2013/09/25

『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』(補1):1887.03.06 (I)

今回は遠回りをしてすみませんが、


学生さんが自主的に提出してくれたレポートの再提出ぶんを見てみることにします。
ナンバリングがわかりにくくなるので、今回は本編とは違った補足編として書いてゆくことにしましょう。

せっかくの再提出ですから、論理的に人の認識を読むということはどういうことなのか、という問題意識に照らしつつ検討してゆきます。



ここまででサリバンの本について書かれた記事は、以下のようになっています。

【本編】
【メモ】『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』のマインドマップ(※7/25更新)
『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』 (1)
『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』(2):1887.03.06 (I)
『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』(3):1887.03.06 (II)
『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』(4):1887.03.06 (III)
『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』(5):1887.03.06 (IV)
『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』(6):1887.03.07 (I)

【補足編】
・この記事


◆ノブくんのレポート◆

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月6日(修正版2)

 サリバンがヘレン・ケラーとはじめて出会ったのは、3月3日の事でした。驚くべきことに、彼女はこの日のうちにヘレンの教育に対する重大な欠陥を見つけ出し、多くとも数日のうちに大まかな方針を決めていったのです。

 そしてその重大な欠点とは、精神的な部分にあるのでした。というのも、彼女は他人の荷物を勝手に覗く、触れる、触るものはなんでも壊す、その表情は魂みたいなものが抜け出ている、虚ろである等といった、とても7歳前後の少女とは思えない奇行をとるのです。
 こうした事実からサリバンは、彼女が「子供特有の内から湧き出る衝動」によって振り回されていることを指摘しました。通常、彼女のぐらいの年齢の子供達は、世界のあらゆるものごとをその小さい身体で力いっぱい感じ取る事ができます。例えば、広々とした公園や学校のグラウンドを駆けまわったり、ブランコを大空へ飛び込むように大きく漕ぐことによって、世界の大きさを体感しようとします。まるで、彼らの小さな身体に潜む、大きな何かに突き動かされるようにエネルギーを使い果たそうとするのです。ところがヘレンの場合は、そうした衝動が他の子供達と同様にあるにも拘わらず、それをうまく発散することができません。またそれを知る術もないのです。ですから「彼女の休息を知らない魂は暗黒の中を手探りする」しかありません。それがどのようなものか、なんの為に使うのかを知る事もできないままに……。ですから、彼女は空虚な表情で、あらゆるものを手で触り、壊すことしかできないのです。

 そこでサリバンは、ヘレンの「内的な衝動を失うことなく、効率よく発散させていく」(※)という目的論を立てて、問題の解決に取り掛かっていったのでした。そしてその解決方法が下記にあたります。

 私はまずゆっくりやりはじめて、彼女の愛情をかちとろうと考えています。力だけで彼女を征服しようとはしないつもりです。でも最初から正しい意味での従順さは要求するでしょう。

 彼女は上記での目的論に対して、「ゆっくりやりはじめて愛情をかちとる」という方法論にたどり着きました。そしてその方法論の前提として、ヘレンの従順さ、服従する事が要求されています。
 ここで注意しなければならないのは、この「服従」という言葉に含まれれる「認識」というものは、普段私達がイメージしているそれとは異なった内実になっている、ということです。ここ述べられている「服従」とは、虐待している親たちのような、全面的な降伏を意味するのではありません。あくまでも、人間の社会的なルールに逸れた場合、それを強制するといった意味で使われています。ですから彼女の「服従」とは、暴力や支配が目的になっているのではなく、最低限の社会性をヘレンに持ってもらうことが目的になっているのです。
 そうして培っていった社会性は、彼女の人間的な感情の土台にもなっていきます。何故なら、私達の感情というものは、社会を生きていきた中で育まれてきた、経験的なものなのですから。例えば、ある時点までは、「子供を大切だと思っている親が、自分を叱る」という事ができなかったとしても、何度も親に叱られ続けたり、自分がその当時の親の立場を経験していく中で、「大切であるからこそ、かえって叱らなければならなかったのだ」ということに気づいていくはずです。そしてこのヘレンも、はじめはサリバンが叱ったり、征服する理由がわからずとも、正しく社会性を身につけていく中で、自身への愛情が裏に潜んでいた事が理解していく事でしょう。

