しろ」
とのありがたい叱咤激励があったので、ここもしっかり更新していきます。
お待たせしました。これからもどうぞよしなに。