2013/01/12

【メモ】ショーン・エリス、ペニー・ジューノ(著)・小牟田康彦(訳)『狼の群れと暮らした男』(築地書房)


研究の合間に、


元旦に手にとった本を読み進めているのですが、これは面白かった。

「動物」の生態を学ぶことが、なぜほかでもない「人間」の、しかも「認識」論に必要なのか、に答えるためにも、少し紹介しておきましょう。

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本書の特徴がどこにあるかはタイトルに現れているとおりだけども、著者は、実際に狼の群れの一員として生活した経験からして、それまでの行動学的な観察だけからでは、どうしても人間側のセオリーを狼に押し付けて解釈せざるを得ないために、時には誤った結論を引き出してしまっていることを危惧している。

一般的に言って、幼少の頃から動物が好きで、実際に寝食を共にしともに育ち、別れに涙を流してきた、市井の経験者と、実験室や望遠鏡を通してその対象を観察し理解してきた研究者とのあいだの懸隔は、なかなかに埋められないことが多いようである。

理論家は、学んだ理論を脳裏に宿すことを通して実践に取り組み、それを検証してゆかねばならないし、実践家は、個別の実践から論理を引き出しそれを体系化することを通して理論として作り上げてゆかねばならない。

しかし現実を見ると、理論家のほうでは、既存の理論に反する個別的な実践を、些細な例外だとして排除し学界から追いだそうという向きに努力を注ぎがちであるし、実践家の方では、理論など何の訳にも立たないとばかりに相手にすらしないことがほとんどである。

研究者のなかでもとくに、英国流の経験主義や、その流れを受け継ぐ米国流の行動主義やプラグマティズムの学風の中では、どうしても、対象の持つ現象的な側面にだけ焦点が集中する傾向があり、その内面に存在するはずの構造に触れることがタブー視され、無視黙殺される傾向に陥りがちとなる。

なにしろ、構造は目に見えない!のだから、それを論じようとすれば、「実証」的な根拠は何か、と詰め寄られるわけである。

目に見えぬものを扱う場合には、それを見る者の側にも論理の力が必要不可欠であるのは当然であるが、感情的にも能力的にもその道を閉ざそうとする相手に理解を求めるのは、並大抵のことではない。

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わたしの知るかぎりでも、心理学を専攻する学生や研究者が学界において研究に臨むとき、
人間が表向きどのように行動するのかの統計をひたすらに取ることが、どうして人間の内面を理解することに繋がるのか?
という疑問を持つ人が少なくない。

単純だが、本質的な問いである。

とくにそれは、現実の人間を眼にして、学んだ研究手法やそこで得られた知見からではとても解くことのできない問題に日々ぶつかり続けている者にとっては、人生を揺るがしかねないほどの大問題である。

本書を読むと、これは、問題の質も段階も異なるけれども、動物を理解する場合においても同様のことが言えるのだとわかる。

厳密にいえば、人間の頭脳のはたらきである精神は当然ながら動物にはないけれども、それも生成段階をたどれば、わたしたちの祖先が単なる動物であったときに営んできた社会のあり方を土台として作り作られてきたものなのだから、人間を知るにはやはり、動物を知らねばならない。

森羅万象は、自然、社会、精神の重層構造から成り立っていると言われるのはまさにここなのだが、いつも口を酸っぱくして言うとおり、これをいくら言葉の上で諳んじられたとしてもまるで意味はないのであって、自然、社会、精神の成り立ち方を、その過程として一般的に押さえることを通して、「なるほど、人間の精神を本質的に理解しようと思えば、どうしてもヒトの社会がどういうものであったかを知らねばならないのだな。より遡れば、その前には群れをなしていた動物があったはずだから、そこからヒトがどのようにして生成されてきたのかも押さえておくべきだ。もっと遡れば…」というふうに、正しく問題意識を持たねばならないわけである。

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本書の内容はジャーナリズム寄りで、必ずしも整理されているわけではないから、狼の生態に加えて、私生活や夢や生まれ持った才能などをごった煮した文書は研究書とは呼べない、とアタマの凝り固まった研究者から無視黙殺の理由にされそうな心配はあるものの、その経験は確かなものである。