 しかしここで気をつけて頂きたいのは、ここではヘレンを征服することよりも愛情をかちとることが積極面として表れている、ということです。
 この日以降の手記を見ていただければ理解して頂けると思うのですが、ここでのヘレン・ケラーを取り巻く環境というのは、サリバンとヘレンの兄のジェイムズ以外、彼女に逆らうものが何もありません。よって、彼女の身の回りには、彼女の現在のあり方を変えようとする環境と現在のあり方を受け入れようとする環境とが存在していることになります。そしてこの2つの環境のうち、果たして彼女はどちらを選ぶでしょうか。この続きは、3月11日の手記にて論じさせていただきたいと思います。

脚注
※本文中では、「彼女の基質をそこなわずに、どうやって彼女を訓練し、制御するかがこれから解決すべき最大の課題です」とある。


◆正誤◆
この「服従」という言葉に含まれれる
私達の感情というものは、社会を生きていきた
「子供を大切だと思っている親が、自分を叱る」→読点の前までが「親の視点から子どもを見た視点」であるのに対し、読点以降が「子どもの視点から自分自身を見た視点」となっており、読者にとっては非常に読みにくい表現となっている。いやしくもことばを使って仕事をしようと考えている者なのであるならば、自分の表現が、その受け止め手にとってどのように感じられ、考えられるのかは必ず検討しておかねばならない。しっかりと反省されたし。正しい表現ではどうなるのかはここでは書きませんが、後日聞くので考えておいてください。



結論から言っておきましょう。
このレポートでは、これまでの議論をしっかりと踏まえられているとは言えません。もっとも、その実力がまるでないというならまだしも、ですが、力があるのに発揮していないのでは問題です。

レポートの表面をなぞらえるだけならば、サリバンが初日の手紙に書き残したことが半分は触れられているように思います。(残り半分の、ヘレンの言語能力についての考察も期待していたところですが…これについては難しすぎるかもしれないとは思います)

これは、以下でわたしが書いておいたことをふまえようとしたわけですね。そして、事実そうできているとまでは言えるのです。
『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』(3):1887.03.06 (II)

ところが、前回紹介した良い出来栄えのレポートについて、そのレポートを読みながら確認しておいたことがあったはずでした。そのことについてはどう理解したのでしょうか。あのレポートが評価されるべきだったのは、知識的な内容を深堀りしたからなのではなくて、サリバンの高度な実践の中の重層構造を浮き彫りにしえたからこその評価だったのでした。(この<重層構造>については本題ですから、説教のあとで述べます)

もしあなたが一流の道を歩もうとするならば、同じテーマや素材を扱うにしても、前回触れた触れ方よりもより高いレベルで、つまりより深い論理構造を引き出すことによって、それを乗り越えてゆかねばなりません。もしすぐにはそれがかなわない場合にも、その姿勢だけは諦めてしまってはいけません。誰が何と言おうと握りしめて、粘り強く取り組まねばなりません。ここをほとんどの自称・一流の人たちは、「知識を広く集めることで」乗り越えようとするから、晩年は雑多な作品や研究に始終してしまい、結局は最初期の研究や処女作品が一番良かった、ということになってしまうのです。とくにここで「一番良かった」と評価されるのも、それがコンパクトにまとまっていながらも一本の芯が通っているように映るからこそ、なのですが、この好評価こそは、知識の少なさゆえにかえって主題や本質が浮き彫りになっていたからなのだ、と彼らはわかっているのでしょうか…。

もちろんだからといって、知識を集めるなと言っているのではありません。知識をいくら集めてもそれは勝手なのですが、それをどう見るか、という「物事を見る目」を日々鍛えているのでない限り、かえって膨大な知識に押しつぶされることになり、構造や本質がいつのまにか見えなくなってしまう、ということを言っているのです。その段階に至るとほとんどの人たちは、結局真理などというものはなかったのだ、追い求めること自体が間違っていたのだと、“真理など何もない”極端な相対主義者となって、知識の海に埋没することをむしろ居心地が良いことのように感じる歪んた感覚を身につけていってしまうのです。しかし実のところ、真理は「なくなった」のでは決してなく、ただ「見えなくなった」だけ!なのです。

