2012/07/28

どうでもいい雑記:最高のボールペンはどれか

ひとりの友人から、


最近アレないの?、と聞かれました。
“アレ”とは何です、と聞き返しましたら、「雑記。」とのこと。

なんでもここの文章は楽しみにしているけれど、内容が内容なので読む方も大変、たまには息抜きもさせてほしい、と言う。
こんなところに息抜きをしにくるというのは、水をもらいに砂漠にでかけるようなものでは…と思うのですが、まあそれだけちゃんと受け止めようとしてくれているのは嬉しく思ったので、では研究も落ち着いたし楽な話題探しときます、とお約束したのでした。

といっても、毎日ほとんど同じ過ごし方のわたしにとっては、NewでHotな話題なんてものは無いので、今回は身の回りにある道具についてお話しましょうか。


◆WiMAXルーター(AtermWM3600R)◆


ほんとにどうでもいい方から。

これまで固定線を引いていたのですが、大きな画像ファイルをやりとりするようなデザインの仕事もしばらくしそうにないし、ということで、持ち運べるルーターに乗り換えました。
よく行く場所はサービスの圏内だったので、WiMAXに。
自宅と実家、研究室、iPhoneの通信費をまとめられ、月額8,000円弱くらいは浮くので、ソーセージをコラーゲン皮からシャウエッセンに、ニンニクを国産に変えられそうです。
ただこれだとわたしがいない時には実家の人間もインターネット出来ませんが…まあいいでしょう。

このルーターの何がいいかといえば、外に持って出られることの他に、自宅ではクレードルを使って有線接続できる、というところ。
写真のうち、青いガチャピンとムックがプリントしてあるのが本体、それが刺さっている黒い台座がクレードル、です。

クレードルの背面には、有線LAN(Eathernet)端子がありますから、こことAirMacなんかをつなげられるのです。
そうできると何が良いかといえば、鉄筋コンクリートで電波が入りにくい集合住宅でも、窓際から入ってくる電波を受け止めた本体の電波を、AirMacが増幅して、各部屋に送ってくれる、ということなのですね。

こういったコンピュータ、とくに目に見えない通信の仕組みを基礎知識の無い方に説明するのはかなり難しいので必要なら調べてください、というしかないのですが、大雑把に言えばこんな具合です。

(屋外)WiMAXの電波
↓無線
(屋内)ガチャピンとムックが電波を受信
|有線
(屋内)AirMacが電波を増幅、各部屋に届くように

ガチャピンとムックがいくら頑張ったところで5mも離れればあからさまに電波が弱まりますし、家の奥まったところに本体を持って行くと、そもそも屋外からの電波を受信できませんから。

そういうわけで、すでにある光回線やADSL回線をWiMAXに置き換える場合には、このモデルといっしょにクレードルを注文すると良いと思います。

デザインが表現が云々、と述べているわりにガチャムク押しってどうなの?と言われるかもしれませんが、わたしは気に入っています。落としたときに目立つでしょ。

もし導入するときには、ひとくちにWiMAXと言ってもいろんな会社からサービスを受けることができますし、各社ともいろいろと値引きをしまくっているので、よく検討すると損がありません。
わたしの入ったのはUQ WiMAXというところで、お友達割引というようなものもあるそうですが、会社のマワシモノだと思われると癪なのでリンクは張りません。割引を受けたい人は直接声をかけてください。もっとも、他にももっと安いところがありますけども。

あっちなみにガチャムクモデルは、UQからでしか買えないようです。


◆ZEBRA HYPER JELL◆

JJ101

どこぞの会社が鳴り物入りで発表した電子書籍リーダーは、セットアップが煩雑だったり購入者レビューが一斉に削除されたりとなんともいえない有様のようですが、良くも悪くもそれだけに注目度が高いということもあるのでしょう。

しかしそんな時代になっても、わたしの場合は紙の本と筆記用具は手放せません。
電子機器についての偏見はまるでないし、実際にiPadを手洗いだろうが風呂だろうが持って入る人間ですが、紙でつくられた本が、内容が同じだからといっていきなり電子機器に置き換わるかといえば、そんなことはないのです。

ひとつのものごとを深く突き詰めて探求する、という傾向のない人は、世の中にある文字や音や色彩といったものを、単に「情報」といったレベルでしかとらえません。
現代は何につけてもマネタイズ(お金にすること)が求められるということもあって、忙しい現代人は情報、情報、と、店頭で平積みになっているような本や研究論文を読んでは捨て、読んでは捨てをします。

これらの場合、その書籍からなにを得るのかといえば、「あそこでは今こんなことが起きている」だとかいう個別の情報でしかありません。
ですからたとえば、ブラジルの国債の値段が上がった下がっただとか、どこぞのCEOが不祥事を起こしただとか、新しい粒子が見つかっただとか、それぞれのダイジェストを「結論だけ」知ってしまえば、それで用済みなのです。



わたしはここの記事では、知識よりも論理に焦点を当ててお話しているし、事実学問という山の頂にまで上り詰めようと思っている人間にはそれこそが絶対的に必要なのですが、このことが直ちに、知識の収集を軽視してもよいということにはつながるわけはありません。

学問をするにあたっても、知識というのは当然に膨大な量が必要です。

では、ものごとを実用主義的に捉える場合と、ものごとそのものを突き詰めてやらなねばならないという場合に、知識の受け止め方がどのように変わってくるかといえば、それは、その知識を流れを持って読む、その「過程」をこそ読み取る必要があるかないか、ということなのです。
後者の見方を一言でいえば、「知識」のことを「情報」レベルで受け止めてしまってはいけない、ということなのです。

ビジネスマンでも、日々、新聞を読んで「定点観測」をしていなければそう遠くない将来、ビジネス能力に質的な差が出てきてしまうものですが、自分の道を無上の段階にまで高めようと考えて、大衆からの評判ではなくあくまでも歴史性を一身に受けた自らの価値基準で以ってものごとを徹底的に突き詰めるときには、なおのこと過程に目を向けねばなりません。

今日の株価がこうだったという知識ではなく、それを前後日と比べながらさらに広げ、数ヶ月、数年間という大きな流れの中に位置づけられるかどうかはもちろんのことながら、「その「流れ方」はどういうものであるか」を論理として見極めることができるというのが、一流という名にふさわしい能力ということです。

もっと言えばその論理が、周辺的な事情と正しく位置づけられ体系性を帯びてきた時、「こんなときにはこういうことが起きるであろう」という将来的な見通しが鮮やかに立てられる認識にまで達すると、これを論理の体系、つまりひとつの「理論」を認識として持った、ということになるのです。



ただビジネスの現場に身を置いている場合には、会社組織が永続してゆくためにはとにもかくにも経済が回らなければいかんともしがたいという事情があり、それゆえ「歴史性を一身に受けた自らの価値基準」よりも、「現時点・近い将来での大衆からの支持」に圧倒的な重きがおかれるあまりに、これら論理、理論といったものに着目するだけの合理的な理由を欠きがちになります。

支持をしてくれる人間の数が多ければ多いほどよいというときには、無上の真理などよりも、大衆の、いわば最大公約数的な認識に訴えかけねばならないのは当然というものです。
文芸を創るやり方と、経済のやり方は、その根本的な原理が異なるために、あちら立てればこちら立たずの関係にあるのであり、これらを中途半端にちゃんぽんしたときには三流の道しか待っていないというのは、実にここに理由があるわけです。

そこまでいかなくともビジネスの現場で、よし100年先の我が社の存続と従業員の生活を思えばこそ、ここで科学的な運営の理論を身につけねばなるまい、と志そうとも、それを株主や取引先といった利害関係者に根本から理解してもらうというのは、難事中の難事でもあるのですから。

自分がこの世に生を受けたという事実を、人類総体としての大きな流れの中に位置づけることをしないのなら、100年先どころか10年先、それよりも明日のことが一番気になるのもやむを得ず、地球の裏側で起きている飢饉よりも、今日出来たニキビのほうが気がかりであるとなるのも必然、というものでしょう。

さてこのような、知識についての受け止め方の質的な差がある以上、それを受け止めるやり方というものも、質的に違ってきます。
ごく一般のビジネスマンは、感性的な差はあれど、電子書籍で十分に用を済ませられます。
ところがそれよりも視線を高みに向けて、人類総体のうちの一員として、我が生涯をかけての人類文化の向上を目指そうというときには、現時点の電子書籍では、まるで力不足です。

知識のみならず、大きな流れの中でそれを位置づけ自分のものとしてつかまえたうえで、その流れ方そのものを修得してゆこうという場合には、事実との何回も、何回も、気の遠くなるほどの何回もの取っ組み合いのなかで自らがそのものとなってゆくという、相互浸透的な量質転化が絶対的に不可欠だからです。

このためには、これと見定めた書籍を、その著者の他のすべての表現を手がかりにしながら、自らの人生のおける問題と関連させながら読み解くという過程が必要になりますから、書き込みはもちろんのこと、読みすぎて本がバラバラになってもう一冊買う、というくらいの浸透ぶりでなければいけません。
これが直感的にできる電子書籍というのは、どれだけのものであってもなかなかに出てこないのではないかな、と思うのです。
わたしもiPadで論文や文学作品を少なくとも毎日2万字は読みますが、これはというものは必ずプリントして書き込みをして付箋を貼って、ファイルに綴じる必要がどうしてもあります。



さてそろそろ、友人の怒りを通り越して呆れる顔が浮かんできましたが、今回の取り上げたいボールペンの話題にまでようやくたどりつきました。

お叱りを受けるのは後日として、ともかくそういうわけなので、わたしにとっては良い筆記用具というものは欠かせないのです。
わたしがかつて受験勉強をしていた時に、当時から知識的な丸覚えが実に苦痛でありましたので、単語の語幹を調べてまとめて絵に書いたり概念をリズムに乗せて何回も何回も書きながら覚える、などというありったけの工夫をしながら勉強に取り組んでいたのですが、そのことと並行して、勉強に取り組む環境を整える、ということも実に熱心にやりました。

こういうことは、いっさいの不要な努力を排除する、ということに力を割いておくと、後々ぐっと楽になるのです。

その際、景色の見える机に座る、ということとともに、わたしの心を大いに助けてくれたのが、このボールペンでした。
一口にボールペンといっても、実に様々ですから、わたしは知る限り一番大きな文房具屋さんに行って、すべてのボールペンの書き味を比べたのです。
そのうち、わたしにとってはあまりに光り輝いていたのが、ZEBRA社の「HYPER JELL」という筆記用具だったのです。

受験勉強、資格試験ともなれば1日12時間ほどは手を動かしていましたので、1日に1本は空にしていましたっけ。
そのときも腱鞘炎にならず、ハネやハライもきちんと表現でき、書き始めから他のボールペンのようにボール跡を残さず気持ちよく、書き進めるほどに筆が乗ってくる、というのはこのおかげ、だったのです。

いつも毎朝のペン習字のときに必要なので、まとめ買いをしてたくさん持っているのですが、つい最近、語学の基礎を習得する要があったため、久しぶりにそのありがたさに感じ入ったものでした。

お話はこれでおしまいですがそういえば、心のあり方を整えたい、悪筆を直したい、という学生さんたちにも、この筆記具を薦めたことがあります。
もし読者のみなさんもそういったことを目指したい場合には、「字が綺麗になってゆく」という過程と、「気持ちが整ってゆく」という過程を、直接的に同じものとして受け止めながら、少しずつでも毎日欠かさず取り組んでください。

100円均一のお店に行けばマス目のついたこくごノートを売っていますから、練習帳には直接書き込んでしまわずそちらに、毎日1ページは書くことにしましょう。
そのとき、正しい姿勢で机に向かい、ちゃんと顎を引いて30cmは机を目を離し、ひとつひとつお手本をよく見て、一文字ずつ、「いまある心の中の迷いはとりあえず棚上げして、今はこの字をしっかり綺麗に書くことにだけ集中するのだ」という一念を込めながら書いてゆくのです。
ここで間違っても、自分のさっき書いた文字などは参照してはいけません。
お手本とこそ、心身ともに浸透するのが目的ですから、目的を違えないように。

姿勢の悪い人や悪筆のひどい人は苦痛を感じるでしょうが、苦痛の大きいのは現時点でそれだけの歪みがあるということなのですから、一文字を書くたびに、これらのことを確認し直す、ということを怠け心に負けじとやってください。

今の時期ならじりじりと汗ばんできて、こんな同じことを繰り返すよりもジュースを飲んだりシャワーを浴びたりしたいという気持ちがふつふつと沸き起こってきますが、それをぐっと堪えて椅子に深く腰掛けなおし、ひとつの文字を書く、ということにすべての神経を集中させるのです。
まずは1ヶ月取り組んで、窓の外の蝉の鳴き声や喧騒、蒸し暑さが消えてなくなるくらいの感覚が少しでも掴めれば、心を整える力がつき始めていると見てよいでしょう。

そもそも幼少の頃から間違った生活習慣のなかで過ごしている場合には、度外れな温度で冷房を入れていないとイライラしたり、食事をするまえに歯を磨いたり、着替えるものがないからと入浴しなかったり、といった感性が身についてしまっており、それが感性的に心地よい、という間違った感覚として生成されてきてしまっています。
しかしたとえば、そもそも歯に食べかすが残るのを防ぐために歯を磨くのであり、着替えがなくとも入浴したほうが健康上良いのですから、これははじめは嫌でも、正したほうが身のため、なのです。

人間の習慣はこのようにその実体としての器官にも相互浸透していることをふまえれば、煙草を吸い続けていると異常な状態を好きなものと勘違いしてしまう生理のあり方を養ってしまっていることがわかるのであり、心が乱れているのもそれと同じことなのですから、ご自分のためにも整えてゆくのが肝要、ということであるのです。
整っていることを正しく整っている、と判断できるような心身を創っていってほしいと願っています。

さて、この修練の説明を見て、「実体と精神を同一視するとは…」という向きには反駁しておこうか、思いましたが、やめておきましょう。今回は雑記ですからね。

2012/07/24

自らを恃むとはどういうことか

タイトルにある、


「恃む」というのは「たのむ」と読みます。

同じ「たのむ」でも、わたしたちがよく使うほうの「頼む」が、「まかせる」という意味であるのにたいし、こちらの「恃む」というのは、「あてにする」といった意味合いを強く含んでいることばです。

