取り上げた評論について、<過程性>という観点が欠如しつつあるということを指摘し、なぜそれが無くては作家としての大道から外れてしまうのかを考えてきました。
その失敗の構造としては、わたしからの指導と互いの議論によって作品の理解が深められたところまではよかったものの、そのことに引きずられるかたちで、いわば「わからせられてしまった」ことをも自分一人の実力であるかのように錯覚し、過程的な鍛錬を怠ってしまった、ということになります。
身近な例を挙げても、人のつくった公式に数字を当てはめて答えを出すことと公式そのものを導き出すことは違いますし、ひとつの漢字をキーボードで入力することとそれを自らのアタマにしっかりと像を思い浮かべながら手を動かして万年筆で書き付けることとは違います。
いったい何が違うのか?それが、<過程>というものなのです。
ある問題に対して、誰かに手を引かれたり背中を押されたり事細かにヒントを与えられたりしながらその答えに辿り着いた場合であっても、問題がほんの少し変わっただけで途端に解けなくなるようでは意味がありません。
ましてや、森羅万象は「変化するという性質だけは不変」であるだけに現実の問題は常に変化し続けていますから、過去の問題がいくら解けたとしても、そのことだけでは一歩も先へは進めないことになります。
変わり続け、また無限の広がりを持っている事物や事象から、自らの頭脳活動において問題そのものを浮上させ、さらにまた自らの頭脳活動においてそれを解く、ということができなければ、文化に携わる仕事をしたことにはならないのです。
ですから、過程がわからなくても問題が解ければいいじゃないの、という意見がありうるとするならば、それは自分で問題を解いたことのない人のそれだということができます。
文化人が最後まで手放してはならないのは、誰かの出してきた結論を自分のことのように言いふらすことでもなく、またそれを組み合わせて自分のオリジナルであるかのように吹いて回ることでもなく、あくまでも自らのアタマで現実の問題を解く、ということです。
過去に解かれた問題とその答え、また解法は、新しく浮上した問題を解くための手がかりにはなっても、決して答えそのものではありません。
厳しくココロに刻んでもらいたいと思います。
さて今回は、「自らを作家として規定すること」の、いわば志レベルの不足、についてお話しするところでした。
まずは前回に転載した評論である(修正版3)と、それにたいする<過程性>と志についての指摘を受けて書かれた、今回の(修正版4)を読み比べてもらいたいと思います。
いったいどこに違いがあるでしょうか。
◆ノブくんの評論
山男の四月ー宮沢賢治(修正版4)
この作品は差出人不明の、「守山未亡人千賀子さん」宛の3通の手紙から成り立っています。
1通目においては、差出人と千賀子についてと、選挙への出馬の事が綴られていました。
千賀子はどうやら差出人を見ると、「擽ったいような表情」をされて、差出人は戸惑うことがあるというのです。しかし千賀子自身は差出人への身の振り方を考えなければ、その存在が千賀子を破滅される恐れがあるといいます。
また彼女はその時、猫のように居眠りをしたり猫を擽ったりしながら、秋山という人物から50万円という大金が届く知らせを待っていました。その大金を政治資金にして、千賀子は出馬を考えていたのです。そしてその姿は、差出人から見れば幾らか醜いものに見えていたようでした。
2通目では、息子の友人である「高木」が家に遊びに来た時の事が綴られています。
出馬を考えはじめた千賀子は、次にこの「高木」という人物に政治の勉強をさせて、自身の政治活動に役立てようとしたのです。ですが高木は彼女に恋慕していた為に、政治に利用されようとしている事が見抜けません。
更に高木よりも15も年上の千賀子は、恐らく以前から高木の気持ちを知っており、政界への前途が開けた事に気を良くして、彼で遊んでみようと考えはじめたのです。彼女は「肩がこった」と言って服をずらし艶かしい素肌を露にして、彼に肩を揉ませてみました。そうして彼女は彼の純粋無垢な反応を楽しんだのです。
差出人はこれにも矢張り呆れていました。ですが息子が帰ってきて政治の話をしたのですが、沈黙の合間に「冷たい微風に似た静寂」を感じた事については幾分か評価しています。
3通目では、その翌日の事が綴られています。
その前夜で家の者達に選挙への出馬を表明した千賀子は、手始めに夫への墓参りを決意していきました。これは差出人も意外だったと述べています。そしてその彼女の墓参りの姿を、差出人は高く評価したのです。曰く、彼女は「白痴」のように何も考える事を持ちあわせておらず、未亡人のようないやらしさがなくなり、1個の女になっていたというのです。
やがて墓参りを終えた千賀子は、活動活動の日々に追われる事となり、「瞳を複雑に濁らせていく」のでした。
一体差出人は何物なのでしょうか。一体千賀子のどういったところを具体的に非難しているのでしょうか。
