2011/11/28

G3についてのお礼状をいただきました

先週作った自転車フロントバッグG3について、


実はオーナーからお礼状をいただいていました。

このBlogに、作りかけ数点の写真と、完成したときの記事を公開してすぐに連絡をいただいたのですが、その内容に携帯電話を持つ手が震えたほどでした。
それは、あまりに見事にわたし(作り手)の意図を、深く、深く汲み取ってくださっていたからです。

個人的にいただいたお礼状を公開することについては逡巡もありましたが、ひとつの表現を味読する、という姿勢について、人の表現に触れることが欠かせないわたしたちにとって、学ぶものがとても多いと思いましたので、勝手ながらご紹介させていただく次第です。

◆◆◆
作り手さん 
 東北行き前に製作途上のデザイン2様が披露されて以来、細部に至るまで熟視して、まるで謎々や知恵の輪を解くかの如く、あーでもない、こーでもないと想像の羽根を羽ばたかせておりました。読者に考える余地と猶予を残してくださり、感謝しています。先ずはその辺りからお礼を申し上げたく思います。
「造る物には人となりが表れる」とは言いますが、正にその通り!書物の行間に込められた著者の意図を正しく汲むが如く、作り手の想いを、今は離れた所にありはせよ、厳粛に受け止めているところです。
渾身の力作たる「G3」に比するモノは、私にとっては、今後も現れない。何故ならば、貴器の有り様は、これから私の手で、また自転車と共に時を刻み続けることで、如何様にも変貌していくからです。したがって現段階では、敢えて「完成」とは呼びません。
特殊な気候・風雪に耐えながら悠久ともいえる時を紡いできた屋久杉が、他に例のない程の密なる年輪を描くが如く、その時折々の良い表情を見せてくれるのでしょう。私も同様に、更に年齢を重ねていく過程で己の「顔(表情)」には「責任」を持たねばなりません。歳を重ねれば重ねるほど、その人の人間性や人格が露わになってくるはずですから…。
最も特筆すべき点は、やはりフロントバッグの「顔」とも呼べる前面。黄金比のコンポジションを重要視して構成原理を追求していく巧緻に陥らず、日本古来の柿渋染めの中でも特殊な技法を用いる妙。視野狭窄にならずに全体を見渡せる視点を持ち合わせていればこその芸当であろう。見事なまでに和洋の「調和」を表現して下さった。当に驚嘆の念を禁じ得ず。最大の感謝を述べたい。
貴殿の過去の製作記の流れを熟読して、はじめてオーナーと作り手の「議論」の必要性という、その真の意味について少し理解が進んだように思う。「議論」の過程そのものがデザインであって、形ばかりのデザインが先ではないのだと!
「弁証法」の正しい体得者として、否や「体現者」としてモノ作りされる姿勢は、改めて学問そのものなんだと認識を新たにしました。
◆◆◆

この書面を引用させていただいたのは、なにも激賞をいただいたからではなくて、ある表現を読み解くための、正道そのものの姿勢がここに現れていることに感じ入ったからです。

わたしとしては、数十年に一度の得難い出会いだと言えるほどの人とのやり取りをこういった形で公開することは、読者のみなさんにとってなんだか内輪の自慢話、出来レースのようにも見えてもおかしくないことですから、そういった意味でも少しばかりの心配がありますが、上でも述べたように、わたしたちはオーナーさんのこの姿勢から学ぶことは少なくないと思うのです。

そう断った上で率直に言いたいのですが、わたしはこの文面を読み進むにつれて、携帯電話を握る手が震え、手のひらが汗ばみ、背筋にぞくぞくしたものが通るのを感じました。
そうして腑抜けのような体で集中して読みきった後、しばらくぼんやりしたあとやっとアタマが動き始めて、自分がこういう感想のあまりにそうなったのだとわかりました。

わたしはまだ、こういう深さで人と人とが繋がりうるということを、信じきれてはいなかったのだなあ…と。

◆◆◆

以前からの読者のみなさんには折に触れてお伝えしているとおり、弁証法的唯物論の観点からすれば、人間の精神とは人間が物質的・器質的に備えている脳のはたらきなのであり、精神が頭から抜けだして独り歩きしない以上、ひとつの表現も、そのなかに直接作り手の精神が含まれているものではない、と考えねばならないのでしたね。

そのことの論理的な帰結として、わたしたちがひとつの表現に向きあうときは、あくまでもその表現をあらゆる角度から眺めたあと、そこに込められている作り手の認識のあり方を、自分の頭の中に再現してみる形でなぞらえてゆかねばならないのでした。

G3のオーナーさんがそこを経験的にしっかりとふまえられたことが、冒頭の、「東北行き前に製作途上のデザイン2様が披露されて以来、細部に至るまで熟視して、まるで謎々や知恵の輪を解くかの如く、あーでもない、こーでもないと想像の羽根を羽ばたかせておりました。」という文面として現れています。

これは、わたしたちがひとつの建物についての数枚の写真をじっくりと眺めて、それらが全体の中でどのような位置づけになるのかと問いかける中で、最終的にはまるで鳥になったかのような視点を手に入れるとともに、各写真のあり方は形は崩されて内容を掬い取られ、その像がおおまかな絵地図として止揚されることと論理的に同一です。

おおまかな像が描けるということは裏返し、未だ明らかになっていない側面の詳細については、当然ながらおぼろげな像としてしか描けていないということですから、その事実は「ここはきっとこうなっているのだろうな、ああ、早く実物が見たい!」という強い目的意識を含んだ感情として呼び覚まされ、「読者に考える余地と猶予を残し」たことについての感謝のことばにつながっているのです。

◆◆◆

そうして芽生えた探究心というのは、作品とそこに込めたメッセージをなぞるだけでは飽きたらず、作り手の過去にあったはずの過程を自らの経験であったかのようになぞらえ、その思想性にまで歩みを進めておられるのです。

貴殿の過去の製作記の流れを熟読して、はじめてオーナーと作り手の「議論」の必要性という、その真の意味について少し理解が進んだように思う。

そうして、直接には手を動かして写真の向こうにあるバッグを作ったわけではないながら、その製作過程を自らのもののようにしてなぞらえることをとおして、「デザインするとはどういうことか」という一般論まで像として描いてみせておられるのです。

「議論」の過程そのものがデザインであって、形ばかりのデザインが先ではないのだと!

しばしの思案のあと、一気呵成に書かれたと思われるこの文面には、分析的に書かれた冷静な面と、ペンの勢いが自分の思いについてこないことがもどかしいというまでの感情に溢れた常体からなる情熱的な表現が一体となってあくまで自然に同居しており、わたしはこの文面も、全体の流れのなかでの結節点としての現在を捉えた、つまり歴史性を把握したところの、ひとつの作品だと感じ入ったものでした。

◆◆◆

わたしがG3をつくることになったきっかけというのは、オーナーとの出会いに感謝する気持ちを、この思いはとても文字などに起こせることではないと思ったのが出発点でした。それはその裏返し、頭でっかちになって、文字という手段ばかりに頼る今の自分についての反省にもつながっていたのです。

「なにも、表現は文字ばかりではないではないか」、というのがそれです。

わたしにはなにか強い想いがあると、ひたすら黙ってスケッチブックになんでも描きなぐったり、手を切り傷だらけにして石を削っていたいたころもあり、それが高じてデザインというものに手を出したことを思い出し、オーナーの人柄をそのままに映したようなものを作ってみたい、という思いに取り憑かれたのです。

そうして出来上がったものについて、こうした深い洞察をもった文面をいただけるというのは、作品を作品で返していただいたという、これは表現に携わる者としてたったひとつの、最良のお返しをいただいたことにほかならないのです。

わたしはデザインを仕事にしていたときに、面白い仕事ならタダでも構わないと言い切っていましたが、周囲からの疑念を実際に晴らすだけの仕事にはついぞめぐり合うことがありませんでした。

創造的な仕事をしている人なら誰でも、単なる格好つけなんかではなく本心から、このことには同意をしていただけるのではないでしょうか。
たしかに衣食住ができなくなれば人間はオシマイですが、そういう人間にとって、金銭というものは、「必要だが死なない以上には要らない」という意味だけなのであって、あればあるほどよいと信じきっている人から、線引きが曖昧だからそんな思想には意味がないといくら詰られても、たやすく解体してしまうような実感ではありません。

このオーナーさんも、ご自身でものづくりをされている方であり、理論的実践家・実践的理論家であることからのご発言であることは承知の上でも、読み返すたびにすごい、ありがたい、とても信じられない、という思いがこみ上げてきて、言葉に起こすのに1週間という時間をいただいてしまったものでした。

お詫びと共に、作品を通して作り手の内面までもあまさず理解し尽くそうとされ、そしてまた事実そうしてくださったことは驚き、感嘆の念を禁じえず、最大の感謝を表する次第です。

◆◆◆

この文面には続きがありますが、そちらは個人的なことがらなので公開していません。

実はわたしがG3にとりかかるのと入れ違いに、オーナーさんからデザイン案をいただいていたのですが、わたしの作り始めていたものがこれまでの流れとは異質であったことが理由で、そのデザインを後付けではうまく組み込めなかったことが気がかりだったものです。

ところがオーナーさんは、ご自身がご自身の手でデザイン案を提案してしまったことすら失敗だとおっしゃり、作り手を信じきれなかったことを悔いているとまでおっしゃられました。