このことは以前から何度も伝えておいたとおりですが、それも、今のあなたの表現からは、なんとしても一流になるのだ、という気概をまるで感じられないからの念押しなのです。



さて、ここで「物事の見る目」の大事さを思い出せ、「論理」的に見よ、などといっても、それを念頭に置けてはいてもなぜか実践ではうまく働かない、力んでかえって空振りしてしまう、といういわゆるスランプは誰にとっても起こることですから、もう少しともに考えておきましょう。

まず気持ちの面での問題から触れておきます。少々下世話になりますので、見る人から見れば占いか三流宗教まがいに聞こえるでしょうが、いつもどおり誤解を恐れずに率直に指摘したいと思います。

まず、今アタマにうずまいている焦り、というものをしっかりと見つめてください。数年も先に始めていることなのに、新しく始めた人たちの頑張りを見ていると、もしやこれは近いうちに追いぬかれてしまうのでは、という思いが拭い切れないのではないでしょうか。その思いを見ないようにしようとすれば、かえってどんどん触れたくない、触れられたくないわだかまりが、あたかもアタマの中の実体であるかのようなレベルにまで膨らんでゆく(<量質転化>)ことでしょう。

しかし率直に言って、これは単なる思い過ごしであって、そんなものは客観的には存在しません。思い返してみてください。「自分がわからないところをもっと探してきなさい」、「鈍才としての努力をこの先も続けなさい」、と常々言われてきて、また実際そうすることで実力を伸ばしてきた自分のことを。自分の馬鹿さ加減を率直に披露すればいちばん評価され、また本当の実力がつくということが明らかになっている時に、何を偉そうに先輩面をし続けることがあるのでしょうか。若輩たる自分に一体どれほどの蓄積があると言うのでしょうか。人間にとって人間としての誇りは持っておかねばなりませんが、本質から外れた、自分のことを実力以上に見せようとする虚栄心は何の役にも立たないどころか成長の可能性を奪い去ってしまうものですから、捨ててしまって結構です。

本当の意味で人の役に立てる仕事ができるだけの賢さを身につけたい、人格を養いたい、文化を残したい、そう本心から思い考えるのであれば、たとえ馬鹿にされてもその内容に客観性があるのかどうかを検討できねばなりません。「なるほど、たしかにそういう意味ではまだまだ自分も馬鹿だな」と、どうして笑っていられないのでしょうか。これは他人からの評価を無視しろとか卑下しろとか言っているのではなく、いったん自分のことを棚上げした上で相手の立場に立ってみて、「なるほど(あなたから見れば私は)そう見えないこともないな」と<否定の否定>的に認めることなのです。いわゆる気が小さい、と言われる人は、こういうことができないだけなのだ、生まれつきそうというわけではないのだ、正しく論理的な技を身に付ければ客観視もできるようになってゆくのだ、とわかってほしいと思います。

それでもまだ他人にどう見られるかが気になってたまらないというのであれば、日々の努力を怠っている自分を、他でもない自分が見てきているということなのですから、それはまた別の問題として反省すればよいし、そうすべきなのです。繰り返しますが、他人の評価は検討した以上のことは気にしないことです。衆目というのは、どんなに親しい人間であっても、結果にしか向けられないものですから、まだ目に見えるかたちで現れていない努力をしている段階では評価されないのは当然です。場合によっては狂人扱いされるのもやむなし、と考えるべきです。わたしも研究会を始めた頃は、「そんな三流大学の馬鹿どもしか集まらないとはお前の実力もその程度か」と陰口をたたかれたものでしたが、数年して同じ人物に、「お前は優秀な学生ばかりを選り好みしているから結果を出せるだけだろう」と言われたものでした。こんなことはいくらでもありますが、でも、どれも怒ったりはしませんでした(まあ、呆れはしましたが…)。これは、そういうもの、だからです。こうわきまえておくのなら、愚図ついてどうしようもない自らの上達過程も見てもらえる環境が、いかに恵まれているかも<相互浸透>としてわかってくるでしょう。