とくに、食事が狼の群れの構造の維持に果たす役割を書いた「23. オオカミの食べ物は身分で違う」と、これまで質的に異なり互いに参照しあえないとされてきたオオカミと犬の社会構造について具体的に触れた「24. 己の身分をわきまえる」は、人間の認識の生成を知るために動物の生態を学びたいという読者にとって、貴重な知見を与えてくれる。

その知見を生かして、狼に育てられた子とされる、あのあまりに有名なアマラとカマラの事例について、狼がなぜ彼女らを被食者と見て食べてしまわなかったか、という問題の糸口が掴まれているところなど、思わず声を上げてしまったほどであった。
彼女らを保護した牧師の虚言などが明るみになるにつれて、あの事実そのものが検討に値しないものとして解消されてしまったきらいを苦々しく思っていたからである。

総じて、本書は狼の群れのなかで、その一員として暮らした、という類まれなる経験を持つ著者の、それこそ経験の書であるから、それをそのまま読んでしまっても、「へぇ〜、こんな人もいるんだ、こんなこともあるんだ」と、トリビアルな雑学を獲得しておしまいになってしまう。

ただ、自然、社会、精神の流れを一般教養として押さえたうえで、その上に学問の道を歩き続け森羅万象の過程的構造を通して、学問的な一般教養を構築し、その上に自らの専攻分野を正しく位置づける、という科学的・本質的な規定に従って生成と発展を見てゆこうとする人間にとっては、一見の価値ある書物であると思う。

またそこまでいかなくても、科学者を自認する研究者の戒めの書物として。実践することのリスクを回避しようとする意気地の無さを払拭し、傷を負っても前に進む動機付けの書として。「痛がりは伸びない」という事実を極端なかたちで突きつけ、教えてくれる。

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さいごに、著者のスタンスの読み取れる箇所をいくつか。

・オオカミの柵の中で生活しようとする筆者に対して、生物学者が
「 キャンプの生物学者たちは私の計画に断じて反対だと言い、頭から敵対的になる学者もいた。科学的に反対する根拠はあるがそれは別としても、わたしの理論と信念は間違っており、それは自殺行為だ、と彼らは考えた。彼らにとって、私は外国から来たそれこそ一匹オオカミで科学者の資格もない―そう言われればその意見に反論するのは難しかった。私がしたいと思ったことはあらゆる科学的原則に反した。生物学者として彼らは観察はしているがそのもの自体に触れてはおらず、きめ細かく定義された方法論に従っていた。しかし、私は科学者ではないし、彼らと違って失ってこまる名声もなかった。私は成功しなかったらどうなるだろうという恐れがなかった。失うものが何もなく得るものは全てだった。」(p.101-)
・犬は、それが群れのなかでどの位置を占めているかによって扱いを変えねばならないとしたまとめとして
「 以上の犬のどれを自分の家にもちこんだかを知れば、互いに幸せな生活を送ることにいくらか役に立つはずだが、しかし結局は買った犬をどう扱うか、どう訓練するかにかかっている。ほとんどの訓練士や行動学者は彼らの方法論をオオカミの行動に典拠を求め、群れの重要性を認識している。私はそれについて反論はないが、前にも言ったように、本当に何が起きているかを理解するためには、現場にいなくてはだめだ。オオカミを遠く離れて観察していると、簡単に間違った結論に辿り着くことがある。実際、それが今までの実態だと思う。飼い主はアルファの犬(=群れのボス。引用者註)の役割を演じなければならないと教えられてきた。テレビで見せられた問題犬に対しては驚異的な結果が出ているけれども、これがいつもうまくいくとは限らないし、飼い主にとって必ずしも長期的な解決策になっていない。
 私は決して犬の行動科学者をけなすつもりはないが、オオカミの行動を正確に真似することが大事だと深く信じている。事実、すべての犬がアルファの役割を担った飼い主に対応できているとは限らないのだ。」(p.232)

【参考】
・出版社へのリンクおよびプロモーションビデオへのリンク
 狼の群れと暮らした男

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