わたしにとってはまさか、というほどの杞憂であると感じていますが、作り手であるわたしからはなかなかに切り出しにくいこういった話題にも、あえて率直な感想と、心底までに謙虚に臨まれ誤解を解くべく歩み寄られるというその姿勢は、まさに作り手と観念的に同一の立場からものごとを見ておられることを示していると言えましょう。

◆◆◆

以上、読者のみなさんが理論的に追い続けている認識論のうち、観念的二重化についてのよい実例となるのではと、論じてきたものです。

学問や芸術の世界で表現をしているひとりの人間として、鑑賞者は間接的なパートナーであり、そのうちオーナーは内実とものパートナーと言えます。

しかし仕事として表現をするときには、熱意に天と地ほどの差があるパートナーとの間にでも、ひとつの作品を練りあげてゆかなければならないこともありますし、最悪の場合には数年手塩にかけて温めてきたものを、一瞥して出来損ないだとゴミ箱に放り込まれることさえあるものです。

自分の分身、子どもとも言えるひとつの作品を、ことばは悪いですが変質者のような人格に委ねなければならない場面もあり得ることを考えれば、ひとりの表現者にとって、真に批判的に向き合っていただける鑑賞者の存在は、何者にも代えがたい自分自身の存在証明です。


繰り返しますが、これは決して、自分の作品を褒めてくれるから良い、というのではないのです。
なんとなくの一目惚れだと言われるよりも、これこれこういう理由で良くないのだ、とダメ出しをされることのほうが、遥かに嬉しいし、遥かに為になるものなのですから。

わたしたちも、本当の意味での批判者でありたいものです。

本日の革細工:iPhone 4S flipcase "SKIN"

いつもならこの時期には、


倒れて迷惑をかけちゃうことがあるのですが、今年はまだです。

毎日目的的に同じ過ごし方をしていると、体調が悪くなり始めたときにはすぐに気づくので、それなりの対処ができますから、質的に転化する前に対処することができます。
どうにもならないときもありますが、それでも、高熱がでる前の晩には、「こりゃ明日はひどいのが来るぞ」という感覚がはっきりとありますから、予定はさほど乱さずにすんでいると思います。

倒れたら倒れたで、テープで手のひらをぐるぐる巻きにして文字を書いたりびっこを引きながらランニングしたりしなくても気持ちの上で納得ができ、「休む」という一点に集中できるので、疲れをじりじり引きずるよりもずっと効率的だったりもします。
ついでに、高熱のときには目を閉じると普段ではお目にかかれない光景が脳裏に煌めいているので、それをスケッチできるというおまけ付きで、人さまに迷惑をかけること以外には、むしろ楽しんでもおります。

◆◆◆

そうはいっても、倒れていないのだから仕方がない。
今年度をしっかりと終えるために、あと1ヶ月こそ大事にしてゆかねばなりません。

読者のみなさんも、厳格に期限を決めて目標を達成しようとしている場合には、期限が迫る最後の数日、最後の数分で、飛躍的に作品の質が上がることを経験したことがあるのではないかと思います。

わたしがピアノをはじめたときなんかも、3ヶ月でホルスト「木星」に取り組もうと思い、最後の日は期限が迫る数分前に、はじめてミスせずに弾ききれたものです。自分なりにでもそういう達成の経験があると、どれだけ無理だと言われても、ダメならダメだという結果を見事に出してやろう、言い訳できないくらいに取り組んで、正しく失敗してやろう、という気になります。

わたしは年末年始だといっても、学生との約束以外はガヤガヤしたところには行きませんが、その代わりに、自分で決めた目標が達成できるかどうかという意味では、ひとつの節目になっているわけです。

今年はすべて失ったと思ったら、その代わりに、というよりも失ったからこそ、大きなものを得ることができたというような、不思議な年です。
といっても、まだ終わっていませんから、読者のみなさんとも切磋琢磨、さいごまで走りきりましょう。

◆◆◆

ご報告したいことが山積みですが、とりあえずわかりやすいものから。

今回取り組んだのは、iPhone 4Sのケースです。
あたらしくスマートフォンユーザーになった学生たちと大量生産したスリーブ型と違って、フリップ型のもの。

左がそれ。写真の右は、手持ちのシンプルレザージャケット(パワーサポート販売、おそらくRethink製。トップページからは容易に飛べないところに掲載されているので、存在を知らなければ見つけられないと思います)
 すでに先達がいるので、友人から頼まれてすぐにイメージは湧きました。

高度な革漉き技術は道具も含めてないので、革の表を貼り合わせることはできない代わりに、革の裏地をストッキングで光沢が出るまで磨いてあります。

◆◆◆

縫い目も無いので、切り出した革を丁寧に処理すればできあがり。

といっても、裏地を放ったらかしにできないので、作業時間はむしろ伸びていますね。


裏面に粘着シートが貼ってありますが、オーナーに渡すまで糊付けはできないので、まだ丸みを帯びています。


革の素性が良いので、シンプルな構成もなかなかいいですね。
クリームを挟んだクッキーのようで、かわいいのではないでしょうか。

これまで着けたまま使うタイプのケースを作ってこなかったのは、どう工夫してもカメラが使いにくくなってしまうという欠点があると思っていたからですが、構えてみた感じでは、指が届けばむしろホールドしやすくなるかもしれない、という印象でした。

そのことや、糊がちゃんと付くのか、などの気になる点はオーナーに実験してもらわねばなりませんが、うまくいけば次にも続いてゆきそうです。

2011/11/21

自転車フロントバッグG3 (3)

(2のつづき)


前回の最後で、モチーフを「禅」、「静謐なもの」などと決めて、数点の資料を見てもらった上で、みなさんならどういうものにしてゆくか考えてみてください、と言ったのでしたね。

わたしがつくったのは、こんなふうなものでした。


えらく直線的な顔になったなあと思われるかもしれません。
ところが、今回はこちらは正面ではなく、背面側です。

わたしははじめに、オーナーが乗車中に仕舞ったものを取り出すときに、手前に開かなければならないことを問題視していました。
なぜならハンドルバーには、ライトや、最近ではGPSとしてスマートフォンを取り付けることが多いですから、フタが手前開きだとそれらに干渉してしまうのです。

◆◆◆

わたしは今回のバッグは、自転車はもちろん、乗り手にも寄り添って、乗り手が真っ白なキャンパスを自分の色に染め上げることができるようなものにしたいと思いました。

そういう理由で、正面はこうなりました。


これまでの流れとはずいぶん違っているので、はじめはぎょっとされるだろうな、と思っています。
そのために、作品をして語らしめるという原則を踏み外していさかか饒舌にすぎるとは思いつつ、ご説明を加える次第です。(モノそのものと自分で向き合いたい場合には、読まれなくてもけっこうです。解釈は押し付けるものではありませんから)

オーナーがモチーフとして選んだコンチョの色合いに、バッグ全体を染め上げようとしたときには、この構成が最も良いと思ったのです。
中央よりもやや上に配置されたコンチョ用の穴は、上部と下部を黄金比で分ける地点(1:1.618)に位置しています。
位置を決める際には、あらゆる地点にコンチョを配置したあと、良い配分だと感じられたところにポイントを置いてみて、それが黄金比とどのような違いがあるのかを洗い出した上で決めました。
しかしその上でも最終的に、自転車全体の調和を考えたときにもこの位置がやはりベストだと判断しました。

また、正面の配分だけでは顔としてはシンプルにすぎるところがあるであろうことは、製作段階から意識しており、そこに、無地でありながら全体を整えるという矛盾を統一するための色むらを加えています。
色むらは、革全体に柿渋染めを施したあと、小さい筆で一本一本線を引き、乾かしたあとまた重ねて引くという工程で少しずつつけて、齢を重ねるたびに増してゆく積層がその人そのものであることを表現しようとしました。
漫画家の弟子と、定規なしで鉛筆で一の字を書く修練をしたことが使えました。

ちなみに、柿渋染めには独特の匂いがあり、銀杏の実のにおい、といえばみなさんにも想像してもらえるでしょうか。
作業している本人は慣れていますが、そのおかげで作業場のドアを開けるとすごいことになっているらしいです(って、わたしの書斎じゃん!)。
引渡しは臭いがとれたときがよいでしょうか。

◆◆◆

右側面から見ると、オーナーにご指定いただいていたとおりのサイズの、真四角の右肩に、丸い棒がとおしてあるのが見えると思います。

蓋の開閉時の強度を保つとともに、全体としてはすべての角で棒のアールを維持しながら、ひとつの角を削ったことで「完全-1」というモチーフを盛り込むようになっています。



◆◆◆

さきほどの写真で、下側にも棒があることに気づかれた方がおられるかと思いますが、あれは自転車のキャリアとの固定のために使われています。

自転車のキャリアを見て、どう使うかわかるでしょうか。



◆◆◆

真ん中の穴に棒をとおして、




固定します。

はじめは、蓋のところに通した棒と同じ直径10mmのものを使えればいいなと思っていたのですが、キャリアのワッシャー部分と干渉してキツキツだったので少しずつ削っていたら、菜箸みたいな形になりました。
万が一旅先で折れてしまったときにでも、現地でなんとかできるのが自転車用の部品としてはふさわしいですからそのように設計してあり、6~8mmくらいの棒状のものであればなんでも使えると思います。