ですので、「自らを恃む」といえば、自分自信を深く信用して、ものごとを決める時の最終的な拠り所として認める、有事の時の頼みの綱とする、といったことを指しています。

さてでは、あなたには自分自身を恃むだけの力がありますか、と問うたとき、読者のみなさんはどのようにお答えになるでしょうか。

たとえば万事休す、となったときにでも、「自分にまだ何かできることはないだろうか」という一点から、解決の糸口を探していけるだけの気概を持てているかどうか、ということとして考えてもらえばよいと思います。

今回は、そうやって恃めるだけの自分というものを、いかにして作るべきか、ということをお話したいのです。

◆◆◆

なぜこんなことを言うのかといえば、今の世をみると、二言目には「自分には無理です」と言うことを、なにやら謙虚さや慎ましさと勘違いしている傾向があるのでは、と思われてならないからです。

自分を恃みにできないことの原因を、世の人は、「私は天才じゃないから…」だとか、「良い大学を出ていないから」だとか、はたまた遺伝子やらのせいにしてしまうことで正当化してしまいますが、根本的な問題はそんなことではないのです。

ここに頭脳活動の良さを伸ばしてゆくことのできた人物がいるとしても、その人は、そうしてゆけるだけの過程があってこそですね。

ですから本来ならば、その過程にこそ目を向けねばならないのです。

それは運動能力にしても、芸術的な感性にしても、また自分を恃みに出来るだけの自信の積み重ねにしても、やはりそれを伸ばしてゆくための過程があったのであり、たとえばそのやり方がいったいどのようなものであったのか、と考えてゆかねばならないのです。

◆◆◆

ここで過程、ということばが出てきた時に、弁証法は<量質転化>の大事さを教えますから、ここの読者のみなさんならば、ふむふむ上達のためには…と、だいたいの筋道をつけられる方もおられることと思います。

たとえば、ということでイメージしやすいように実体的な例を引きますが、腕の筋肉をつけようとするときに、一週間に100回の腕立て伏せをすると決めたときにでも、1週間のうち1日に集中的に100回をやるのか、それとも1日10回程度に分けてそれを継続するのかでは、まったく効果は違ってきますね。

この「継続は力なり」ということは、なにも体力づくりなどに限らず、頭脳活動についても同じことが言えるのですが、そういった上達の方法を具体的に突き詰めようとするのなら、より土台となることがらも、やはり確かなものとして作り上げてゆかねばならないことがわかってきます。

それが、自分自身の生活習慣、というものなのです。

◆◆◆

結論を先取りすると、今回の記事は、質問へのお答え (3):「私のどこが弛んでいるのでしょうか」という記事の中でわたしが、「自分自身の表現というものは、自分自身の人格を表しているのですよ」と述べていたことと深いつながりがあります。

このことを少し具体的に考えていくことで、生活習慣のまずさが、なぜ上達の妨げになり、またそのことで成功体験が得られずに「自分自身を恃みにする」ことのできない人格を形成させてしまっているのか、ということをどうしてもお伝えしておきたいのです。
人の人格形成を見れば、20代に創り上げた習慣こそが、その先の全人生を決定づける、というほどに大事なものですから、手遅れになっては遅いから、というのがその理由です。

たとえば学生さんがわたしにレポートをメールで送信するときのことを考えてみましょう。
ここを生活習慣や如何に、という問題意識に照らして言えば、メールの文面はさておき、大きな問題となっているのは実は、その「送信時刻」、なのです。

一人の人が、ある時は夜中の2時に、次の日は昼前の10時に、そのまた次の時は朝方の5時に…といった、極端にばらばらの時間に送ってくるとしましょう。
その時間と内容を照らし合わせれば、その連絡の必要に応じて、締切時間ぎりぎりになってその時間にならざるをえなかった場合や、夜中にすごいアイデアを思いついたあまりに急ぎ報告したかった場合などは、それとわかるものです。

しかし、まったく「その時間である必然性がない」連絡が何回も続くのであれば、わたしは、「この学生さんはどうも、ただれた生活をしているのではないかな」という問題意識を持ちますから、雑談やアルバイト、交友関係のお話を聞くときにも、それに照らして生活習慣を浮き彫りにしてゆくことになるわけです。

これも、当人の表現は、その認識のあり方を表す、ということのひとつです。

もしこの学生さんが万が一、自分がこれと見定めた道に向かって歩みたい、と言うのならば、わたしはその修練内容をお伝えすることはさておいて、「まずその生活習慣をなんとかしないことには、まともな上達はあり得ないものと心得てください」、と伝えなければならないことになるでしょう。

◆◆◆

それがなぜだかわかってもらえるでしょうか。

みなさんが知っている、<量質転化>になぞらえて、そのことを考えてみてほしいのですが、その手がかりとして、以下の引用を読んでください。

昭和40年の前後に集英社から出版された本、日本子どもを守る会・編 『世界100人の物語全集 私はこんな人になりたい 10 芸術に生きぬく物語』からの引用です。
ちなみに、これはいちおうは子ども向けの本なのですが、自分の人生の目標、みちしるべ、苦境の際の心の拠り所となる人物を探すにはとても良い本で、全12巻で、全世界の歴史を作り上げてきた偉人が計100人ほどが紹介されています。

わたしは国会図書館の書庫に入り浸りの日々のなかで疲れ果てた時、たまたま家にあったこの全集を手に取りました。
そのあとすぐ休みのとき、日本で唯一全巻を所蔵している奈良の図書館まで足を運び、数日通い読了し、大いに感化され勇気づけられたものです。
偉人の生涯というものは、子どもに夢を抱かせるだけでなく、大人になったればこそ響くものも持っているので、自らが目指す分野だけでも先人の伝記をお読みになることをおすすめします。
現在では、こういった全集のかたちをとったものはほとんどが絶版になっているのは教育の上でも残念な限りですが…。

◆◆◆

さてともかく、その本から、このBlogで扱った偉人二人にご登場願いましょう。
この二人に共通する日々の生活の仕方は、いったいどういうものでしょうか?
近代彫刻の道を開いた人 フランスが生んだ偉大な彫刻家ロダン 
 ロダンは、そのころは、たいへん有名な人なのに、いつも質素にくらしていた。また、何年も心をこめて作った像が、たのんだ人に気に入られないために返されれば、お金はもらわなかった。くらしがたち、仕事ができればそれでよかった。
日曜日には、夫人とふたりで、場末のレストランへ行き、スープと、肉と、キャベツとを食べたが、それが夫婦のごちそうだった。
朝は早く起き、すぐに仕事にかかり、夕方になると、休み、食事を終わると、七時か八時にねてしまう。それが毎日、規則正しくくりかえされた。
「パリは、小さすぎるくつのようだ。」
と、住居をムードンといういなかにうつし、毎日、パリまで汽車で出てきて、アトリエに通った。
こうして、時がたつうちに、ロダンの芸術の高さや深さが、だんだん世間の人にもわかってきた。
(ロダンが、わかいころから、どんな歩みを彫刻にみせていただろう。)
と、人びとは考えた。

東洋の愛を詩に ノーベル賞を得たインドの詩人タゴール 
(※引用者による要約:タゴールがノーベル賞を受賞したあと第一次世界大戦が起こった。彼はそれらの国ぐにに心から怒り、現代の文明に失望して学校を作ることに力を入れた。このささやかな学校を愛と平和と国際的な知識による、未来の新しい文明のよりどころにしようと決心をかためたのである。) 
 かれは、じぶんの全財産を投げ出して、イギリス、フランス、日本など、世界の各国からすぐれた先生をまねいて、一歩一歩、じぶんの理想の大学を作りあげていった。そして、タゴールのその努力は、みごとにむくわれた。かれをしたって、多くの学生が世界の各地から、この国際大学に集まってきたのであった。
やがて、この、幼稚園から大学までそなえた国際大学は、世界でも、もっとも特色のある学校のひとつといわれるほどになっていた。
今や、タゴールは学校の中に住みこんで、すべてをこの学校のためにささげた。
かれの学校での生活は、ほがらかなユーモアにあふれたものであった。タゴールの一日は、毎朝早く、決まって屋上に上り、静かに考えごとにひたることから始まるのであった。食事には、米やジャガイモ、それにマメやバターなどの菜食しかとらず、散歩と庭づくりをとても喜び、しっそな生活をしながら、けだかい考え方をするという生活を続けたのだった。
◆◆◆

どうですか、彼ら文芸の巨人に共通する日々の生き方というものがわかったでしょうか。

質素な生活をした、という価値観の問題については、生まれ育った時代性や地域性などを加味しなければ良し悪しがわからないのでさておくとしても、彼らができうるかぎり、「規則正しく」日々の生活をこそ大事に、自分の道を歩んでいた、ということがわかってもらえたでしょうか。

では、なぜに、自らの道を歩むためには生活をこそまずは整えねばならないのかといえば、これは、日々をそのような目的意識をもって過ごしている方にとっては、実のところ、なぜそんなことが問題になるのか?と怪訝な顔をされるほどの、常識中の常識、であることなのです。

一流の道を目指すということは、数日全力の努力をしたからといって成されるものではないということは、どんな方であっても納得されるはずです。
では、数日ぶっ倒れるほど頑張る、のではなくて、少しずつでも毎日、量質転化を心がけて頑張る、というときに、どんな工夫がなされねばならないでしょうか。

たとえば毎日8時間、椅子に座り続けて研究するためには?毎日8時間、キャンバスと向きあうためには?毎日8時間、武道の修練をするためには?
しかもそれを、1年と言わず5年、10年と続けてゆくためには?

◆◆◆

ここまで念押しすると、そういうものかなあ、と、なんとなくの像を描けてきた人が多いのではないかなと思います。

ここをもう少し具体的なお話をすることにしましょう。
同じ時間働くにしても、動き続けの武道や立ちっぱなしの油絵というのは大変そうだが、椅子に座って本を読むくらいならできそうだ…と思われるかもしれませんので、ならばということで、もしあなたが研究者になったとしたらどうなるか、と考えてみてもらいましょう。

あなたは1日8時間、本を読んだりノートを取ったり原稿用紙にペンを走らせます。
この際、どんなやりかたでこれらの仕事に向き合いますか。
その姿勢はといえば、椅子に座り続け、でしょう。
本来は運動し続けるのが常体のはずの万物、人間の身体を、同じ姿勢のままの状態を強いる、ということになるのです。
動くのが億劫になった老齢の人間が寝続けて床ずれによる褥瘡に悩まされていることを考えれば、また航空機のフライト時間の中でもエコノミークラス症候群がこれほど危険なものとして知られるまでになったことを考えれば、いかに働き盛りの人間であっても、この身体の使い方は実に酷、ということがわかるでしょう。

これに加えて、実際の労働を見れば8時間で終わるはずもなく、身体の硬化をほぐすためには湯船での時間をかけてのマッサージが必要になりますし、また身体を満足に動かさないために、自律神経をはじめ、精神にまで異常をきたしがちになるのです。
ニーチェやマックス・ウェーバーの晩年を想起してもらえればなるほどと分かる通り、机上であっても激務ともなれば有り体に言って鬱的な症状が見えてきます。
生理学的な観点から言っても、身体の器官のはたらきを極度に制限するということを続ければ、結果、質から量への転化がおきるために、器官そのものの実体的な能力もが低下してゆくことになるのです。
したがって、座って凝り固まった心身をほぐすために五体を日常的に動かしておかなければ、人間として満足な身体運用も精神状態も保てないはめになります。
しかしこの対策として毎日ランニングを日課にすると、さらに足の甲や足首を痛めないように、走法とケアのまともな技術が必要になります。

さて、これらの事柄を精神的に高度な問題意識を持ったままに日々を送るということにしたときに、これらの仕事と日課を、毎日バラバラの時間帯に、バラバラの順番でこなすことにすると、どういった結果を招くと思いますか。

今日は朝4:30に起床し1時間走ったのち8:00から研究に取り掛かり、17:00に帰宅し学生のレポート添削をすませ22:00に就寝した。
しかし次の日は、起床したくも寝足りなかったために8:00直前まで睡眠をとり、それから机に向かって20:00まで机に向かい、夜にランニングすることにした。
3日目はと言えば、起床してからランニングに行こうかと思ったが先ほどやったところで回復もままならないままである…

といったふうになるのが自然、というものではないでしょうか。
この上さらに酒好きで付き合いが多く夜遊びもしばし、となると、どうしようもないほどに生活は乱れます。

◆◆◆

大上段に構えた志など立てなくとも、日々を懸命に生きておられる労働者ならばわかることですが、毎日の疲れをしっかりと癒すこと自体が難しい時に、生活上の不摂生が、どれほどまでに心身ともの重荷としてのしかかっているか、ということは、言うまでもないことなのです。

こういった観点からみたとき、学生さんや同業者のふるまい方を見ていると、その人がどういう心がけで生きておられるのか、ということはどうしても一目瞭然となるわけです。
めちゃくちゃな時間に連絡をする人は、いつもそうなのです。
ですからわたしは、そういった学生さんや知り合いが連絡をしてきても、ああまたか、と受け止めてしまいます。
逆に規則正しい生活をしている人が深夜に連絡をしてくるときには、緊急であろうと受け止めますから、直ちに電話に出ます。
わたしはこの対応で、いまだ失敗したことがありません。
いかに「習慣」というものの恐ろしさが現れているかがわかろうというものです。

これらのことを要して、前回の親記事のほうで、立ち居振る舞いは当人の人格を表す、もっと大きくは、表現はその当人の認識を表す、と言っておいたのですが、その内実を受け止めてもらえたでしょうか。

◆◆◆

念のためにことわっておきますが、わたしはここで、酒を飲むな付き合いは断れ睡眠時間を削れ、などと言っているわけではないのです。
同じことをやるのならば、規則正しい生活をしなければ最大限の効果は得られるはずもないし、また量質転化で自らの心身を質的に高めてゆこうとするならば、今日の努力が明日もその次も続いてゆくものでなければならないのだ、と言いたいのです。

ですからまずは、せめて起床時間と就寝時間だけは、その時間はともかく、毎日同じ時刻に行うものとして整えてゆかねばなりません。
またそれが、習慣として身について、「そうしなければ身体に違和感がある」というくらいにまで続けて、真剣そのもので生活を整えてください。
そのうち専門とする仕事に専念するなかで、その毎日を支えるためにするべきことが次第に明らかになるでしょう。
その上で、より自分のあり方を高めたいのであれば、これも真剣に趣味を選び、これまた時間をきっちり決めて一定期間のなかでの目標を定め、それに取り組んでゆけばよいのです。

