2013/01/12

【メモ】ショーン・エリス、ペニー・ジューノ(著)・小牟田康彦(訳)『狼の群れと暮らした男』(築地書房)


研究の合間に、


元旦に手にとった本を読み進めているのですが、これは面白かった。

「動物」の生態を学ぶことが、なぜほかでもない「人間」の、しかも「認識」論に必要なのか、に答えるためにも、少し紹介しておきましょう。

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本書の特徴がどこにあるかはタイトルに現れているとおりだけども、著者は、実際に狼の群れの一員として生活した経験からして、それまでの行動学的な観察だけからでは、どうしても人間側のセオリーを狼に押し付けて解釈せざるを得ないために、時には誤った結論を引き出してしまっていることを危惧している。

一般的に言って、幼少の頃から動物が好きで、実際に寝食を共にしともに育ち、別れに涙を流してきた、市井の経験者と、実験室や望遠鏡を通してその対象を観察し理解してきた研究者とのあいだの懸隔は、なかなかに埋められないことが多いようである。

理論家は、学んだ理論を脳裏に宿すことを通して実践に取り組み、それを検証してゆかねばならないし、実践家は、個別の実践から論理を引き出しそれを体系化することを通して理論として作り上げてゆかねばならない。

しかし現実を見ると、理論家のほうでは、既存の理論に反する個別的な実践を、些細な例外だとして排除し学界から追いだそうという向きに努力を注ぎがちであるし、実践家の方では、理論など何の訳にも立たないとばかりに相手にすらしないことがほとんどである。

研究者のなかでもとくに、英国流の経験主義や、その流れを受け継ぐ米国流の行動主義やプラグマティズムの学風の中では、どうしても、対象の持つ現象的な側面にだけ焦点が集中する傾向があり、その内面に存在するはずの構造に触れることがタブー視され、無視黙殺される傾向に陥りがちとなる。

なにしろ、構造は目に見えない!のだから、それを論じようとすれば、「実証」的な根拠は何か、と詰め寄られるわけである。

目に見えぬものを扱う場合には、それを見る者の側にも論理の力が必要不可欠であるのは当然であるが、感情的にも能力的にもその道を閉ざそうとする相手に理解を求めるのは、並大抵のことではない。

◆◆◆

わたしの知るかぎりでも、心理学を専攻する学生や研究者が学界において研究に臨むとき、
人間が表向きどのように行動するのかの統計をひたすらに取ることが、どうして人間の内面を理解することに繋がるのか?
という疑問を持つ人が少なくない。

単純だが、本質的な問いである。

とくにそれは、現実の人間を眼にして、学んだ研究手法やそこで得られた知見からではとても解くことのできない問題に日々ぶつかり続けている者にとっては、人生を揺るがしかねないほどの大問題である。

本書を読むと、これは、問題の質も段階も異なるけれども、動物を理解する場合においても同様のことが言えるのだとわかる。

厳密にいえば、人間の頭脳のはたらきである精神は当然ながら動物にはないけれども、それも生成段階をたどれば、わたしたちの祖先が単なる動物であったときに営んできた社会のあり方を土台として作り作られてきたものなのだから、人間を知るにはやはり、動物を知らねばならない。

森羅万象は、自然、社会、精神の重層構造から成り立っていると言われるのはまさにここなのだが、いつも口を酸っぱくして言うとおり、これをいくら言葉の上で諳んじられたとしてもまるで意味はないのであって、自然、社会、精神の成り立ち方を、その過程として一般的に押さえることを通して、「なるほど、人間の精神を本質的に理解しようと思えば、どうしてもヒトの社会がどういうものであったかを知らねばならないのだな。より遡れば、その前には群れをなしていた動物があったはずだから、そこからヒトがどのようにして生成されてきたのかも押さえておくべきだ。もっと遡れば…」というふうに、正しく問題意識を持たねばならないわけである。

◆◆◆

本書の内容はジャーナリズム寄りで、必ずしも整理されているわけではないから、狼の生態に加えて、私生活や夢や生まれ持った才能などをごった煮した文書は研究書とは呼べない、とアタマの凝り固まった研究者から無視黙殺の理由にされそうな心配はあるものの、その経験は確かなものである。

