2013/06/04

「人を動かす」一般論はどう引き出すか (5)

(4のつづき)


前回までで、D.カーネギー『人を動かす』という、内容としては誰にでも読める平易な本を取り上げて、その一般性を簡潔な体系性をもったかたちで引き出す、ということに、学生のみなさんとともに取り組んできました。

意外なほどに手こずった方が多かったようで、きっかけとなる記事を含めれば計6回にわたる記事になりましたが、それも今回でいちおうおしまいです。

おしまいになったということは、一定の答えが出た、ということですね。



さて、その答えをご紹介する前にしっかりとことわっておきたいのですが、わたしたちがここまで取り組んできた課題、「人を動かす」ことの一般性とはどういうものか、という問題は、その答えだけを見れば、「なんだこんなことか」というものでしかありません。

それだけに、問題を解いてくることを求められたり、自ら進んで問題を解いて叱られたりした人たち(これは立派です)とは違って、答えの像を漠然としたところまでしか突き詰めて考えずに、しかも答えを見た途端「ああやっぱりな、そんなことだろうと思った」ですませてしまう人がとても多くなるのでは、と恐れをふくんで予想しています。

実のところ、ものごとを客観視できない人というのは、こういった経験を続けてきてしまったことの結果であるのであって、これはすなわち、自らの固定した考え方を色メガネ的に念頭に置いた上で、それを通して見える対象・事象を、自らの意見を裏付けるものとして「のみ」解釈し続けた結果、世のあらゆる事柄や考え方を自らの正しさを証明する素材としてコジツケているにもかかわらずそれを自覚できないという、歪んだ認識を創りあげてしまっているということです。

たとえば弁証法のほんの入口を紹介したあと数ヶ月たらずで、「すごいすごい、これがあればなんでも切れる!」とばかりに、家族や友人たちを論破(?)したとする成果を報告してくる人がいるものですが、表に出すか出さないかはさておき、はっきり言えば、これは勘違いもいいところであり、こういう人にとっては、弁証法との出合いはかえって不幸しかもたらさないものです。

みずからの正しさを信じて疑わない人にとっては、ものごとの見方に弁証法を採用するのも、相対主義を採用するのも、経験主義を採用するのも、はたまた構造主義や記号論やプラグマティズムを採用するのも、ともかく、「どうでもいい!」、ことでしかないのです。だって、どれを採用しても、結局「自分は正しい」ことがあらかじめ運命づけられていることになっているのですから…。

これは、弁証法がわが身の認識として技(わざ)となる研鑽過程は、数カ月やそこらでは到底不可能といった事実のほかに、こういう人に、「では弁証法を使ってどんな問題が解けましたか?」と聞いても、「とにかく凄い」、「ずっと自分もこういう考えをしてきた」だとかなんだとかいうそれこそインプレッションならぬインスピレーションレベルの、曖昧模糊とした返答しか返ってこないことで明白です。もし弁証法を採用するにしろしないにしろ、ある考えが正しいかどうかという判断において絶対的に必要なのは、たとえ身近なことであっても、それを使ってなんらかの問題を解いてみる、という姿勢です。



オリジナリティ溢れる思想を考えつきたいだけであるのならともかく、あくまでも現実に則して、つまり唯物論の立場に立って事物の探求を進めてゆくのであれば、そこで求められるのは、ア・プリオリに(=先天的に、前もって)設定した観念を現実へと押し付けて解釈するという姿勢ではなく、必ず、現実のあらゆる事物・事象に共通する性質を一般化してつかみ、その根底に潜んでいる構造をこそ導き出す姿勢であらねばなりません。

こういうと必ず、まったくの客観などというものは存在しない、よって解釈と構造の理解とやらには何らの違いもない、といった日和見的相対主義者が茶々を入れてくるものですが、解釈と構造の理解がまったくに異質のものであることは、そのそれぞれの考え方に基づいた理論を現実へと適用した時に、他でもなくその実践的・現実的な可否によって、否応なく眼前に示されることになります。