この上の、たった四行の中身を生真面目に守って、まともにやってゆくだけで、それなりの年齢になればいったいどれだけの人格を養えてゆくかが想像してみれるでしょうか。
逆にこれまでのことを振り返って、わけのわからない時間に「しょっちゅう」連絡をよこすということが、いかに自分の人格を傷つけていたのか、ということをふまえてみれるでしょうか。

毎日規則正しい習慣を続けている者にとって、決まった時間に決めたことができないというのは、実に残念で、恥ずかしいことなのです。
そういった実感が、自然に湧き出るくらいのことを、「習慣」というのです。

ですから、自分が努力を続けているつもりでも、気を抜けばたちまち実力が質的に低下してしまうというのは、またそれだからいつまで経っても自分自身を恃みにできないというのは、突き詰めて言えば、それを支える生活の基盤がないから!なのです。

これはなにも、配偶者がおらず家事が大変だからダメなのではなく、ましてや、自らに「努力する遺伝子が欠けているから」などでも決してない、純然たる自らの意識の問題なのだということを、ほかでもない自分の人生のこととして、ぜひとも受け止めてほしいのです。

◆◆◆

先ほど引用したロダンの一節には、このような箇所があります。
この記事の締めとして、読んでください。
(※引用者要約:第一次世界大戦の戦火を逃れてイギリスに逃れていたロダンがパリに戻ったときのこと) 
 いったんロンドンへのがれたロダンは、それからしばらくたって、パリが安全だとわかると、またもとの所へ引き返した。しかし、ドイツとの戦争は、そのあとも五年続き、フランスはたいそう苦しんだ。その苦しい間にも、ロダンは、ずっと仕事にはげんだ。
それは、たゆまない努力だった。
しかも、他人からしいられる努力ではなく、心の中からほとばしる芸術への情熱であった。くる日もくる日も雨の日も、風のふきすさぶ日も、朝から夕方まで、規則正しい生活が続けられたが、それでもロダンは、少しも疲れなかった。
彼が周囲からの不理解にもめげず、さりとて周囲からの強制でもなく自らを律することができたのは、彼が、自分の人生を自分の人生として生きるという、ごくごく当たり前のことを続ける工夫をしてきたからだ、とわかるでしょう。

いったい誰が、自分の人生を背にかついで高みへと連れて行ってくれるでしょうか。
そんなことを頼みにしているようでは何事をもなし得ません。
恃みにするのは自らのみ、なのです。

【メモ】最近の記事のまとめ

ここのところ、


質問に答えるかたちで記事を書いていたので、公開する順番が前後してしまっていました。

そういうわけで、ここのところの記事の一覧を下にまとめましたので、読み返す時の手がかりになれば幸いです。

◆◆◆


技としての弁証法

質問へのお答え
(“┗”で示したのは、派生する記事ですから、親記事・子記事をともに参照してもらうのがよいかと思います)
┗自らを恃むとはどういうことか(次回の記事)

◆◆◆

以上のうち、前者の一連の記事については、大きくは学問というものを、知識的な習得一辺倒のものと勘違いしてイメージしてしまっている人にたいして、「学問の本質は知識ではなく認識、しかもその技にあり」として書いたものです。

そのうち、弁証法というのは、ひとまずは認識における技として目的的に習得されなければならないものなので、このようなタイトルにしたわけです。

ここはたとえば、わたしたちがピアノでもやってみるか、とまったくの素人の段階からその修得に励むときのことを考えてください。

楽譜を読めるようになったり、またそれをアタマのなかで繰り返せるようになったところで、実際にそれを弾いてみることができるかどうか、ということはまた別の問題ですね。
つまりここが、認識が表現に移し替えられるという段階、つまり「技術」の段階における問題なのです。

ですから、楽譜を読める、暗譜できる、という認識を実際の演奏として表現するために、とににもかくにもたどたどしい運指からはじめ、何度も何度も不協和音を鳴らしながら恥ずかしい思いをしながら、日々の練習として取り組んでゆかねばならないわけです。

ここをふまえて弁証法に話を戻しますと、まずは人から教わった弁証法はこれこれこういう法則を持ったものである、ということを押さえて「習得」したのちに、それを何度も何度も認識から表現、表現から認識へとのぼりおりを繰り返すという「修練」を積んでゆかねばならないわけです。

実際の表現のためにはこの修練が必要なところを、机の上で考えるばかりの思想家たちはどうしてもわかろうとせず、弁証法など使い物にならないと切って棄てるのですが、このような「認識即ち実践」という短絡は、いわば「モーツァルトの楽譜を手に入れたから私は稀代のピアニストなのである」といった阿呆ぶりを披露するのと論理的に同じなのですから、最低でも『裸の王様』からその論理くらいは学ばねばならなかったのです。

このような修練過程をたゆまず持つということはつまり、弁証法を念頭に置きながら、それを自らの認識と何度も何度も相互浸透させる、ということです。
この相互浸透が数年間にもわたる修練のうちに結果的に量質転化し、認識そのものが弁証法的に技化されてゆくという過程を持つものなので、弁証法は絶対に知識ではなく技術なのだ、という目的意識をもって習得しなければなりません、という注意を含めてタイトルとしたわけです。

「認識における技」としたので、認識なのか?技術なのか?と、概念的な整理ができている人をかえって混乱させてしまったかもしれませんが、事情はこのようなのでご了承のほどを。


さてここでいう学問はなにも、一般に言う、学者がなにやら難しいことをごちゃごちゃやっている、という意味での学問だけに限ることではなく、本当の意味での学問が、その時代に人類が持ち得た最高の認識の形態であるからには、あらゆる対象と一流のレベルで向き合ってそれを我が物とし表現に移し替えるという時には、文芸やほかの文化を自分の道と定めた人にとっても、決して無関係のことではないのです。

むしろ、学問の冠石と呼ばれる弁証法は、最高の実践のためにはどうしても必要なものなのです。逆に言えば、高度な実践をしておられる方々の認識には、自然成長的ではあっても弁証法的な性質が働いている、とも言えます。

ただ自然成長的な認識というものは、目的的に培った認識とは違い、どこかが自己流にアレンジされてしまっているのです。たとえば三法則に当てはめてご当人の認識を調べてみただけでも、ひとつの法則は自らの金科玉条として無上の価値が置かれているけれども、他の2つの法則についてはまるで無頓着で玉に瑕になっている、などということがわかるものです。

たとえばわたしの歳上の友人は、その経験から「生があるから死がある。死があるから生もまたある。」などの関係についての法則性を引き出し、それを社会問題や業務上の実践にも当てはめて成果を出してきて、周囲からも賢人として認められておられる人です。

これは<対立物の相互浸透>の初歩の理解ですが、では他の法則についてはどうか?と、たとえば「生から死への転化はどういった過程があるのですか?」<量質転化>や、「生物種というより大きな視点から見れば、親が死んで種を残すからこその種の保存なのではないでしょうか?」<否定の否定>と、他の法則についての理解を促すかたちで質問をしても、知識的に知っている範囲内での事柄しか答えられないのです。

いくら強調しても、やはり実践から自らの手で引き出したという自信は抑えがたく、学者がなにやら言うておる、といった受け止め方でした。
しかし付き合いの長くなったある時ある拍子に、ご当人が突き当たっている問題について雑談していたとき、「えっ、あっそうか!ああっ…いま、きみの言ってることわかった…ずっと同じことを言ってたのか」と、なぜもっと早く納得させてくれなかったのか、と詰め寄られたものです。

三法則だけでも習得する気があれば、実践はより質的に違ったものになっていたはずで、事実ご当人も、眼前のあまりに大きな魚を逃したことに非常に悔いておられましたが、これが、自然成長というものなのです。

そういうわけで、せっかくこんな文字ばっかりの閻魔帳Blogを覚悟を決めて(これは本当です。読者でい続けてくださるみなさんの謙虚さにはいつも驚かされています)見に来てくださっている人たちは、せっかくエンゲルスがヘーゲルとそれ以前の哲学をとおして森羅万象のあり方と向き合い、三つの法則として引き出してくれた弁証法をありがたく学ぶことにしようではありませんか。

この三法則の導出というのは実のところ、本当に凄まじいほどの偉業なのであって、これはたとえば「ヘーゲルの考え方そのもの」を学ぼうとしても絶対的に不可能であったところを、三法則によって一般大衆にも大きく、一流への道を開いてくれたという素晴らしさがあるのです。

もっとも、弁証法にも当然ながら、まだ先があるのですが。
罵詈雑言が飛び交い猫も杓子も魑魅魍魎も跋扈するこのインターネットの片隅ででも、いつかそういうところまでみなさんとともに歩んでゆきたいものです。
本や公の記事よりも口悪くしゃべれ…おっと、本音が出せますし、なにしろ無料です。

◆◆◆

さて、まとめなのに全然まとまってない!というお叱りをそろそろ受けそうなので、後者の一連の記事についての説明書きは一行で済ませましょう。

後者の、とくに下記のものについては、いつまで経っても「受け身に」学ぼうとする姿勢が抜けない人には、ぜひとも一読と一考をお願いしたいと思います。
┗自らを恃むとはどういうことか(次回の記事)

次回の記事は、できれば今日の夜には公開したいと思っています。

2012/07/22

弁証法習練のための参考書はどう選ぶか

先日、いただいた質問に簡単に答えておきました。


ただそれでも、その方針にしたがって具体的に実践してみるとなるとなかなか難しく、「本当にこれでいいのかな?」と不安になってくる、ということがありますね。
今回は「質問へのお答え 1~3」を受けて、参考書の選定について、ひとつの例示を挙げて具体的に考えてみましょう。

ともあれ、実践上の不安というものがまったくなくなるということもないことはよくわかります。
とくに、ひとたび誰かを指導する立場になったならば、突き詰めるものごとの確からしさのみならず、その突き詰め方、という過程にも細心の注意を払わねばならなくなりますから。

しかしそれでも本来ならば、その不安さがあるということは、未だ過程における探求の至らざる証拠である、と捉えなければならないのです。
ここは実体的に言えば、痛みというものがあるからこそ故障の箇所や具合がわかるのであり、またそれにいかに対処するのかもわかってゆく、ということです。



こと精神上の不安というものが無くならないということについては、当人の論理力の有無というものも含めて考えておかねばなりません。
感性と理性をごっちゃにするとはなんという暴論か、と言われる向きは、下の例をいっしょに検討してみましょう。

たとえば、あなたが乗車中に、誤って海に転落したときのことを想像してみてください。
車内の空気が抜けてゆくとともにずぶずぶと車体は沈んでゆきます。
後部座席に座っている友人たちが金切り声を上げ慌てふためいているのを知ると、とても落ち着いてなどいられない、というのが一般の心理というものでしょう。
となれば、この先あなたがたにどのような運命が待ち受けているかは、言うまでもないことです。

しかしもしここで、あなたの認識が実践に使えるほどに科学化されていればどうなるかも確認しておいてください。
ですからここでは、「もともと映画のヒーローや武芸者並の精神力があった」という前提はとりません。
さて万事休すかと思ったそのとき、「それでも最後までなにかできることを探さねば」というところに思いを致すことができて、また、わずかにでも冷静さを取り戻して、使える知識や考え方はないものかというほうに考えを向けられたとしましょう。

もし中学生レベルの科学的な知識さえあればあなたは、すでに水面から、身長ほどの高さくらいに車体が沈んでしまっているということから数トンの水圧がかかっているために、このままでは内側からドアをあけることは絶対的に不可能であるということがおおよそ推測できます。
だからこそ、他の乗客はこれほどまでに狼狽しているのだということも、それなりに受け止められるはずですね。

しかしここで、いま問題なのは、車内の気圧とそれを押し付けている水圧に差があるからこその問題なのだと、少しばかりの論理でもって考えることができるのであれば、どうすればよいのかもわかるのです。
実は、車内の空気がほとんど抜けてしまい、ほとんどが水で満たされてしまえば、自然とドアは手で開けられるようになるからです。

そうするとあなたは、同乗者の狼狽をなだめて、車内が水で満たされたらドアは開けられるから心配するな、それまで落ち着いて機を待ちなさい、ということができます。



ものごとというのは、その先に待っているものを一般的にでも見通せる者にとっては、
「(実際的にどうなるかは経験がない以上わかりかねるけれども)少なくとも理論的にはこれでうまくいくはずだ」
という見通しが立てられることから、精神上の安定にも大きく一役買っているのです。

ですから、準備はやっているはずなのに発表ともなると不安で仕方がない、という場合には、その原因を「精神力の無さ」とか、「胆力の無さ」などといったものにいきなり解消して遺伝子やら運命のせいにしたりせずに、これから自分がやることについて、論理的に見通しが立てられているか、ということを考えてみるのも、大いに意味のあることなのです。


◆参考書の選定について◆

さて、雑談をしているとまたまた前に進まなくなりますから、本題です。

「自分自身の弁証法習練のために、社会と歴史の基礎についての参考書を選びたいのだが」ということでした。

質問者さんにお尋ねします。
あなたが本屋さんの店頭で、ページをペラペラめくりながら、どの参考書が良いものかと思案しています。
そのとき目についた箇所を比べた時、下に挙げた参考書は、どちらのものがよいでしょうか。
理由を挙げて、どちらかを支持してください。

なお図表は引用していませんが、なくても答えに変わりはありません。

『新しい科学の教科書 Ⅰ 第3版』
・水の不思議
水をコップに入れて冷凍庫で凍らせると体積が増えます。どうしてでしょう。
氷では、たくさんの水分子たちが集まって、互いにがっちりとスクラムを組んでいます。しかし、水分子たちはすきまの大きい集まり方をしています。液体の水では、水分子は互いに引き合いながら動きまわるようになり、すきまが小さくなります。そのため、水が氷になると、すきまの分だけ体積がふえるのです。
同じ個数の分子がつくる水と氷では、重さは同じです。しかし、体積は氷のほうが水よりも軽くなります。氷の密度は、水の密度よりも小さいのです。ですから、氷は水に浮くのです。これは特別なことなのです。
水とはちがい、ほとんどの物質は、液体から個体へと変化するときに体積が減ります。液体の水銀を冷やして個体にしたときのことを思い出してください。液体から固体になると、物質をつくっている分子のすきまが小さくなり、ぎっしりつまった状態になります。ほとんどの物質は、個体のほうが液体よりも密度が大きいのです。
『ブルーバックス 発展コラム式 中学理科の教科書 第1分野 物理・化学』
・氷が水に浮かぶ不思議
私たちは水に囲まれて生きていますが、水をよく観察してみると、不思議な性質をもっていることに気づきます。
温度が下がるとその体積が減少するのが物質の一般的な性質です。ですから、個体の状態は液体の状態よりも体積が小さいのが普通です。しかし、1gあたりの氷と水の、温度による体積変化は、不思議なグラフの形を示しています。氷が水に変わる0℃で体積が急激に変化しており、しかも個体の状態のほうが体積が大きいのです。
これは氷と水の構造に関係しています。水は氷になると、水分子がきれいに配列してすき間の多い構造となります。氷になると体積が増えるのはこのためです。ついでにいうと、水分子と水分子との間には結びつき(水素結合)がありますが、水分子をつくっている結びつきよりも弱いので、氷を砕いても水分子自身が壊れることはありません。