とくに、食事が狼の群れの構造の維持に果たす役割を書いた「23. オオカミの食べ物は身分で違う」と、これまで質的に異なり互いに参照しあえないとされてきたオオカミと犬の社会構造について具体的に触れた「24. 己の身分をわきまえる」は、人間の認識の生成を知るために動物の生態を学びたいという読者にとって、貴重な知見を与えてくれる。

その知見を生かして、狼に育てられた子とされる、あのあまりに有名なアマラとカマラの事例について、狼がなぜ彼女らを被食者と見て食べてしまわなかったか、という問題の糸口が掴まれているところなど、思わず声を上げてしまったほどであった。
彼女らを保護した牧師の虚言などが明るみになるにつれて、あの事実そのものが検討に値しないものとして解消されてしまったきらいを苦々しく思っていたからである。

総じて、本書は狼の群れのなかで、その一員として暮らした、という類まれなる経験を持つ著者の、それこそ経験の書であるから、それをそのまま読んでしまっても、「へぇ〜、こんな人もいるんだ、こんなこともあるんだ」と、トリビアルな雑学を獲得しておしまいになってしまう。

ただ、自然、社会、精神の流れを一般教養として押さえたうえで、その上に学問の道を歩き続け森羅万象の過程的構造を通して、学問的な一般教養を構築し、その上に自らの専攻分野を正しく位置づける、という科学的・本質的な規定に従って生成と発展を見てゆこうとする人間にとっては、一見の価値ある書物であると思う。

またそこまでいかなくても、科学者を自認する研究者の戒めの書物として。実践することのリスクを回避しようとする意気地の無さを払拭し、傷を負っても前に進む動機付けの書として。「痛がりは伸びない」という事実を極端なかたちで突きつけ、教えてくれる。

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さいごに、著者のスタンスの読み取れる箇所をいくつか。

・オオカミの柵の中で生活しようとする筆者に対して、生物学者が
「 キャンプの生物学者たちは私の計画に断じて反対だと言い、頭から敵対的になる学者もいた。科学的に反対する根拠はあるがそれは別としても、わたしの理論と信念は間違っており、それは自殺行為だ、と彼らは考えた。彼らにとって、私は外国から来たそれこそ一匹オオカミで科学者の資格もない―そう言われればその意見に反論するのは難しかった。私がしたいと思ったことはあらゆる科学的原則に反した。生物学者として彼らは観察はしているがそのもの自体に触れてはおらず、きめ細かく定義された方法論に従っていた。しかし、私は科学者ではないし、彼らと違って失ってこまる名声もなかった。私は成功しなかったらどうなるだろうという恐れがなかった。失うものが何もなく得るものは全てだった。」(p.101-)
・犬は、それが群れのなかでどの位置を占めているかによって扱いを変えねばならないとしたまとめとして
「 以上の犬のどれを自分の家にもちこんだかを知れば、互いに幸せな生活を送ることにいくらか役に立つはずだが、しかし結局は買った犬をどう扱うか、どう訓練するかにかかっている。ほとんどの訓練士や行動学者は彼らの方法論をオオカミの行動に典拠を求め、群れの重要性を認識している。私はそれについて反論はないが、前にも言ったように、本当に何が起きているかを理解するためには、現場にいなくてはだめだ。オオカミを遠く離れて観察していると、簡単に間違った結論に辿り着くことがある。実際、それが今までの実態だと思う。飼い主はアルファの犬(=群れのボス。引用者註)の役割を演じなければならないと教えられてきた。テレビで見せられた問題犬に対しては驚異的な結果が出ているけれども、これがいつもうまくいくとは限らないし、飼い主にとって必ずしも長期的な解決策になっていない。
 私は決して犬の行動科学者をけなすつもりはないが、オオカミの行動を正確に真似することが大事だと深く信じている。事実、すべての犬がアルファの役割を担った飼い主に対応できているとは限らないのだ。」(p.232)

【参考】
・出版社へのリンクおよびプロモーションビデオへのリンク
 狼の群れと暮らした男

2013/01/11

【メモ】本日の革細工:G1サイドバッグ改

ビフォー。


アフター。


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ものづくり研究仲間への報告なのでメモ書き程度ですが、こんなふうになりました。

しばらく見ないうちに何があったのか?

