2013/02/20

通史はどう学ぶべきか:三好行雄『日本の近代文学』から学ぶ (3)

(2のつづき)


前回までで、お題にしている文学の通史を扱った本のうち、論理構造を述べた箇所についての引用を終えました。

今回は、文学者をはじめ、表現にたずさわる仕事・趣味をしている人にとって、その内容を見ておいてほしい箇所を引用しておきます。

◆構造ではなく内容に着目すべき箇所◆

p.63
 心境小説のもっとも簡単な原則は、作者の体験した事実ではなく、事実に遭遇した心境の波紋を描くことにある。行為や事件はほとんど意味をもたず、したがって、それは本質として時間的・空間的な構造性をまったく欠くことになる。が逆にそのことによって、読者は作品の中核に居すわって強い光芒をはなつ作家個性の魅力、その生身の手ざわりを直接たしかめることができる。実生活の断片にまで後退した非小説性と、にもかかわらず、文学的世界としての存立をかろうじてたもつ作者の素顔。そのあやういバランスのうえに心境小説は成りたつのである。そうした質の作品が個性の円熟なしに不可能なのは自明である。

p.118
 戦争を批判する思想性を求めるべくもなかったが、それでもなお、この時期の戦争小説は文学性をまったく喪失してはいない。
→仮に読者のみなさんが、この人は信用できる、という筆者に出会った時に、当人の書籍をすべて自分のものにしたいと考えたとしましょう。そのとき、こういう高度な概念が登場する文面に出くわした時には、それとしっかり向き合っておかねばなりません。ここでは、こう考えるべきです。では、筆者の言う「文学性」とはどういうものか?、と。この問題意識を通して、当人の仕事と向き合うことで、「文学とは何か」という本質的な規定を目指す手がかりになるからです。

p.119
 〜などの芸術性の高い私小説が書かれている。
→上記と同じように、では著者にとって、「芸術性」という概念は、どのようなものとして把握されているのか?また「芸術」とは?、というふうに考えていってください。<文学>や<芸術>などといった高度な概念は、初心においていきなり像を結べるほど生易しいものではありません。それまでの自然成長で身につけてしまったことばの感覚を基にして、「物事を深く知ること」のレベルで<学問>を把握したり、「すごい理科の実験」のレベルで<科学>を把握してしまってはどうにもならないのと同じこと、です。

p.195
 文人――江戸後期に、朱子学から古学へ、唐詩から宋詞へという儒学の変質にともなって、官学としての儒学の正当から派生した趣味の貴族たち。その隠棲を愛し、風流韻事をほしいままにする精神の系譜は明治の作家たちによって確実にうけつがれていた。たとえば、成島柳北から斎藤緑雨・幸田露伴・永井荷風というふとい一本の線がすぐ目に浮かぶが、そのほか漱石や鴎外にしても、かれらは皆、漢詩を感性の世界にとりこむことのできる作家たちであったのである。
→「漢詩を感性の世界にとりこむことのできる」という能力が、一流の作家となるために必要な条件である、と著者は考えているようですが、知識的にも、構造的にも、ここはより探究を深めなければ手も足も出ないほどに難しいことだと思います。文学の歴史的な一般性にかかわることばでしょうが、わたしも十分に明確な像を結べません。特に文学を専攻する人は、忘れずにおいて探求してゆかねばなりません。

p.210
 理論が実作に先行するのは過渡期の現象としてありふれている。「詩と詩論」に対立したプロレタリア文学にもその傾向が顕著だった。しかし真の詩的創造は、理論の金縛りを脱した個性が固有の世界をきずくときに、はじめて実現する。
→「理論が実作に〜」というのは、どんな分野でもまさにその通りです。実践を導く理論があたらしく出現した時に、その方向性に従った実作が雨後の竹の子のように生まれる、ということは珍しくありません。この本の筆者は、本書をとおして、独り歩きして形式主義に陥りがちな理論というものに批判的な態度をとっていますが、これは日本の近代という時代性における文学が、近代化を西洋化と直結させて目指してしまったということの功罪を見て取ってのことです。ですからここを、ある表現を高めるためには、結局のところ実作あるのみで、理論など使いものにならないのだ、などと短絡させてしまわないでください。理論と実践の区別と連関、過程的構造は、立体的に把握されているのでなければ、正しい実践を導くものが皆無となり、結局、当たるも八卦、という実践になってしまいます。

p.221
 秋桜子の唯美主義、誓子の主知と構成、草城のモダニズム、そして草田男の文学性、という常識的な理解にしたがって見ても、かれらと虚子との距離はそれほど遠くない。しかしそれが虚子の強烈な自己限定と無縁であるという意味では、無限の距離ともいえる。そこはもう、現代俳句のきりぎしであった。近代詩の方向に俳句形式が一歩を進めたとき、定型と季語がふたたび、形式自体に内在する重い限界と化しはじめる。秋桜子以下のすぐれた才能によってしか、それはのりこえられなかった。新興俳句運動の内部で、あらためて無季俳句と自由律俳句が出現し、つまり、ある文学様式が、様式の自立性の根拠自体を否定するというリスクがふたたびおかされたゆえんである。
→ひとつの芸術作品は、その中身で扱われている題材の他に、形式として一定の形式や方法論を持っています。机においた林檎を油絵具で描けば油絵になりますし、石で作れば彫刻にもなるでしょう。油絵は現実に近いかたちで色を再現できますが、実際には背面に虫食いがあったとしても再現できず、彫刻はそれとは異なる性質を持つことになります。どちらの形式が良いのかということは、形式だけを比べてみても優劣はつけられません。作り手の認識と表現がより正しく結ばれる手段を選ぶべきなのですが、ここで扱われている俳句というジャンルでは、形式の面で五・七の定型と季語という厳しい規定が前もって存在するために、そこで扱える題材も極めて限定的にならざるをえない、という考え方がありました。そこに、形式を崩して新しい表現を探求しようという向きが出てくるのですが、しかしそうすると、季語のないものや自由律のものを俳句と呼べるのか、という新しい問題が出てきます。この過程を要して言えば、芸術というものがひとつのジャンルとしていったん確立した後では、続く世代はよくも悪くもその形式に規定されながらの創作になる、ということです。形式による規定の強さは、上のように相当に強いものから、アレンジがかなりの部分認められている音楽というジャンルまで多岐に渡りますが、だからこそ、自分の専攻する表現のほかに、それが隣接する表現がどのようなものであるかを調べ、それらの区別と連関(=相互浸透のあり方)を明確に意識しておくべきだとも言えるわけです。