「どちらも同じようなことを書いているようだが…個人の好き嫌いで選べば良いのではないだろうか。」と考えたが、答えを出せと言われるのでどちらかを選ぶことにした、というあたりでしょうか。

でも、それではいけないのです。
良い参考書がどちらなのかという問いは、読み手がものごとをどのように理解してゆくべきなのか、という尺度に照らせば、ちゃんと答えが出るのです。

「そんな、認識論もまだわからないのにできません」などと、しっかり検討もせずいきなり無理だと結論しないでください。
「無理なように見える…でも、自分にできることはまだなにかあるはずだ」と考えなければ、何事も前に進みませんし、論理の力もつきません。
ましてや後進を指導する者としては立てませんからね。続く者のために、と踏ん張って、努力の姿勢をぜひとも自分のものにしてください。

ここでもし、「読み手がものごとをどのように理解してゆくべきなのか」、つまり、一般的なものごとの理解の仕方がわからないのであれば、もっと具体的に問題を置き換えてみればよいのです。
たとえばあなたが中学生の後輩をもって、その人にいちばん正しく無駄のないやり方で理科を教えるためには、と考えてみればよいでしょう。
そのときにふさわしい参考書はどちらですか?もう一度考えてみてください。



では、ということで2つの参考書の検討に移ることにすると、両者ともに、検定教科書と違って、「分子」の考え方を指導に取り入れていることがわかります。
たしかにこのほうが、熱やイオンなどに学習が進んだ時にも、すでに習った事柄を基礎にしながら考えを進めてゆけますから合理的です。

さてそういった大まかな方向性は似ている両者が、水分子について論じています。
水分子というのは、ほかの一般的な物質と違って、個体の状態のほうが液体の状態よりも体積が大きいのです。
だから、両者ともに「水は不思議である」という意味を込めた節題をつけているわけです。

これらの把握については、科学的な基礎知識であるだけに、両者ともに差はありません。
しかし、その「論じ方」は、大きく違っているのです。
その違いがわかりますか。
論理の力を実践に使えるくらいまでしっかりと伸ばしたい方は、論じ方の順番に着目しながらもう一度考えてみてください。



ここまで書けば、「あっ、わかった!」となる人も多そうですね。

そうです。
順番が違うのです。
物質の一般的な性質と、そのなかでの水の特殊的な性質の記述の順番が、です。

『新しい〜』は、水の状態変化が持っている性質は特別だ、と述べたうえで、最もさいごの行になってはじめて、一般的な物質はそうではない、ということに言及しているでしょう。
それに対して『ブルーバックス』は、一般的な物質の性質について述べたあとで、それらと比べるかたちで、水の特殊性について言及していますね。

まとめていえば、前者はまず水の特殊性から物質の一般性へと進み、後者は物質の一般性から水の特殊性について進んでいます。

さて問題は、このどちらの記述方法が読者の体系的な理解を助けるのか?ということでした。
あなたはもう、答えがわかったのではないでしょうか。
これは、どうしても後者のほうが良い、ということになるのです。



「なにも知らない人が読んだときにはどちらが理解しやすいだろうか」と考えたときに、自分なりの答えが出せましたね。
これこそが、認識論の習練になるのです。
一見するとわからないことでも、自分のできることから考えを進めれば、きちんとした答えが出るでしょう。もっと、自分こそを頼みにすべきです。そうしてそれを積み重ねてゆくべきです。

それでも、なぜに一般性から特殊性を論じるのが正しいのか根拠を述べよ、という人がいるでしょうか。
たしかに、部分的な引用で判断をするのは強引過ぎる、と判断したためにかえって答えが出せなかった人もいるかもしれませんので、もう少しつっこんで考えてみましょう。またこの確認をしておくことは、認識論的な観点からも重要です。

もしあなたが、理科についてまったく詳しくない人間だったとして、水と物質についてどのような像が描けるかを確認しながら読みなおしてください。

前者の論じ方といえば、水は不思議である。なぜなら個体のほうが液体よりも体積が増える。これは特別だ。それとは違って一般的な物質は〜、という流れです。
それに対して後者は、物質は一般的にこうだが、水はこのようである。なぜなら水分子の構造は〜、という流れです。

どのような像の描き方がなされたかがわかるでしょうか。

前者で水が不思議だと言われたとき、あなたのアタマの中の水の像は「???」となっています。次に特別だと言われても、なにがどう特別なのかがわかりません。なぜかというに、比べるものがなければそれが特別であることもまたわからないからです。そうしてやっと、最後の一行で、物質の一般性が登場します。しかし水の像が「???」のまま読み進めてきましたから、物質の一般性を提示されてもピンときません。そういうわけで読者は、物質の一般性をアタマに描きながら全文を読み返し、「ああそういう意味で、この著者は水を不思議だ特別だと言っていたのだな」と、やっと、水の特殊性について改めて理解することができるというわけです。
後者については、説明するまでもありませんね。
だから、後者のほうが良いのです。



もし学校の実際の授業が、実験を中心としたものであるなら、水についてあれやこれや調べたあと、他の物質についても調べてみて、実は水のほうが特別だったんだよ、と、次第次第に物質の像を描かせてゆく、という方針で進めてもよいのです。

しかし、読みながら理解を進めるための教科書が、基礎的なところでさえも再読を要するものであっては、選ぶのに躊躇してしまうというものです。
この記述がさらに応用知識でも採用されていると…と考えると恐ろしくなりませんか。

わたしはこのBlogでは率直にものごとを言いたいこともあって、名指しでの批判はしないことが基本的な方針です。
しかし前者については、検定外の、よりよい教科書を作ろうという志は日本の義務教育にもよい刺激を与えるものと思うだけに、表現についての粗がどうしても目につくのです。
それは上で指摘した、子供たちがいかにものごとを理解してゆくかという認識論的な観点の欠如に加えて、あまりの落丁の多さ、です。

一般に教科書といえば、論理的にはともかくも知識的には現代という時代にまで発展した社会の構成員として、必須の知識を得るためのものであるがゆえに、落丁があってはいけないものです。
学生が、ここはもしかするとまた間違っているのではとビクビクしながら学ぶのであるなら、教科書としての役目を果たせるものではないと心得るべきでしょう。
すでに10箇所前後の落丁を見つけましたが、ウェブサイトにも正誤の一覧がないところを見ると、どうしたものか、という思いがします。

前者の編者は、実は後者ブルーバックスの高校編の編者をしているので、このあたりは出版社の校正体制に問題があるのかもしれません。
しかしともかく読者にとっては、世に出た表現こそが全てです。

認識論的な面についても、参考文献には「仮説実験授業」で、科学教育に認識論を取り入れた板倉聖宣の名が見えるだけに、当人から何を学んだのだろう、あの人の研究の偉大さは科学史から人類の認識の発展過程を学び、それを個人の認識の発展過程につなげたところにあるはずなのに…と、苦言を呈さざるを得ないのは残念です。



さて、またまた余談が過ぎましたが、参考書の選び方は、大まかにはこのようになされるべきものです。
一言でいえば認識論的な観点を持つべきである、ということになりますが、弁証法の習得過程ではいきなりは難しいですから、上で述べたように、自分の出来る範囲で、「ものごとを全く知らない人でもわかるかな」という視点で比べてみて、認識論的な実力も共に養ってゆくとよいでしょう。

また良い参考書を選んでおけば、弁証法の習得の助けにもなりますから。

ここでは一部しか比較しませんでしたが、経験から総じて言えば、一部であっても明らかな優劣がつく場合には、他の箇所で盛り返すことは難しいものです。

わたしも新しい教科書が出るたびに手にとって楽しみに読んでいますが、科学という分野では、検定教科書についてはあまり大きな違いはないようです。
知るかぎりではブルーバックスシリーズは一般図書として店頭でも手に入りますし、構成についても良い本だと思います。

同様に考えて、他の分野の参考書についても検討してみてください。

2012/07/21

技としての弁証法は何を導くか (5)

この節は、具体的な一般性修得の進め方です。


さて上で述べてきていることはなんとなくわかったが、擱筆する前に具体的にどういう修練をすべきなのか教えろ、という方もおられるかもしれません。
その場合には、まずは自らの専攻分野の歴史の流れを、一般性において把握してください、ということになります。

つい最近の記事でも出しておきましたが、林健太郎『歴史の流れ』に、知識的にではなく、その一般化の程度をしっかりと学び、自分の専門分野の歴史を、それと同じレベルの一般性において把握できるのであれば、自らの目指すべき本道がいかなるものであるかがおぼろげながらわかってきます。

言い換えれば、西洋史が『歴史の流れ』という一般性として示されているのと同じようなかたちで、たとえば日本史、物理学史や経済学史、そのほか芸術史、武道の歴史、文学史といった、自らの先行する分野の歴史を一般性において表すべきである、ということです。

この一般化というものを、決して軽視しないでください。
これが把握できるということが、直接的に一流となるための条件となっているのですが、人はあまりにもここを軽視し、またあまりにも努力しなさすぎます。
だから、根拠薄弱のまま前に進み、少し小突かれては一度立てたはずの主義を撤回せざるを得なくなり、あまつさえ真理なるものはないのだ、などといった甘えた相対主義に落ち着かざるを得なくなるのです。

わたしたちは、歴史を先人から引き継ぎ、新たに創造することで受け継いでゆくのです。
自分勝手にでっち上げるのではありません。

それでも一般化というものを、「大まかなあらすじを書けばいいだけだろう、なにがそんなに難しいのか」と言いたい人には、「ではやってみなさい」と言ってあげてください。
実際にやってみれば、これはとてもとても難しいことであると、すぐさまわかります。

なぜと言うに、対象となる分野の大道が見えていなければ、どの歴史的な事実を拾ってゆけば良いのかが解らず、結局のところ、年代順に事実を並べてゆく羽目に陥るからです。
しかしそんなものは、一般性では絶対にありません。
繰り返し言いますが、本質や原理原則がおぼろげにでも見えなければ、対象を選びとることはできないのです。
原理や原則があるからこそ個別もありうるのである、という対立物の相互浸透のありかたを今一度押さえてください。

ことはこうであるからこそ、入門者用の教科書は、ものごとを一般的にでも突き詰めてからでしか書けない、と言われるのです。
しかし、専門分野の全体像が見えてくることを自然成長性に任せていては、教科書を書ける頃には引退間近、ということにもなりかねませんから、初心においてでも力不足を顧みず、全体像を見渡してやるぞ、そこに一本の筋道を見つけてやるぞ、という不退転の決意と問題意識でもって、はじめの一歩をとにもかくにも踏み出してください。

まずは、一般性を引き出すために必要な書籍の選定をやることです。
自らの専攻分野についての、通史、〜の歴史、学史、などといったものの中から、その歴史が持っている全体像を浮き彫りにしてくれる書物を探すとよいでしょう。
通史と言いながら年号と出来事を並べているようなものなど、名前負けしているものはどんなものものしい冊数の、分厚い全集であろうとダメです。
むしろ、薄くコンパクトにまとまっている本のほうがよいことさえありますので、先入観なしに網羅的にあたってください。
ある程度見て回れば、芋づる式によい本が見えてくるでしょう。

また、扱っている対象について、たとえば物理学なら「物理」、経済学なら「経済」、その根本概念について、「物理とはこれこれこういう現象である」と、明確に概念規定してあるものは最良です。

そうして、弁証法を最大の導きの石としながら、その壮大な流れを一般性をもって書いてみることです。
A3を二つ折りにして、時代ごとに一枚見開きを使って書ききる、ということを歴史全体を通してやってみて、それを何度も何度も読み返しながら不足を補い、ある程度の流れが踏まえられたら、さいごにA3一枚に、前歴史の流れを書き起こしてみてください。
それができたときには、一度見せてください。

これはいくら強調してもし足りないほどに、またまともな一般性というものはとんとお目にかかったことがないというほどに、重要でありながら軽視されていることなのです。
どんな分野の歴史でも、ある程度の一般性でもって書いてこられる学生さんがあれば、わたしは生涯にわたってその分野についてはその当人に聞くことになりますし、その人格をも尊敬してやまないことになるでしょう。

***

私事ですが、わたしは所属したすべての大学で、すべての学科の「総論」、「概論」、「入門」、「原論」、「学史」といった総論的な授業に出ましたが、そのうち見事であると思えたのはたったひとりの人物の手による、総論と学史だけでした。
わたしが記事のはじめに、いつも「前回は〜〜という内容をお話してきましたね」とあらすじを述べるのは、「それまでの流れを一般的に押さえる」ということを、読者のためのみならず自らの修練として繰り返し繰り返しやっているのだと、その構造を押さえて理解してほしいと思います。

このことの重要性は、その恩師の背中から次第次第にわからされてきたことです。
その学恩を受けて、授業修了時の試験の解答として制限時間内にありったけの筆の勢いで書き下ろした、当時のわたしなりに把握した歴史の流れを見るや、恩師は「あなたの解答は私の学問教育の一里塚として誇らしい。額縁に入れて飾ってある」と、こちらが卒倒するくらいの過大な、それはそれは受け取り切れないほどの最大限の賛辞を持って喜ばれたことを、いまでも鮮やかに思い出します。

わたしはそのときには、飛び上がらんばかりに嬉しい反面、「なぜあの解答がそれほどまでに喜ばれたのか?もっと時間があれば詳しく書けたはずであろうに…」という疑問符だらけの感情のこもった問題意識でもって、わけもわからないながら毎日毎日、頭の中の恩師と議論しながら学問と取り組んだのち、弁証法、そしてそのうちの一般性というものの無上の重要性に、これまた次第次第に気付かせてもらえることになったのです。