せっかく認識論をやるのですから、自分自身の心が抱えている問題をはじめ、スランプといったものも、ひとつの問題として正面に据えて解明してゆくのだ、と考えてみてはどうでしょうか。こういう姿勢が少しでもあるならば、「いったん棚上げする」(第一の否定)ということもわかってきますし、客観視するということにふくまれる<否定の否定>の構造も実践の中でしっかりとわかってくるものです。それがわかれば、たとえば実力があるのに本番で力を出せないアガリ症という現象も、どこに問題があり、どうすれば解消できうるのかがわかってくるはずです。まだ経験の少ない学生さんから見れば、「この人は何があっても落ち込まない人だな、まったく羨ましいものだ」と思われる人ほど、こういう過程を経てきているのです。雑念を払って、替えのきかない場面であればあるほどに、自分の実力を発揮できるだけの認識を創りあげていってもらいたいと思います。



さて、小言(もはや大言、に聞こえるかもしれませんが)はここまでとして、本題に戻りましょう。

先程もお伝えした通り、このレポートを論者の実力がどれだけ発揮されているかという観点から評価することにするならば、やはり良い評価はあげられない、ということになるのです。

ではどこが不足しているのかと言えば、これも先ほどことばだけ出てきたとおり、サリバンがヘレンを見る目の中にある<重層構造>についての理解と、それを理解しようとする姿勢、です。

わたしとしては、前回Oくんが提出してくれたレポートの水準を守りながら、今後の展開を果たしてゆきたいと考えているので、前回の記事を読みなおしてみてください。そうして、たとえばここに何が書かれているのか、わたしがなぜそれを評価したのかを理解しようとしてください。

―――――


それが、4段落目です。
 おそらくサリバンはこの食事という場においては食事という動物にとっても人間にとっても日常的に必要とする行動に対して、人間であるヘレンが日常的に動物の様な食事のあり方を蓄積していたのでは、人間として生活していくのにあたって必要な明確な像を頭の中に描くための知性や認識を積み重ねて行く事は出来ないと考えたのではないだろうか。そこでヘレンにスプーンで食事をとる、食後にナプキンを畳むといった人間として服従するべき習慣を体に教える事を通じて他者への服従を要求したのではないだろうか。
サリバンが、どうしてヘレンに正しい食事のあり方を学ばせようとしたのかが、過程的構造を意識しながらはっきりと書かれていますね。

そのとおり、人間が人間であるからには、同じ栄養価を満たせばどんな姿勢のどんな食事作法でも良いというわけにはゆかない、という人間観がサリバンの脳裏にはっきりと描かれていたから、彼女は譲らなかったわけです。

そしてまた、幼少期の日常生活の毎日毎日の繰り返しの中で、ひとつの個体は人間らしく「創られて」ゆくのですから、日々のふるまい方が間違っていれば、その感覚すら間違って創られていってしまうのだ、という指摘も正当です。不潔な環境で育ってしまっているのなら、家の中が髪の毛やホコリだらけであっても平気になってしまうどころか、それが好ましいとさえ感じられる感覚を身につけてしまうのであり、食事の前に歯磨きをすることや、髪の毛を濡れたままで放っておくなど、良くない生活習慣も同じようにして身についてしまったものなのです。


―――――

ここでは、サリバンがヘレンに、着席して食事を摂ること、手づかみで食べずにスプーンを使うこと、食後にナプキンをたたむことなどのテーブルマナーを教えようとして苦労しているさまが描かれています。

ここでわたしは、Oくんが、サリバンの認識を自らのように二重化してみて、サリバンがヘレンを指導するに際して正しい「人間観」をしっかりと持っていた、ということを見抜いたから、それを高く評価したのでしたね。

これは、レポートが目の前に提出されてしまったあとでは、「それはそうでしょ」という感想しか起きてこないでしょうが、これを引き出し得たのは、彼が、しっかりとサリバンがヘレンの指導にあたっていたその日、その時その場所での情景を思い描きながら、いったいそれはどのような苦労であったのかと我が身に捉え返しながら理解していったから、なのです。