p.222
 戦争中に、無数の愛国詩や辻詩がほとんど<嬉々として>制作されたという事実が重要なのではない。詩の近代の加害がもっとも突出した偉大な個性において、しかも個性の必然として演じられたという事実の痛さが、決定的なのである。たとえば萩原朔太郎がそうであり、高村光太郎がそうであった。むろん、三好達治の場合を例示してもよいのだが、それは詩の近代がついに仮装でしかなかったことの明証であり、その重い事実のまえでは、たとえば金子光晴の存在などをもちだしてみても、どうなるものでもない。詩人の戦争責任を問うことは近代詩の歴史の責任を問うことにひとしいからである。つねに西洋を鏡として、風土からの抽象によってのみささえられた方法論=日本語を西洋の至近点にまで仮構化する方法論の決定的な破綻が、戦争を通過した詩のむざんな廃墟に露呈していた。

◆正誤◆

p.24 中頃
次作の春→次作の『春』

p.35 終わり
芥川滝之介→芥川龍之介

p.76 終わり
金料玉条→金科玉条

p.95 中頃
フロイディズム→フロイティズム
(ユダヤ人心理学者S.Freudは、ドイツ語読みでは「フロイト」となるため、通例dは濁らせて読まない。)

p.148 中頃
上にではなく、、→上にではなく、

p.154 中頃
ついにひとりの女流も生なかった→ついにひとりの女流も生まなかった

p.178 終わり
『小説神髄』(明治18)にはじまるわが国の小説様式が本格的な近代散文としてほぼ完成するのは、漱石・鴎外をはじめ藤村・花袋・終声・白鳥らの自然主義、荷風・潤一郎らの反自然主義の諸個性が輩出した明治40年代である。

『小説神髄』(明治18)にはじまるわが国の小説様式が本格的な近代散文としてほぼ完成するのは、漱石・鴎外をはじめ、藤村・花袋・終声・白鳥らの自然主義、荷風・潤一郎らの反自然主義の諸個性が輩出した明治40年代である。

※漱石・鴎外は「自然主義」作家とは言えないので、「藤村・花袋・終声・白鳥らの自然主義」と明確に区分するために、直前に読点を打つべきである。

p.190 はじめ
同党伐異→党同伐異

p.218 終わり
群れともいえるし、、→群れともいえるし、

p.223 終わり
課題を真にになおうとしたピオニールたちは→パイオニア

※ピオニールまたはピオネール(пионе́р,pioner)は、「旧ソ連の共産主義少年団」を指す言葉である。文脈からすると、ここには「先駆者・開拓者」を意味することばを入れるのがふさわしいので、パイオニア(pioneer)とすべきである。ちなみに言えば、もし仮にこれを英語読みでなくフランス語読みをしたとしても、最後のrはほぼ発音しないため「ピオニェ」となり、やはり誤りであることがわかる。

p.223 終わり
(「戦後の雑多な詩的グループのなかで、歴史の否定という苦い課題を真にになおうとしたピオニールたちは「荒地」の詩人群だけであったと思う。」に続いて、)
北村太郎が『孤独への誘ひ』(昭和22)で、戦争下における詩史の空白を否定したとき、かれの否定は、戦争期を<空白>にした近代詩の歴史そのものへの否定に届いていたかもしれぬ。

北村太郎が『孤独への誘ひ』(昭和22)で、戦争下における詩史の空白を批判したとき、かれの批判は、戦争期を<空白>にした近代詩の歴史そのものへの否定に届いていたかもしれぬ。

※この本文をそのまま読むと、「否定した」が、「戦争下における詩史の空白」に係るため、さも北村太郎が、「戦争下でも詩史は空白ではなかった」という主張をしているように読めるが、事実はそうではない。全体の文脈からすれば、北村太郎は、「戦争下における詩史の空白」についての反省を促したわけであるから、文中3箇所あるうちの前から2つの「否定」は、「批判」とするべきである。


(了)

2013/02/19

通史はどう学ぶべきか:三好行雄『日本の近代文学』から学ぶ (2)


(1のつづき)


前回の記事の最後で、三好行雄『日本の近代文学』から、以下の引用をしておきましたが、ここにどのような論理性の把握が見られるかを考えてもらえたでしょうか。

中には、「私は文学をやってるわけじゃないし…」という感情が、生涯をかけて本質的な道を目指すのだという当初の決意を押し流してしまい、「まあ、流し読みしておけばいいか」と、いい加減に触れてすましてしまっている人もいるかもしれません。

しかしこのような甘えを自ら戒めるだけの力がないと、本質への道はどこへやら、ただ周りから評価されるだけの仕事をして、その生涯を終えることになってしまうということは知っておいてほしいと思います。

周りから評価されるということは、とりもなおさず現時点での社会性を確保できているということですから、これは当然に経済性にも結びつきやすい性質を持っています。
食わねば死ぬ身体を持っている我々にとって、これは生存レベルの話では不可欠であることは間違いないのですが、いざこれが、たまたまの評価という結果の把握でなく、そのことの浸透の結果としての、自らの問題意識にまで転化する段階になると、話は変わってきます。

ここに至り、当人は、本質の道を歩むのでなしに、自らの表現の受け取り手である他者たちの観念に直接的に二重化する結果となり、結局のところ、評価されるということが目的としてすりかわってしまうという事態を招くのです。