あの日々というは、まことに牛歩そのもので、自らのわからなさ加減、馬鹿さ加減、根性の至らなさ加減に深い失望を覚えつつも、かけていただいた言葉を唯一かつ無上の糧として自らを奮い立たせる毎日でありましたから、こうしてみなさんに確からしくなったところをお伝えできるというのも、それはそれは嬉しいことなのです。

さて思い出話はさておき、本道を歩むにあたってのはじめの難関である一般化の修練過程においては、自分の把握している歴史を、弟子や人に話して伝える、わかるように教える、ということが最良の訓練になります。

そこではあくまでも歴史の王道を一つの流れでもって示せねばなりませんから、実のところ、個々別々の人物名や年代、なんたら条約、会議、といった名称は、歴史上必要不可欠なものを除いてほとんど顔を出さないものと考えてください。
またそれらが出てくるときには、大きな歴史の流れのひとつの要素として取り込まれて登場しなければならないのです。

我こそは、と思わん方はぜひとも取り組んで、それなりのまとまりができたときにはわたしにも聞かせて、見せていただきたいと思います。
出来がいかなるものであってもダメで元々、取り組んだこと自体が価値であるとの最大の敬意を払って歓迎します。存分に志のほどを見せていただきましょう。

その暁には、また次の一歩について議論したいものですね。
少し先取りしますと、一般性を把握した後には、それを否定の否定で本質論へと転化させてゆく過程が待っています。
ものごとの探求ということには、終わりというものはないのです。
これまでには想像すらできなかった地平を目の当たりにした時の感動を、ぜひとも共に分かち合いたいものだと願ってやみません。


(了)

2012/07/20

技としての弁証法は何を導くか (4)

昨日の記事で、


三浦つとむがカントの主観主義的観念論から、ヘーゲルの客観主義的観念論への発展の理解を助けるために例示していることを見てきました。

その例示と、わたしが挙げた冒頭のお題との関連性はわかってもらえるでしょうか、というところでしたね。

***

ここで、同じ観念論であっても、主観主義から客観主義への発展というものは、学問を志す者にとっては驚くべき、驚天動地といってもよいほどの大きな転換であったのです。

たとえばわたしたちが月曜日の朝に起きて、窓の外の景色を見るときのことを考えてみてください。
仕事に行きたくない気持ちのあまり、「あ〜、ここから見える景色がハリボテだったらなあ…」と思ってみることはできるでしょう。

素朴な考え方ができるひとは、それでも我に返って、「つまんないこと考えてないで顔洗ってこよ」と、食事を済ませて仕事に向かうはずですが、世界をその成立根拠から考えることを生業とする哲学者にとって、これは喫緊の課題です。
なぜかといえば、自宅の窓から見える景色が、精巧な作りのハリボテであるという明確な根拠はなかったとしても、それがハリボテではない、という確かな根拠もまたないからです。

その問題だけでなく、ほかにも勤務中に町を行き交う人たちも機械であるかもしれず、また駅で乗る電車についても、地表を電車が動いているのではなくて、止まっている電車の下の地表が滑っているのかもしれません。

考え始めると童話の一つでも書けそうな、身近にありながらよく考えると不思議な、しかしそれでいて根本的なこれらの疑問に明確な答えを出したのが、大哲学者ヘーゲルその人であったのです。

***

ここまで話を追ってもらえれば、この一連の記事の冒頭で出しておいた問題、
「亀は甲羅でその身を守っている、と言われるのはなぜでしょうか。」
という問いかけについて、ヘーゲルなら答えられるのかもしれないな…と思え始めたでしょうか。

ここで、わたしが冒頭で、その問題を出したあとにヒントを出していたことを思い出してください。
それはこういうものでした。

わたしたちが亀の硬い甲羅を見て、「あんなヤワなもので大丈夫だろうか」と考えるのではなくして、「頑丈そうだな、さぞかし身体をよく守ることだろう」と考えることになっているのは、いったいどういった根拠に拠っているのでしょうか?

この言い換えでどんな手がかりを読者のみなさんに伝えたかったのかといえば、亀の甲羅を柔らかいとは思わずに硬いと判断し、犬に噛み付かれることを好意ではなく敵意だと判断し、空を赤ではなく青であると判断するという、わたしたち人間が持っている判断の確からしさというものが、当人の勝手な思い込みではなくて、ひとつの客観性を持っている、ということです。

そうして話ここに至り、この客観性を森羅万象から取り出す方法を提示したのが、ほかならぬヘーゲルであった、ということです。

ではこの客観性というものがいかにして与えられ、物事の真偽を判断するための手がかりになっているか、といえば、その答えは歴史の中にある、と彼は言います。

一般の読者のみなさんは、歴史というと、何十億年も前に地球が生成されたり、数億年前に生命体が誕生したり、古代ローマ帝国が分裂したあと滅亡したり、ピラミッドが建設されたり、織田信長が本能寺の変で命を絶たれたりなどといった事柄を思い浮かべるかもしれません。

しかしここでいう歴史というのは、そういった個別的な事実ではなくて、歴史というものの流れ、というものなのです。
そうしてその歴史、つまり生物の誕生とその種の間のせめぎあいと進化、人類の民族の生成とその間の栄枯盛衰、人類が文化を作り上げるなかでの精神の生成と発展といった歴史を、その大きな流れを俯瞰するように把握した時に、わたしたちはひとつの「論理性」を獲得するのだ、ということなのです。
そうして、その論理性でもって眼の前の対象を判断するからこそ、そこに客観的な真偽を見出しうるのだ、ということなのです。

このことを踏まえて冒頭の問いかけに戻って考えなおしてみることにすると、亀の甲羅がどのようなものであるかは、現在目に見えているその対象のみで云々できるようなものではなく、それが生成され発展してきた過程をふまえてこそ判断しうるのであり、それを導くのが弁証法という論理である、ということになります。

ですから、冒頭の問いへの答えのうち、誤りであるとしておいた考え方のうち、あるものは対象としているものの歴史を辿ってみることなく現時点での対象だけを見て、硬いとは柔らかくないものだというふうに言葉遊びの域を出ないということになるのです。
そしてまたあるものは、硬いという概念を歴史的に見てこなければならないはずのところを問うことなしに、「「硬さ」がどれくらいか」と、論理の問題を事実の問題とすり替えて捉えてしまった、ということになるのです。

またさいごの、事物の性質は主観による、という考え方については、ヘーゲルが森羅万象の一般性を引き出し得たことで、森羅万象を客観的に探求するための土台が与えられることになったのです。
このことからわかるとおり、ヘーゲル哲学は観念論として完成されたものの、その探求過程は唯物論的でした。事実、ヘーゲルが森羅万象を学問的に捉え切ったことで、彼の登場後、分科の学たる個別科学は、一挙に花開くことになっていったのです。

さてともかくここをこのように、ごく簡単にでも、アイデアレベルにでも受け止めることができれば、「リンゴの本質とはなんだろうか…。リンゴとは赤いものである、いや、それだけではない。ではリンゴは丸いものであると言えるだろうか、いやそれだけではない。それではリンゴは、樹になるものであろうか、いやそうとも言い切れまい…」などと、対象の本質を概念と対応させて手繰り寄せようともかなわず、結局のところ彼岸へと落ち込んでいった思想家の二の轍を踏まずにすむわけです。

ヘーゲルの学説が歴史哲学と呼ばれたり、彼の考え方を学び、それを唯物論に作り変えたとされるマルクスやエンゲルスのものごとの見方が、「史的」唯物論と呼ばれる理由がわかるでしょう。
それだけ、ヘーゲルの考え方では歴史、もっといえば歴史の流れ、つまり歴史的な論理がその根本に置かれているのです。

ものごとの確からしさの根拠が森羅万象の生成と発展の中にある、という、誰しも一度は思いつきはするけれどもあまりに壮大過ぎて探求は不可能であると諦めた大本道をこそ真正面に据えて歩み、そうして客観主義観念論をほとんど完成させたというところに、彼の大哲学者たる所以があるわけです。

みなさんがここや三浦つとむの本で学んでいる三法則をはじめとした弁証法は、こういうヘーゲルがかつての偉人の業績を一身に受けて我が物とし、そうして導き出されてきたものなのです。

***

ここまでの説明を聞いた時、大事なことを言われているような気がするけども、わかったようなわからないような…といった感想を持っているかもしれませんね。

それでよいのです。ここはいきなりわかるわけはないし、わかった気になってもらっては困る、というほどに、「なんとなくわかった」という段階に達するまでにもそれはそれは長い年月の研鑽が必要なことですから。

ここではおぼろげでもイメージを持って、弁証法という考え方があればこんなことまで追い詰められるのか、という凄まじさを感じてもらうために、目に見える、実体的な例を挙げておきましょう。

みなさんは中学校の生物の時間に、人間の身体の生成と発展を見たことがあるでしょう。
はじめは丸い卵のような受精卵であったものが、細胞分裂を繰り返して次第にヒトらしい形にまで育ってゆくのでしたね。
その途上に着目すると、受精卵が受精後30日ほど経ったときには、尻尾やエラのようなさけめを持った、魚のような形をしている段階があることに気づくはずです。
これは事実的に、魚類であろうと両生類であろうと他の哺乳類であろうとヒトであろうと、それなりの高等な生物であればみな同じような形をしています。
そうして魚のような段階を過ぎる頃になると、手足が伸び、尻尾がだんだん縮まっていって、ようやく赤ん坊を想像できるような身体つきになってゆきますね。

この過程を見た時に、なぜ、赤ん坊では消えてしまうエラや尻尾が、お母さんのお腹の中にいるころにはなければならないのだろう?という疑問が湧いてきませんか。
理科の先生が真正面から答えてくれたとしたら、その先生はすごい人です。
しかしそうでなくとも、あなたのその問いかけは、とても大事なことなのです。

この過程は実は、人間の赤ん坊というのは、母体の中で、今までの地球の生命の歴史を、ものすごい速さで繰り返している(!)ことを示しているのです。

地球上に生命が誕生し、母なる地球の発展と浸透するように微生物、カイメン、クラゲ、魚類、両生類、哺乳類、サル、ヒト、そして人間へ、と生成し発展してきたというその何億年もの過程を、わたしたち人間は誰しもが、それぞれのお母さんのお腹の中にいる1年弱という短い期間の間に、繰り返しているのです。

こういうと、魚やカエルのような姿、といったところで、それらとぴったり同じわけではないのに大雑把な決め付けは科学的ではない、といったような反論があるものです。
しかし逆にいえば、もし人間の赤ん坊が、カエルとまったく同じ発展をするのだとしたら、それは人間になるはずもない、ということではありませんか。
人間は人間にまで成長するという原則において、あくまでも一般的に、地球上の生命史をなぞらえているのです。

少し話は逸れますが、このお話から、「一般的に」というのはなにも、「大雑把に」ということではまったくないのだな、と、論理の問題としていつも述べていることの根拠を見出してもらえると、いつものお話もより理解が深まるはずです。
原則を踏まえてこその一般性である、とどうしてもわかってもらわねば、大きな流れから論理を取り出す時に、なにやら大雑把であるとの印象を抱いてしまいかねませんから。

***

本当ならばもっと詳しいお話もしなければなりませんが、ここではおぼろげな像(なんとなくのイメージ)だけでも持ってもらえると、自分の道の歩み方の本質化のためには大きな意味があると思います。

たとえば上のように、わたしたちの身体が地球の生命史をなぞらえているのだとしたら、と考えてみれば、次のようなことについても考える筋道が立つことになってゆくでしょう。
ここがわかっていれば、わたしたちの精神面の生成と発展は、どのようなものになっているのかという過程的な構造、また、どのようなものであるべきなのかという育児論、教育論、指導論、というものも、より本質的に考えてゆけるはずです。

先程も言ったように、これらは一般的なお話ですから、育児や教育といった、身体の生成とは質的に違った特殊的な対象に向きあう時に、イルカのように優雅に動けだとか、カエルの動きから学べだとかの阿呆をやってしまう向きには百害あって一利なし、となってしまいます。(書店に山積みされている本には(おそらくテレビなどにも)、こういったあからさまに頭脳活動の低い著者の成したものがありますが…なんと言えばいいのでしょうね。悲しさのあまり言葉につまりますが、珍説を真に受けた犠牲者が出ないことを祈るばかりです。)

しかし、ある程度の論理をここで把握してもらっている読者のみなさんには、うまく伝わるのではないかな、との思いを込めて、ここまで書き連ねてきた次第です。

自分が扱っている対象の生成と発展、その歴史を「一般的に把握する」ということの大事さが、少しでも伝わったでしょうか。
それがなければものごとの真偽はつかないのだし、歴史性を無視すれば堂々巡りに陥ってしまうことがわかってもらえたでしょうか。
そしてまた、一般的な把握というのが、なにも大雑把にものごとを断じているわけではなく、むしろ個別的な知識にいきなり深入りすると論理性など身につくはずもない、ということまでわかってもらえるでしょうか。

弁証法を、三法則の「習得」からはじめて、それらの法則がいちおうのかたちで一体となって自らの認識が弁証法性を帯びたものとして浸透し「修得」できはじめたときには、わたしがはじめに間違いであると断っておいた考え方などは、言うまでもないほどの踏み外しとして一蹴できるのみならず、対象を確固たる一般性を持って見ることができるところから、次にはそれをより深く探求してゆくだけでよい、ということになるのです。

ここで弁証法という論理を持たないのならば、なんとなく決めた対象に、なんとなくの向き合い方で進んではみたものの、果たしてこれが正しいのであろうか…と、自らの選択に疑念を抱きながらの前進になるのであり、また時代の流れが変わると自らの主義主張が通用しないことが明らかになるがためにそれらいっさいを棄てて探求をやり直すことになったり、またそれが災いし目立った若手を政治的に潰すということだけが趣味の、見るも無残な人格として齢を重ねてゆくことにもなるわけです。

わたしはここで嫌味を述べているわけではなくて、論理性を欠いているということは、実のところ、人格のあり方にも影響せざるを得ない、という事実を指摘しているのです。

さて、ここで述べている弁証法という論理が歴史的に生成されているものである、という一事が過たずわかるのならば、このBlogであれやこれやと手を変え品を変え、ときには誤解を恐れずに述べてきていることが「なんだ、やたらめったらと当たり前のことをいちいち書くものだな」と受け止められるばかりでなく、自ら説き起こしてゆけるというくらい、大事なことなのです。

逆に言えば、歴史を軽視したり、またそこから歴史性を取り出す方法を学ばないのなら、最高のやり方で自分の道を歩んでゆくことが実質的に不可能になる、ということでもあるのですが。