と言われれば、技術的にいろいろと蓄積があったために、1年経って見てみたらそのぶん手直ししたいところがあり、他の作業の合間に改修した、ということになります。

わたしは過去に主に扱った素材については、それが主だった探究の対象から外れたあとにも、暇を見つけては実験するのが好きなのですが、自転車用として生まれたこのバッグもそういう意味で、実験台として散々な目に遭ってきました。

自転車本体との固定具が外れて高速移動中にアスファルトに叩きつけられたり、雨の中晒されて放っておかれたり、猫の寝床になって引っ掻き耐性を調べられたりなどなど、革好きが見れば悲鳴を上げそうな数々の試練がありました。

そうして1年が明けると、やはり角には傷が、フェイスには水滴跡が、真鍮には緑青が顔を出してくるところをなんともいえない気持ちで眺めながら、これも人様にもっとよい道具を提供するため…と作り手とバッグに言い聞かせてきましたが、年末年始にバッグ類のメンテナンスをしているときに、さすがに悪いかなあ、という思いがしてきたものでした。

◆◆◆

思い立ったが吉日、というわけで、その場でおもむろにカッターナイフを取り出し、マチを取り外しにかかった…というのが先週末です。

さて結果から言えば、この時は、他の行程で余った柿渋染め液で染付けて、水滴跡がどのくらい消えるものか、また消えないものか、実験がてらに補修しようとしたつもりだったのですが、どういうわけか他にも色々と変わってしまいました。

前から、サイドバッグやビジネスバッグなんかの作製依頼をいただいているので、オーナーさんには参考になるところがあるかも知れません。


以下は今回の回収箇所と雑感です。

◆全体の色調とフェイスの変更


前回の製作で、フェイス部は型紙よりも前面に膨らむ傾向があることがはっきりしたので、別の顔も試してみることに。
柿渋染めにしたことでG1に色調が近づいたため、姉妹モデルの位置づけとし、金属部のアンティーク加工もやすりがけして真鍮色にしました。

前回のコンチョ穴が空いたままなので、大きめのコンチョで隠すか、コンチョとフェイスの間に革を挟むかしたほうがよいかもしれませんね。(下の写真では別のコンチョになっていたりもします)


◆ベルト留めの盾のモチーフを補強


以前は、バッグ全体に2mm革を使ったために盾が立体感に乏しかったところを、裏面から補強し、膨らみを増すことにしました。

盾のエンブレムは、もともと、ベルト部分を本体に縫い付ける時に、「いかにも」な縫い目をつけると見苦しくなるために考えたものです。
「無駄なものは出さない、つけない」という厳しい制約が、いかに作り手を成長させるかは、表現に取り組む人にはぜひとも伝えておきたいところです。


◆裏地の追加


余り物のピッグスエードがぎりぎり足りたので貼り付けました。

高級感は出ましたが、雨にさらされた時に剥がれてくる可能性がないとは言い切れません。また日焼けで退色することから、自転車バッグとして常用するには気苦労が増えたかもしれませんね。

耐摩耗性は見た目よりずっと強いとはいえ、野ざらしで常用するものにピッグスエードを使うというのは、実用上の不安が残ります。これからそのことも試してみなければなりません。


◆パイピングを廃止、背面下部にDカンを増設


前回、本体部とマチのあいだにパイピング部があったのですが、あってもなくても変わらないようなので廃止しました。

また、前回ではひっくり返さずに縫い進めたため製作時間が長くかかりすぎ、普及モデルとしては実現不可能なレベルでしたが、使い込んでずいぶん皺が入ったので、これも味かと思い、思い切って縫ってからひっくり返す、という手法を取りました。

これによって、大幅に製作時間は削減できましたが、やはりかなりの部分で大きな皺が入るので、この固めの革を使う場合は、全体をアンティーク風に整えたほうが適切でしょう。

逆に言えば、この製法では綺麗めには作れない、ということです。
同じ構造の市販の鞄に皺があるのは、これが理由です。


◆マチのボタンの増設


よくある工夫ですが、以前作りたての時はなくてもいいかなと思っていたところ、革がへたってくると、やはりあったほうが型くずれしにくいなと思わされました。

ボタンは強力なものを使わなければ革の張力で外れてしまうような印象ですね。


◆収納性は以前のまま


A4ノートのみならず、A4のファイルも3冊入ります。
というか、もともとそのために作ったのでした。

もしビジネスバッグを作る場合のサイズ感としては、横幅はこの程度あれば安心、マチの分厚さについてはA4ファイルにして2冊ぶんくらいあればよい、というところでしょうか。