受け取り手が唯一無二の一流揃い、ということであるならまったく何の問題もないのですが、それが経済性を発揮できるまでの数を揃えているような環境がありうるのか?と考えなおしてみれば、このような想定自体がまったくのナンセンス、ということがわかってもらえると思います。

もし見渡す限りの一流揃いという環境に身をおくことができないのであれば、そこでの過ごし方は当然に、そこでの成員の挨拶や振る舞い、姿勢や生き方、それらの総体としての組織風などから自らの感覚器官を通して認識に反映される像の、<量質転化>化を、なんとしても「食い止める努力」を、しかも「観念的に」しなければならないことになります。

両親に似ても似つかないような鬼っ子が、幼少の頃からどんなことを心がけているか、また爛れた組織風に染まらず立っている人物が仕事終わりや週末にどんなことをしているか、一度考えてみられるとよいでしょう。

先程も述べたように、わたしたちはたしかに食えねば死ぬのですが、だからといって、自らの夢や問題意識、覚悟といったものと、表現への評価をはじめとした社会性や経済性を、いっしょくたに捉えてしまっては、まったくの三流に転化してしまうことを覚えておいてください。
これらはあくまでも、<相対的に独立>したものとして捉えておかねばならないということであり、時には、そのための努力を、技として身につくまでやらねばならない、ということなのです。



さて、そうして環境をいちおう整えたとしても、誰しも自分のまだまったく触れたことのない分野を目の当たりにして、いざその第一歩を踏み出すときには、二歩目や三歩目よりも、はるかに多くのエネルギーが必要となるものでしょう。

既にそれなりに知っていることについては、「あっ、これどこかで見たな。こことここは知らないけど、読んでいけばなんとなくわかってくるかもしれない」と、時間さえ許せば自ずと読み進めていけるものですし、相当に知識が深まった段では、「このことについてはよく知ってるぞ。どれどれ、どのくらい書けているものか確かめてやろう」と、これまた批評するつもりですいすい読めてしまうものです。

音楽が三度の飯よりも好き、という人に限ることにしても、それまで熱心に聴き入っていたジャズを離れて、ヒップホップやラップを聴こうとするときのことを考えてみれば、その感情面からの抵抗いかばかりか、と感じてみられるのではないでしょうか。

しかしもし、読者のみなさんが、本質的な姿勢、つまり、森羅万象のあらゆる事象・現象を貫く法則性を脳裏に宿しつつ、そこを起点としてさらに現象に分け入りそこから構造を引き出そうとする姿勢を忘れずにいようとしたときには、目の前の対象が、見たことも聞いたこともないことであっても、やはりそれなりの問題意識を持って取り組んでおくべきなのです。

なにしろ、ことは<構造>の話なのですから、これは一般的な段階に話を限るならば、どの分野においても通ずるものであるはずなのですし、そう認識できているのでなければ、結局、自分の専門分野についてもただただ知識を収集しているだけ、であることを露呈していることになるのです。

そもそもをいえば、エンゲルスという偉大な学者がヘーゲル哲学に取り組み提出してくれた、弁証法の三法則がなければ、<構造>を見る目を養おうにも、何らの手がかりすらない!という状態だったことを考えれば、現代という時代はあまりにも恵まれすぎているのだ、ということをぜひともわかってもらいたいと思います。

ここまでで少しでも、「文学はさっぱり興味ないけど<構造>はちゃんと見ておこう」、という気持ちになってもらえたでしょうか。でははじめましょう。

◆◆◆

前回の引用文について書き抜く際に誤りがあったこともありますし(問題を出しておきながらすみません)、答え合わせがてら少し検討しておきましょう。

◆p.26
文学はもともと、つねに反状況的な志向で支えられる。自然主義を指弾する良俗(傍点)の声が高ければ高いほど、それは自然主義に内在した反社会性、既成の道徳に挑戦する反逆精神の明証になる。自然主義の文学運動が曲がりなりにも、わが国の文学的近代の確立をなしとげたゆえんである。
ここには、特に二文目に、<相互浸透>の法則性が述べられていることがわかりましたか。
社会の側が、文学における自然主義を批判することが、自然主義における反社会性を浮き彫りにする、と書かれていますね。

これを身近な例で置き換えてみれば、<相互浸透>の像がより明確になり、さらにはここで述べられている論理性がはっきりしてくるでしょう。
たとえば、空が黒く染まることが、月を浮かび上がらせる、という現象もこれにあたります。

ここではいわば、ひとつの現象は、対立物が互いに支えあって成り立っているのであり、「月が明るい」という現象は、空が明るいうちには成り立たず、また月が出ていないときにも成り立たない、という法則性が浮上してきているわけです。

その法則性を、文学における社会と文学との関係性に置き換えてみれば、それらがどのようなかかわり合いの仕方をしているかがわかってくるでしょう。

また続いて、<相互浸透>の着眼点を起点にすれば、空が暗ければ暗いほど「かえって」月が明るく輝いて見える、というより広い観点から見れば、そこに全体としては<否定の否定>が見られ、また月が明るくなってゆく過程としては<量質転化>が現れていることも見て取れます。

これらの法則性をまた、引用文に置き換えてみると…という頭脳活動を繰り返すことによって、弁証法性が高まるとともに、「あっ、ここには何やら大事なこと(=論理性)が書かれているようだ、という、ものを見るためのアタマの中の目が創られてゆくわけです。

わたしたちは三法則を照らしながら、本書をはじめとした通史に書かれている論理性の存在に気づくことができますが、筆者においては、おそらく三法則に照らして、という発想はなかったようですから、自らの専門分野である文学史を歩む中で、あらゆる事象に接し続けたことで、次第次第にその流れがアタマに論理像として定着してゆき、最終的に、「文学はつねに反状況的な志向で支えられる」という、文学における特殊的な論理として浮上してきた過程を持っていたはずです。