今回のレポートの論者は、もし自分がその時その場所にいたとしたら、サリバンと同じことができたであろうか?というふうに、まだ想像してみることができていないのではないかと思えてなりません。あなたがこんな状況の中に放り込まれたら、それこそ裸足で逃げだしたくはなりませんか。こんなことならもっともっと勉強をしておけばよかった、と後悔の念が沸き起こってこないでしょうか。なにもわからない状況の中で、何を手がかりに指導を続けてゆけばよいのか藁にもすがる思いにならないでしょうか。

それでも、サリバンはこれだけの力強い指導をしたのです。それを結果で示したのです。だとすれば、「彼女のなかには、何らかの行動の指針となるものがあったのであろう」と考えてみるのが自然な流れとなるはずです。

さてそうして、ヘレンがサリバンのバッグを取り上げようとしたときには腕時計を代わりに渡すことでやんわりと興味を逸らしたのに、テーブルマナーについては頑として甘えさせなかった、という事実を見るならば、ここには何らかの判断の基準となるものがなければなりません。



Oくんがここまでの流れを明確に意識していたかどうかはともかく、あのレポートはたしかにそう読める、というレベルに達しているから、評価すべきであったのです。

わたしたち人間は、目の前の実践が多様で複雑であればあるほどに、それらを照らす一つの判断基準、ぶれることのない立ち位置、揺るぎない原則を持っておきたいと考えるものでしょう。それをサリバンのように高度な実践として実現してきた人物のなかには、やはりなんらかの「物事を見る目」がなければなりません。このうちの、複雑な現実を照らす見る目のひとつが、ここで挙げた「正しい<人間観>」というものなのです。

ですからこれらの構造としては、正しい人間観に照らして、ヘレンのあり方を見、その時その場所でそういうふるまいをやっても善いか悪いか、見逃すべきか叱るべきか、ということを判断していたのですから、「人間観」と「個別の判断」を、サリバンの認識の中の重層構造、と呼ぶことができるわけです。

もし自分の脳裏が単層構造でできており、つまり確固たる人間観もなく個別の判断がポツポツと浮かんでくるだけの人物であるならば、ヘレンを一本の筋を通した人物へと導き育てることなどできるはずもないことです。こんなことをすれば、当然に指導内容は行き当たりばったりの、昨日はこう言ったのに今日はこう言う、あの子には優しいのに私には辛く当たるということになり、子どもからしてみれば、指導者の顔色を伺うだけになってしまうでしょう。教育論と名のつく書籍を開いてみれば、「『ならぬものはならぬ』ことを子どもに教えよ」といった文言が出てきます。あれも本来ならば、こういった重層構造として理解すべきなのであって、あの文言だけをふりかざすのであれば、「自分の嫌いなものは『ならぬ』」であるとし、教師の強制力を増すだけの役目しか果たさないことになってしまいます。



わたしが求めているのは、サリバンの立場に立って、もしその時その場所に自分がいたならば、きっと逃げ出したいくらいに困り果てていただろうな、彼女はなぜあんなにも確かな指導ができたのだろうか!?と、驚きと賞賛の感情をもって、深く深くこの人から学びたい、自分もこういう実践ができるようになりたい!と、感じ、考えてもらうことなのです。

それができるのであれば、実のところ、論理や重層構造、正しい人間観、労働観などといった問題は、あとでいくらでも整理してしまえることなのですから。

まずは初心に還って、もっとしっかり、しっかりと深く読み込むことです。
そうして、「えっ、ここはなぜこんなふうにできたの!?」と、驚いてみることです。
それをとても生真面目で実直に、いつもやってきたように、全体のうちの個別としての位置づけを「あらすじ」に、次にそれを一語で規定するならばどうなるのかという「一般性」、最後にその確からしさを説明する「論証」、という構成で書いてゆくことです。

今回のレポートを一目見て、サリバンの指導初日にふさわしいだけのあらすじもなく、まえに書き損じたレポートの継ぎ接ぎが散見されるという有り様であっては、まともに評価する気もおきにくかった、というのが実のところでした。気持ち新たな再提出を求めます。

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