この作品では、〈野望も希望もない未亡人が政治に出馬し暇つぶしをする様に、自分自身に呆れられる様子〉が描かれています。
上記の問題に答えるにあたり、物語をもう一度、差出人と宛先人の、各場面での心情を整理してみましょう。
1通目において、宛先人は差出人を見ると擽ったい表情をしますが、その差出人が彼女を殺すことだって有り得る、という風な事が書かれてあります。それは決して差出人が直接手を下すというような事ではないでしょう。差出人は、自分の存在そのものが彼女を破滅へと追いやるかもしれないと考えているようです。
では差出人とは一体何者で、宛先人にとってどのような存在なのでしょうか。思えば、差出人はあたかも宛先人の傍をピッタリと張り付いているかのようにその行動を把握しており、また行動どころか、その心情すらも、「他人であるならば」憶測で物語るしかないところすらも断言し綴っています。ですから、こうした心情すらも断言して述べているあたり、他人ではなく本人、と考えるのが自然と言うものです。
つまり差出人と宛先人は、同一人物でありながらも、対立した、それぞれ別の人格であると言えるのではないでしょうか。(因みに作中では、「ーーいいえ、それはきまっていました。」「ーーわたしは人間ですもの。」というように、手紙であるにも拘わらず宛先人の台詞らしきものが書かれてありましたが、2者が同一人物ということになると、これにも説明がつきます。)
すると、同一人物で差出人たる彼女が、一体何故、その存在が身を滅ぼすことになるかもしれないと考えているのでしょう。それは差出人が宛先人の何を非難しているのかについて理解できれば、おのずと見えてきます。
彼女は宛先人が猫を擽ったり昼寝をしていた時、選挙の出馬を決めた時、高木を弄んだ時に、厳しく自分を非難していました。何故ならそれらは全て、彼女の本音や本当にしたいことではなく、ただの暇つぶしに過ぎなかったからに他なりません。猫を擽りながら昼寝をしていた時は、その裏で50万という大金を待っていましたし、選挙への出馬を決めた理由についても、なんとなく神々しくその将来に惹かれていったからに過ぎないのです。(「本文中には、「厚生参与官という言葉は、あなたにとっては、何等の内容もない架空のもので、またそれだけに一層光栄あるものと見えたでしょう。」と書かれています。)そして高木に関しても、本当に高木の事を想っていたのであれば良かったものの、そうではないどころか、寧ろそれを弄ぼうとしたところに差出人は愚劣さを感じずにはいられませんでした。
こうした事を非難しているところから察するに、おそらく宛先人たる千賀子というものは、彼女の本音、或いは暇つぶしをする前の彼女と言うべき存在なのでしょう。ですから彼女は、息子と政治の話をしている最中に無意味な空論にふと寂しさを感じたこと、墓参りの際に何も祈ることがなかったことに対し、ほんらいの自分と向き合ったと見なし、評価したのです。
しかし、墓参りを終えた後、再び宛先人千賀子は活動という暇つぶしに明け暮れる事となり、差出人たる彼女はより一層自分の首を絞める事となるでしょう。
つまり自分で自分の身を滅ぼすとは、人生において暇つぶしや嘘をついている彼女が、別の人格の自分によって攻撃されて、自らによって息の根をとめられるという事だったのです。
しかしここまで読み進めてみると、ひとつの人物から違った2つの人格が生まれて、自分を養護したり攻撃したりする、というのは何か奇妙なことのように思われる事でしょう。ですが、私たちにもこうした出来事はあるはずです。
例えば意中の女性の気を引きたいが為に、彼女の気に入りそうな言葉を並べ立てる一方で、「僕ってこんな人間だっけ?」、「かえってこの人に失礼なことをしているのではないか」という思いをしたことは誰にでもある経験ではないでしょうか。
そして物語に登場する守山千賀子も同じです。未亡人で夫がおらず退屈し、世間から憐れみの目で見られ、ある側面からは優遇されているようなところもあり、これを面白がって政治活動したい気持ちに彼女は駆られていきます。しかしその一方で、ほんらいあったはずの彼女がこれを許さず、自分からは離れすぎた行動であるとして戒めようとしているのです。
そしてこの両者の思いというものは、彼女の中で拮抗しており、絶妙な力関係を維持しながら長い間ひとつの精神に宿っていたのでしょう。やがてある時点からは、それがあたかも独立した、別の人格であるかのように両者は独立し、一方が手紙を宛てて自分を強く戒めようという考えに至ったのです。
まさに千賀子の悲劇は未亡人になったことそのものであり、それが自分で自分の首を絞めるきっかけとなっていったのでした。
◆わたしのコメント
どうでしょうか。読者のみなさんのアタマにも、その違いがはっきりと映ってきたでしょうか。
まずわかりやすい点として、今回のものは前回のものよりも作品の流れを細かく追いながら、この作品が、なぜ「謎の人物から届く手紙」のかたちをとっているのか、そして未亡人の身辺を詳しく知る「謎の人物」とはいったい誰なのか、について考えを進めていっています。