◆p.36
すぐれて近代的な個性が逆に、日本の近代社会の内部で反近代(傍点)的な方向に動くという、これらの事態は決して偶然の暗合ではない。ジグザグな過程を経てそれなりに実現しつつあった日本近代の到達が、その近代化の過程が内包したさまざまな要因ゆえに避けがたい痼疾をあらわにしていった時期、そして良かれ悪しかれ、日本近代の独自性があざやかな焦点を結びつつあった時期、それが明治四十年代という、自然主義の自己閉鎖を文学的反映のひとつとする時代の意味であった。西洋を指呼する理想的近代の幻像が牢固であればあるほど、日本の近代的(傍点)状況からの脱出が不可避だったゆえんである。
ここはなかなかに難しかったと思います。

ただこの難しさというのは、西洋に旅した作家が見た日本がどのようなものに映ったか、という前提となる知識があるかないかにあるというよりも、筆者の捉えている論理性が高度だから、と言うべきですから、やはり文学史に詳しくなくとも、弁証法を手がかりになんとか頑張って見てゆこうとする姿勢が大切です。

どの法則に照らしてみて切り崩していってもかまいませんが、最後の三文目に「かえって」の論理構造を見つけたのであれば、ここを<否定の否定>だと見いだせたでしょう。

ここには、西洋を目指して近代化を進めてきた日本の文学界において、それがいざ実現する段になったときには、その理想が牢固であればあるほど、「かえって」そこから脱出する必然性が生まれてきたのである、と述べられていますね。

この必然性を受け止める個人の側からみれば、一文目にあるように、すぐれて近代的な個性が逆に、日本の近代社会の内部で反近代という<対立物>へ転化するという結果を招く、ということでもあります。

これらのことを総合して、近代→反近代という弁証法的な運動法則が押さえられれば、やや難しい二文目を理解する手がかりとしては充分である、と言えます。

ここまでで、個別的な知識は思っていたよりも必要なかったな、と思えたのではないでしょうか。
いずれにしても、どこかに弁証法の三法則や対立物への転化、対立物の統一などを見つけられれば、あとは、他の法則は働いていないかな?と考えてみることによって、一人でもいくらでも修練をしてゆけるはずです。



ついでに、もうひとつ指摘しておきましょう。

筆者が明確に意識しているように、歴史というものは「ジグザグな過程」を経て流れを作ってゆく、とするのが正しい把握なのですが、大きな視点で物事を見ることのできない場合には、たとえ小さな現象でも、種が芽を出して麦として完成したことを原因と結果でつなぐだけで、その先を考えずにおしまいにしてしまったり、社会主義が失敗したから資本主義で世界経済のあり方が完成した、といったふうに、その前段階を見ようとしないものです。

しかし、麦や資本主義が、未来永劫に完成した形態として君臨すると考えるのは誤りです。これは右か左かというカビ臭いイデオロギーの問題ではなく、「完成する」という概念そのものに含まれている構造が正しく把握されていないことからくる問題です。

火事や世界情勢の変化など、外部的な圧力でそれらのものごとが崩壊・変化「させられる」という面の変化だけでなしに、その内部から、完成を契機としてどのような次なる運動が始まっているかを観るのが、弁証法という考え方のひとつの役目です。
ものごとは完成すると直接にその崩壊が始まっている、と言われるのは、この事情を指してのことなのです。

わたしがこの本がいいよ、と言った理由が、なんとなくでもわかってもらえてきたでしょうか。
端的に言えば、その理由、そこに運動法則が描き出されているから、なのです。

万が一、弁証法ということばの響きがどうしても嫌だというのであれば、行間に潜んでいる運動法則を、思い思いのやり方で引き出してみせればよいだけの話なのですが、いずれにせよ、法則性、しかも運動法則のありかたを熱心に手繰ってみて認識として宿すことなしには、理論と実践を導く何らの手がかりすらをも得られない状況に陥るのは当然の仕儀だとふまえておかねばなりません。

さてここまでで、通史と、そこからの弁証法性の抽出が必要な所以を少しはなるほど、と思ってもらえたでしょうか。以降の引用文には今度こそ込み入った説明をつけませんから、同じように考えてみてください。

◆◆◆

p.73
 新感覚派の特色は、なによりも知的に意匠化された感覚表現にみられる。ヨーロッパの前衛芸術の影響もつよいが、事実の再現をこころざすリアリズムをしりぞけ、擬人法、比喩、暗喩、倒置などを多用した手法上のめざましい実験、横光のいわゆる<国語との不逞極まる血戦>を試みたのである。それは感覚を最後の拠点として、散文化した日常的時間へ反噬する試みであり、また、昭和文学の重要なメルクマールである小説技法上の実験性の端緒をもひらいた。
 新感覚派の運動自体は、発想の内的必然性をも表現技術にまで解体する形式主義に陥り、と同時に、マルクス主義文学の影響による内部瓦解もあって、昭和期にはいってからまもなく凋落、衰微した。

p.76
「文学戦線」がすくなくとも、革命のための思想によって動く文学運動の拠点であるためには、その思想のパターンがあまりにも多様すぎたという事情は確かにあった。ボルシェヴィキとアナーキストをおなじ座標系に組みこむことは、どだい無理である。しかし、その思想的雑居を純化するための<目的意識>にかさなって、それ自体が抽象的・公式的な福本イズムが導入されたとき、プロレタリア文学はなかば必然に、理論と創作方法だけが優先する文学運動としての性格を決定されたのである。文学における創作方法は、作家がそれを金科玉条(註:原文中の「金料玉条」は誤り。文中の誤字は続く記事でまとめて指摘)とするかぎり、現実を整理するための便利な公式に似てくる。