◆◆◆

いちおう、背面の月カン(金具)にベルトも通せますが、



下の写真のように、実際には必要ありません。


自転車をお借りして、数十キロ走ってみましたが、ベルト無しで問題ありませんでした。
おそらく、ライトなんかの他のパーツが外れて飛んでいったとしても、バッグだけは自転車にしがみついたままなのではないかしら、というような強度です。

支点なしで宙に浮いているようなものにしたかったので、「どうやって留まっているんだろう?」と思ってもらえれば成功でしょうか。

◆◆◆

今回背面に使った月カンは、あまり見ることのできない種類の金具です。
いつものDカンと機能的に違うのは、今回の場合で言えば、金具付きのベルトと、フタ側のベルトを2本通すことができる、ということにつきます。


上の写真のように、∞ループにすると、リアキャリアとしてBrooksなんかのサドルの金具にも留めることができます。

◆◆◆

背面のデザインを少し上から(オーナーの視点から)見ると、少しずつ間隔を広げつつ下へと折り重なってゆく層を見ることができます。
これは、「フィボナッチ数列」および「黄金比」の数字を使っていますが、わたしとしてはむしろ、日本庭園に置かれている積み石(前回の記事でご紹介した画像にもあったような)をイメージしました。

層が重なりあうことで土台が確からしいものとして馴染んでゆくことを表現するために、いちばん下の層は、それぞれの経験が土台そのものとなって溶け込んでゆくことを意識し、あえて明確なステッチをつけずに、見えない線を見る人の頭の中にだけ持ってもらうことを願ったものです。


◆◆◆

2つのマグネットで留められた、かっちりした形のフタを開けると、オーナーにだけ見えるところにゆるやかな丸みを持った下の顔が現れます。

激しい青年時代を送った人ほど齢を重ねると…ということですね。


◆◆◆

丸みをもったデザインは、荷物が増えたときに容量を増やすためのフラップという機能と統一させて存在しています。

いちばん容量を増やしたときにはこんな顔です。
ロックの役目を果たしている金具は、ギボシといい、今回はじめて使いましたが、3mmの革に通すと思いの外、というかめちゃくちゃ丈夫でした。
普段の状態では、ここを外し忘れていると、どう蓋を引っ張ってもテコでも開かないほどです。


◆◆◆

さいご、ためしに手持ちの別のコンチョをつけてみたところです。(チェコ共和国の硬貨)

オーナーが選んだコンチョによって、表情がとても大きく変わるのではないかなと思います。これまでのG1とG2は、コンチョをモチーフとして全体の構成を決めていたので、いったん決めたコンチョはどうしても動かすことができませんでした。
当初指定されていたコンチョは40mmほどの、コンチョとしては異例に大きなものでしたから、オーナーの手でどう変わってゆくかが楽しみです。


◆◆◆

以上、普段はここまで突っ込んで説明することはありませんが、ものづくりの過程を見てもらうのは読者のみなさんにとっても少しは刺激になるかなと思い、恥を忍んで書き連ねてきた次第です。

余談ですが、あえて蓋に表情を付けなかったことによって、かえってG1やG2のような表情をもった革を追加で付け加えることも容易になりました。(回り道がかえって近道、否定の否定。進化の本質、すなわち相対的な独立。)

さらにいえば、G1やG2と違って、固定された世界観がないことで、アンティークショップで見つけることの出来るような取っ手などを付けることもできるようになりました。

真鍮製取手リスト(ArtCrewさんのショップから)
ご自分でものの使い方や向き合い方を突き詰めてゆくことができる人の場合には、作り手が世界観を提示するよりも、そういった楽しみ方をされるのではないかなと思いますから、いわばわたしがこれを渡させていただいたときからが、オーナーさんにとってはほんとうの始まりだと言えるのではないでしょうか。


わたしにとっては今のところ、これ以上のものは影も形も思いつきません。
研究にしろ趣味にしろ自分が昨日作ったものを今日はぶっ潰して乗り越える、くらいの気持ちでいつもいます(裏を返せば過程にこそ本質がある、ということです)が、今回はなんだかすべてを出し切ったような気しかしません。
これでも、ほんとうにまだ先があるのでしょうか。

オーナーをはじめ、読者のみなさんの批判を仰ぎたいところです。


(了)

自転車フロントバッグG3 (2)

(1のつづき)


さてそうして、そもそも、「自転車用バッグとはどういうものなのか?」と問いかけることにすると、一般的なバッグのあり方を無批判にそのまま自転車用としても押し付けようとする姿勢を改めてゆかねばなりません。

その自覚は、G2を作り終えた直後からおぼろげながら持っていたのですが、徹底的に自転車に、そしてまたその乗り手に寄り添うかたちを模索しようとしても、G1とG2の影がちらついて、なかなかに発想を切り替えることができないでいました。

それが今回の自転車のオーナーと議論していく中で、明確な像として描けるようになっていったのでした。

その方が含めてほしいモチーフとしておっしゃったのは、以下のようなキーワードであったと思います。
・禅(ミニマリズム)
・完全-1(完全からひとつ少ない形)
・和と洋
・黄金比と白銀比
・フィボナッチ数列(0, 1, 1, 2, 3, 5, 8, 13, 21…)

またサイズは、幅260*高さ160*奥行き160(mm)と指定があり、幅と高さ及び奥行きも黄金比をとりたいからであるとのことでした。

さらには、黄金比と対応するものとしてオウムガイの殻まで持参していただいたことは、黄金比というのはあくまでも人類がその歴史の中で自然との対話の中から見出してきた法則なのであって、「黄金比がはじめにありきなのではない」ということを、改めて確認させていただいたものでした。

◆◆◆

わたしはそれを聞いて、見て、とても嬉しくなりました。

この方が、ものづくりというものをよくお分かりになっていることがよくわかったからです。
というのも、ものづくりをするにあたっては、そのオーナーの想いこそが最終的な作品として現れるのであって、オーナーが「適当に頼む」と丸投げしたものをわたしがつくることほどつまらないことはないのです。
いわば、ものづくりの出発点とは、あくまでもオーナーと作り手との共同作業こそを指していたのであって、現代の大量生産のあり方をいきなりその本質に押し付けてはいけません。
前回のオーナーとの議論もそうでしたが、こういった人たちがあってこそのものづくりなのだな、と改めて感謝の念を深めました。

さて、わたしが上のお話を聞いたときに、それまでのものづくりのなかで脳裏に浮かんでいたおぼろげな像が、ある形を取り始めているのを意識していました。
このBlogでたまに言う、「パッパッパッと脳みそに電気が走る」という感覚(おかしいでしょうか?でもほかに表現しようがないんだよねえ…)、あれです。

それが先週の土曜日で、わたしはその方を駅まで見送ったあと、自宅に帰るとすぐに図面を書き始めました。
しかし出来上がったものは、それまでにやったことのない技術が数件含まれていて、失敗すると260*1000mmほどの大きな革が無駄になってしまうという案でした。

果たしてやれるのか?と湯船に顔をつけながら思ったのですが、ダメならダメだということがわかるのが前進である、との一念ではじめることになりました。
根が楽観主義なのは、人生にとって大きな資産なのかもしれません。
昨日と今日が東北行きでしたから、それまでに完成させたかったことも背中を後押ししていました。

◆◆◆

実際の作業工程については、本年度の総決算にふさわしいと思える内実がありましたが、ものづくりをしない方にとっては退屈そのものでしょうから、結論だけを書くことにしますと、いわゆる「職人芸」の持っている構造が以前よりもはっきりと浮かび上がってきたことは収穫でした。

革細工・革工作をするときには、まず大まかな型紙をつくり、それに基づいてサイズ感を確かめたあと、革を切り出す作業に入ります。
そこから観念的に持った目的像を目指すようにして手を動かして、細部を煮詰めてゆきますが、それとともに型紙にも細かな線や注釈を付け加えてゆきますから、作業の進展と浸透する形で型紙のあり方もより詳細で明確なものになってゆくのです。
そうして、作品が出来上がったことと直接に完成した型紙こそが、いわば理論となって、次の作業工程を照らす導きの石となるわけです。

これまでが、設計図と素材から完成までの工程との一般的な構造ですが、なおのこと重要なことに、型紙が理論であっても、それが人譲りのものであるか、自分で構築したものであるかには、大きな違いがあるということなのです。
どこに違いがあるのかといえば、後者には結論的な型紙を導いたもろもろの経験が過程として止揚されているということであり、それはつまり、ものづくりの重要さとは、理論にあること以上に、理論そのものの導き方にある、ということを示唆してもいるのです。

たとえば、直径10mmの棒に3mmの厚みのある革を巻きつけたときに、それは合計でどれくらいの厚みになるのか?一般的に考えれば16mmでよさそうに思えるが、革の質によって違いが出ることはないのか?濡らすとどうなるか?そのあと乾かすとどうなるか?縫いつけたあと濡らすほうがよいのか?…
そういったふうに、いまの自分の作業を取り巻く制限を鮮やかに意識し、理論的に確からしいところにまで追い詰めたあとで実際に作業を進め、「正しく失敗する」という経験を通して自らの認識のあり方そのものを深化させてゆく、その、理論そのものの導き方に職人芸と呼ばれる技の妙があります。