あとは、自転車に固定する方法についての進展があったときに、改めてお伝えします。

本日の革細工:自転車バッグG5s & G5i "PORTO"

昨年友人が結婚したというので、


なにか考えないといけないなー

と悠長に構えていたらあっという間に年末になってしまい、年の瀬も押し迫った頃に特攻することになりました。

◆◆◆

と言っても、それまでに数度、盛り込んでほしいテーマについてはやりとりできていたので、頭の中には作りたいものの像がそれなりにはっきりしていたのでした。

オーナーから出された要望というのは、こんなふう。
・取っ手がほしい。
・小物を入れるポケットがほしい。

過ぎたるは猶及ばざるが如し、がものづくりの信条、かつ表現の質的な向上の唯一の道だと信じているわたしにとって、これは実に酷な条件でした。


自転車用のバッグに取っ手をつけたとして、それほど使われるものだろうか?
ポケットをつけたら無駄な縫い目が増えてしまう…インナーケースでなんとかならないだろうか?

などなどという思いが渦巻き、どうすればオーナーに、「やっぱシンプルなのでいいや」と言ってもらえるか、ということを散々思案したものです。


簡単に言えば、要らないものや、目新しくてもいずれ使われなくなるであろうものは絶対につけたくない!ということですね。

◆◆◆

そんなことが念頭にあったので、「ホントに要るの?ホントにホント?」と、互いにしつこくやりとりをしているうちに、どういうものであればずっと使ってもらえるものになるか、ということが次第次第に見えてきたのです。

おそらくここは、オーナーである夫妻にとっても、「自分の欲しいもの」像が深まっていく過程であったと思うのですが、同時に、「この作り手という人間は、どうしてここまで聞き分けがないのだ?言った通り素直に盛り込んでくれればいいじゃないの…」と呆れさせてしまったかもしれません。

しかしこの過程こそが、原理的な立場(=要らないものはつけない)と、経験的な立場(=だって欲しいもの)を統一してゆくことに他なりませんから、本質的にものづくり並びに表現に取り組んでいこうと考えている読者のみなさんは、やはりオーナーとの喧嘩は避けてはとおれないことになります。

(より深く考えたい読者の方へ:
ここはとても難しい問題ですが、同様の問題として、たとえば、洋画の額縁に描かれているツタの模様などを思い浮かべてみてください。あれが、なぜああいった形になっているかわかりますか?
なぜあの大きさなのでしょうか、なぜあの曲がり方なのでしょうか、なぜあのモチーフなのでしょうか?
そういった問題に答えられないという場合には、まだ問題が解けていない、つまり自分のものとして身についていない、ということなのです。
デザインやものづくりをする人間にとって必要なのは、「古代ギリシャ人が黄金比を見つけた」などという知識なのではなくて、「古代ギリシャ人はなぜ黄金比を普遍的な美しさとみなしたのはなぜか」という、彼等の認識の生成をゼロから追ってみて、その答えにたどり着くことと直接に、自らの認識として技化する、ということなのですから。
このことが押さえられないから、誰かの作った理論やデザインを、ただただ表面的に横滑りさせてコピーするしかなくなるのです。
ですから、ものづくりの本質的な前進に絶対的に必要なのは、技術でもなく、ましてや既に現象している表現でもなく、認識、でなければならない、と言うのです。)

入り込んだお話はここまでです。お目汚し失礼。

◆◆◆

さて、取っ手とポケットがやはりどうしても必要である、というオーナーの要望が高まるとともに、どのような形態をとればいちばんよいかたちで使ってもらえるのか、という作り手のバッグ像が明確になってくる段になって、数点のアイデアが浮かんでくることになりました。

