2013/07/18

『道は開ける』の一般性はどのように引き出されたか (4):議論の内容

(3のつづき)


前回の記事を公開してから、色々と意見をいただいたのですが、その印象としては、わかる人にはちゃんと伝わるものだな、というものでした。
(逆から言えば、「わからない人は、悪気はないながら、わかっていないということがわからないのだな…」ということでもあるのですが)

いちばん印象に残った感想を簡潔に書くと、「あなたは学者として(の目的意識に照らして、引用者補足)こういうものごとの見方をしようと決意し、常々そうしてきており、またそうできてきているから、学生さんが自分では意図していない踏み外しをしているときには一瞬でそれに気づくことができ、また引っ張りあげてゆくことができるのだとわかりました」というものです。

指導について、結論として出てくる叱咤激励がどういうものになるかということではなく、その過程について着目しようとしてくださるこのご意見は、とても嬉しく受け止めたものです。わかってもらえないほうのご意見にこそお返事をしたいと考えていますので、わかってもらえている方へのお返事はこのとおり遅くなりがちですが、ご容赦ください。

さてご指摘のとおり、ある指導方法を決めるときには、以心伝心があり得ない以上、ひとりの学生の表現からその認識をたぐり寄せて考えてみて、「その考え方は間違っていますよ、こうしなければ踏み外しますよ」ということを、その学生の感性・理性のあり方に照らしてひとつの指導的な表現として伝えてゆくことになります。

一般の書店にあるリーダーシップの本には、概念は難しくともその内容として、結局は「飴と鞭の使い分けが大事だ」などとあったりしますが、事実を言えば、叱った後はなだめる手間を惜しまなければ学生に最高の認識のあり方を植え付けることができるのかといえば、絶対にそんなことはありません。

鞭のあとに鞭が続くこともあれば、同様の解答を出した学生それぞれに対する反応が飴であったり鞭であることだってあります。しかしこれらは、相手の目指すものがどのようなものであるか、その人格がどのようなものであるか、そこへどう働きかけるのがその目的をもっともよく叶えるものか、といった指導上の必要性によって決まってきます。あれが来たから次はこれ、というような内容を無視した形式主義を採用し、また期待させてしまっては、正しい道がどれであるかということなど伝わりようもないのです。



ものごころつく時には必要以上に恐怖を感じさせてはいけない、などということであればいざしらず、一人の人間として新しい一歩を人類の歴史に付け加えたいなどというあまりに大それた志を持った相手に対しては、当然にそれにふさわしい導き方というものがあってしかるべきですし、その志に応えることを考えればよりいっそうそうあらねばならないというべきです。

傍から見ている人たちからは、叱ってばかりいると恨まれるぞとか、人格を否定するつもりか、お前はそんなに偉いのか、などなどといった温情主義(?)的な意見が出されるものですし、それはそれで感情的にはわからないわけではないのですが、そこだけを切り取って非難されたとしても、ひとつの意見として聞き入れようもありません。

どうしても断っておきたいのは、自ら立てたひとつの原則によって目の前の対象のあり方(学生の人格や実力)を、その生成の段階から過程的に照らして、つまりその時の必然性をこそ考える場合に、指導者としての立場からして絶対に言わねばならないこと、やらねばならないことがあるときには、わたしは何を言われてもそれを真正面に据えて逃げるつもりはありません、ということです。

漫画『ブラック・ジャック』のある物語のなかに、主人公であるモグリの医師、ブラック・ジャックその人が危険度の高い手術をすることを決めたとき、周囲から「お前は人間の身体を使って実験でもするつもりか?」となじられるシーンがあります。そのとき彼が応えたことばは、このようなものでした。
「じゃああなたがたはカケていないのかっ
あなたがたはいつも患者がかならずなおると保障して治療をしているのですかっ
そんな保障のできるものは神しかいないっ
…われわれは神じゃない…人間なんだ!!
…人間が人間のからだをなおすのは…カケるしかないでしょう…?」
この言葉は、単なる(実態よりも低く見られがちな)漫画というメディアの中の、単に聞こえの良いだけのことばではなく、筆者である手塚治虫が漫画家としての進路に迷ったとき、この作品に「カケた」想いであるとしてよいと考えての引用です。