これまで闇に閉ざされていたそういった技術を、認識論と論理学(弁証法)を武器にして理論化し万人の資産としてゆくことは、なかなかにエキサイティングです。

◆◆◆

そういうわけで、ものづくりに片足を突っ込んでいる読者のみなさんは、今度わたしと食事に行ったときに両手を振り回して喚き立てるのをうっとおしいと思うかもしれませんが、大目に見てやってください。

さて構造、構造と言うのも聞きあきたと思うので、次回ではそろそろ実際にできたものを公開して批判を仰ごうと思うのですが、その前に、わたしが適当に拾ってきた資料の中で印象的だったものを見て、自分だったらどんなものにするだろうかと考えてみてください。





わたしは、この前のお休み言い訳記事で書いておいたように、「静謐なもの」にしたいと思いました。
それは、とりもなおさずわたしが感じているオーナーの人柄に由来するところが多分にありますが、静謐で、どこにおいても場を乱さないものであるとともに、すっと立てた軸に柔らかな衣装をまとっていて、くっきりとした輪郭ながらどこかに丸みをおびているようなもの、といったようなイメージであると言えば、わかったようなわからないような、というくらいには像を描いてもらえるでしょうか。

激しい生き方をしてきた人ほど、齢を重ねるごとに同じだけのやさしさをみにつけてゆくことを、みなさんも生きた実例として何人かはお会いになったことがあるのではないでしょうか。

わたしは今回の作品で、もしそういうものができれば、これまで創り上げてきたものを過去に葬り去り、一から積み上げ直してゆくためのあたらしい土台ができるのではないか、と感じたのです。

弁証法で言う、第一の否定、ですね。


(2につづく)

2011/11/20

自転車フロントバッグG3 (1)

帰ってきました。


いきなりどうでもいい話なのですが、わたしの予定の立て方は原則論そのままなので、たとえば一ヶ月に6000単語覚えることにすると、一日に200単語覚えなければなりません。
一日お休みして今日のぶんを明日やることにすると、明日は400単語覚えなければならないことになりますが、そんな余裕のある予定は立てない(実力以上のことをやろうとしないと今の実力もわかりません(対立物の相互浸透)から)ので、休日にどこかに出かけるということは、そのまま積み残しが増えることを意味しています。

そういうわけで、積み残しをまんべんなく割り振って消化することを考えると、1ヶ月に研究と直接関係のないことをする日はどう頑張っても数日なのですが、11月の休日といえば秋らしくイベントだらけだったので、恐ろしいスケジュールでした。
約束した友人との約束なんかは、前もって準備しておけますが、やはり限度というものがありますからね。

ここのBlogの更新をお休みしたぶんで1日に90分ずつを使えたので、ずいぶん助かりました。
ともあれ、毎日の締めに、真剣な勉強の場として、と見に来てくださっているみなさんにはご迷惑をおかけしました。

わたしの本に囲まれた研究部屋の机には、自分にとってゆるがせにできない事柄の書かれた紙が貼ってあり、毎日目を通してから一日をはじめます。
そのうちの一枚は、「後進を裏切らない」というものです。
以前には対象化された観念としての意味を持たせて、命令形で「後進を裏切るな」と書いていたものを、数年間向き合い続けて、観念的にも実体的にも技として身についたことを繰り返し確認した上で、こう書き換えたのでした。

人間として道をつないでゆくことを少しでも考えるのであれば、若い頃には喉から手が出るほど希んで探し回っても、どうしても得られなかったその人物になってゆくことが真っ当だと思えばこそです。

後輩の頃にいわれのない理由で先輩からいじめられた経験のある人は、自分が先輩の立場になったときにも、同じことをするばかりしか道はないのでしょうか?わたしはそうは思いません。

◆◆◆

さて、休み明けにいきなりこれでは重苦しいでしょうか。

でも今回の記事は、タイトルの通りのものなので、構えてしまった読者の方は気を緩めてもらってもけっこうです。

わたしは前に、自分であたらしい道を切り開いてゆこうとする者は、結果を出してはじめてまともに評価されるのであって、その途上で諦めるのならば気狂いとして命を終えるのだ、といったふうなお話をしたような覚えがあります。
そのときは、本質的な事柄を追求する道を選ぶのなら、そのくらいの不理解は当然なのだから、少々のことではめげないでください、とお伝えしたかったのだと思うのですが、人生の途中には、たとえ道半ばにしても、自分の見ているものと同じ事柄を見つめており、成果が未だ成さざる時にも自分のことを評価してくださる人がいるものです。
わたしたちはそれに甘えているわけにはゆかないのですが、それはそうだとしても、それが得難い出逢いであることには何らの変わりも無いでしょう。

わたしは今回、わたしにとってのそういう人とものづくりをすることになり、自分にできることすべて発揮するために、これまでの経緯を改めて振り返ってみたのでした。

左から、フロントバッグG1, G2、サイドバッグ。
今回つくるのは、革製のフロントバッグなので、以前に作ったG1とG2につづく、「G3」とでも呼ぶべきものを考えてゆけばよかったのです。

しかしわたしは以前にG2をつくるとき、こういうことを言いました。
(ふたつめにつくるバッグに「G2=第二世代」と名付けて)「世代」などというものものしいことばを使うのは、ひとつの革細工をするたびに、前の世代を作って、使ってわかった欠点をしっかりと克服して、あたらしい世代として作り上げてゆきたいと思っているからです。
このことばが、自分でも大きな壁となって立ち現れました。

G1は、試作品という名目で、自分だけが使えればよいものができればそれでよかったし、それをたたき台として友人のために完成形であるG2を提供できたのはよかった。
しかし、この現時点での自分の実力に見合うものだけをこの先もずっと作り続けてゆくことが、自分の仕事なのだろうか?

そう思ったのです。

◆◆◆

G1は、そもそも「一般的なバッグを自転車に取り付けよう」と考えて作られたバッグであり、G2もその制約の中にありました。

しかし、一般的なバッグの形が、そもそも自転車用という特殊性にすべての意味で合致するか?と問われれば、そんなことはない、というのが正しい答えなのです。
わたしはこれまで封じられてきたその問いかけに、改めて向き合うことにしました。
原則に立ち返って、「そもそも〜とはなんなのか?」と問いかけることは、本質的な前進のためにはどんな事柄にとっても必要なことですからね。

ひとまず手持ちのG1を依頼された自転車に取り付けてみると、こんなふうになりました。




もしみなさんが、自転車に乗った状態でこのバッグから仕舞っておいたものを取り出すとしたら、はたして使い勝手がよいだろうか?と考えてみてください。

わたしが上の写真などから読み取った問題点は、以下のようでした。
・蓋の開閉時には、鞄の前まで手を伸ばして手探りでヒネリ(金具)を探す必要がある
・蓋を開くと、使い手の側にベロンと垂れ下がってくる
・今回の自転車の場合には、ベルトがライトの発する光と干渉する

このことはまた、バッグの作成時にも、「手探りで見つけることのできる場所、凹み過ぎない強度の確保できるところにヒネリを設置しなくてはならない」などという制約も産み出してしまいます。

◆◆◆

また、使い勝手の問題とは別に、「自転車の顔」というデザイン面での問題が、わたしをずっと悩ませてきました。

わたしはバッグを作るときに、コンチョなどからモチーフを決めて、そのバッグの顔になるフタを取り付けます。これは、サイドバッグでも同じです。
市販のバッグがただの丸みや面白みのない直線ですませてしまうところを、あえて個性的なデザインを凝らしてきました。

しかしここには、「どうせ自分たちで作るのだから、市販のバッグにはないものにしたい」という発想も含まれており、いわばこれは、世にあるものから逆算してきた独自性でしかないとも言えるわけです。

そうすると、独自のものを作ったといいながら、結局のところ、既存のものから逆算しただけの、悪く言えば「奇を衒った」ものなのではないか、ということすら言えなくもないことになるのです。

しかし本質的な問いかけは、あくまでも、世にあるものがどうであるということなのではなく、
「自転車用バッグとはどういうものか?」
という一点に帰せられるべきです。


(2につづく)

2011/11/15

秋の夜長に誘われて、

考え事ばっかりしていてほかのことが手につきません。

いま作っているものは、これまでに作った立体物の中で、いちばん静謐な佇まいのものになるかもしれません。

ここの読者のみなさんにもお伝えしたいことがたくさんあるのですが、ここ最近ほど、人に会うということが自分にとって意味のあるものであったことはなく、言葉に紡ぐのに時間がかかりそうなのです。
もともと自分のためだけになにかをすることに、どうしても興味が持てないタチなので、いま考えていることは今でなければやれないと思うのです。

そういうわけで、集中して取り組んでいることがあり、次の更新まで少し間があくかもしれません。みなさんから受け取っているレポートや修練過程については、必ずその日のうちに目を通していますから、心配無用です。とくに連絡がなければ、問題がないものと考えてください。
昨日より今日が、「質」的な前進になっているかどうかと問いかけて見なおし、心配りの確かさを日々向上できるように目的意識を持ってください。レポートを2000字書いたり、ランニングを5kmに素振りを500回したという結果そのものには意味がありませんからね。

遅くとも今週中には更新しますが、どちらにせよなにかお知らせできることがあれば、いちばんにここで報告します。ご諒承のほど、よしなに。

2011/11/11

どうでもいい雑記:フィーチャーフォンに対応しました、iPhone関連記事など

雑記ばかりで申し訳ない。


溜め込んでいる質問については、期を見て関連する記事に答えを盛り込んでいるのだが、毎日のように更新されまくると読むのも大変なのか、「そんな記事ありましたか」と言われることがある。