p.97
 昭和文学の実質を形成するふたつの文学運動が最盛期に達しつつあった時期、両者のいわば挟撃下に、明治大正期に個性の形成を完了した作家たちの多くはおのずから創作意欲をうしない、あるいは発表の舞台をうしなって、低迷と沈滞をつづけていた。武者小路実篤がやや自嘲ふうに<失業時代>と呼ぶ一時期である。
 谷崎潤一郎はその困難な時期に、創作活動を廃することのなかった数すくない既成作家のひとりである。おなじ時期に『夜明け前』(昭和4〜10)を書きついだ島崎藤村もいたが、かれらの仕事が形こそちがえ、いずれも伝統と近代の架橋としての意味をもっていたのは注目される。伝統と意識的に断絶し、西洋を追跡してはじまった日本の近代文学が、プロレタリア文学といい、モダニズムといい、いわば西洋の粉飾のもっともきらびやかな時期に、その半極として<日本の再発見>を自己の課題としたのは決して偶然ではない。図式的にいえば、当損が倫理や思想の面で日本をとらえたのに対して、谷崎はもっと純粋な美意識に沈潜して日本を手に入れる。

p.101
(昭和のはじめ、新進作家が、旧世代の大家(秋声、白鳥、直哉、実篤ら)に「人工的退位を迫る」とした)
 しかし、退位した旧世代作家の復辟もまた早かった。<人工的退位>を迫る新世代のがわにむしろ錯覚と思いあがりがあったわけで、プロレタリア文学運動の壊滅した昭和8年前後から旧世代作家の力作があいついで発表され、かれらの衰えぬ命脈と強靭な個性の貌がしめされることになる。おなじ年に、かつて新興芸術派の指導理論化であった雅川滉が<今日においても、なおかつ若い作家のうちに、いわゆる滋賀張りと考えられる思考と文体とが行われている>事実を指摘したとき、自体の推移はほぼ明瞭であった。このことはいわゆる転向文学が私小説的方法への本家がえり(傍点)とともに出現したこととあわせて、昭和文学の実質を形成した文学運動の、運動としての質にかかわる問題をふくむともいえよう。

p.119
 いうまでもないが、戦争とともに戦争文学はつねに存在してきた。しかし、戦争文学が深刻な戦争体験の検認から出発したとき、戦争の本質とその意味は、はじめて、自覚的な意図と方法のもとに対象化されたといえる。ルポタージュふうな戦争の記録から虚構による構造化まで、あるいは戦争の動態を再現し、あるいは戦場における個性の内面の劇を追跡するなど、多彩な試みがあいついでいる。

p.120
 河上徹太郎の指摘もあるように、プロレタリア文学以前にあっては、戦争はあたかも自然界の事実のごとくに絶対視されており、したがって、文学や思想のための真の対象化は、ほとんど不可能であった。戦争から逃避するか、さもなければ、本能的な反応にとどまるか、いずれかの道しかなかったのである。そうした傾向にたいして、プロレタリア文学運動は、視覚の一方性になお限界をのこしながらも、とにかく戦争を思想によって領略する道をひらいていった。

p.122
 たとえば広津和郎は『昭和初年のインテリ作家』(昭和5)や『風雨強かるべし』(昭和8)の作者でもある。知識人の命運を執拗に問うてきたその広津が、日本の<近代>が決定的な崩壊期にさしかかったとき、ゆきくれた散文精神の拠りどころを市井陋巷の庶民にもとめたという事実は象徴的である。知識人の懐疑だとか挫折だとか、そうしたさまざまな<心の風景>とはまったく無縁に、つねに生きてゆくことをやめない庶民のエネルギーが、この作家にはきわだって魅力的に思える一瞬があったのではないか。

p.150
 私小説はかつて小説の方法であると同時に、いやそれ以前に、作家の生の姿勢であった。私小説作家にとってどう書くかという問題はつねに、どう生きるかという問いと一体不可分であった。その方法と肉体の癒着が分離したのだといってもよい。第三の新人たちの私小説(傍点)には、かつて作品世界に屹立し、読者がつねに直截に読みつづけた作家の生身はもはや不在である。<私>は話者の位置にしりぞき、そのことで小説的世界の<私>からの上昇が実現する。
 第三の新人にとって、伝統への後退と見えた私小説への復帰は、実は戦後文学の運動を通過した文学風土でのみ可能な方法的自覚にほかならなかったのである。

p.228
 前近代が近代の内部で反近代に転化し、その近代と反近代をともに包括する形で、日本の近代社会は成立している。そこに後進国としての日本近代の特殊性があったはずで、俳句は反近代の文学様式として近代芸術の内部に自己を位置づける可能性をうしなっていない。

続く最後の記事では、歴史の流れを論理的に読むという意味で重視すべき箇所ではなく、文学をはじめ表現にたずさわる人間にとって、その内容が重要である箇所を指摘しておきます。
また加えて、正誤表を載せてあります。

(3につづく)

2013/02/10

通史はどう学ぶべきか:三好行雄『日本の近代文学』から学ぶ (1)

一般教養を積むことの重要性を伝えると、


各論や詳説を扱った参考書を持ってくる人がいますが、それではだめです。

中学・高校の多感な時期を、肉体的にも精神的にも受験勉強的に染め上げられた学生さんにとっては、「高度な研究」ということばの像が、「詳しい知識をたくさん集めること」という像とまったく等しいものとして、つまり<直接的同一性>であるものとして脳裏に描かれてしまうのも無理はないと思います。

たとえば日本史という分野をこういった考え方のもとに研究を進める場合、参考とすべきものは、小学校の教科書よりも中学校の教科書であり、中学校の教科書よりも高校の教科書、さらには大学受験用の参考書…となってゆくわけですが、この考えを推し進めると、日本史の一区分である中世の一時代である江戸時代の一時期である…××旧家の倉庫に眠った古文書の読解、といった個々別々の研究が待っていることになり、最終的にはそのような詳しさのレベルの知識を辞書的に編纂することが学問の総体である、という理解に到達することになります。