以下のものがそれです。


帰ってきた答えは、いちばん下の「ドイツホック型がいい」、ということでした。

わたしはてっきり、上の2つのどちらかで来るものと思い込んでいたので、少々意外でしたが、決まったからには前進あるのみ、です。

形態が決まると、次は全体のテーマが問題になります。

メインのテーマは、新婚旅行で行ったという思い出の街、ポルトガルはポルト。


冒頭の写真も同じところです。

レンガ造りの屋根と、しっくいの白が青い空に映える色彩が目に留まり、それを使うことになりました。

ここまでが、12月の初旬頃までに終えたやりとりでしたから、年末進行にバッグ製作をねじ込めばいいだけ(!)、というわけです。

◆◆◆

ということで、できました。


年末のパーティーでサプライズとして渡すつもりだったのですが、当日のぎりぎりまで作業して、ようやくひとつはかたちにしてお見せすることができました。

今回のバッグにそこまでの時間がかかったのは、いつもとは違った構造を採用したから、です。

側面をじっと見てもらえれば、その違いがわかるかもしれません。


わかるでしょうか、少し丸みを帯びていますね。
以前までのバッグと比べて見てもらえれば、よくわかるかと思います。


奥にある初代自転車バッグG1は、マチが凹んでいますが、今回のG5については膨らんでいますね。

このことは、丸みを帯びた優しい形状になることを助けるだけでなく、内容量を増やすことにもつながります。

今回作ったG5ペアのうち、G5i(下の写真の左側)については、これまでで最も小さい横幅でありつつ、容量は変えずにつくることができました。


iPadや、カメラのクッションケースも入れることができます。


◆◆◆

夫妻の要望で、ポルトガルの伝統民芸、アズレージョを横につけました。

振動が多い自転車バッグに使うには相当に華奢なタイルでしたから、革で補強した上で差し込んであります。


万が一割れた時にも、交換して挿し直すことができます。

◆◆◆

婦人の自転車については、サドル下のスペースが少ないために、バッグを付けられるかどうか自体が怪しかったのですが、棒屋根式のおかげで、付けてしまいさえすれば蓋が半分は開きますから、使いやすくなっているのではないかと思います。


荷台を付けてもバッグを収めるスペースがない場合には、また考えればなんとかなるでしょう。

◆◆◆

ポケットは、扇状のマチをとってあります。


ポケットの幅は20mmほどしかないので、こうしておかなければ手を差し込んで落ち込んだものを取り出すのが難しくなるからです。

手の甲が革の裏側とこすれてざりざりなると不快なので、ポケット部はつるつるになるまで磨いてあります。(ベタ貼りでもよかったのですが、そのぶん重く、雨に弱くなってしまいますので見送りました)

◆◆◆

ポケットのマチを折りたたみ式の扇形にしたことで、ギボシをつけることができました。(上の、カメラケースを入れた写真だとわかりやすいと思います。ポケット部につけた金具のことです。)


今回のバッグの顔は、いちおう正面のドイツホックと呼ばれる丈夫な金具ですが、荷物が少ない状態だと留めにくいので、そのときにはギボシのほうが使い勝手がよいと思います。

ちなみに、ドイツホックはG5sとG5iで形が違うものを使っています。
そのこともあって、10mmしかサイズの違わない両者ですが、けっこう違ったものに見えるのではないでしょうか。

◆◆◆

さいごは個人的なお話で恐縮。


二つ同時に付けたところ。
前後を入れ替えることもできます。


自転車仲間の友人のご好意で、この自転車本体も贈り物としてお祝いできました。
ほかにも共同で出資してくれたみなさんをはじめ、自転車仲間のみなさんにこの場を借りてお礼を申し上げます。

某屋根部の朱色は、革が日焼けしてゆくとともに色も変わってゆきます。

ご夫婦がふたりで年輪を刻むように時間を過ごしていってほしいという思いを込めて、刷毛で重ね塗りをしてあります。

ささいなものですが、鞄の色の深まりにつれてお二人の仲も深まってゆきますように。

2013/01/01

あけましておめでとうございます

今日は天候にも恵まれ、よい一日でした。


今年取り組む研究活動、指導、実技、創作活動、語学について、去年の年末は時間がなく考えられなかったので、今日こそはと、大きな本屋さんに自転車で乗りつけ下調べをしてきました。

新しく取り組む課題については、やはりその歴史を知らねばとうてい学問的な段階には到達しえませんから、通史的なもののうち、もっとも良いものを選定しなければなりません。

国会図書館に入り浸って探しても良いのですが、あくまで下調べに話を限れば蔵書が多すぎることと、書庫に所蔵しているものも多いために、一度に閲覧できる情報源がタイトル・著者名・出版社名に限られることが致命的です。
上達のあり方を考えれば、各段階には各段階にふさわしい手段があってしかるべきです。