わたしも、今日の記事に前聞かれたことを書いたから読んでおいて、などとまめに連絡を入れるような人間でないから気づかれにくいかもしれないが、あるていど撫で斬りにしないと捌き切れないので、ご理解いただければ幸い。
論理的に解くことのできる問題は、そういった間接的なやり方ででも論じていけるが、知識的な事柄に限られる問題はどうにもならないので、こういった雑記で触れていこう。

今回の内容は、以下のとおり。
携帯電話への対応/iPhoneの辞書選び/形のないアプリケーションにお金を払うべきか?/iPhone買うならどっちのキャリア?/iPhoneで月額料金を抑えるには/


◆フィーチャーフォンに対応しました◆

昨晩友人と話していたら、このblogはスマートフォン以外の、従来型の携帯電話では見ることができないと教えられた。
近いうちにiPhone買うかも、とおっしゃっていたけど、従来のユーザーもまだまだ多いだろうし、フィーチャーフォン向けのサイトへのリンクをBlogタイトルの下に貼っておいたので、使ってくださいな。(以下はQRコードです)

Buckets*Garage QRコード

◆iPhoneの辞書選び◆

前の記事で、iPhoneのアプリケーションを紹介したが、数千円するものもあったことについて導入を躊躇する声がいくつかあった。

とりあえず辞書については、あれから新しく無料のものがリリースされていたのでご紹介。

・辞書 辞書 - Catalystwo Limited
iOS 5から、Apple純正の辞書が搭載されている(MacOS X Lionに搭載されているものと同じ、大辞泉など)が、基本的には「Safari」や「メモ」アプリほかで文字列を長押しして調べる必要がある。それを、辞書専用のアプリケーション形式で検索するためのものである。
高額な辞書アプリを買うのがためらわれる場合には、これで済ますことができるかどうかを確かめてみるといい。シンプルだが必要十分で、使い勝手はかなり良い。


辞書アプリに限らず、iTunes Storeでは、毎日のように新しいアプリケーションが追加されているので、自分で進んで調べてみてほしい。
前のアプリ紹介で価格を表示しなかったのは、価格についても変化が激しいからである。


◆形のないアプリケーションにお金を払うべきか?◆

DVDやCD、ゲームソフトなどをパッケージで買うことに慣れている人が多いせいか、物理的な実体のないiPhoneのアプリケーションの購入に二の足を踏んだり、形もないのに数千円は高すぎる、という人がいる。
しかしこれは、「散髪屋というのは、髪も減らすし金も取るしでけしからん」と言っているのと同じことで、サービスというものにまで物理的な商品のあり方を押し付けるという誤りである。

道具というものはそもそも、ある目標を達成するための手段のひとつだ。
たとえば目的地に早く着きたいのなら、電車のきっぷを買うことになるが、このときに、電車のデザインが気に入ったり、ゴトゴト揺られるリズムが睡眠をうながしたりすることがあるとしても、それは副次的な要素なのであって、もともとの手段としての性質に取って代わることはない。

ソフトウェアのパッケージについて言えば、棚に並べているとシリーズを買い支えていることを友人にも見せることができるから、確かに所有欲を満たすこともあるが、パッケージそのものだけでは主だった機能を発揮できないのだから、主軸はソフトウェアの働きにあるということになる。

ソフトウェアは物理的な形がないから、ハードウェアを選ぶときよりもそれを使用する状況を自分の想像力で補ってより明確に描き出す必要があるとともに、より道具というものの原則に根ざした選び方が必要になってくる。

たとえば辞書アプリを選ぶときには、他のアプリケーションからジャンプして調べものができるか?他の辞書と串刺し検索ができるか?iPhoneとiPadで使い回しができるか?、また、紙の辞書を持ち運ぶときと比べてどのくらい持ち運びやすくなるか?などを考えた上で、それが提供してくれる便利さが、自分にとってそのときの価格に見合うかと考えをめぐらしてみることになる。

良い買い物ができるというのは、自分にとって必要なものがどういうものなのかを仔細にわたって把握できている、つまり自分にとっての道具の像が深いということであるから、いい加減に扱ってはいけない。
もし想像してみたうえで、実際に買ったものが想定とは違っていた場合も、想定がしっかりとなされている場合には、より深い経験になる。(当人が必要性を自覚できるまで、度外れに良い道具を与えないほうがよいという理由もここにある)

個人的には、自分にとって必要のないものは、ビタ一文払うべきではないと思う。
これは、手持ちの資金がいくらあるかなどとは関係がないことなのであり、「自らの必要性」を明確に持ったうえで、それに照らして判断するのでなければ、道具などというものは選びようがないからである。
ストラディバリウスで釘を叩くこともできるかもしれないが、釘を叩くだけならもっとふさわしい道具がある。



◆iPhone買うならau?SoftBank?

せっかくauからも出ることになったiPhoneだが、総じて言えば、二段階定額オプションがなかったり、au版は急な導入のせいかメールの機能に不備があったり、海外でもキャリアを選べずに通信してしまったりと大きな落とし穴があるので、今のところあまり積極的に薦められない。
(とくに最後のものは、ローミングをオンにしようものなら、とんでもない高額の請求が来てしまう)

SoftBankでは、11月末までのキャンペーンとして、同時に購入すればiPadの通信料が無料になったりもする(在庫がなくても11月中に予約すればよいらしい)ので、うまく買い物をしてほしい。

もしau版が、相対的に余裕のある電波帯域を活かして、テザリング機能を解放することがあれば、他の欠点を差し引いてでも契約したくなる人も多いと思うのだが。



◆iPhoneで月額料金を抑えるには◆

SoftBankでiPhoneを契約している場合に限るが、Wi-Fiをうまく使うことで、月額利用料を抑えることができる。(au版iPhoneは今のところ、料金プランの中に二段階定額がないので、このやり方は使えない。)

わたしのiPhoneは、基本的にWi-Fi専用である。
旅に出た時だけ特別に、「マップ」アプリケーションを使いまくるが、旅に行かない月には外出中にSoftbankの3G電波を拾わないようにして、月額利用料を抑えている。

もし同じような利用形態の場合には、以下のように設定するといい。
「設定」を開いて、「一般」>「ネットワーク」の「モバイルデータ通信」をオフにすると、3G電波を拾わなくなる。


こうしておくと、自宅やスターバックスなどではWi-Fiを拾って通信が行われるが、それ以外では通話専用の携帯電話になっているので、自分から電話をかけない限り、パケット代をふくめた通信費がかからずにすむわけである。

どうも、3G電波とWi-Fi(無線LAN)の区別がうまくつけられていない人がたくさんいるようだが、わからないことをわからないままで放っておかずに、ちょっと調べてみればつきあいかた次第で月に3,000円ほど浮くのだから、調べてみない手はないと思う。

電子機器に限らず自分が知らないジャンルのことについて、詳しい人に聞いてみることと同時に、まるっきり人任せにしておかずに、自分でも進んで調べてみることのできる心構えを技として身につけておいてほしい。
好奇心や探究心も、人間の認識におけるひとつの技であって、わからないことと出合ったときに、それとどのように接するかによって、量質転化的な努力次第でいくらでも身につけて深めてゆけることができるから、生まれつきの特質などのせいにしてはいけない。

何度でも言うが、「生まれや育ちを言い訳にするのは、やめにしよう。」

2011/11/10

どうでもいい雑記:PC関連企業の動きなど

ひさびさによく寝た。



おかげですっきり。

集中していた大きなイベントも今週でだいたい消化できるので、質問やら問い合わせが2ヶ月分くらい溜まっているのをこれから消化していきます。年内までに終わらせられるとよいのですが。

今回の記事は、コンピュータに苦手意識のある方から頼まれるたぐいの記事とほんとにどうでもいい記事なので、活字中毒のみなさん以外は飛ばしてください。

内容は以下のとおりです。
Flashモバイル終息/HPがPC事業分離を撤回/スッポン捕ってきた


◆Adobeがモバイル向けFlashの終息を発表◆
現在では、HTML5が世界的に多くのモバイル機器でサポートされており、HTML5だけにしか対応しない場合もあります。このことは、HTML5が、モバイル機器のブラウザにおいてコンテンツを作り展開するための最良の手段であることを意味しています。 
However, HTML5 is now universally supported on major mobile devices, in some cases exclusively.  This makes HTML5 the best solution for creating and deploying content in the browser across mobile platforms.
Adobeニュースリリースより抜粋、わたし訳)

数年前にFlashなる規格が出回りはじめたとき、わたしはウェブの世界にまだ片足を突っ込んでいた頃だったけども、そのときはその構成と設計理念をひととおり調べた上で、「こんな複雑で(動作が)重いものを一般ユーザーが使うわけがない」と思って、新しい規格に飛びつく同業者を尻目に旅行ばかりしていた。

デザインと名のつく仕事をしているにもかかわらず、PhotoshopやDreamweaverなんかの、ツールのお勉強ばかりをしている人も少なくないが、大事なのは道具よりも、「何をつくるか」ということなのだ、と考えたからである。
そのことに焦点を絞ると、旅でもしていない限り刺激が少なすぎるのだ。