そういった個別研究が、日本史の「資料の」一部であることは間違いなく、さらに言えば日本の研究者集団がそういった傾向の研究を得意としていることは事実であるのですが、そういう研究をする上でも必ず押さえておかねばならないのは、人類の文化遺産の体系性を把握した上での専門分野の確立、なのです。

「必ず抑えねばならぬ」ということが言えるのは、これが「学問の話だから」、という大前提に基づいていますから、ワタシは学者にはならなくてよい、パンダの存在を知らずとも幼児のことを誰よりもよく知る研究者になるのが夢である、という人には、このような話は通用しないと言えるかもしれません。

しかし仮にも、「学問」の道を志して歩みを始める者にとっては、その本質が体系性というものにある限りは、個別研究にいきなり没入して二度と帰らなかった、ということでは絶対に困ります。

初心忘るべからずと言いますが、個別の知識の収集はそれはそれなりの面白さがあるために、そういった研究の日々を続けるうちに初心などどこへやら、といった立派な(?)個別研究者として完成してゆくことになり、わずかにくすぶっていた学問の魂もいつしかかき消えてしまっていた、ということにもなりかねません。

しかしそういう場合にも、個別研究者は、研究上のつまづきや限界をきっかけとして、他分野の研究成果を尋ねようとすることがないわけではありません。

大学の先生の研究室をたずねた人なら誰でもわかるように、心理学を専攻する先生の部屋にも、生物学や物理学、社会学や哲学の本が置かれていることがほとんどのはずです。

先に述べたようなご当人たちは、自分の専攻する分野に加えて、こういった他分野の書籍を綱領することで、いわば自らの専攻分野の全学的な立ち位置を明確にするとともに本質的なものになさしめるの責を果たそうとするわけですが、この段になると、それではダメなのだということが、どうしてもわかってもらえないようなアタマ、つまり認識における像の描き方、になってしまっているのです。

学問の体系化にとって必要なのは、細かな字句の違いはともかく、学問の「全体理論」といったたぐいのものではありません。

なぜこのような概念を作り上げてしまうのかといえば、学問の本質を、個別的な知識を単純に総和したところの辞書的な集成にあるという前提が脳裏にあるからですが、もっといえば、そのような像の描き方しかできていないから、なのです。

では本当に体系化するためには何が必要なのか、と言えば、学問の構造についての理論、<構造論>がそれにあたります。

現時点では、どちらも全体的・総論的な規定について述べているようだが…と思われる方もおられるかもしれませんが、これはどんな分野を専攻する場合にも、また学者や研究者という肩書きを背負わずに、市井の理論的実践家として仕事や趣味に取り組まれる場合にも、押さえておいてもらわねばならないことですので、せめて「あれ…?こういうことかな?」と、なんとなくでもその違いに気づいてもらえるように、ともに考えていってもらうことにしましょう。

◆◆◆

例として引用するのは、近代文学・詩史の通史を扱った書物である三好行雄『日本の近代文学』(1972、塙新書)です。

分野はどうであれ、わたしのところで研究する学生さんには例外なく、自らの専攻分野の通史を、じっくり数年をかけて理解して我がものとするということをしてもらいます。

同じやり方で研究を進めてみてどうなるのか確かめたいというとき、通史の選び方がよくわからない、どう取り組めばいいのかまだわからない、という方にとって、「ひとつの本を手にとったとき、どこをどのようにして読むべき本を選び、実際に読み進めればよいのか」の手がかりにしてもらえるのではないかと思います。

世の中を見渡すと、本格的・本質的な文化遺産の継承と新たな一歩の構築に生涯をかける、という事業のなんと少ないことか…と思わされることしばしです。
それが実現し得たかどうかに関わらず、そもそも、その志そのものがまったくない!というような作品や人格を見ると、何故このようなものを世に出すことができてしまうのか?と、ため息の一つもつきたくなろうというものです。
ですから、ここで何かしらの奇縁をわずかでも感じ取っていただけた方は、ぜひに初歩を踏み出してもらえれば、と願ってやみません。

はじめから本質を捕まえられる人間など一人もおらず、その意味で天才などというものは単なる幻想の類なのであって、それは無数の失敗からか細い本質へ至る道を見つけ、なおかつ罵詈雑言に負けず実際に歩み続けることができた人物のことを、その苦難の過程を知らないままに勝手な意味付けをされているにすぎないのですから、現時点での条件がいかに揃っていないかの陳述を生涯に渡って綴る努力をするくらいなら、同じ努力を本質の道に捧げてみることをお勧めします。

ダメで元々、グズ上等、です。誰でも出発点ではそんなものですから。

人間の人生は、泣いても笑っても一回きりなのだと人は言いますが、この「一回きり」という言葉を、どれほど自分の人生と直接関係のある言葉であるとして受け止められるか、ただその一点で、他でもなくこの人生は、どのようにでもなるのです。

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よけいなおせっかいはさておき、そろそろ始めましょう。
はじめに二つ引用をしておきますが、答えは明示しませんので、考えを聞かせてください。

文学史にまったく触れたことのない人に、ここだけでその内容までお伝えすることはできませんが、数度読み通せば、なぜわたしがここを抜き出そうとしたのか?なぜ数ある通史の中からこの本を選んだのか?この本には(他の本には見られない)どういったことが書かれているのか?が、なんとなくでもわかってもらえるのではないかと思います。

そうは言っても手がかりなしには…もう少しヒントを!という方は、まず弁証法の三法則である<相互浸透>、<量質転化・質量転化>、<否定の否定>や、<対立物の統一>、<対立物への転化>などがどこに見られるのか、を探してみてください。