こう言うことを通して何を伝えたいかといえば、ものごとを見る目を「本心から」磨き上げてゆきたい、というのであれば、まずは、ひとつの問題にたいしてしっかりと独力で答えを導き出した上で人の出す解答と照らしあわせてみて、どちらがより事物を鮮やかに照らし出しうるのか、を「客観的に」比べてみなければならない、ということです。

そうして、そこでAとBの意見や考え方を戦わせてみた上で、どう検討してもBのほうが現実の構造を正しく捉えているのだと判断できる場合には、それが自分のものであろうとも、たとえ他者のものであろうともそれが誰のものであるかに関わりなく採用し、自らの不足を認める、ということが必要です。わたしと直接議論していれば、権力的にでなく論理的に「認めさせられる」ことになりますが、そうでない人も、自らの自省心でそれを補ってゆかねば正しい前進にはなりません。

自分のオリジナルの考えを構築して、机の上で世の問題を切りまくっているだけならともかく、その考えでもって成心なく、世の人々の心身を治したい、本質的に向上させたい、という目的意識を持って問題に取り組むとしたらどうなるか?という観点を、自らの人格にかけて少しでも持って欲しいと思います。

もしたとえばあなたが、「念を込めれば腰痛でも心臓病でもなんでも治る」という考えを持って医者になるのだとしたらどんなことが起こるか、と。いい加減なことをしては法律で罰せられるからいけない、というだけではなく、それよりも、自らの踏み外しや至らなさを客観視できなければ絶対に成長など望めるはずもない、という一事が問題なのです。

心臓の病と違って、誤った考え方に染まったとしても人間は直ちに命を奪われるといった目に見える失敗を引き起こさないかもしれませんが、人の人生に影響を与えるということは、外傷がないからといって軽視されてよいものでは決してない、そんな甘ったれた姿勢のもとの考えなどは、歴史という歯車によって近い将来粉々に粉砕されるのだ、ということをぜひにふまえておいてほしいと願ってやみません。

学問は、いい格好をするためのツールなどではありません。現実の問題を正しく照らし正しく導いてゆくために、過去の人類が総体として、たとえようもない努力と犠牲を払って磨き上げてきた最高の方法論です。ですからそれに関わりそれを使おうとする人間は、それに見合った自省心と、それに相応しい志・夢をまずは持ってください。

さて、以下の答えは、その覚悟に見合うものになっているでしょうか。


◆ノブくんのレポート
人を動かすーD•カーネギー 
 あなたが上司や部活のリーダーなど、人を先導する立場に立った時、或いは自分とは違う立場の人間と意見を交わしている時、部下がなかなか自分の言葉を受け入れてくれず困ってしまった、話し合いが感情的な口論へと発展していってしまったという経験はないでしょうか。かく言う私自身も、昔大学のサークルで副部長をつとめていた時に、部長と部活の運営について話していたにも拘らずどういうわけか激しい口論になってしまったこともありますし、現在でも似たような悩みを抱えていました。
 と言いますのも、私は現在介護士として暮らしの生計をたてているのですが、ある利用者さんが私を含めた職員の誘導を促す言葉(私たちの世界ではこれを「声かけ」と呼んでいます)をなかなか聞き入れてくれない時があり、その方に右へ左へ左へ右へと振り回されていたのです。半ば途中でその方に振り回されることも仕方がないのでは、と考えてしまうこともありました。
 しかし私は問題を客観的に観察し、「声かけ」に工夫を凝らすことで少しずつ問題を解消していきました。その方自身も(私はその場にいる限りではありますが、)今ではより穏やかな毎日を過ごしているように思います。
 ところで私が上記の問題に対して解決していった過程には、今思えばこの『人を動かす』の一般性が大きく横たわっていたのです。そこで今回は、若輩者の数少ない経験を踏まえながら本書を論じていきたいと思います。
 
 はじめに結論から言いますと、本書では〈人に意欲的に動いてもらうよう、相手の欲求を満たす〉と言う事が論じられています。 
 この一般性というものは、フローレンス・ナイチンゲールの『看護覚え書き』の一般性にならい、抽出しました。この著書は彼女の看護経験から看護士が何を扱っているのか(対象論)、それをどのような状態にもっていくのか(目的論)、またどのようにそうするのか(方法論)、という看護のあり方を一般化し、それに基づいて衛生看護を中心とした方法論が論じられています。そしてその一般性を下記に記しておきました。
〈生命力の消耗を最小にするよう、生活過程をととのえる〉
 次に私はこれらを対象論、目的論、方法論に分け、この形式を本書に適応させていったのです。
 
