2012/04/05

文学考察: 小説家たらんとする青年に与うー菊池寛

今回の評論は、


めずらしく論者自身の見解があるようです。

ところでわたしがノブくんにやってもらっているのは、通常の意味での「評論」ではありません。
ひとつの作品から一般性を引き出すことを重視しているのは、作品の論理性を理解してほしいからです。
この、作品に忠実に、その根底の流れを深く読み、引き出す、という営みには、論者自身の見解や主張などというものは含まれないのがふつうです。

そういう原則からすれば、今回は通例とは外れていますが、論者の感情も理解できることもあり、「感情的に反論するとは何事!」とは言っていません。

◆◆◆

しかし、人間には感情があるというのが当然である、というのは、わたしが上のようなコメントをしなかった理由ではありません。

感情があるから少々の行き過ぎも許されるというのなら、理性などというものがなぜあるのかがわからなくなってしまいます。

浮気しても物を盗っても、はたまた人を殺してもいいじゃない、誰だって感情があるもの。

そんな苦しい言い訳をするしかなくなる前に、しっかりと理性を働かそうではありませんか。
だって、わたしたちは他でもない人間ですからね。

感情のままに行動するものを人間とは呼べません。
理性を振りかざすあまりに有事に感情的に振る舞うのも、一人前とは言えません。
自らに揺れ動きうる感情があることを正面から受け止めて理性的に行動できるような存在が、立派な人間なのではないでしょうか。

そういうわけで、手厳しいコメントをしなかったのは、感情的な反論も、ひとつの道を目指すための、またひとつの人格を養うための、必要不可欠な過程だと考えているからです。
この第一の否定を認めるのは、当然ながら、より高い次元のものとして止揚されてゆくことを期待してのことですから、人から叱られなくともしっかりと、自らの自制心・自省心でもって向き当たっておいてください。

感情があることを深く自覚するからこそ、理性的だと言えるのですよ。


◆文学作品◆
菊池寛 小説家たらんとする青年に与う


◆ノブくんの評論◆
文学考察: 小説家たらんとする青年に与うー菊池寛
この作品ではタイトルの通り、小説家を志す青年に対して著者がある規則を提案しています。
それは〈現実の世界への認識が浅い20代前半のうちは、小説を書くべきではない〉というものです。というのも、小説が現実の世界の事柄を材料にしている以上、人間の細やかな心情を理解したり、複雑な人間模様を捉えることの出来る眼力、そしてその眼力によって見てきたものを整理する能力のないうちは、小説を書いてもろくなものは出来ない、と彼は考えている様子。
確かに私達も恐らくはそうした人々によって書かれた、現実味に欠けている作品、或いは主張が今ひとつまとまっていない作品を駄作と称して再読することはないでしょう。ですから著者が、社会に出はじめの年代である、20代前半の青年たちにこうした訓戒めいた言葉を残しているのも納得できる話です。
では、私達は小説というものをどのように修練すべきなのでしょうか。この作品の著者の主張では、ただ現実の生活に目を向けてさえすれば、他の小説家達の作品を多く読んで学びさえすれば、自然と小説というものは書けるのであると主張しています。しかし、誰しもが持っている素朴な実感としては、物事は見るのと実際にやってみるのでは大きな違いがあります。小説もやはり同じで、評論家のように批判はできても一流の作家の様にリアリティある文章を綴る事ができるとは限りません。駄作は駄作なりに、一度書いてみる必要があるのではないでしょうか。そうして現実と自分の作品を比較することで、自分の作品に対して欠けているところが見つかることでしょう。また、著者の重視している現実の見方も、実際に書くことで新しい発見があるはずです。
確かに、現実の世界の見方がよく分かっていないであろう人物が描く作品というものは、駄作には変わりないでしょう。ですが、その駄作を実際に書き続けない限り、傑作を書く事はできません。駄作を書くということは、著者が指摘しているように無意味なことではなく、寧ろ傑作を書くという過程の上では寧ろ重要なことなのです。

◆わたしのコメント◆

著者は、小説家を目指す青年たちに語りかけています。小説というものは、一般に理解されているような文章技術の結晶なのではなくて、実のところ、或る人生観を持った作家が、自分の人生観を発表したものなのである。良い小説というものには、その作者の人生観が現れることになるのだから、小説を書く前に、先ず、自分の人生観をつくり上げることが大切なのだ。つまり小説家を目指す若い諸君は、よく頭を養い、よく眼をこやし、満を持して放たないという覚悟がなければならない。筆者の主張はこのようなものです。

筆者である菊池寛の主張を整理して言えば、小説を書くにあたって重要なのは、それを書くための「技術」よりも、それを書くための素材集めや、そのことを通してどのような人生観を作り上げているか、つまり「認識」のほうなのだ、ということになります。