***

本論はこれにておしまい、ですが、あとは勝手にやれとはなんと無責任な、という人のために、もう一節設けて、具体的な一般性修練の進め方も書いておきます。

この方法論を独力で構築することこそが本当の学力というものなので、いきなり答えを知りたくないという気骨のある方(同志よ!)は、明日の21時まで考えてみてください。


(4につづく)

2012/07/19

技としての弁証法は何を導くか (3)

長らくお待たせしてしまいました。


わたしの寄り道のせいでずいぶん間が空いてしまったので、どんな記事だったっけな?と思われているみなさんも多いと思います。
この記事では、亀はその甲羅で身を守っていると思われているのはなぜか?というお題を取り上げて、その問題に向き合う姿勢と考え方について、いくつか検討してきました。

***

その中で、これまで触れてきた考え方はそれぞれ、以下のような欠陥があるのでした。

まず問に向き合う姿勢そのもののまずいもの。
次に、あれかこれかで考えることが論理的に考えることであるという思いが強いあまりに、問題を形而上学的に片付けてしまっているもの。
そして、数値的に厳密な処理をすることを科学的に考えることであるという誤りに陥っているもの。

***

特に注意を要するのは3つ目のもので、それは、科学はどこまでも精確を期するものでなければならない、という信念のもとに、眼の前の対象をそれ以上分割できないほどにバラバラに還元することが科学であるとか、まったくの何らの前提にも立たないところから考え始めるのが科学であるとか、自然言語で論じると科学には成り得ないので数学的に表現されねばならないとかいう結論を引き出してしまうものです。

前回の記事でも述べたように、たしかに科学、つまり学問的な世界観で言う唯物論というものは、観念論のように、ア・プリオリ(先天的)に立てた本質論から組み立てた体系ではなく、あくまでも対象的な事実を客観的に把握したところから論理を引き出した上で、そのなかから次第次第に本質論を組み立てた体系です。

しかしだからといって、客観というものを主観は把持し得ない、などと言い始めるところを度外れに延長させて、科学を数値処理などに落ち着かせてしまっては大きな誤りに陥ってしまうのです。

世界の森羅万象は0と1で表しうる、といったような情報理論については、単に眼の前の現象を数値に「置き換えた」だけにすぎず、それ自体での運動性を把持し得ないのであるから、結局のところ新しい現象が登場するたびに置き換え続けなければならないので論外です。
これはひとえに、眼の前の現象と、そこに潜む構造を区別と連関において把握できないという論理力の無さゆえの誤りであり、たとえば人工知能を作るときにも、本当に目指すべきなのは現代の人間が持つ反応のあり方を現象的にコピーすることなのではなくて、地球上で生命体が生成されて現在の人間にまで発展してきた、という過程的な運動のあり方を、一般的にでもコンピュータの中でなぞらえてみる、という考え方でなければいけないのです。

ここまで極端でなくとも、大脳の各部のそれぞれに、たとえば「恋を感じる機能」や「文法を理解する機能」などを個々別々に見出してゆくという大脳局在論も、現象論の域を出ないどころか明確に誤りなのです。

***

またここで「客観視する」といったことの内実は、これはこれで学問的には必須でありながらも修練の必要な技術ですから、これは一口で論じきれるものではありません。
また事実、実践の中から客観視の技術を磨いてきた人の概念的な内実と、この言葉を辞書的に理解している人のそれとは大きな隔たりがあるため、実際に対象に取り組んだことのない人には伝えたくとも伝えられないという事実があります。

しかし世を見渡すと、失敗例はゴロゴロと転がっているのですから、まずはそこから学ぶだけの姿勢を持ちたいものです。
我こそは客観的な真理を扱う者なり、ということを振りかざして、「客観主義」という学派を作る研究者は、あらゆる学問にいるものです。

たとえばアメリカの心理学の一分派である客観主義心理学のうち、極端な立場の研究者は、主観などというものは人によって違うため信用が置けないということで、恋人同士が別れ際に振り返った回数を数えて好感度とみなしています。
心理学の発祥の地ともいえるドイツでは、これらの傾向をなんとも冷ややかに見守っていますが、日本人のみなさんが率直に感じられるところからしても、「なにかおかしいな?」と思うのではないでしょうか。

わたしたちは、偉い肩書きの学者先生の発言の中に、なにかおかしいな、を見つけたときには、それを、おかしいけれども偉い人だから自分のほうが間違っているのだろうと短絡してしまわずに、しっかりとつっこんで考えてみなければなりません。
恋人の別れ際といっても、その内実をつっこんでみて、つまりその互いの認識に分け入りその関係性を把握することでなければ、好感度など測れるものではないでしょう。

たとえばというところで一例を出しておきますが、「こんなバカと二度と会ってやるもんか」と憤慨して睨みつけることしばし、の恋人の好感度こそが高いものとして見做されてしまうというのは、素人が考えてもおかしいとは思いませんか。
逆に奥ゆかしい恋、というものはどうかと考えてみれば、偉い肩書きの人が人間を機械かなにかのように見るという落ち込んでしまっているのを目の当たりにして、なんだかおかしい気がしてくるというのが自然です。

***

さて、あり得るであろう細かな突っ込みにまで気を使っていると先に進みませんが、この一連の記事では雑談はここまでとして、さいごの答えについて検討してみましょう。

最後のものは、こういった答え方でした。
「なるほど存在そのものには我々は触れることができないから、その根拠となっているのは私たち人間の主観によるのである。」

この答えを出す人は、問題で聞かれていることを、少なくともここで挙げた答え方の中ではいちばんよくわかっている人です。
誤解を恐れずに言えば、これは18世紀を生きていた大哲学者・カントの立場からなる主観主義的観念論、いわゆる物自体論で表明されているような立場です。(細かな議論にまで立ち入ることができないので「誤解を恐れずに」、という但し書きをつけてふまえてください。)

これも誤解を恐れずに言うならば、それなりに物事を考える習慣のある人の中には、物心ついた時に、自分の座っている机や、授業中に少し呆けて眺める外の景色、もっと言えば今授業をしている先生、家族や友人たちも、それと接している当の主体、つまり自分自身がいないことには、なんらの成立根拠を失ってしまうのではないか、という疑問にぶつかる人があります。

一言でいえば、「私が死ねば世界も死ぬ」というような考え方であるといえばわかってもらえるでしょうか。

子供の時の、自分がもし居なくなったらみんな悲しむだろうな、という立場から180度踏み出して、観念的に延長させると、自分がいなくなるということは、自分が見たり聞いたり味わったり感じているこの世界そのものがありえなくなることも同じなのであるから、自分の死は世界の死でもあるのだ、という結論にたどり着くことがある、ということです。
自分の主観如何で世界の有り様は如何にでも変えられる、世界の存立根拠は世界の側にあるのではなくて自らの主観にある、これが、いわゆる主観主義的な観念論の立場です。

しかし歴史に学ぶと、この考え方が明確に反駁されていることがわかります。
カントと遅れることわずか半世紀ほどに生きたヘーゲルという、これまた大哲学者は、この考え方を批判しました。
いつも文献としてあげる三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』の中で、以下のように書かれていたことがそれです。
カントのように物の性質を主観的なものだと考えるなら、木の葉を黒としてではなく緑として眺め、太陽を四角でなく丸として眺め、砂糖を辛いものとしてでなく甘いと感じ、時計は一時と二時をいっしょに打つのでなく順次に打つと聞き、二時から一時になるのではなくてその反対だと考えることなどが、物のありかたと無関係にわたしたちの認識の中だけで行われることになります。カントのように物の性質と物との間に絶対的な壁を設けるのはまちがいで、物自体は性質を持ち、いわゆる「二律背反」も世界自体の持っている性格である、とヘーゲルは主張しました。(p61)
これらのことを要して、カントの立場は主観主義的観念論であり、ヘーゲルの立場は客観主義的観念論である、と言われることになるわけです。

三浦つとむがカントからヘーゲルへの発展を示すために挙げた例示を見た時に、わたしが問題として挙げておいたこととの共通性が見えてきたでしょうか。考えてみてください。

答え合わせは、明日の21時ということにしましょう。


(4につづく)

2012/07/18

質問へのお答え (3):「私のどこが弛んでいるのでしょうか」

質問へのお答えのさいごです。


◆3◆

「目が合った瞬間にあなたから「弛んでいる」と叱られたのですがどうすればよいのでしょうか…」

このところ、わたしのところに出入りしている学生たちを叱らねばならないことが数度あったのですが、これはそのうちの一人からの質問です。
期自らのまずさを自分なりにでも考える期間を置きましたから、何を叱られたのか、どうすればよかったのか、を確認してゆきましょう。

わたしは普段、人を叱るということをしませんが、自分の定めた道で一角の人物になると約束をした人間に対しては、その約束に相応しいだけの接し方をしなければならないという責任があります。

ですから、叱られたということは、そういった観点からの必要性に迫られての表現なのだ、と受け止めてください。
その意味において、以下での説明は誰かを名指しして叱責するものではありませんが、一般的に言えることですらを守れていないということは、大きな恥として受け止めてもらいたいものです。



はじめに、確認するまでもないほど、であるはずの、原則について確認しておきましょう。

上でいう約束というのは、当然ながら「わたしとの約束」というよりも、「自分で決めたことは自分自身の責任においてやり遂げる」という、「自分自身との約束」であるべきものです。
ところが、この大原則についての理解ですらが、必ずしも堅持されているとは限らないのは、あまりに残念です。

以前にもお話したことがあると思いますが、わたしは、共に研究する学生さんを、「能力」で選んだことはありません。
ではなにで選ぶかといえば、当人が持っている、自分の立てた目的、夢をなんとしてもやり遂げる、という志なのです。

少なくとも一人の人間が学生という身分を背負っているあいだには、その当人の才能というものは、自然成長的に伸ばされてきているのですから、その時点でよくできていようがよくできていまいが、それは当人の自己責任とは言い切れない部分もあります。
あなたは親を選べなかったし、その影響下において伸ばされてきた人格で判断して友人・教師をも選んできたのです。
その生涯の途中で、よほどの自覚がなんらかのきっかけで目覚めなかったのであれば、「なるようにしかなならない」という面があるのです。

ですからわたしは、特に20代前半までの学生さんを、能力で選ぶべきではないと考えているのです。
ここの段階で、受験勉強なりで人格があまりにも歪みきっていて、何事をも斜に構えた態度でしか見ることのできない、というような人はさておき(幸いお会いしたことはありませんが)、どれだけの鈍才であろうと、当人がこの道を目指すのだと言い、一回きりの生を受けた、自分自身の存在にかけてそれをやり遂げると確認した時に、どれほどの困難があろうとも何度でも起き上がってそれをやるのだ、と自分の口で、自分の言葉で言うのなら、これはわたしの同志であると思うのです。

同志というからには、生まれるタイミングがどれほどに前後していたとしても響きあうような関係でしょう。
もしわたしが、そこで認めた当人よりもずっとあとに生まれたとして考えてみた時にも、深く響きあった関係であるのなら、わたしより先に生まれた当人も、わたしのことを無下にはしないはずです。
能力はともかく志やあっぱれと、自らが進むその背中でもって、わたしを導いてくれるはずなのです。

そういうことを考えれば、わたしが志ある学生を指導するというのは、単に、わたしが先に生まれたから、たまたまそのような立場に収まっているということ以上の意味は無いのであって、だからこそ、へつらう必要もないし、必要以上に礼を尽くしてもらう道理もない、と申し上げているのです。
同志とは、そういう関係であると考えます。



然るに、それでも叱らねばならないということは、他でもなく当人が、自分自身の存在を、自分自身の責任で受け止めていない、ということに他なりません。

当人が自覚していようがいまいが、レポートや論文だけでなく、その立ち居振る舞いをふくめた<表現>に、腑抜けた根性が見え、そしてまたそれが確かな根拠とともに明らかになっている場合には、先に生まれた同志として、厳しい言葉でそれを正す、ということを絶対にせねばなりません。

師弟関係や不特定多数にたいする指導者としての経験が少ない場合には、自分自身を見ている人間の認識のあり方を、自分自身のレベルにまで押し下げて見てしまうということは、ある意味でやむを得ないところもあります。
しかしこの、「自分のわからなさをわかっていない」というところは、生涯にわたっての最大の、かつ致命的な欠陥です。
これを自分自身の責任でもって正してゆこうとするものでなければ、同志としてなぜ認めうるというのでしょうか。

ここを具体的に指摘すれば、「レポートが条件を満たしていれば、どんな生活を送っていようとも問題はないだろう」というような姿勢でものごとに臨んでいませんか、ということです。

はっきり言っておきましょう。
知らぬは自分ばかりなり、であると。

仮にも人生をかけて認識論を使って自分の専門分野と指導をしてきている人間にたいして、「自分がどんな人生を過ごしていようが外面を整えていればそんなことは知りようもないであろう」という向き合い方で臨むというのは、あまりに礼を失する態度というものです。



そもそも認識論の実践的な適用がどういうことなのかといえば、当人の表現を見た時に、その認識のあり方がいなるものであるかをおぼろげでも像として描いたうえで、その仮説に基づいてよりつっこんで当人のあり方を見ながら、それをより明確な像として描く、ということです。

ここでの観念的な二重化は当然ながら、自分にはない経験を持った人間のことは、自分自身の認識能力の埒外であるがゆえに、まともに想像してみることはできないのですが、その場合にでも、その当人に、「自分にはまだ理解できていない深みがある」ということは、やはりうかがい知ることが出来るものなのです。

わたしがこのような見方であなた方を見ていることが少しでも想像できているのならば、仮にも同志として認めた、しかも指導する側の立場にある人間のところに、猫背でふらふらとやってきて、いささかも本質的ではない話題ばかりを愚痴っぽくつぶやいて傷の舐め合いを乞う、などということは、自分自身の人格にかけてできないことではないでしょうか。

甘えるな泣くな、などという阿呆を言っているのではありません。
泣くべき時に泣けないのは、たんなる不感症であり、なんらの誇るべきところを持っていません。

ここで言いたいのは、ひとつの表現は、その当人の人格を表しているのだ、ということです。
このことを、もう一度、自分の身になって、捉え返してみなければなりません。

上でことわっておいたように、これらは誰かを名指ししているのではありませんが、たとえばあなたがカフェのテーブルで、仕事のパートナーとなる初対面の人間を待っている時、やってきた相手についてどのような印象を抱くのかを下の例から考えてください。
カフェのドアがばんと開いた。
こちらから出ていく客は、怪訝そうな顔つきで大回りして本人を避けて出ていった。
そんなことも知らぬ顔の当人はといえば、猫背でぶつぶつとひとりごとを言いながら、靴を擦ってこちらに歩いてきて、あいさつもなくどすんと椅子に座ると、睨めつけるような眼で「あんたか」とつぶやいた。
これからの仕事について話しているときにも落ち着きなく、ボールペンをしきりにノックしながら、貧乏ゆすりを続けている。
飲んでいる煙草の量も尋常ではない。
資料のページをめくる手つきが雑で、ページを破いてしまわないかと不安になる。
あなたはそれを見て、重要な工程を確認するときには、声を大きめにして強調することにしたが、「ええ」とか「まあ」とか相槌も冴えない。
さてあなたは、この人物に安心して仕事を任せようと思えますか。確かな人格であると思えますか。

こういった振る舞い、つまり表現をとる人間を見た時に、あなたの頭のなかでは、「この人は本当に理解できているのだろうか…」、「本当に仕事のパートナーとしてやっていけるのだろうか、もしかすると手伝ってもらえるどころか足を引っ張られるのではないだろうか…」という不安が生まれ始めているというのがごく一般的な受け止め方、というものでしょう。
もっといえば当人の人格についても、大いに疑問符のつくものであるのではないでしょうか。

もしここで仮に、この当人が、そのふるまい方とは似ても似つかないほどに、実のところ気配りができ、パートナーの感情の機微にも細やかな配慮ができ、仕事も申し分の無い働きができる人物であったとして、あなたはその人格を、どの表現から受け止めればよかったのでしょうか?