指導をするということも、これと同じなのです。

最終的にうまくいくかいかないかということは、究極的には手探りの中で掴んでゆくしかない。それでも、博打に賭けるということと決定的に違うことは、一人の指導者がつぎ込むのは自らの指導者としての人生そのものであり、また、「こうすればこうなってもらえるはずだということは、今現在の自分の人格と判断力にかけて言える、厳しい道になるだろうし一時は恨まれることになるだろうが、この学生にあっても自らの志に照らして見事に耐え切って、いつの日かその指導内容に根拠があったことをわかってもらえるはずだ」、という現時点でのこれ以上無い見通し(=論理)にカケる、ということです。

対象の過程をふまえ、その必然性を把握した上で考え行動するということは、考えるのが面倒くさいからこのくらいでいいや、と決めた方向性に博打よろしく「賭ける」ということや、良くないことと知りながら開き直って何かをするということとは違います。前者で得た意思決定の強度は覚悟と呼んでもよいでしょうが、後者は単なる犯罪者の論理と呼ぶべきであって、この場合、あれに転ぼうがこれに転ぼうが、うまくいこうがいくまいが、運任せになるのは当然です。

同じ「カケる」という場合にも、人生がけと博打的に賭けるのとを平面的に受け取ったり見えてしまうという印象をいったん棚上げして、どういう根拠(=認識のあり方)に基いてこの人間はこうしているのかな?と考えてみてほしいと思います。この姿勢の必要性をここで書かねばならなかったことは、いただいた意見を見ていると、「ワタシも前からそう思っていた!つまりこういうことですね?」と言う方に限って、結論のところにのみ着目し、自分のわかりかたの段階にまで引きずり下ろしたうえで、論理的に理解するのでなしに感情的に同調していることが、あまりにも残念に映るからです(だからといって、意見を出すことを躊躇する必要はないのですが…)。

ともあれその時点で自分が得た印象をひとまず棚上げして、そこに潜んでいる根拠や必然性を過程的に追ってみるということは、客観視という認識のあり方を学ぶための第一歩です。思い当たることがある方は、ぜひに前回までの記事を読みなおしていただきたいと思います。また同じように、自分で身近な問題を作ってみて、それぞれの世界観・考え方であればどのような答え方になるのか?、を考えてみてください。その4つの区分のうち、あなたのいつもしている考え方はどこに属しているのかというふうに考えてみて、まずは自分の立ち位置をしっかりと確認してほしいのです。

そうしなければ、毎日毎日、あらゆる表現をする際に踏み外しをしまくることになり、数年で帳尻が合わなくなった挙句、妙な言い訳を考えつかねばならなくなりますから…。

さて、ではいよいよ本題です。
ここでの議論では二人の学生さんが主に登場しますが、わたしが彼らのことを、どのように導きたいから、どのような踏み外しをしてもらいたくないから、そのような指導になっているのか、というところを考えていってください。<>で強調した括弧書きは、文字として書き起こす際に加筆したものですが、わたしのところに前から出入りしている学生さんは、こういう断り方をしなくても、わたしの言い方の中に、こういう概念と論理構造が含まれていることをわかっていますし、そのための訓練を熱心に積んできています。そういうわけで、実際には日常言語でのやりとりとなっていたところを、独学する読者のみなさんのために補助してあるのだ、この補助がなくても読み進められる実力が求められているのだ、ということをおさえておいてください。

◆◆◆

◆1◆学生たちの一般論を検討する

わたし:今回の課題は、D.カーネギー『道は開ける』の一般論を出す、ということだったね。二人に準備してもらっていたと思うので、まずそれを聞きましょうか。いちおうおさらいをしておくと、科学的看護論における看護一般論は、「生命力の消耗を最小にするよう生活過程をととのえる」ということであり、それぞれが対象論・目的論・方法論であるのだったね。

ノブくん:はい。僕がその看護一般論を参考にしながら出したのは、
「問題を、悩まず解決する為に、心身を整える」
というものです。

Oくん:私はこうなりました。
「人生を前向きに生きるために自分の世界との向き合い方を考える」
、です。

わたし:なるほど。この一般論が出てきたのは、本書をどういうふうに読み取ったからなのか、簡単に説明してもらえるかな?