ともあれ日本では、「こんなものも置いてあるの?」と品ぞろえの確かさに驚く、しっかりとした大型の書店もありますので、非常に恵まれた環境にあることを噛み締めてほしいと思います。
(そうじゃないところもありますから、大型であればよいというわけではありません。店先にどんな本が平積みされているか?というところを常々見る習慣をつけておくと、その本屋さんのレベルがわかるようになってきます)

◆◆◆

さて、ここまでを読んだ探究熱心な学生さんにとっては、
ではあなたの言う「良い通史」はどう選べばいいの?
という問題意識が脳裏にぎらぎらと輝いているはずです。

多くを述べることはできませんので、やや形式的にすぎるきらいがありますが、誤解を恐れずに言うことにすると、分厚いハードカバーのものよりも、200〜300ページ前後の薄い新書のほうが良いようです。

というのも、個別な歴史を研究したいだけならともかく、歴史の流れ、歴史の流れ「方」、つまり歴史的な論理性=歴史性を把握するためには、いきなり分厚い本に取り組んでしまっては、当初の目標が致命的なまでに達成できにくい、というより事実的にできない、という事実があるからです。

新書のうち、その道に数十年専門家として取り組んできて、その著者の脳裏に宿っている歴史の流れを、人生の仕事納めとして本人が直接自分の手で一挙に書き下ろしたものは、ほぼ例外なく好著になる必然性があると言えるでしょう。

逆に言えば、何々の歴史、何々史という名のついた本であっても、執筆者が複数人である共著については、全体の流れが断ち切られるきらいがあり、また通史を名乗っていながらそんな志はどこへやら、本文を見るとただの論文集であったりすることもあり、がっかりさせられることしばし、ということがあります。

◆◆◆

というわけで、今回も午前中は専門書のコーナーをしっかり見て回ってみたあと、午後からは気持ちを入れ替えて新書のコーナーに立ち寄り、これはというものを数点買って来ました。

個別研究の書物は分厚くかさばり値段も高く、いくら読んでもその分野の全体像が掴めませんが、良い通史はいつでも持って歩け値段も安く、全体の絵地図を数ヵ月で脳裏に刻み込むことができます。

そのことと同様のことは、今回買い求めた本の書き出しにも明確に記されてありました。少し引用しておきましょうか。
文化史の研究が、各部門ごとにばらばらに進められている現状では、いくら待っていても、日本文化史の綜合的把握の可能になる時の来ないのは明らかである。
(中略)
大局からの綜合的視野がひらけてくると、各部門の専門研究にも新しい課題や視野がひらけてこないともかぎらない。
 
家永三郎『日本文化史 第二版』(1982、岩波新書)
なんだか、歯に物が挟まったような言い方だなあ、と思った方は、この人の言外に匂わせている本音が見えつつあるはずです。
では実質的にはこの人は、同業者の仕事を見渡した時に、どのような感想を持っていたのか、と考えてみてください。

わたしの言いたいことも、まったく同じです。
そうは言っても、通史をとおしつつその過程性を脳裏に宿しての専門分野の一般的な歴史性の把握は必要不可欠であるとはいえ、ものごとの探究がそこで終わるということはありえないということも、次に押さえておかねばならない事実です。

ただそれでも、このような、専門分野の歴史性を把握した人物からの提言が、何度も何度も実を結んでいないことも揺るがしがたい事実として屹立しています。
土台論をまったく欠いた個別研究だけが跋扈し、終わりの言に代えるとばかりの続く仕事は学際研究を待つ、などということばがあたかも免罪符になるかのような錯覚が蔓延っている中ですから、自分だけは、という一念はいつもいつも、それぞれが忘れるべきではありません。

ちなみにいえば、引用した二文目については、ヘーゲルが『精神現象学』の序文で、感情を隠しながらも述べていた、研究者のあり方への苛つきとも一致しています。
自ら定めた道を志す方は、序文だけでもぜひにと、一読をお薦めしておきます。

◆◆◆

さて、雑談に始終したかの感がないではありませんが、わたしが今年やってゆくこととその志とも密接に関係することですので了承を乞うこととし、終わりかつ締めのことばとして、やはり恩師から賜った詩を書き置くことにさせてください。

四大(しだい)空(くう)に帰すべきさだめ思ひつつ
冬されば冴ゆる冬のうつしみ
詠人不知
この季節の力を借りて、冴えた頭で覚悟を胸に誓い、この一年も人類文化を本質的に前進させるべく進みましょう。

謹んで、本年もよろしくお願いいたします。