2013/06/27

『道は開ける』の一般性はどのように引き出されたか (2):<論理性>はどのように二分されるか


(1のつづき)


今朝の記事では、学問の段階から森羅万象のあらゆる出来事をながめるとき、その<世界観>はどのように二分されるか、についてお話してきたのでした。

二分されたそのそれぞれは、どういったものでしたか?わからなければ、読み直してきてください。

簡単にでもわかったのなら、次に進みましょう。


◆<論理性>はどのように二分されるか

先ほどの<世界観>の問題と同じように、学問の歴史は、古代ギリシャ哲学、近代ドイツ哲学(あいだに中世スコラ哲学を入れてもよいですが、この二つに比べると数段重要性が落ちます)をはじめとした大きなジグザグの過程の中で、次第次第に<論理>的な段階を高めてきました。

論理というのは?と訊ねたい方は、簡単には目の前の事物や事象を貫く性質を引き出し、筋を通して説明できるようにするためのものであり、日常的な実感としてわたしたちが何かを「なるほど」と納得できるときには、この論理というものが含まれているからだ、とみなしてよいでしょう。

ただ一口に論理といっても、一見すると筋が通っているように見えて、実際にはそうでないものや、もっと悪くは相手に反論しにくい抜け道をついただけで現実には適用できないヘリクツであったりもします。また、実践家がよく口にする、「論理など何の役にも立たない。経験こそすべて」というのも、自分自身の経験から引き出してきた事物・事象の一般的な性質であると言えますから、これも程度はともかくひとつの論理ということになります。

さてこの、「こういう場合にはだいだいこうなる」、つまり現実から法則性を引き出したところの論理というものには、ここで挙げたように大きく程度の差というものがありますから、学問的な段階で研究をしたり実践をしたりしたいのであれば、いくら高めようとも高くしすぎることはない、ということになりますね。



このうち、歴史的に最高度の段階と見なされているのは、このBlogでも暗に陽に出てくる(「暗に」がどこにあるのか、を見ようとしてくださいね!)、<弁証法>、という論理のあり方です。

この考え方では、世界を常に変化し続けるものとしてとらえ、その過程を追おうとします。春は夏へと変わり夏は秋へと辿ることで一年がめぐり、麦は種から生まれ成長し、やがては死に至りますが、そのことによって新しい種を育むという、それらの過程を通して眺めて、そこにはどのような法則性が働いているのかを考えようとします。

蛇足ながらイメージを深めるために一般的な傾向を俯瞰すると、この論理の必要性を強く感じるのは、人間の感情や社会といった分野の複雑な問題を解かなければならない時が多いようです。

逆に数学や物理学といった分野では、現代においては公式化されきっている法則性も多いために、「人間は必ず死ぬ。アリストテレスは人間である。ゆえにアリストテレスは必ず死ぬ」的な形式論理がすべて、とみなされることが多く、いきおい弁証法などという曖昧なものは科学とは呼べない、とあしらわれることもあるようです。

ただこういった分野で扱われる対象にも、やはり大きな視野から見れば弁証法的な法則性は根底に流れていますから、体系性を確保しながら高度な研究を進める場合にはどうしても必要になってきます。

物理学という分野から引き出された論理(法則性の把握)を、たとえば恋愛を成就させるために用いるとどうなるか?と考えれば、結果が見事にその不足を証明してくれるでしょう。いわゆる理系出身者が、実験器具を扱うように人間をマネジメントしようとして失敗することが経験則としてよく取り上げられるのも同じ理由です。こういったことを見て取って、これらを揶揄するかたちで、<形而上学>な論理、と呼ぶのです。

ですから、ここで言う<形而上学>とは、弁証法的な論理を持つ側から、いわば侮蔑的な意味あいをこめて「論理が平面的で低い」ということを言おうとすることばであるため、実際にそう言われた当人たちが自らのことを形而上学者である、と言ったりすることはまずありません。また、形而上学というものを、単に思弁哲学を意味する場合もありますので、使用したり読み取る時は文脈に注意せねばならない言葉です。

ただそれでも、一般的に言って、世界を常に変化し続ける過程的なものとして追うのでなしに、<形而上学>的に考えるということは、世界を変化のない、静止したものとして考える、というところに特徴があります。

どもあれわたしたちとしては、アリストテレスが云々という三段論法のようなものを精神の問題や社会の問題に押し付けたうえで、「論理通りに進まないのはお前たちの理性が足りないせいだ!」などというわけにはゆかない立場にありますから、やはり、<弁証法>的な段階を維持しさらに高めてゆくことを要請されているわけであり、この場合にも先ほどと同様に、<形而上学>的な論理に滑り落ちない心がけが毎瞬・毎秒、必要とされているのです。



さて、ここまでを読まれた読者のみなさんは、たまに記事を書いたと思ったらこれまた難しいことを言いよって…と思われたでしょうか。この記事だけですべての事情をあまさず伝えるというのは不可能ですが、これがおさらいになっているくらいには追いついてきておいてもらいたいと願っています。

しかしそれでも難しいとは思いますので、お詫びがてら次回では、ここまでのお話を、日常的な問題を取り上げて、それぞれの立場から考えるときにはどうなるかを考え、それぞれの立場・考え方についてのイメージをより鮮明にしてゆきましょう。

そこで例えとして取り上げるお題は、
「個々人の持つ好きや嫌いは生まれつきかどうか?」
というものです。

それぞれの概念がわかりかけている人は、<観念論>、<唯物論>、<形而上学>、<弁証法>のそれぞれの立場に立って考えるとどのような答え方になるか、と腕試しに考えてみてください。


(2につづく)

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