ノブくん:わかりました。僕がこう考えた理由については、私達が最終的に取り組まなければならないのは、自身の頭の中にある悩みなのではなく、現実に存在している問題そのものであり、それらを悩まずに取り組むというところに本書の目的が存在しているのだ、そうしなければ「道は開け」てこないのだ、という考えに基づくものでした。

Oくん:私の場合、目次と序論を基に、いったん仮説として、「悩みを克服するために人生の問題をどの様に考えるかを示す(こと)」と置いてみました。
そうした上で、その仮説的な一般論にしたがって一度全体を読んでみた結果、対象論が「悩み」では一般論たりえず、目的論が「克服する」では悩み以外を対象とした時に意味が不明になると判断したので、このような表現として落ち着いたのです。

ここでは、まず対象論をより大きなくくりである「人生」に変更し、目的論を他人からの批判や自身の精神状態についても言及できる上で「人生」に合致するであろう「前向きに生きる」に変更しました。次に方法論を「自身と自身の周囲を含む、『自身の認識する世界』との向き合い方、考え方について記述しているであろう」と考え、「自分の世界との向き合い方を考える」に変更したものです。

◆2◆「悩み」とは何かから対象論へ

わたし:なるほど、ではふたりとも、表現がどのようにまとまるかによって扱い方が変わるけれども、本書の内容としては「悩み」というものを扱っており、現実的な生活の上での問題を解決し「道を開く」ためには何らかの方法でそれを取り除くべきである、というふうに見たわけだね。それは正しい指摘でしょうから、まずはそこから考えてゆきましょうか。ところで、ここでいう「悩み」とはどういうものか、考えてみましたか。

ノブくん:…頭の中にあるもの…でしょうか…。

わたし:一般的に言えばそういうことになるでしょう。しかしここで<唯物論>の立場に立って探究を続ける時に大事なのは、あくまでも目の前の<事実>から考え始めること、つまりあくまでも本書の内容を正面に据えて、そこに忠実に一般論を引き出すということなのであって、本書を外れたところにある一般的な意味、というものではなかったはず。本書中に、カーネギーが考える「悩み」がどのようなものであるか、は書かれていなかっただろうか。

ふたり:(本書にあたりながら)うーん…。

わたし:本書の目次を見たとき、「悩み」ということばが何回も出てくることから、いちおうはそのことについて注意しておかねばならないことは、ふたりともわかったとおりだね。一般的に言って、ひとつの概念を本質的に考えようとするときには、必ずそれがどのように出てくるのか、という<生成>の段階にこそ着目しなければならない、ということだね。

たとえばひとつの病気であれば、どのような生活によってその(悪い)環境が用意され、実体にどのように働きかけることによって域値を越えて病気という質的な状態として出てくるのか、を追わねばならない。そういう観点から言えば、本書は、「悩み」がどのように生成されるものとしてとらえているのだろうか。

ふたり:…。

わたし:そういう観点はまだ持てていなかったようなのでやや残念ではあるが、答えを言ってしまうと、81頁にある引用を読んでもらいたい。筆者が知り合いのことばを引用して、こう書いているね。『私が思うに、問題をある限度以上に考え続けると、混乱や不安が生じやすい。それ以上考えたりすれば、かえって有害となる時機がある。』

いいだろうか、繰り返しになるがふたりとも、<弁証法>的に考えてゆくときには、必ずこの<生成>の段階に着目しなければいけないよ。どんな本を読むときにも、どんな表現を受け止めるときにも、いちばんのそもそも、いちばんのはじめの段階、どういった環境のなかからそれが生まれでたのか、という0から1について語っている箇所があるなら、必ずそこに注目してよく検討すること。それを鮮やかに論じられる人ならば、まずはホンモノと考えてよいと思う。

ふたり:はい、わかりました。心に留めておきます。

ノブくん:ひとつここでわかったのは、対立物への転化、ということであると思います。ここで書かれている生成過程というのは、問題というものがあるときに、それがある限度以上に考えられてゆくことになると、かえってそれが有害となる、ということですね。

Oくん:問題というのは客観的にあるけれども、それを受け止める人間が限度を越して考え続けると悩みになってゆくということか…。

ノブくん:質的な転化…。なんだかわかってきそうなのですが…。

Oくん:問題は客観にあり、悩みは主観にあるということは…。

わたし:みんな、ちょっといいかな。さきほどからずいぶんとうなっているけれども、<唯物論的弁証法>の立場と考え方をしっかりと押さえながら考えているだろうか。わたしたちの立場からすれば、ひとつの概念をアタマの中のイメージを整理したりくっつけたりするのでなしに、あくまでも対象を正面に据えて考えてゆかねばならないのだったね。客観と主観ということばがまだ手に負えないのであれば、もっと明確な像を描けるように、具体的に考えてゆけばよい。