もし長い付き合いでそれを把握できたとしても、「ではあのときのあのがさつさには、どういった理由があったのだろうか?」と不思議に思って当然というものではないでしょうか。

ひとりの人間が持っている表現というのは、認識とは切り離して存在し得ない、ということがわかったでしょうか。
またそのことを強く自覚した時に、「これまでの自分の振る舞い方は、一体どのように見られてきたのだろうか…」と、他でもない自分の人格についての不安な感情とともに受け止められてきたでしょうか。



それとも、「よかった、このどれも当てはまらないから自分は大丈夫だ…」と考えたでしょうか。

そんな人に言っておきましょう。
いいですか、あなたの姿勢がそんなだから、叱られねばならないのです。

上の大げさな例は実のところ、イメージを膨らませる役目を終わればその記述内容自体はどうでもよいことなのであって、肝心なことは、自分のいまとっている表現が、確かな認識に基づいているものであるかどうか、というところなのです。

根本的なところから何度も繰り返しますが、これはなにも、人目を気にして生きろ、などと言っているわけでは決してありません。
あなたのいましている表現のあり方は、あなたの人格を代表するものとして、世に出して恥ずかしくないものであろうか、もう一度検討せよ、と言っているのです。

たとえば哲学書と題した書物の中に、世界を客観的に見なければならないはずのところを、自分の人生の悲喜こもごもを織り交ぜたうえに、「自分のことを自分であると実感できない」というごく個人的な私生活の思いをもとに組み立てたような体系があったとするなら、あなたはその哲学を、まっとうな哲学とは見做さないし、見做してはいけないものであるはずです。

それはもっと個人的な生活にまつわる表現についても同じことが言えるのであって、故障でもないのに背中を曲げて足を擦って歩くのは、自分が人間として格好の悪い振る舞い方をしていることすら自覚できないくらいの認識である、と表明していることになるのです。
またたとえば、笑った時に歯が黄ばんでいるということを見られるのならば、この人は禁煙していると言いながら影では実践できていないのだな、と、言ったこともできない人格として把握されることになるのです。

ここで言っていることが、我が身に捉え返してしっかりとわかるでしょうか。

わたしは、人間として格好の悪いことはやめなさい、というお話以前のことを言っているのです。
あなたは本当に、その表現から人格を読み取られても恥ずかしくないのですか、自分の人格にかけた表現が、そのようなものであっても本当に良いのですか、と言っているのです。



「人生というのは一回きりのものだ」と人は言いますね。

であればこそ、一回きりの生涯ならば、何らの悔いもなく前だけを見定めて生きてみよう、どこまで行けるのか自分の目で確かめてやろう、というのが人間としてまっとうな生き方です。

しかし翻ってみれば、このような考え方が真っ当であると、当たり前のことのように思えるようになったのも、人類がこれまでに築きあげてきた文化の発展があったればこそ、なのです。

少し歴史のお話をしましょうか。

近代化されるまでの人間のあり方といえば、中世から説き起こすとしても、封建制度のために、人々は圧政を敷く直近の封建貴族を頂点とする分断された組織の底辺の人間としてしかあり得ないものでした。
ここでは、人々の生活単位としての民族といったものは、事実上存在しなかったのであって、それが中世末期に中央集権化の流れの中で、そういったより大きな集団の一員としての自覚に目覚めさせられてゆくのです。

ここにおいて近世での、国家単位としての活動が華開いてゆくのですが、それでも依然として、人々は現代でいう自由にはとても似つかない生活を余儀なくされていたのです。
なんとなれば、この民族国家においては、勃興しつつある市民階級は、没落しつつある封建貴族に対しても自力での打倒はかなわなかったために、さらに上の王権と結びつかねばならなかったからです。

これは、人々が帰属に打ち勝つためを思って王権にくみしたことで生まれた絶対主義こそが、実のところ、頭をすげ替えた封建主義の延長でしかなかった、ということなのです。
目の上のたんこぶを切り落としたら、さらにうえの大きなひさしが邪魔をしていることがわかると同時に、それをむしろ自分たちの手によって育ててきてしまった、という、なんとも皮肉な現実が待っていたのです。

こののちに、絶対主義との闘争の時代が幕を開けるわけですが、西欧に限った近代化、民主化ですら、このような千年にも渡る苦難の歴史のうえに、さらなる数百年の歴史の流れがあることをわかってほしいと思います。

この過程で、同じ人間から蔑まれ云われのない差別を受けながら果てたひとつの人生、ひとつの正しさを手放さなかったことによって火刑に処されたひとつの人生、そういった、内実はともかくもそれに相応しくない扱いを受けた人生が、無数に横たわっていることを少し想像してみて欲しいと思います。

日本では文明開化と戦後において、急速に移入された民主化の道を、その過程についての綿密な理解なしに、またその理解を積み上げてゆく暇もないままに進まされてきたために、その反作用も現在では大きく、なんらの誇れるところも失ってしまったかの感もありと見えますが、そうではないのです。

ここまで人々が、その人類総体としての努力において獲得してきた文化と生活と、そこで生きる人間だからこそ、そのようなところにすら欠点を見いだせるほどの人生観を養えてきているのです。

不景気に不平や不満を言う前に、自分たちの生活をありのままに見てください。

引きこもりやらニートやらをやっていても餓えず、仕事を選ばなければ路上での暮らしをせずにすみ、度外れな贅沢をしなければ、家族のうちひとりでも健康に働けているだけで家族全員が不自由なく暮らすのも、難しくはないというのが現在の日本という環境でしょう。

わたしたちがこういった生活を享受している時に、その背後にあるほかの人たちとのつながりや、その過程に滔々と流れている人類総体としての過程を自分のことのように省みることができるのであれば、どのようにして生きるべきか、ということも、自ずと自覚されてゆくものと思うのです。

一回きりの人生というものについて、どのような姿勢で向きあえば人間として恥ずかしくないのか、ということも、自分自身のアタマで、自分自身の責任において考えてゆけるはずだし、そうでなければならないのです。

わたしたちが受け止めるべき自由というのは、アナーキーで野放図の感性に任せたものなのではなくて、こういった歴史の過程における必然性を、現在という一時点から、「自分という存在という立場からしっかりと捉え返したうえで、人類の代表として生きる」という認識のことを言うのです。

禁煙を確約しながら真っ黄色の歯をさらけ出してがははと笑うことの恥ずかしさと同じく、自ら道を見定めて歩むと、少なくとも形式上は自分自身に硬く誓いながら、それでも無頼の月日を過ごして恬として恥じぬというのでは、二重の恥を晒している、というものとわきまえねばなりません。



自分の思い描いた夢を目指して、いちばん得意なことを突き詰めてやることを通して、人類全体の本質的な前進のために働くことができる。

このことのできる有り難さが、この現代の日本という、時間と場所に生きているということの得難さが、我が身に捉え返すようにわかるでしょうか。
わたしたちがこんな当たり前に感じられていることも、これまでの人類の、血と涙と、立場を異にする人間から圧政、云われのない迫害から、少しずつ少しずつ、獲得してきた権利と、それに基づいた実感なのですよ。

それでもあなたは、そんな日々の過ごし方で生きるのか、と問いたいのです。


(了)

2012/07/14

質問へのお答え (2):良い学生を選ぶには

(1のつづき)


さて、またあいさつしだすと横道にそれてしまうので本題に入りましょう。
(※今回のお題にだけ当たりたい方は◆2◆まで飛ばしてください。)

そもそも連載の途中に色々としゃべりだしてしまったのが良くなかったのですが、実のところこれらの横道のなかで、「技としての弁証法 3」に何が書かれているのか、ということの内容は、実はほとんどお話ししてしまっているのです。

弁証法というものが何かといえば、ものごとの考え方、事物の構造のあり方を抽象化するところに現れる、論理でした。
個別科学の発達した現在では、それが物質と、その高度な発展の段階である精神の根底に横たわっている構造であることがもはや否定できないところまで来たので、弁証法は科学的にものごとを調べ、考えるときには必須のものであると言えるのです。

「科学の本質は体系化ということにある」(ディーツゲン)と言われるとおり、弁証法が体系化にとって必要不可欠なものである限り、それ自体もが科学的な体系として発展させられてきているのですから、体系性ということは、弁証法とは切っても切り離せない性質であるということができます。

この、弁証法が体系性を持っているということはとりもなおさず、弁証法を論じ始めるときには、「どこから入ってもどことでも繋がっている」ということを意味しています。
たとえば、対象の中に対立物の相互浸透を見ることができるなら、その小さく見た過程には量質転化があり、それを大きく見た全体像には否定の否定が見つかるであろう、ということをもが必然性を持っている、ということなのです。

そしてまたそれは、矛盾、対立物の統一、相対的な独立、といった弁証法の周辺にある事柄をも自ずと見つけ出せるという体系性でもあるのです。

わたしはいつも、ひとつのお題を取り上げる中で、いくつかの法則性を提示しながらご説明していますが、それをただ漫然と読んで受け身のままでわかるということ以上に、「その他の法則性は働いていないだろうか?」という観点を持って、主体的に考えを進めていってもらえることこそが、唯一の上達の道なのだとわかっておいてほしいと思います。

バラバラに説明されたり、バラバラに把握していた弁証法が、実のところひとつのものであったのだ、とわかったときに、そのあまりに大きな有用性が、「そういうことだったのか!」という大きな感情とともに一挙に把握されることでしょう。


◆2◆
「面接で良い学生を採りたいのだがどうすればよいだろうか?」

まず問題の焦点を絞るために、ひとつ条件を確認させてください。

ここで「良い学生」と言うのは、「学歴が良い」とか、「長女でない」(長女だと近いうちに結婚して他家に入り退社するであろうから、という意味でマイナスポイントをつける会社もあります)とか、「器量良しで見栄えがする」などといった副次的な要素ではなくて、もっと本質的な意味において、「人の気持がわかり、必要なときには自らの責任で決断を下せる」といった「人として真っ当な人格を兼ね備えた人物」というもの、ということでよいものと心得ます。

さて、そのような人物をしっかりとした根拠を持って探したい、ということなのであれば、恐縮なことではありますが、それでもおそらくご期待を考えるほどにやはり率直に言わせてもらわねばならないことは、企業の面接官の方々の致命的な欠陥というものは、「技術と表現の違いが付けられない」ということにあると思います。

これは学問的な認識論云々ということ以上に、年に50人は新しい学生との接触があり、彼ら彼女らの学生生活、研究指導という教育実践があり、就職活動期には毎日5本の自己PRは添削してきた経験に照らして述べることですから、その意味であくまでも実践面に重きをおいたものと考えていただきたいのです。

そう断ったうえで上のように述べるのですが、たとえば面接や技能の判定をするときに、課題についての解答を提出させて当人の能力が業務に相応しいものであるかを判断する、ということがあるでしょう。

そのとき本来ならば、「それを解く学生の認識が如何なるものなのか」を問わねばならないところを、よくある面接官の方々は、「眼の前の解答そのもの、つまりその表現のあり方」だけ、を問うてしまっている、ということなのです。



人間の資質としてもっとも大事なのは、何にもまして「眼の前のものごとを正しく理解し判断できる」ということであり、そうであるからこそ確かな表現が成り立ちうるのであり、そしてまた企業人においてもそのことが長期的な観点からはほんとうの実力になるのは、ご理解いただけることと存じます。

ここでイメージしやすいように、たとえば、前から向かってくる老人にぶつからないように歩く時のことを考えてみてください。
そのときの結果は、以下のようなものであったとしましょう。

学生Aは、はじめて来た都会の光景に圧倒されるあまり、注意力散漫でふらふらと歩いていましたが、運良く、ぶつかりませんでした。
学生Bは、歩きなれた道で前から老人が来ていることも前もって認知できており、まっすぐに歩けましたから、ぶつかりませんでした。
学生Cは、実家で老人とともに暮らしており人間が歳をとるとどのような注意力になるのかが経験上わかりましたので、前からくる老人を心配そうに見守りながら一定の距離をとっていましたが、老人がふらつくのを気にするあまり、かえって他の歩行者とぶつかってしまいました。

以上のような結果を出してきた学生たちを審査する時に、面接官としては、どのような学生を、人格良好として採用すべきでしょうか?
わたしはいま、文字でこの情景を書き起こしていますから、彼らの内面も詳らかにしながらお伝えできているのですが、これが現実ともなれば、そうはゆきません。

現実での表現のあり方は、このようになります。

学生Aは、ふらふらながらでもぶつかりませんでした。
学生Bは、まっすぐ歩むことができ、ぶつかりませんでした。
学生Cは、オタオタしながらあろうことか、他の歩行者とぶつかりました。

問題意識のはっきりしているご質問者様ならば、わたしがどういった趣旨のことを述べたいかがわかってもらえたと思います。



実際の企業でも学生の審査のとき、業務内容に近い課題を与えてその解答を採点することがあるはずでしょう。

そのとき、解答そのものに点数をつけ優劣をはかることは間違いではないのですが、「それがいかなる認識に基づいたものであるか」、ということも同時に問うておかなければ、大きな踏み外しをすることにもなりかねない、ということなのです。