次に、それが単に「まず」すべきことであって、直接の答えではない、ということを確かめてみてください。
それは直接に、森羅万象の運動法則である弁証法と、個別の歴史性である文学史の流れが、どのような区別と連関にあるのかということをも指しているのです。


p.26
文学はもともと、つねに反状況的な志向で支えられる。自然主義を指弾する良俗の声が高ければ高いほど、それは自然主義に内在した反社会性、既成の道徳に挑戦する反逆精神の明証になる。自然主義の文学運動が曲がりなりにも、わが国の文学的近代の確立をなしとげたゆえんである。

p.36
すぐれて近代的な個性が逆に、日本の近代社会の内部で反近代(傍点)的な方向に動くという、これらの事態は決して偶然に暗合ではない。ジグザグな過程を経てそれなりに実現しつつあった日本近代の到達が、その近代化の過程が内包したさまざまな要因ゆえに避けがたい痼疾をあらわにしていった時期、そして良かれ悪しかれ、日本近代の独自性があざやかな焦点を結びつつあった時期、それが明治四十年代という、自然主義の自己閉鎖を文学的反映のひとつとする時代の意味であった。西洋を指呼する理想的近代の幻像が牢固であればあるほど、日本の近代的(傍点)状況からの脱出が不可避だったゆえんである。

(引用が2につづきます)

2013/02/07

本日の木工作:ペーパーウェイト

「なんですかこれ?」


先日、学生さんが写真を見て尋ねられたのでご紹介。

ここでは紹介してませんでしたが、去年扱っていた素材が木だったので、いろいろな木について調べて、気になるものについては取り寄せて切ったり削ったりしていたのでした。

わたしはもともと石を彫刻するのが好きなので、同じやり方で一般的なところまでは木もいけるだろうと思っていましたが、木はもと有機体だということもあり、たとえば木目の流れを踏まえる能力がなければ刃が入ったり入らなかったり入りすぎたりなど、とてもまともに扱えないという意味で、素材との向き合い方をより深めておかねばならないということに気付かされました。

素材としての木を試しがてら作った小さな人形は、色々作っては人に贈り、作っては、ということをしていたので手元に残らず、ですが、今回のものだけは実用的な機能があるので残しておいたのでした。

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これが何に役立つのか?と言えば、お題の通りペーパーウェイトです。

習字のときに使うものは、金属製の角棒で、半紙固定する機能を果たしていますし、石ころのようなものは、書類が飛んでいってしまわないようにできています。

わたしの場合も、確かに紙に重しをするという用途でもありますが、それとは少し違った用途にも使えねばならないので、木のブロックを組み合わせたようなかたちになっているのです。


幅の違う同じ長さの木を、2本組み合わせて、幅の長い方には革を貼ってあります。

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ふつうのペーパーウェイトとしてはこんなふうですね。


わたしはA3の紙を折ったものを、学史の系譜図を整理するためによく使うので、こういう長さが必要なのです。

でもこれだと、木を貼り合せる必要もないんじゃあ…と思われるでしょうが、下の写真をみるとわかってもらえるのではないかと思います。


本を、開いたまま固定するためのものです。

普通、こういう用途では、書見台というものを使うことがほとんどです。


この形態だとコンピュータへの打ち込み作業はたしかに楽ですが、これだと線を引いたり書き込みをするときに不便ですし、頻繁にページをめくるのがむずかしいのです。

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もともとわたしの場合、片手で作業をする必要があったのは、飼っている猫が膝の上で寝に来るので、左手で支えておかないといけないから、でした。

(書く、という動作も、やはり書く対象と書くもの(手)・モノ(筆記具)との相互浸透において成り立っているわけですから、たとえば書く対象が書くものの動きと合わせて動いてしまうようでは、動作そのものが成り立ちません。たとえば、氷の上では刀は振れない、いくら効率が良くても自然界には車輪というものが存在しない、などといったことと関連付けて考えてみられているでしょうか。)


ところが、ふつう木だけでペーパーウェイトを作ろうと思っても軽すぎて、本来の働きを果たせないことがほとんどですから、市販のものは、表向きは木製であっても、中に金属製の芯棒が入っているのではないかと思います。


わたしのところには芯棒を入れる穴をくり抜くための設備もないので、この点とどう向き合うかが問題でした。

そのために、今回使ったのがイスノキ、という木材だったのですが、この木は比重が0.9ほどあり木の中ではかなり重いほうで、樫の木と並んで木刀としても使われることがあるくらいのものです。

4℃の水の比重が1ですから、イスノキを水につけると、沈みきらないまでも本体の一面を残して水面下に沈む、といったようなイメージです。
体積と質量、硬さや叩いた時の音、などが関連性を持ってイメージしてみられるでしょうか。

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さてさいごに、例によって少しばかり真面目に考えておきましょう。

世にある表現を見るとき、たとえば今回のような道具のあり方を見るときに、それだけのためにこんなたいそうなものを作るとは、という気持ちを込めて、「あほか」という感想を持つことは不思議ではありません。

この感情を、理性の面から捉え返して言えば、それは「膝に登ってくる習慣を持つ飼い猫がいて」、なおかつ「一分一秒を惜しんで研究したい」、そしてさらに「本には線を引きノートを取りながら研究を進める」という条件が、そうそう簡単に揃うものか、こんなものを他の誰がほしがるというのか、というところから来ているわけです。

しかしここで大事なのは、単に「あほか」という感想を持つにしても、「自分には必要ない」という単に主観的な理由だけでそう思っているのか、そんな条件はなかなか揃わないだろう、という客観的な条件を見た上でそう考えているのか、ということでは、大きな開きがあるのだ、ということです。

これを一言で要すれば、客観視の構造は否定の否定である、ということになりますね。

生まれ持った感性を振りかざして世にあるものを一瞥し切って捨てるのでよいのか、そうでないのかは当人の自覚によって違いますが、ほかでもなくその繰り返しが認識の力を創りあげているのであって、それが技であるだけに、いわゆるセンス、審美眼、ものを見る目、といったものは決して生まれ持ったものではない、という一事は自らの責任でふまえておくべきです。