しかしそのあとも、ドッグイヤーで性能を高めてきたハードウェア側の事情に助けられて、Flashは生き続けた、どころか、同人作品しかり、Youtubeでの動画フォーマットしかり、けっこう流行った。
こんなこともあるんだなあ、と思ったけれども、初回起動時にほとんどのコンポーネントを起動する仕組みであるところ、ラップトップでFlashを再生するとバッテリーがとんでもない勢いで減ってしまうところなんかが目について、とてもスマートとは呼べない力業の仕様がどうしても好きになれなれず、あまり深くまでは突っ込んでみなかった。

最近では、AppleがiPhoneやiPadでのFlash対応を見送ったことが物議を醸したりしたが、それからまもなく、こういったふうに落ち着いたようである。
今後Flashの開発は、デスクトップ機器では継続されるとしているが、ポストPCの世界では、モバイル機器によってウェブに通じるユーザーが圧倒的になるから、これは事実上、本家本元が引導を渡したに近い。

世の中には、初出は出来が悪いながら継ぎ接ぎをしまくって力業で突き進んで標準を勝ち取ってしまう場合もあるにはあって、コンピュータ業界ではWindows OS、USB 2.0、Androidなんかがよく知られているが、わたしはそんなふうに無理を通すよりも、目標を決めた時点でちゃんとした見通しを持っているものの方が好きだ。お金持ちの企業ならともかく個人が夢を目指すときには、崖下に転げ落ちたらおしまいだもの。


◆HPが前の計画を撤回◆

以前に、iOSのライバルになりうる可能性を備えたwebOS(インターフェイスに限れば、iOSに勝るとも劣らない)の扱いについて、HPのやり方にいちゃもんをつけたけども、この会社は、数カ月前にPC事業を切り離すか撤退するかの計画を発表したがやっぱり続けることにしたらしい。
同時に、webOSについては、1年ほど前に会社ごと買収して獲得したOSを、結局のところ使わないことにしたらしい。なんともはや。

速報:HPのPC事業は今後も従来どおり社内で継続へ -- Engadget Japanese

ニュースリリースによれば、複数の方面の専門家によるデータに基づいて、PC事業を継続することにした(The strategic review involved subject matter experts from across the businesses and functions. The data-driven evaluation revealed the depth of the integration that has occurred across key operations such as supply chain, IT and procurement. It also detailed the significant extent to which PSG contributes to HP's solutions portfolio and overall brand value.)、ということになっている。

なぜ現在の条件を見て将来のことを決めようとするのか?

この会社が考えていることは、個人に例えれば、「今の私にカネもコネもアタマもないという分析に基づいて、政治家になるという夢を諦めることにした」と言っているのと同じだ。
データを分析するというのは、先の見通しを決めて、目標を立てて、それを検討し実現するときに必要になってくる過程なのであって、それだけではなんらの目標をも指し示さない。
ものづくりを生業にする会社組織なら、なおさらではなかろうか。

こういうことを言うと、理想や原則をふりかざしていても現実はついてこない、と説き伏せようとする大人がいるが、理想主義的だから現実がついてこないのではなく、現実を導く理想がないから現実もまたついてきようがないだけなのではなかろうか。

それにしてもあれだけのポテンシャルを持っていたwebOSが、次の時代の大きな選択肢に育てられるどころか、親であったはずの会社に息の根を止められるのを見るのは、なんともやるせない思いがする。



◆スッポン捕った◆

わたしはデザイン練ったり論文の構成を考えたりいろいろ行き詰まったときには、だいたい外をうろつきまわるけれども、そんなときには川べりを歩くことが多い。日本の公道は、後ろからも前からも自転車が突っ込んできて考え事どころじゃないからである。

先週は、近所の用水路を覗き込むと、シロメダカ(アオメダカかも)が一匹だけで泳いでいるのを見つけたので、あしたにでも保護するかと思っていたら、次の日に大雨が降って見失ってしまった。

その代わりに(?)、用水路の側面に必死の形相でしがみついていたスッポンの子を保護。

甲羅の大きさは500円玉くらい。秋口に生まれたぐらいだろうか。
飼うのははじめてなので、夜更かししていろいろ調べていたけど、次の日には冷凍アカムシを食べて、水換えのときに手のひらに載せたら暴れもせずにウトウトしていたから杞憂だったのかもしれない。

カメ類はいったん飼い始めるとけっこうすぐに懐いてしまうから、飼い続けることになるんだよねえ。

ちなみに次の日寄ってみたら、メダカもまだおりました。じきに保護します。

2011/11/07

【メモ】『スティーブ・ジョブズ II』

帰ってきました。下巻のほうのメモ。


p.95で、この前、「世の中には悪シンプルが多い」と言ったのと同じことが出てきてびっくりした。
この部分は、表現そのものがとても似ていたから特別に驚いたのだけども、他の部分をみても、いつも堅く誓って守ったり、自然に馴染んでいることばかりで、わたしが彼にどれほど大きなものを学ばされてきて、勇気づけられてきたのかが改めてよくわかった。

パソコンのパの字も知らない頃に、隣に座っていた友人になにを買えばいいのかと聞いて、その人が持っていたのとまったく同じ物を取り寄せたことが懐かしく思われるが、そのときにAppleのコンピュータを選べていなかったのなら、自分の人生も「まったく」違っていた(誇張ではない)のだと思うと、なおさらに有り難いことだなあと思わされる。

アップルという会社は、ひとつの有機体として扱うのが相応しいというほどに、ひとつの世界観を持っている。
ああしたかと思うと、さっきのはナシ、次はこっち、というような会社と一線を画すのはまさにその点なのであって、こういった経営者の生い立ちや思いに直接的に触れなくても、ひとつの作品(表現)をじっくりと見つめて、そこに込められた思いを捉え返すときには、作り手の顔が見えるほどに、一本の軸を貫いて個性的である。

つい1年前、学生が持っていたiPhone 4を触らせてもらったとき、手のひらに乗せたものから、一筋の電流が流れたような衝撃を感じたのを、いまでも覚えている。
わたしはそのころ日本にはじめて入ってきたiPhoneである、3Gを使っていたが、それとは比べてものにならないほどの、大きな金属の塊から切り取ってきたような凝集感、端から端までがまったくの均一さで整えられている研ぎ澄まされた静謐さを感じたもので、「たった数年でここまで練り上げるとは…!?」と、その完璧さに心底、心底驚いた。

これだけの表現を見せつけられれば、実際のところ、作り手がどれほどの濃密な、統一された思想性でもってこの製品を世に送り出してきているのかがおぼろげながら見えてこようというものである。
そうすると、アップルについて書かれた書籍というのは、そのおぼろげながら見えてきたというアップル像について、事実的な答え合わせをしてくれる働きはするけれども、逆に言えばそれだけでしかない、ということである。

やっぱり、一流の表現というのは、作り手が無駄な口上を垂れなくとも、作品そのものがすべてを語っているものなのだなあ。

わたしたちも、巨人の肩に乗せてもらっているだけでは、いけない。


◆メモ◆

p.22 地球に生まれてきた理由
「(ネクスト社を立ち上げてソフトウェア販売に特化せざるを得なくなったことについて)あれは僕が望む仕事ではなかった。個人に製品を売れない状況に、本当に気が滅入ってしまった。僕は、法人向けのエンタープライズ製品を売ったり、誰かが作ったぼろいハードウェアにソフトウェアをライセンスするためにこの地球に生まれてきたんじゃない。ああいう仕事がおもしろいとはどうしても思えないんだ」

p.37 なぜ仕事をするか
(ピクサー社の社長のほかにアップル社のCEOを兼任すると告げに行ったとき)「このせいで家族との時間がどれだけ減るだろうか、また、僕のもうひとつの家族、ピクサーとの時間がどれだけ減るだろうかとずっと考えていた。でも、アップルがあったほうが世界は良くなる。そう信じるからやりたいと思うんだ」

p.39 自我が求めるもの
ジョブズの場合、人々にすごいと思われるモノを作る――それこそが自我が求めるもの、己のうちから沸き上がる衝動なのだ。実際には2種類のモノ、ひとつは画期的で世界を変えるような製品、もうひとつは連綿と生き続ける会社だ。

p.54 あれかこれか
これが正しいと確信したジョブズは誰も止められない。しかし少しでも疑いがあると消極的になり、自分にとって必ずしも都合のよくないことを考えずにすまそうとする。

p.60 長続きする会社は自らを再発明する(マークラ)
「PC事業ではマイクロソフトに隅へと追いやられてしまった。なにかほかのことをする会社に再発明する必要がある。ほかの消費者製品とかほかの機器とか。蝶のように変態しなければならないんだ」

p.65 アップルの顧客
「アップルのコンピュータを買う人というのはちょっと変わっていると思う。アップルを買ってくれる人は、この世界のクリエイティブな側面を担う人、世界を変えようとしている人々なんだ。そういう人のために我々はツールを作っている」(1984年 Macworld Bostonでの基調講演)