たとえば、部屋の中に蜂が入ってきた時に、母親はあわてふためいて殺虫スプレーを探しまわっている一方、父親は蜂を刺激しないようそっと窓際に行って窓を開け、そばにあった新聞紙でやさしく外へと導いていった、というような場合があるね。こういったときに、「蜂が侵入してきた」というのは確かにひとつの問題であるけれども、それをどう感じるか、どう考えるかは人によって大きく違ってくる。受け止める人間の許容量を越えていればヒステリーになって、考えるどころではなくなるし、それが十分であれば、力関係をしっかり把握して、お互いが住む環境の線引きがうまくできる。

ノブくん:そうすると…客観的な問題はたしかにある種の問題ではあるけれども、それを悩みとして抱え込んでしまう人もいるし、悩みにせずに笑い飛ばしておしまいにできる人もいると…。そうするとこの本は、問題を認識することが度を過ぎるあまりに悩みに転化しがちな人に、処方箋を与えているのだと考えるとしっくりきますね。

Oくん:なるほど、明確に整理できてきているように思います。

ノブくん:この本は、現実にある問題とどう向き合うのかという問題意識を養っていく目的で書かれたものではなく、自身の頭の中で膨らんでいる混乱や不安を取り除く事で、悩みを取り除いたり予防したりするために書かれているものなのだということですね。ですから、本書で扱っている対象とは、「問題」ではなく、「悩み」なのだということになります。当然に対象論には、「悩み」が含まれてくることになりますね。

Oくん:そうすると、我々の対象論は考えなおさないといけませんね…。

ノブくん:目的論や方法論も変えないと…。少し時間をください。
「悩みを××にするよう○○をととのえる」
、というところからもう一度考えます。

◆3◆悩みによって失うものは何か、から対象論へ

Oくん:…目次を見ると、ハウトゥ本らしく、気持ちを整理する方法のことはたくさん書かれているようなので、そこを一般化できれば方法論になると思うのですが、「なんのためにそうするのか?」という目的論がないような…。

わたし:「悩みを解消すれば何が得られるのか?」という向きでは、直接の答えが提示されていない、ということだろうか。みなさんにはよくたとえとして出しているように、月が明るく輝くのは暗闇があるからであり、生があるのは死があるからであった。同じようにたとえば、下宿を始めた時に両親や家族のありがたみがわかったのではないかな。

ノブくん:はい、大事なものが見えにくいときには、「それがなかったらどうなるだろうか」と考えてみるとよい…つまり、<対立物の相互浸透>で考えてみればよい、ということですね。

わたし:そうだね。では本書の中で、何が悩みのもたらす最悪の状態であり、その状態に陥ることで何が失われていくのかを考えてみるとよいのではないかな。ここでは直接的に何を得るのかを目的においているというよりも、「何を失わないようにするのか」という観点があるのではないだろうか。

ノブくん:悩みのもたらす最悪の事態ですか…。

Oくん:…「悩み」によって失うものは、「自分の資産」、と言えるのではないでしょうか。

わたし:なるほど言いたいことはわかるけれど、資産、という言葉の響きが、経済性に重きをおいた意味合いにとられてしまうのではないだろうか。無理なところまで一般化してしまってはやはり誤りという<対立物へ転化>してしまうから、本書に即したかたちでまとめておけば、複数の同じレベルのことばを併記するというのでも良いと思うよ。

ノブくん:わかりました。いきなりはまとまらないので、いくつか思いつくところを挙げてみます。「小事に食いつぶされること」(3-7)、「生活の安らぎや喜びが失われること」(4-12)、「精神的・情緒的態度を失うこと」(7-24)、といったことでしょうか。悩み続けることで、これらのことを失うことになる、と。そうすると、これを<対立物の相互浸透>的に裏返してみれば、悩みを断つことによって得られるものも見えてきますね!