この失敗を防ぐためには、面接時には好印象だったにもかかわらず点数が極端に低い場合などには、「ここはどう考えたの?」と口頭で質問されてその解答が導き出されてきた過程に目を向けられますと、「副次的な要素を気にしすぎるあまりに、かえって当人の認識の深さが裏目に出てしまった」という、「かえって、の失敗」で良い人材を見逃すことを避けられます。
逆に、「調子を合わせるのがうまい」だけの学生はふるいにかけることができます。

一般的に言って、自分自身の本音をうまく包み隠すという表現技法だけを、たとえば接客業の経験などで身に着けていたとしても、長い就業経験の間に、いくらでもメッキは剥げる機会はあり得るというものではないでしょうか。

しかしそれとは逆に、ものごとの捉え方が真人間的であるのならば、いくら引っ込み思案や人見知りをして表現能力が乏しい場合にでも、企業内訓練と「慣れ」によって十分に、表現力については整えうるものと思うのです。

然るに昨今の不景気に煽られるあまりに、目先の使い勝手だけに勇み足となり、学歴だけで学生を判断したり、提出されてきた課題の細かな表現技法に目を奪われたり、もっと悪いことには共通する趣味があって話がはずんだ、などといった「表現のありかたそのまま」や、面接官当人の「好き嫌い」を基準に採用を決めてしまうことになると、長期的に見れば組織としての能力を大きく削がれることになるものと考えます。

繰り返しになりますが、「認識さえしっかりしておれば、表現の仕方は十分に整えうる」ものと存じます。
逆に、「表現はその場その場で合わせることができたとしても、その認識が浅い場合には、いざというときに根拠を持って決断できぬ」ということでもあるものではないでしょうか。
そうであるならば、当人の能力を見るときに、まずは「認識と表現」の区別を、ある程度にでもつけられることが肝要であると心得ます。

面接した当初に、「面接官の好みの表現ができる」ということよりも、「表現は好かぬがその根拠としている認識は確かなもの」と見定めることができうるのならば、その上で組織の流儀というものとそれに付随する表現技法を与えることによって、大きく組織に貢献する人材を育てうるものです。

ここまで申してきましたのは、いち組織の教育者に認識論を学べというのは時間がかかりますので、とにかく新入社員に表現技法を学ばせねばならないという場合にも、その土台となる認識のあり方がしっかりしておらねばならないという要件から述べてきたものですが、まずは、学生当人の「認識力」と、「表現力」との線引きを見定めるという強い問題意識を持ったうえで面接実践に向き合い、そのことをとおして面接官ご本人の学生を見る目をより高めてゆくことこそが唯一最善の道であるものと考えたためです。

学歴や調子の合わせ方で人を選ぶべきではないと言うわたしが、国立大学の学生との関わりが最も多いのですから、翻ってここにはなんらの他意もないものと判じていただけるものと思います。


(3につづく)

2012/07/13

帰ってきました。+質問へのお答え (1)

帰ってきたのはわたしではなくてわたしの仕事用Macですが。


前の記事に少し書いていたと思うのですが、このところ歴史と語学の研究にぴったり張り付いていて、どうにも記事を書く時間がないというので、国際学会に行くという学生さんに原稿を書くPCを貸し出していたのです。

ずいぶん更新できませんでしたが、PCが手元にあろうとなかろうと、研究以外のことを思い出す余裕が全くありませんでした。
かなり無理をしたせいで頭痛がありますが、心身ともの基礎修練はきっちりこなしているので元気は元気です。
むしろ病気の時のほうがここの記事を書く時間が増えるような生活を送っているので、ご心配なきよう。

期間中、大事だと受け止めたご連絡については返事をしたものと思っていますが、ここ数週間のことはあんまり自信がありません。
返事を待っている方は、すみませんがもう一度催促のご連絡をいただければと思います。

◆◆◆

さて一連の記事の途中でいろいろと大きな仕事が入ってしまっていましたが、それについては週末に公開するとして、前回の記事から今日までにいただいたご質問に、先に簡単にでも答えておかせてください。

というのも、今回のご質問は少し知識的な事柄を扱うので、参考資料が手元にある今だからこそ書けるものであるからです。

ふだんここの記事を書いているのは図書館の中での休憩中なので、手元には手持ちの参考資料はない状態での執筆なのです。
記事を読まれているとわかるとおり、ここで扱っているのは弁証法という論理の基礎、認識論という学問の基礎などを日常生活の問題を取り上げながらつっこんで考えてみる、という事柄ですから、記憶だけを頼りに、一般的におおまかな流れとしてお伝えしたほうが、むしろ読者の便益の助けになるのです。

これはひとつに、細かすぎる知識的な事柄をいくらあつかっても論理が出てこないことと、特殊的な専門分野の知識を取り上げて説明しようにも、かえって読者のみなさんにはわかりにくいものになってしまう、という理由があります。

さて、そう断ったうえで書いておきたいのは下の3つの質問です。
1.歴史や科学から弁証法を見つけるのがとても難しいのですがどうすればよいでしょうか?
2.面接で良い学生を採りたいのだがどうすればよいだろうか?
3.前回お会いした時に、目が合った瞬間にあなたから「弛んでいる」と叱られたのですがどうすればよいのでしょうか…

今日は推敲する余裕が無いので、表現の不味さ、誤字脱字などはご容赦を。主意が伝わったのならば問題ないかと思います。


◆1◆
「歴史や科学から弁証法を見つけるのがとても難しいのですがどうすればよいでしょうか?」

そもそも参考書の選び方が悪いことを疑ってみるとよいでしょう。
論理を引き出すためには、まず大きな視点からものごとを見なければならない、と言ってありますね。

論理というものが、個物や歴史の流れといったあらゆる対象をひとつの原則に基づいて一般化したところに成立する認識のありかたを指す以上、いきなり個別的な知識に深入りしてしまっては、論理が引き出せない場合が多いのです。
「場合が多い」とことわったのは、個別の対象、たとえば親子の会話などの些細な対象であっても、認識論の実力如何では論理を引き出すことはできるからです。

しかしご質問の場合には、歴史や科学から、ということなので、この限りではありません。
さてそのとき、とくに弁証法という論理の像がまだほとんどわからない、という場合に、基礎的な修練として、中学の教科書・参考書などを選び、そこから三浦−エンゲルス流の「弁証法の三法則」を引き出してゆくことをわたしはいつも薦めます。

このときみなさんは、どんな参考書を選んでいるでしょうか。
いきなり、山川出版『詳説世界史研究』などを選んでしまっていませんか。

これは600ページ弱からなる分厚い書物であって、筆者の断りがいかに「高校生のための入門書」なのだとしても、歴史という対象や学問研究の立場からすればいくら書き足りないものなのだとしても、ここから論理を引き出すということは非常に困難であるということは、ぜひともわかってもらわねばなりません。
論理力が不足している時には夢のまた夢、というよりむしろ、アタマの働きを論理的にどころか、受験勉強アタマに引き戻してしまうという反作用すら生み出してしまいかねないほどの、「知識的な」読み物なのです。

ではここで社会主義の生成発展を…などと言い始めるとまた誤解されかねないので、今回はフランス映画好きの質問者のことを考えて、「ジャンヌ・ダルク」を例に引いてみましょうか。

彼女は百年戦争の時にオルレアンの地に出た女性で、孤軍ながらの奮闘で国王の戴冠式を実現させたことで反対派から処刑されるも、のちの世では英雄視されたというひとです。



先述の書物では、ここのあたりをどう書いているかを見てください。
「後期百年戦争とフランスの集権化
(略)
1415年、イギリスのヘンリ5世はフランスの内乱に乗じてノルマンディーに侵入し、ブルゴーニュ派と結びアザンクールでフランス王軍に大勝、トロワ条約(1420)により自らのフランス王位継承権を認めさせることに成功した。その結果、1422年ヘンリ5世とシャルル6世が相ついで没すると、ヘンリの子ヘンリ6世が英仏両国国王として即位した。だがその支配地域は北部に限られ、東部はブルゴーニュ公、ロワール川南部はトロワ条約により王位継承権を避妊されたヴァロワ家のシャルル(7世)がそれぞれ支配し、フランスは3分されることになった。1429年、イギリス軍は南下をはかり、ロワール川中流の要衝オルレアンを攻囲、持久戦の様相を示していた。ここに登場した少女ジャンヌ=ダルク(1412〜31)は、わずかの兵を率いてオルレアンの囲みを解き、いっきに北上してフランスを陥れ、シャルル7世の戴冠式を実現させた。」
結局この章は、最後に「次のルイ11世の代には、国家統一上最大の障害であったブルゴーニュ公領も併合され、中央集権がほぼ達成された。」という一文において、節名を内容をなんとか満たしているという状態です。

しかしここで引用した文から論理を引き出そうとしても、「いったいどうすればいいのやら??」というはてなマークがアタマの中をさまよいまくる、ということにしかならないでしょう。

ここで書かれているのは見ての通り、「この時こうした、この時はこうなった」、という事実の羅列でしかないことは、まともな感覚をしている人なら即座に分かりそうな事実です。

ここを論理的に見ると言ってもいいところ、ジャンヌはわずかの兵しか率いなかったところが寧ろ効果的に作用した、などと対立物への転化を強引に引き出せなくはないにしても、肝心の裏付けも取れないのですから、その意味で単なる解釈にすぎません。

結論から言って、これでは細かすぎる、あまりに細かすぎる!のです。
こういったものをまる覚えするのが大学に入るためには(残念ながら)必要だったとしても、論理を学ぶには、すでに持ってしまったそういった細かすぎる知識を、いったん棚上げしてください。



とはいえ、論理というものはそれだけを直接に修練することはできませんから、必ず何らかの対象を媒介として学んでゆかねばなりません。

ではここで、どのようなレベルの対象を学べばよいのか、が大きな問題になるのです。
質問者さんは、必死の受験勉強をくぐり抜けてきた人ですから、まずは「細ければ細かいほどよい」というオタク根性、受験勉強アタマ的な発想が頭をもたげてくるのを、まずは自分で必死に抑えてください。

最寄り駅から自分の家までの地図を書く時に、その間にある表札を全て列挙しますか?それらを全て知らなければ地図が書けませんか?
そんな訳はない!というのが正しい考え方でしょう。
だからこそ受験勉強アタマではいけないのだ、と祈念してください。

あなたはまず、ジャンヌ・ダルクが果たした役割を、歴史的な、もっと大きな観点から見つめなおさねばならないのです。
そうでなければ、論理の修練には絶対にならないのです。

歴史的に言えば、この時期は、都市の勃興と商工業の発達により地位の改善しはじめた農民たちが、自らの生活上の扱われ方をより向上しようともがいた時期です。封建貴族階級からの搾取に苦しめられてきた農民たちが、その発展によってようやく農奴の身分を買い取り、自由な人間になれるようになって来た時期なのです。
そういう時期には、農民は目の上のたんこぶである封建貴族をたおすために、同じく彼らを邪魔者とみなしていた王権とのつながりを深めてゆくものです。ことフランスにおいても同じことが言え、徐々に中央集権化が進んできていた、という一つの転機に差し掛かるころであったために百年戦争が大きな意味をもったのであって、またジャンヌ・ダルクの活躍もが民族意識の高揚に大きな意味を持つことになったというわけです。
ですから、ジャンヌという個人は、百年戦争という大きな流れに位置づけられており、そしてまた、百年戦争というのは、封建制度を倒して中央集権化が進みつつあった当時のフランス、西欧のさらに大きな流れの中に位置づけられている、ということをまずは把握せねばならなかったのです。

こういう大きな視点を持ったのならば、元々はそれほど変わりのない地位であった人間同士の間に、所有という観念が生成され、そして自らの所有する土地などの優劣によって身分がわかれることになっていったという経緯や、そうしていったん分化した身分同士で争ったかと思えば、次には敵の敵は味方、式に手を結んだりしている、というもろもろの論理が浮かび上がってきますね。

こういう観点から、この流れには量質転化、相互浸透、否定の否定がそれぞれ見られるのだな、とわかってゆくのです。
(先ほどの一文のどこに三法則があったのかわかりましたか?わからなければ、三浦つとむの本を読みなおして、しっかり学んでゆきましょう。)

そしてまた、こうして問うことによって、弁証法の三法則を見つけ続けていったときには、
「あれ?弁証法を探してゆくということは、いま自分が見ている対象をそのまま見るのではなくて、それが「どのように生成されてきたか」を問うていることでもあるのかな?」や、
「あれ?相対的な独立というのは、もともとはひとつのものであったところからしだいしだいに分化が起こるということなので、これが進化ということなのかな?」などや、
「あれ、ここでつながるとともにつながっていないということが、非敵対的な矛盾ということなのかもしれないな」と、
しだいしだいに弁証法の像が、その付随する性質や周辺の概念とともに深まってゆくことになるのです。

今回の場合で言えば、まずはこういった大きな本を使わずに、歴史を通史的に、一般的にざっと、大きな流れを捕まえながら説明してくれている書籍から、しっかりと論理を引き出す修練をしなければなりません。

どんな分野でも、高校生では受験を備えた知識的な事柄が増えてきますから、中学校低学年から段階を追って弁証法を探してゆくのがよいのです。
歴史で言えば、林健太郎『歴史の流れ』から学んでください。
本人曰く、『世界の歩み 上・下』はこの続編、という位置づけになっているようですが、まずはこちらには手を出してはいけません。
論理性が高まってくればその限りではありませんが。

ともかく、自分の専門分野の歴史を、まずはこの『歴史の流れ』レベルの一般性で書き下ろせるようになったのならば、その学問の入り口に立った、と言うことができるでしょう。
わたしは学史研究をする時に、この本の「一般化の仕方」というものを、とても参考にしました。



すみません、長く書きすぎました。
時間がオーバーしているので記事を分けさせてください。

読者のみなさんの要望にはすべて答えたい一心なのですが、論理のおはなしは見ての通りその生成段階からお話しなければならないという大きな必要性があり、なにを話し始めても常に時間はどんどんなくなってしまいます。

能力は半分でも身体が2つあったらなあ…と思わないでもありませんが、叶えようもない望みはさておき、できうる限りの努力をすることからはじめましょう。

明日も続く2つの質問について更新します。


(2につづく)