対象論→生命力
目的論→消耗を最小にする
方法論→生活過程をととのえる
 
対象論→人
目的論→意欲的に動いてもらう
方法論→相手の欲求を満たす
 
 ここで私が読者の方々に注意して頂きたいのは、この対象論にあたる「人」というのは人類すべての人々を指している訳ではありません。本文に「およそ人を扱う場合に、相手を論理の動物だと思ってはならない。相手は感情の動物であり、しかも偏見に満ち、自尊心と虚栄心によって行動するということをよく心得ておかねばならない。」(p.28参照)とあるように、理性的な人々は対象としておらず、感情的な人々、ごく一般的な人々を対象として書かれているのです。
 そして私が携わっている利用者も、否、特に心身の崩壊が目に見えはじめている彼、彼女らは、通常の人々とは違い、理性による抑制がきかず、より感情的で落ち着いて考える事ができない人々と言わざるを得ません。
 
 次に、こうした人々に私たちはどのようになって貰いたいのか、つまり目的論について考えていきましょう。安直にタイトルのみを見れば、「動かす」ということに終止してしまうます。しかし本書には他にも、「人に好かれる」、「人を説得する」、「人を変える」といった同じ概念の項目がある事は見過ごせません。そしてこれらの項目は各その中にある章を見て察するに(笑顔を忘れない、心からほめる、議論をさけるなど)、方法論の束になっているようなのです。またそれらは人に強制していない、結果的に他人が自分たちの思惑通りに動いた、誰かの意思によって動いているのではなくその人の意志で決定し動いている、という点で共通しています。こうした点から、本書で述べられている目的というものは、相手に「意欲的に動いてもらう」ことにある、という事が理解できます。
 ところが現実はなかなかそうはなりませんね。何故なら私たちの要望の中に、相手が不快に感じたり相手の立場や環境がそれを拒否させてしまったりするからなのです。本文の中にも、ショップ店員という立場から返品お断りを客に厳守させようとする女性や、こちらの強制的なもの言いに言う事を聞かない子供などが登場します。
 私の場合もやはり同じでした。職員という立場から、私たちはその方につい強いもの言いで強制したり、こちらの都合ばかりを相手に述べてしまっていました。ですから結果的にその方はほんらい私たちがその方に望んでいる姿を拒否するばかりか、一番望んではいない行動(他の利用者を非難する、暴言を吐くなど)をとっていくのでした。
 ではこれらの人々をどのように目的どおりの人に近づいてもらうのか、その方法について考えなければなりません。それは本文に明確な形で記されてありました。
「人を動かすには、相手の欲しているものを与えるのが、唯一の方法である。」
 今思えば、私はこれを読む以前に、問題の利用者さんに自然とそれを行っていたのです!まずその方が何を望んでいるのか、冷静に日頃の台詞を考えノートに書き出しました。次に相手の不快な感情を起こさせる言葉は極力さけるように努めていったのです。例えば、「どうしてそういう事をするんですか?」や「私たちのいう事をきかないからそうなるんです!」といった台詞がそれに該当します。
そして相手に自分がその方を気にかけている事を言葉や仕草で表現していきました。これは本文で言えば、1-2「重要感を持たせる」にあたります。その方は読書と映画の話、家族の話が大好きでしたので、私は興味ありげに何度も同じ話を投げかけました。途中自分が話に飽きないように、質問の内容を変えたり、話す感覚をあける工夫をしたこともあります。これは、2-1「誠実な関心を寄せる」の項目にもありました。このように私はあらゆる方法を尽くして相手の欲求を満たし、現在ではお互いが不快ない関係を築けていけています。
 人を動かす為には、ただ自身の望みを強要するのではなく、逆に相手が自分に何を望んでいるのかを知り実行する事こそが重要だったのです。