「我々も常識とは違うことを考え、アップルの製品をずっと買い続けてくれている人々のためにいい仕事をしたいと思う。自分はおかしいんじゃないかと思う瞬間が人にはある。でも、その異常こそ天賦の才の表れなんだ」(同上)

p.76 "Think Different"キャンペーンで取り上げられた人物
アインシュタイン、ガンジー、レノン、ディラン、ピカソ、エジソン、チャップリン、キング。マーサ・グレアム、アンセル・アダムス、リチャード・ファインマン、マリア・カラス、フランク・ロイド・ライト、ジェームズ・ワトソン、アメリア・イアハート。
リスクを取り、失敗にめげず、人と異なる方法に自らのキャリアを賭けたクリエイティブな人が多い。

p.83 きちんと経営された会社は個人とは比べものにならないほどイノベーションを生み出せる
「会社自体が最高のイノベーションになることもあるとわかったんだ。つまり、どういうふうに会社を組織するのか、だよ。会社をどう作るのかはとても興味深い問題だ。アップルに戻るチャンスを手にしたとき、この会社がなければ僕に価値はないとわかった。だから、とどまって再生しようと心に決めたんだ」

p.86 ジョブズの得意技:"集中"
「なにをしないのか決めるのは、なにをするのか決めるのと同じくらい大事だ。会社についてもそうだし、製品についてもそうだ」

p.86 パワーポイントは使用禁止
「考えもせずにスライドプレゼンテーションをしようとするのが嫌でねぇ。プレゼンテーションをするのが問題への対処だと思ってる。次々とスライドなんか見せず、ちゃんと問題に向き合ってほしい。課題を徹底的に吟味してほしいんだ。自分の仕事をちゃんとわかっている人はパワーポイントなんかいらないよ」

p.95 本当のシンプルさ
「より少なく、しかしより良く」(工業デザイナー、ディーター・ラムス)

アップル初のパンフレットで「洗練を突きつめると簡潔になる」と宣言して以来、ジョブズは複雑さを乗り越えたところにあるシンプルさを求めてきた。複雑さを無視したシンプルさではないのだ。

「製品の本質を深く理解しなければ、不可欠ではない部分を削ることはできません。」(ジョナサン・アイブ)

p.148 思考パターン
人間は30歳になると思考パターンが型にはまり、創造性が落ちる
「ほとんどの人は、レコードの溝のようにこのパターンにとらわれてしまい、そこから出られなくなってしまいます」
「もちろん、生まれながらに好奇心が強く、いくつになっても子どものように人生に感動する人もいるにはいますが、まれです」
(ジョブズがデジタル革命の次なる段階を予見できた理由:人間性と技術の交差点、完璧主義者、シンプルの追究、「全財産を賭ける」)

p.176 音楽配信に成功した理由
「技術を生み出すには直感と創造性が必要であることも理解していて、なおかつ、芸術的なものを生み出すには修練と規律が必要だとわかっている人は、僕以外、そう何人もいないと思うよ。」

p.193 事業の基本理念:"共食いを恐れるな"
「自分で自分を食わなければ、誰かに食われるだけだからね」

p.218 企業スポンサーのすべてが悪魔との契約とはかぎらない/芸術の仕事
「ちょっと考えてほしい。今回の"悪魔"は、ロックバンドにもそうそういないというほどクリエイティブな連中だ。リードシンガーはスティーブ・ジョブズ。彼らは、音楽文化にエレキギター以来の美しい芸術品が生まれるのを手助けしてくれた。iPodだ。芸術の仕事は、醜いものを追い払うことだろう?」(U2 ボノ)

p.228 デジタルは人々を分断する
「ネットワーク時代になり、電子メールやiChatでアイデアが生み出せると思われがちだ。そんなばかな話はない。創造性は何げない会話から、行きあたりばったりの議論から生まれる。たまたま出会った人になにをしているのかたずね、うわ、それはすごいと思えば、いろいろなアイデアが湧いてくるのさ」

p.253 散歩
ジョブズは歩きはじめるとき、いつも、コンピュータが進化する歴史をどう見るかについて語り、最後のほうで細かな数字の交渉をした。

p.367 人の心を震わせるのは人間性と結びついた技術
「(タブレットはPCの延長線上にあるのではなく、)これはポストPC時代の機器で、PCよりもずっと直感的に、ずっと簡単に使えなければならないんだ。PCなんかよりもずっと緊密に、ソフトウェアとハードウェアとアプリケーションが寄り合わされていなければならないんだ。そのような製品を作るという面で、僕らは、正しいアーキテクチャーがシリコンにはもちろん、組織にも組み込まれていると思うんだ。」

p.416 白黒二分の世界観
「史上最高」でなければ、「くだらない」か「無能」か「食えたものじゃない」のだ。だから、ほんの少しでも欠陥があると感じれば、がんがんに怒りちらすことになる。金属部分の仕上げしかり、ネジの頭のカーブしかり、入れ物の青みしかり、ナビゲーションの直感的わかりやすさしかりで、ある瞬間に「完璧だ!」と宣言する直前までは「徹底的にお粗末」なのだ。

p.416 自然が望むもの
「自然はシンプルさと一貫性を愛する」(天文学者、ヨハネス・ケプラー)

p.424 会社の原動力
「僕は、いつまでもつづく会社を作ることに情熱を燃やしてきた。すごい製品を作りたいと社員が猛烈に頑張る会社を。それ以外はすべて副次的だ。もちろん、利益を上げるのもすごいことだよ?利益があればこそ、すごい製品を作っていられるのだから。でも、原動力は製品であって利益じゃない。」

p.424 顧客自身は自分が何を望んでいるかがわからない
「「顧客が望むモノを提供しろ」という人もいる。僕の考え方は違う。顧客が今後、なにを望むようになるのか、それを顧客本人よりも早くつかむのが僕らの仕事なんだ。」

p.425 交差点
「文系と理系の交差点、人文科学と自然科学の交差点という話をポラロイド社のエドウィン・ランドがしてるんだけど、この「交差点」が僕は好きだ。魔法のようなところがあるんだよね。イノベーションを生み出す人ならたくさんいるし、それが僕の仕事人生を象徴するものでもない。/アップルが世間の人たちと心を通わせられるのは、僕らのイノベーションはその底に人文科学が脈打っているからだ。」

p.428 僕の仕事
「僕は自分を暴虐だとは思わない。お粗末なものはお粗末だと面と向かって言うだけだ。本当のことを包みかくさないのが僕の仕事だからね。」

p.429 先人の肩に乗る
「僕がいろいろできるのは、同じ人類のメンバーがいろいろしてくれているからであり、すべて、先人の肩に乗せてもらっているからなんだ。そして、僕らの大半は、人類全体になにかをお返ししたい、人類全体の流れになにかを加えたいと思っているんだ。それはつまり、自分にやれる方法でなにかを表現するってことなんだ――だって、ボブ・ディランの歌やトム・ストッパードの戯曲なんて僕らには書けないからね。僕らは自分が持つ才能を使って心の奥底にある感情を表現しようとするんだ。僕らの先人が遺してくれたあらゆる成果に対する感謝を表現しようとするんだ。そして、その流れになにかを追加しようとするんだ。/そう思って、僕は歩いてきた。」


◆正誤◆
p.133 「破れたジーンズにハイネックが現れたかと思うと、」→「破れたジーンズにハイネックで現れたかと思うと、」

2011/11/06

【メモ】『スティーブ・ジョブズ I』

100万部突破したらしい。


初代iPodが発売された頃には白いイヤフォンをつけているだけで変人扱いされたなあと懐かしく思い出されるので、手に取った読者のどれほどの心に響くものなのかなと、すこし穿った見方をしてしまう。

何らかの形で成功した人物や製品から学ぼうとするときに、成功したという事実的な結果だけをみて、同じふるまいを真似ようとしても、どうしてもうまくいかないということがすぐにはっきりするものだ。

一人の人間を師と仰ぐときに絶対に押さえておかなくてはならないのは、表現過程における構造の図式のうち、表現そのもの以上に、表現者がどのような思いを込めてそのような表現を取ったのかというふうに考えて、認識から表現までの過程を逆向きに辿ってみることである。

わたしにとってはジョブズは師の一人であるが、だれにとってもそうであるとは思わない。

わたしはこの人について書かれた本を、ほとんどすべて読んできたが、この本について言えば、彼の伝記的な事実をあらゆる角度から検証してうまくつなぎあわせているから、これまででたどの伝記的な本や、もっと悪いことにはゴシップ的な書籍よりも、ずっとたしかな事実が書かれている。

しかしそれでもやはり、誰にとっても大事なのは、学ぶ相手を誰にするかということよりも、「相手からどのように学ぶか」という一事であることを強調して、前置きを終わりにしたい。

言われたことを口真似し友人たちを打ち負かして悦に浸る人間もいるし、
言われたことを一言一句変えずに念仏のように唱えて生涯を終わる者もいるし、
一言いわれただけのことを心の底に持ち続けて数年も向き合い続ける者だっているのだ。

※これから仕事に行くために、ものすごい勢いでタイピングしているのでタイプミスが多いと思いますがご容赦を。響くものがあったときには、原文にあたって前後の文脈を含めて確認してください。日本語版も良い意訳で読みやすいですから。
表題は引用者による、かっこ前の句点のありなしは本文に従う。