前回指摘しておいた、<過程性>が、今回はしっかりと含められていることがわかるのではないでしょうか。
もし自分が誰からの指導も受けずに、独力で現象から問題を引き出し、さらにその問題を解こうとしてゆくのならば、必ずこういった解き方になるはずなのです。
そうして、自らが問題を「解いた」結論のみならず、「解いていった」過程をこそ描き出し論証してゆこうとするならば、読者にとってもそれはわかりやすい表現になってゆくはずなのです。
指導されて答えをすでに聞いてしまった、というのはひとつの事実ですが、それをいったん棚上げしたのちに、自分自身の頭脳活動によって、なにもなかったところから一歩一歩を積み重ねることでひとつの結論を出し、その結論を出してはじめて、すでに聞いておいた答えと照らし合わせる、という<過程>こそが、頭脳活動を高めるためには必要不可欠なアタマの働かせ方になってきます。
またここでいう<過程>が、ほかならぬ<否定の否定>であることもわかってもらえているとよいのですが、どうだったでしょうか。
そこからさらに進んで、人間の頭脳活動を過程的にしらべてゆく認識論という学問分野においても、その下敷きには<弁証法>がなければならないのだな、とか、今度は具体的に、こういう法則性を何度も何度も意識して繰り返しておくことが、わかりやすい指導のためには必要なのだな、とかいうふうに、他の論理や具体例としっかりと関連させて確認しておいてもらいたいと思います。「独学」というのはそういうもの!なのですから。
◆
さて、今回の評論で変わったこと、のお話に戻りますと、その他にもう一点、前回から大きく修正された箇所があります。
「箇所」といっても、この変更点は目に見える明確なかたちを持った表現としては現されてはいない論理性であるために、「ものごとの見る目」を高く持とうとしなければ少しわかりにくいのでは、と思います。
その鍵となる部分を引用するならば、次になります。
しかしここまで読み進めてみると、ひとつの人物から違った2つの人格が生まれて、自分を養護(コメント者註:正しくは「擁護」)したり攻撃したりする、というのは何か奇妙なことのように思われる事でしょう。ですが、私たちにもこうした出来事はあるはずです。作中の柱として扱われているように、わたしたち人間は、そのそれぞれの存在としてはひとつの個体であることに間違いはありません。
そうであるだけにアタマのはたらきの物理的な基盤となる頭脳も、ひとつしかないはずです。ここまではそれはそうだね、とわかってもらえますね。
ところが問題は、そうであるにもかかわらず、人間というものは、常日頃から、思い悩みや自問自答をする存在でもある、ということです。
これはよく考えれば、少々不思議なことではないでしょうか。
一つのアタマの中であるのに、なぜか相反する思いや考えがある、というのが<敵対的な矛盾>であるとしか映らない頭の硬い人(=形而上学的な論理しか持たない人)にとっては、これは永遠の謎!となってもおかしくないほどのことだとは思いませんか。
ですが論者の言うとおり、これが現実にある、ということは揺るがし難い事実です。
ついでに言っておけば、なにもこれは分裂症でない健常者でもあるものです。
たとえば、あなたが数十年来のヘビースモーカーであるとしましょう。
休憩時間にも仕事の合間にもタバコ、タバコ。気づけばタバコを吸っていないと頭がはっきりしない、という状態にまでなっていました。
そんなとき身体を壊し医者にかかったところ、「このままの喫煙を続けていては間違いなく肺がんになります。あと10年持つかも怪しいですよ。ご家族のためにも今すぐ止めてください」と言われました。
あなたの頭には、お医者さんの言葉が重くのしかかります。「あと10年か…」
落ち込む気持ちをなんとか振り払おうとして、病院を出てすぐ自然にライターに手が伸びる自分の現状を見て、ことの重大さに気づきます。
さて、ここでのあなたのアタマの中はどうなっているでしょうか。
一方では、これまでの習慣で身についたアタマの働きとして、「タバコを吸いたい!」という欲求が強烈に浮上してくるでしょう。
しかし今やもう一方からは、「このままでは死ぬぞ!」というお医者さんのことばがアタマの中に響きわたるようになってもいます。
まずはこの具体例について、この先あなたのアタマの中はどのように変化してゆくだろうかと考えてみてください。
そのとき、ずっとこのままの状態ではいられないだろうな、という素朴な実感がひとつの手がかりです。
このことは評論の中でも(少々言葉足らずであることは残念ですが)指摘していることであり、さらにそのことをあくまでも作家の流儀に従って、そこにこだわって書き出そうとしているところに今回の評価できる点、つまり「志」があるのです。
記事を分けて考えてゆくことにしましょう。
(次回へつづく)