認識の質的な転化が人格、と呼ばれているものなのですからなおのことなのだ、ということは、言わなくてもわかってもらえていることと思います。

「なぜペーパーウェイト如きでそんな難しい話をせねばならぬのだ…」という「感情」をお持ちになった方は…、これも、もうおわかりですね。

2013/02/01

更新再開のお知らせ

ご無沙汰しておりました。


去年の大晦日、なんとかノルマを達成できたので、ちょっとはゆっくりできるかなと思っていたのですが、あれよあれよという間に1ヶ月が過ぎてしまいました。

時間の経つのは実に早いもの、という月並みな言い方が、自分の人生と直接関わりのあることばとして実感できるようになってきたものです。

社会に出られたばかりの学生さんなら、そのときの素直な実感として、時間の経つのがとても早い、という感想を持ったことをまだ覚えておられることと思います。
学生の頃と比べてそうならざるをえないというのは、社会では時間というものを、人と人との調整にとられがちである、広くは時間が社会化される度合が大きい、という理由が大きいのではないでしょうか。

人が好むと好まざるとにかかわらず社会性を帯びているという事実は、遡れば精神ですらその中で育まれてきたことから考えても至極当然のことですが、サルからヒト、人間に至りその調整に本能がほとんど何の役割も果たさないところにまで社会が発展する段になると、それにふさわしい目的意識とそれなりに高度な調整の能力がなければ、小さな組織ですらまともには回らない、ということさえ起きてきます。

試しに周りを見れば、人と人とが協調するどころか互いに足を引っ張り合って社内政治に勤しんでいるというようなところがどうしても目につきます。

ある明確な目標のためには個としては1の力でしかないところを不足とし、協調のうえで1たす1が3にも4にもなるために組織を作ったのはずであるのに、いざできてみればかえってマイナスになってさえいるのでは、と皮肉のひとつも言いたくなるような光景があふれていますね。

職人的な気質を多分に持つ人間からは、こうした状況は滑稽であるばかりか無駄でしかないものであると映りますから、いきおい、結局は一人で良い仕事をすることが唯一最善の生き方なのだ、結局人間は一人で生き、一人で死ぬのだ、といったような結論さえ出されかねません。

しかし、人とのいざこざを嫌って職人的に人類文化を前進させることに人生を掛けるにしても、ひとり孤高で一里塚を築いたとて、それがいかなる内容を持っているにせよ、決められた形式の束縛はやはり大きいものです。

学問の世界は抽象度が高く難しいですから、目に見える表現をとる文芸でたとえると、たとえば油絵は油絵であり、クラシック音楽はクラシック音楽であり、彫刻は彫刻であり、それ以上でもなくそれ以下でもありません。

こういったすでに確立した文化のジャンルにおいて、新たな第一歩を進める、というときには、たとえば日本画から学んで油絵を描いたり、クラシック音楽にロック調のアレンジをかけたり、彫刻する素材を変えたりといった向きも、あるにはあります。

しかしこの方向性の価値は言ってみれば、既存のジャンルを掛け合わせるというさじ加減と、そのアイデアの妙にかかっているのですから、その限界や、いわゆる賞味期限、大衆からの注目を引いておける期間というものは、いわば出発の段階から定まっており、多くの場合極めて短命なものとして決められているのです。



ここでわたしたちが考えなければいけないのは、自分が、どうあがいても一回限りでしかないこの生涯をかけてなんらかの事業に取り組む時に、そこに「付け加えるべき第一歩」がどういうものであるべきなのか、どういうレベルのものであるべきなのか、ということなのです。

わたしは去年の一年間、これからの10年を、何をどのレベルで目指して日々を送るのかということを、走り続けながら考えてみて、人類の築き上げてきた文化遺産を継承し未来へとつなげてゆくための現在という時代性と、そこにいるこの個としての存在が交わる必然性がいかなるものであるかを位置づけてみたときに、やはりどうしても、いま始めなければどうにもならない、ということがあることに否応なく気付かされることになってゆきました。

そのひとつに、1たす1が3にも4にもなるような、本来の意味での組織をつくる、ということがあります。

そのためには、それぞれの成員の認識に、共通の土台をつくること、ひとつの目的を共有し続けること、をしなければなりません。

ひとつの場所にいるのに、持ち寄った成果を統一しようとしても1たす1が2よりも多くならないのは、前者が欠けているためです。

たとえば構造主義と記号論を持ち寄ってひとつの思想を作ろうとしたり、象徴主義と反自然主義をちゃんぽんして新しい文学を作ろうとしても、どだいまともな成果が出るわけもなく、待っているのは政治的な抗争と、感情的な確執のあげくの内部分裂、ということになります。

後者が欠けているのは、そもそも組織化した意味を問われるほどに組織としては論外ですので、これまた外形を保っていられるのはほんの一時期のみ、ということになります。

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ともあれ、ものごとの本質的な確からしさ、ひいては歴史の風雪に耐えうるだけの価値というものは、一にも二にも「体系化」ということにかかっているのですから、土台が揺らいでいるようではなにも始まらないどころか、始めないほうがマシ、ということにもなりかねません。

これが1年や2年でなんとかなると考えるほど甘くはないのですが、いつまで経ってもなんともならないと思うほど悲観的でもありません。
議論が軌道に乗るために10年、成果が出るのは30年先であれば御の字、でしょうか。

人の作る表現を見るときに、「これはこの先何年残ってゆくものだろうか?」と問い続けている人にとっては、文化ですら資本主義化・経済化してゆく現在という時代は、目を覆いたくなるような惨状であることはまぎれもない事実です。
(これはいずれしっかり述べねばならないことですが、お金が嫌い、とかいう感性的な反発のようなものではなく、文化創造の「質」に直接関係のある、相当に根本的な問題です。)

しかし、多かれ少なかれ人の世というものはままならぬもの、というのも事実。
目の醒めた人間にとっては悲劇ですが、悲劇は突き抜ければ喜劇です。
正気を突き抜ければ狂気にも映ります。

どのようなかたちになるかはまだわかりませんが、いずれにしろ長い旅のこと、よろしくご笑覧のほど。

というわけで、来週から溜まっている記事を公開してゆきます。