おさらいをしておくと、人間があるものを表現するときの過程的な構造は、以下のとおりでしたね。

対象→認識→表現

一般的な読者の見方では、小説の面白みはその表現にあることから、小説家というのはとにかく「文章表現の巧い人」なのだ、というイメージが先行しがちです。
思ったことを、文章というかたちにできる人、というわけですね。
これは上の図式で言えば、認識から表現に至る2つ目の矢印に当たります。

しかし筆者によると、小説の本質は、そういった文章の技巧にあるのではなくて、小説を書く者が持っている価値観、つまり認識にこそあるのだ、というのです。
こちらは図式で言えば、1つ目の矢印を指すことになっています。

◆◆◆

筆者の考える小説家の条件が表現にはないことは先程述べたとおりですが、表現の過程的な構造を手がかりに筆者の主張を敷衍して言えば、筆者の主張する力点は、「対象」にもない、ということがわかります。

これはどういうことかといえば、例えば大災害や戦争、悲劇的な別れや運命的な出会いといった、ふつうでは体験することのできない経験を積んだ人は、その経験値から言えば優れています。
しかし筆者の考えでは、「対象」、つまり個別の経験の内実がいかなるものであったとしても、それを受け取る側の条件が整っていなければ、それほど深い意味にはならないのだ、つまるところ良い小説は書けないのだ、ということが言えるでしょう。

では受け取る側の条件とは何かといえば、「人生観」です。
これだけ短い短編の中に、「人生」や「人生観」ということばが何回出てきたのかを数えてみてください(Macをお使いなら、command+Fで文中を検索できます)。びっくりすると思います。

そんな筆者のいうところを見てみましょう。
そういう青年時代は、ただ、色々な作品を読んで、また実際に、生活をして、自分自身の人生に対する考えを、的確に、築き上げて行くべき時代だと思う。尤も、遊戯として、文芸に親しむ人や、或は又、趣味として、これを愛する人達は、よし十七八で小説を書こうが、二十歳で創作をしようが、それはその人の勝手である。苟(いやし)くも、本当に小説家になろうとする者は、 須すべからく 隠忍自(いんにんじちょう)して、よく頭を養い、よく眼をこやし、満を持して放たないという覚悟がなければならない。
ある人生観が定まった時には、そこを通るどのような経験もが意味深なものとして輝いて見えるために、小説を書く立場からすると宝の山なのだが、それはもちろん、ひとえに「人生観」が授けてくれる賜なのだ、ということです。

◆◆◆

論者がこの作品の一般性として挙げている規則は、たしかに作品の冒頭で括弧書きで表明されていますが、これは極意論、つまり筆者の主張の論理的帰結として表明される結論でしかないものですから、この作品の本質ではありません。

本質はあくまでも、「小説というものは、或る人生観を持った作家が、世の中の事象に事よせて、自分の人生観を発表したもの」である、ということなのです。

鈍才を自認する論者からすれば、おそらく天才肌であろう筆者が、とくに何の苦労もなく数々の名作をものしたことが羨ましく思われて、思っていることをかたちにする、つまり自らの認識をあまさず表現するための「技術」というものも、それはそれは困難なものなのだ、ということを言いたいのでしょう。

その気持ちは、理性的にはともかく感情としてはよくわかります。
ましてやわたしのところに出入りすると、毎日毎日、基礎修練だけやっていなさいと言われたように思われる日々もあったでしょうからね(今ではそんな素朴な実感ではないはずですが)。

しかし振り返ってみれば、小説家を志して今日までの日々は、はたして技術だけを磨いてきた毎日であったでしょうか?
それとも磨いてきたのは、もっと本質的なものごとの見方や組み立て方だったでしょうか。

そう言われれば後者だな…と思ったのなら、それは認識と論理を修練として取り組んできた、ということになりますね。
論者がこの作品に感情的に反応して、しかもそれなりの反論をし得ているということは、実のところ、裏返し、この作品の筆者の主張が的を射ていることを示しているのではないでしょうか。

一読しての論者の実感はともかく、理性の光を当てて読むことにすれば、筆者の主張と現在の論者というのは、思ったよりもずっと似通ったものであると、そう感じられてはきませんか。


【誤】
・ただ現実の生活に目を向けてさえすれば、→ただ現実の生活に目を向けていさえすれば、
・寧ろ傑作を書くという過程の上では寧ろ重要なことなのです。→「寧ろ」の重複

1 件のコメント:

  1. 今回のコメントで 「 対象→認識→表現 」に対する、私の理解の「浅ささ」に気付かせて、分からせて頂けました。

    まだまだ…ですね! 先へ先へと続く長い道~ワクワクです ♪♪♪

    今回も~ありがとうございます。

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