◆わたしのコメント

読者のみなさんは、ノブくんの出してくれた一般性と比べて、よりよいものを引き出せたでしょうか。

わたしはこのレポートは、控えめに言ってもなかなかに良く書けていると考えているのですが、一般論が正しく引き出せていることに加え、そのうちに含まれる3つの各論である対象論・目的論・方法論について正面から向きあい、「自らの実践に照らしながら」例示することで読者にとっても説得的に書ききっている、ということにあります。

なお、彼は「5月中」という締め切りをしっかりと守ってくれました。これも評価すべき点です。

さて内容を簡単におさらいしておくと、確かに論者の一般化した通り、この本の対象としている「人」についての人間観というものは、理性によって説得されれば自ら動いてくれるという人物でなしに、ごく一般の、論理ではなく感情で動く生き物としての人間です。

さらにその人たちにどうしてもらいたいからこの本を書いたのかという目的から言えば、「人がすすんで動き」、「人が好いてくれて」、「人が言うことを聞いてくれて」、また「人がより良く変わってくれる」ことを主眼においてのものでした。
これらを一般化したときには、なるほど「意欲的に動いてもらうよう」という目的論で間違いではなさそうです。

さいごに、ではそういう目的を持って実際に人に動いてもらうにはどうすればよいか、という方法論については、本書の各所に、「重要感」、「誠実な関心」、「笑顔」、「名前」、「喜んで答えるような質問」、「心からの賞讃」とあるとおり、これらを一般化することによって「相手の欲求を満たすものを与える」としてよいことになります。

しかも、本書の根底に潜んでいる一般性は、自らの実践で思い当たるところがある、ということですから、この時点で、一定の正答となっているであろうことは既に示されているといってもよいでしょう。



残る問題は、細かな字句の問題となりますが、わたしが出した「人を動かす」一般性は、以下のようなものでしたので、論者のものと比べてみてください。

「人に自発的に動いてもらうよう
相手の欲しているものを与える」

対象としているものと、それが持っている性質については論者と一致していますが、その目的については、「人が本当に動くというのは、他者からの強制ではなく自らすすんで動くことである」という本書の論調から、わたしはそこを「自発的に」と表現したものでした。

論者の用いた「意欲的に」でも間違いではありませんが、その場合には、即物的なアメに釣られて動いた場合も含まれてしまいますから、あくまでも本心から、というニュアンスを込めてより焦点を絞るならば、「自発的に」とするのがより適切だと言えないでしょうか。

また、方法論についてはほとんど同じように見えますが、論者の用いた「欲求を満たす」という表現は、これ全体が熟語としての性格が強いために、「欲求を」と「満たす」が切り離しにくい関係にあり、「(人の)欲求」という目的を論じる時に一定の制限がかかってしまうことから、より単純に、「欲しているものを」「与える」と分離しやすいかたちにするのがより適切であると言えるのではないでしょうか。

次回は2週間ほどをかけて、同じ著者の『道は開ける』の一般性を出してもらいますから、参考にしてください。

わたしの作ったマインドマップに、自筆でメモを書き加えたものも公開しておきます。


なお、論者は看護の実践を理論化したのはナイチンゲールである、という言い方をしていますが、実際には、ナイチンゲールが磨きあげた看護実践を、薄井坦子が科学的に理論化した、というのが正しいいきさつですから、その看護学の発展の過程性をとらえそれを土台としながら、自らの実践をより高めていってもらいたいと思います。

そのためにも、ぜひともここで、<一般化>を論理的な技として創りあげてゆきましょう。


【正誤】
・暮らしの生計をたてている
→「暮らしを立てる」と「生計を立てる」は重複しているようですから、どちらかでよいでしょう。

・ここで私が読者の方々に注意して頂きたいのは、この対象論にあたる「人」というのは人類すべての人々を指している訳ではありません。
→冒頭の「頂きたいの」にある「の」は、形式名詞であり、「もの」の短縮したかたちであると考えられるので、文章の最後も体言で、「指している訳ではないという「こと」です。」と締めねばなりません。

・「動かす」ということに終止してしまうます。

・現在ではお互いが不快ない関係を築けていけています。
→現在ではお互いが不快「の」ない関係を「築いていけています」。


(了)

0 件のコメント:

コメントを投稿