◆メモ◆

p.46 ジョブズの宗教観
「キリストのように生きるとかキリストのように世界を見るとかではなく、信仰心ばかりを重視するようになると大事なことが失われてしまう。いろいろな宗教というのは、同じ家に付けられた異なるドアのようなものだと僕は思うんだ。不思議なのは、その家がそこにあると思うときと思えないときがあることだ」(本人。以下、断りがない限り同じ)

p.82 探究心
「スティーブは探究心が魅力の男でした」「自明の理を拒否し、一つひとつ、自分で吟味しないと気がすまないようでした」(当時のリード大学学部長)

p.106 カウンターカルチャー
「21世紀を発明した人々が、スティーブのように、サンダル履きでマリファナを吸う西海岸のヒッピーだったのは、彼らが世間と違う見方をする人々だからだ。東海岸や英国、ドイツ、日本などのように階級を重んじる社会では、他人と違う見方をするのは難しい。まだ存在しない世界を思い描くには、60年代に生まれた無政府的な考え方が最高だったんだ」(U2 ボノ)

p.137 価値観
「マイク(・マークラ)には本当に世話になった。彼の価値観は僕とよく似ていたよ。その彼が強調していたのは、金儲けを目的に会社を興してはならないという点だ。真に目標とすべきは、自分が信じるなにかを生み出すこと、長続きする会社を作ることだというんだ」(本人。このあとに「アップルのマーケティング哲学」がある。共感、フォーカス、印象。)

p.140 デザイン哲学
「洗練を突きつめると簡潔になる」(ダ・ビンチ)

p.166 アイデアとの向き合い方
「優れた芸術家はまねる、偉大な芸術家は盗む」(ピカソ)
「人類がなし遂げてきた最高のものに触れ、それを自分の課題に取り組むということ」

p.169 ナイーブという力
「ナイーブであることにも力がある。」「できないとは知らなかったからこそ、私はなんとかしてしまったわけです」(ビル・アトキンソン)

p.176 お金
「アップルでは、たくさんのお金を手にしてそれまでと違う暮らしをしなければならないと思ってしまった人をたくさん見た。ロールス・ロイスに家を何軒も買った人もいたよ。それぞれの家には執事がいて、その執事を束ねる人もいる。奥さん方も美容整形でなんとも奇っ怪な人になったな。あんな暮らしはしたくなかった。絶対おかしい。だから、人生をお金につぶされないようにしようと僕は心に決めたんだ。」

p.179 このころの学生は物質的でキャリア志向が強い
「僕が学校に行ったのは60年代直後で、実利的な方向性が一般的になる前だった。いまの学生は理想論を考えることさえしない。少なくとも、そうは感じられない。哲学的な問題についてじっくり悩んだりせず、ビジネスの勉強に打ち込んでいるんだ」

p.202 大量生産可能な芸術品
「ルイス・ティファニーが自分の手ですべてをやろうとせず、デザインをほかの人々に与えることができたのはなぜかなどについて話し合いました。」

p.205 メンター
合理性や機能性の重視(バウハウス)、「神は細部に宿る」(グロピウス)、「少ないほうが多い」(ミース)

p.208 和のスタイル
「仏教、とくに日本の禅宗はすばらしく美的だと僕は思う。なかでも、京都にあるたくさんの庭園がすばらしい。その文化がかもし出すもの深く心を動かされる。」

p.209 美的感覚はどう発展するか
「すばらしい芸術は美的感覚を拡大する。美的感覚のあと追いをするんじゃない」

p.216 形態は機能に従う、よりも
「形態は感情に従う」(ハルトムット・エスリンガー、フロッグデザイン)

p.233 海賊魂
「海軍に入るより海賊になろう」「どのようなものにも立ち向かう反逆者魂を持ってほしい、むちゃくちゃをしながらどんどん先に進む冒険好きになってほしい、自分たちがしていることに誇りを持ちながら、まわりから次々と盗むチームになってほしい」

p.263 人類の成果
「人類の体験と知識という財産にお返しができるモノを生み出すのは、うっとりするほどすばらしいことなんだ」

p.283 もっとも革新的な製品が勝つとはかぎらない
「マイクロソフトが抱えている問題はただひとつ、美的感覚がないことだ。足りないんじゃない。ないんだ。オリジナルなアイデアは生み出さないし、製品に文化の香りがしない…僕が悲しいのはマイクロソフトが成功したからじゃない。成功したのはいいと思う。基本的に彼らが努力した成果なのだから。悲しいのは、彼らが三流の製品ばかりを作ることだ」

p.289 日本の規律
「日本のすばらしいところであり、僕らの工場に欠けている点は、チームワークと規律だと僕は思う。工場をきれいに保てるだけの規律がなければ、あれだけのマシンをちゃんと動かせるだけの規律もないってことなんだ。」

p.299 アーティストは先を見る
「アーティストとして、創造的な人生を送りたいと思うなら、あまり過去をふり返るのはよくありません。自分がしてきたこと、自分という人間をそのまま受け入れ、それを捨て去らなければならないのです。」
「自分のイメージを強化する外界の圧力が強くなればなるほど、アーティストであり続けることは困難になります。」

p.400 第一の否定、相互浸透
「すばらしい収穫は粗末なものから生まれる、喜びはがまんから生まれる、と父は信じていました。ものごとはその反対に振れるという、ほとんどの人が知らない法則を理解していたのです」(リサ)


◆参考URL◆
・ジョブズ氏と過ごした時間--公認伝記著者インタビュー
http://japan.cnet.com/interview/35009678/

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2011/11/05

どうでもいい雑記:『スティーブ・ジョブズ I』・『同 II』を読む

ひさしぶりに学術書以外の本を真剣に読んだ。


ここのところのAppleという会社の扱われ方が、10年前とはずいぶん違っているが、もしこの人から、ビジネス関連のアイデアを引き出したいだけなのであれば、『II』のうち、最後の3ページほど読めばじゅうぶんである。

それから、電子書籍版はあまりできが良くないので、URLは貼らない。
分厚くてかさばるが、それでも紙の書籍版を手に取るのが良いと思う。

わたしの場合には彼は、自分にとっていちばんぴったりのことを死ぬまでやった、という人物のひとりだから、この本に払った金額以上の見返りをなんとかして取り戻そうという気はまるでない。単なる趣味の読書だ。

◆◆◆

読んでいる最中、ジョブズのものごとの進め方や振る舞い方に触れると、なんとも笑いがこらえきれず、くすくす笑いながら、楽しく読んだ。

車内でも笑っていたから、きっとヘンな人間だと思われただろうな。

別にジョークが書かれているわけでもないし、むしろあたらしい製品の開発中に誰かを叱り飛ばしたり、レストランで出てきた料理にケチをつけて喚き立てるといったような、現実に目の当たりにしていれば普通はぎょっとしたであろう箇所なのだが、わたしは人間のこういうところを見ると、おかしくて仕方がない。

自分の立場がめちゃくちゃマズいことになったときにもケラケラ笑っているから、周囲からはなにやらアタマのネジが飛んでいるのかとも思われているらしい。

そういえば学生時代に、バイト先の上司が男女関係のもつれやらで問題を起こしたことをみんなしてメールしていたら、一人の友人が携帯電話を取り上げられて、芋づる式に誰がどんなことを言っていたのかがバレてしまったことがあった。

あの時も笑いが抑えきれなくて笑っていたら、わざわざ詫びの電話を入れてくれた友人が面食らっていたっけ。

ほかにも、仕事でどうにもならない事態が起こった時や、大怪我をしたときも笑っているもので、なにやら逆に怖がられたりしているような気もするが、人間にとって(わたしにとって?)の「笑い」というのは、動物が威嚇するときに牙を剥くところから転じていると言われるとおり、けっこう複雑である。

◆◆◆

ジョブズが、自分の期待したほどの仕事が返ってこずにいろんなものに腹を立てているところを想像して込み上げてくるこのおかしさというのを考えてみると、坂口安吾の『堕落論』を読んだ時にもこらえきれなくなった笑いがいちばん近いように思う。

あの本を読んだのは、海外からの帰りの飛行機の中で知り合った人が、退屈そうなわたしを見て貸してくれたのがはじめてであった。
わたしがくすくす笑いながら読んでいるのにつられて、隣に座っていた友人が、次に貸せというのでそうしたが、どこが面白いのかと首をかしげていた。

人間の喜怒哀楽が激しく出ていればおかしいかというと、もちろんそんなことはないのだが、わたしにとって人間がおかしいのは、彼や彼女たちが、負けるとわかっていても突き進むという気概を持っていたり、ずるいやり方を頑なに拒んで、おそらく不利になることが自分でもわかっているにもかかわらずその気持ちに突き動かされて、やはり不興を買う、といったところである。

わたしは人間のそういうどうしようもなくバカなところ、つまり損をするのがわかっていても自分の気持ちには決して逆らえない、わかっちゃいるけどやめられない、という不器用な姿をみると、なぜだかとても嬉しくなってきて、「あなたもそうか、わたしもそうだ!」と、とても元気づけられてくるのだ。

◆◆◆

冒頭で、ビジネスのアイデアが欲しいのなら、と書いたのは、もちろん皮肉であるが、ずいぶん売れているようなので、ほとんどはそんな読者なのだろう。
しかし、そんな姿勢で流行りの経営者の本を手に取った人間が、こんな文面にぶつかったときに自分のことのように理解できるものなのだろうか。笑いが込み上げてくるものなのだろうか。

「僕は、ビジネスというものには、どうしても興味が持てない。僕のしたいのは、めちゃくちゃすごい製品を届けたいだけなんだ。」


わたしにとってこの本は、読んでいて一文にもならないけれども、「後ろからレンガで殴られたようなときには」、この先も開いてみるものになると思う。