本書で扱われている最悪の状態とは悩み続けることであり、それによって時間、精神、身体といった日常生活に必要な要素が失われていく事が最大の問題なのである、ということになりましょうか。なので、ここでの目的論とは、「健康や時間を損失させない為」ということになります。

わたし:ではここまでを一度整理すると、対象論と目的論は仮説として固まってきたわけだから、
「悩みによって健康や時間を損失させないために○○をととのえる」
ということでいいかな。

ふたり:はい。

◆4◆ハウトゥ本としての内容から方法論へ、まとめて一般論へ

ノブくん:じゃあ、残るは方法論ですね。目次を見るだけでも、本書はハウトゥ本らしい構成ですし、事実中身もそうなので、言ってみればそういう話に始終してはいるのですが…なんだか、コレ!といったものがなくて、雑多なケースをたくさん書いてあるだけにも見えますね。

わたし:そうだね。それを一般化するのが、ふたりの力の見せ所ということになるでしょうね。先ほど、「悩み」とはどういうものか、を本書に即して考えてきた君たちであれば、どうすべきであるのかを推測できそうだとも思うのだけど。

ノブくん:第3部は、「悩みの習慣を早期に断とう」とありますから、まさに本書で最もハウトゥ的な部分、私たちにとっては方法論として見据えるべきところと言えると思います。ここで悩みを断つための方法論らしきものは順に、「仕事に没頭する」、「力点を変えてみる」、「確率を出してみる」、「運命には従え」、「悩みに歯止めを設けよう」、「過去の失敗を冷静に分析したら忘れよう」、となっています。

Oくん:これと先ほど整理した、「悩みとはどういうものか」を考え合わせると…本書では、問題について考えることは否定していないながら、それが度を過ぎるといけないと言っているのですから、考え方を整えよ、といったことを言っているのではないかと。

ノブくん:たしかに。僕も、「ものの見方を整える」というようなことが方法論であると考えました。ここまでをまとめると、
「悩みによって、健康や時間を損失させない為、ものの見方を整える」
、となるように思います。

わたし:ふたりとも、それでいいかな。二人ははじめそれぞれ、
「問題を、悩まず解決する為に、心身を整える」、
「人生を前向きに生きるために自分の世界との向き合い方を考える」
という一般論を出してきていたけれども、それと比べていま作ったものはどう変わっただろうか。

ノブくん:まず「悩み」というのを対象に据えられたことで、対象論以外も組み立てやすくなり、目的論・方法論も明確になりましたね。とくに目的論については、僕が当初出した一般論のなかには含まれておらず、今思えば良くなかったなと思います。

わたし:そうだね。それぞれの論理のあり方がしっかりと組み合っていることが、体系化というものにとっては最も大事だから、今回の課題をとおしてその感触を掴んでもらえるといいと思う。

Oくん:ノブさんと同じで、対象が「悩み」とわかったときに、うまく議論が運び始めたように思います。また私のはじめに出した一般論は、今見るとあまりに一般的すぎて、どんな本についてもこう言えてしまうような…。

わたし:そのとおり、一般論を出すときには、そこをうまく掴んでほしい。一般論といっても、あくまでもその書籍がその分野でどのような位置づけにあるか、ということ、つまりその分野での特殊性が提示されていなければならないから、あまりに一般的すぎるものはかえって一般論ではなくなるという<対立物への転化>が起きてしまうことを覚えておいてほしい。論理に振り回される人というのは、この誤りがいちばん多いから…。

さて議論する中で、このように一般論が明確になってきたね。いちおう、わたしの前もって出しておいた一般論を見てもらうことにすると、それはこのようなものだった。
「悩みによる時間・精神・身体の消耗を最小にするよう正しい考え方を選ぶ」こと。
これはみなに、巨人の肩に乗る=科学的看護論の一般論から学ぶ、という姿勢をわかってもらうために、その表現のあり方に似せて書かれてある。

学問的な段階で概念規定をする場合には、こうしてお互いに出してきた一般論などをより議論しぶつけあって、互いにより高い高みの認識に到達してゆく、ということをやるのだけれども、今回の課題にあってはとりあえず、ここまででよいとしておこう。

扱った本書の内容についてよりも、君たちには取り組まねばならないことがあるでしょうから。ただ今回議論して、その中で互いの認識が高まってきたという過程については、しっかりと押さえておいてほしい。次の課題は、唯物論的・論理的に見るという姿勢はそのままに、認識論寄りの課題について取り組んでゆきましょう。みなさん、がんばってください。



以下は、MindNode ProというMac用のアプリケーションで作ったマインドマップを手元に置きながら、本文を読んで要約を書き加えていったものです。


(了)

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