2014/03/01

『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』(8):1887.03.06-04.03 (II)

(7のつづき)


わたしが今回出しておいた課題については、前回の記事にも書いたとおりですが、もう一度引用しておきましょう。
サリバン(著)『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』を読んで、まずは1887.03.20の日記に注目してください。
その冒頭に、「今朝、私の心はうれしさで高鳴っています。奇跡が起こったのです!知性の光が私の小さな生徒の心を照らしました。見てください。すべてが変わりました。」とあります。
では、サリバンがヘレンと始めて出逢った3/6からの数日間と、この3/20以降では、一体何がそれほどに違っているのでしょうか。
それを、3/20の前と後の期間を、それぞれ数日に区分して、「XXの期間」と「XXの期間」というふうに名前をつけるとともに、その内実および変遷について説明してください。その時、この本全体の、そのそれぞれの期間の位置づけをしっかりと確認しながら、<概念規定>するつもりでやってください。
そして、提出されたレポートを検討しながらコメントしたのは、各段階の変化のあり方を弁証法レベルの論理として、とくに量質転化的に、過程的に把握し、また文章として適切に表現してもらわねば困る、ということだったのでした。

いくつかレポートを受け取りましたので、まずは再提出した本人のものを見ましょう。


◆1. ノブくんのレポート◆
ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月6日〜3月20日(修正版)
 今回は、3月20日にある、「今朝、私の心はうれしさで高鳴っています。奇跡が起こったのです!知性の光が私の小さな生徒の心を照らしました。見てください。全てが変わりました。」という2行を中心にして、その前後で、ヘレンの内面がどのように変化していったのかを中心にして、本書をまとめていきたいと思います。というのもそれらの言葉通り、彼女はこの日を堺に自身とその周りの環境全てをかえたのであり、それを考える事はサリバンの教育論を考える上で避けては通れない問題とも言えます。
 そこでここでは、その2行の前後の期間をそれぞれ規定し、どうのような必然性があった為にヘレンはそう変わらざるを得なかったのかを考えていくつもりです。
 そもそも私の以前のレポートにも書いてあった通り、ヘレン・ケラーという少女の教育における問題というものは、身体ではなく精神の方にありました。つまり目が見えない、口がきけない、耳が聞こえないということ以外、私達と何も変わらなかったのです。
 ですが、彼女の両親はそうした障害に同情しているが故に、ヘレンの言うことをなんでも聞いてしまっていました。その為、性格はとても我儘になり、不満があると苦い結果を残すまで争うことをやめようとはしません。
 また両親はヘレンとまともに会話、意思の疎通をはかる術を持ちあわせてはおらず、彼女との関係は常に彼らの努力のみによって成り立ってきました。ですから、彼女は自分から何か訴える事があっても、何かを受け止める事はありません。サリバンが文中において、「彼女の愛情や思いやりや他人の賞賛を夜転ぶ子供らしい心に訴えるすべが一つもありません。」と書いてあったのはこのためです。
 私はこの期間を、欲求を抑えず常に放出し、愛情(ここでは物理的な接触や言葉によって精神が満たされること)に訴える心を持ちあわせておらず、ただ自分から何かを訴えているばかりの状況から、「欲求放出期」と名付けることにしました。
 そこでサリバンは、その原因となった両親から引き離し、全く違う環境で、彼女を征服することでこの期間からヘレンを脱出させようとしたのです。
 それではそうした環境に追いやられた事によって、ヘレンはどのように変化していったのでしょうか。
 サリバンに征服された事によって、ヘレンはこれまでのように欲求を好きなように放出する事ができなくなっていきました。そしてこれまでのように、両親のように彼女の我儘を許してくれる存在がいないのもその一因となっていることも見逃せません。ですから、彼女はサリバンに服従する中で、それなりの発散の仕方を見つけるしかなく、自然と指文字や言葉に興味を向けていったのです。
 またサリバンの教育スタイルとしては、征服というぐらいですから、当然サリバンからヘレンへ、何かしらの強制力が働くことになります。つまりそれまでの、ヘレンから誰それへ何かを訴える流れとはまるで逆なのです。ですからヘレンは、他人の思いやりや愛情を受け止める器というものを形成せざるをえなくなっていきました。だからこそ彼女は、3月20日のその日には、サリバンの傍で、晴れやかな顔をして編み物をしていれたのです。
 上記のように、征服によって強制的に欲求を抑えられたこと、そしてその強制力から相手の征服や大まかな感情を受け止める器を形成していった事から、この期間を、「欲求制御期」と規定することにしました。

◆誤字◆
・堺…この指摘は2度めです。重く受け止めねばなりません。
・どうのような
・夜転ぶ


◆1. わたしのコメント◆

はじめに断っておきたいことは、この論者は今回残念ながら、顔を突き合わせての議論の場に参加できませんでしたので、わたしの求めている<過程性>というものについて、各種の運動法則を引き合いに出しての生き生きとしたダイナミックな像を描きにくかったであろうという点です。
といっても、だからといってクロがシロになるわけはないのでやはり率直に評価することになります。

論者は、「欲求」というものを起点にしながら、1887年の3/20を境にした、ヘレンが彼女の内面のそれを内側からただただ押し出すだけの時期と、服従というものを学びそれを抑えられた時期、と質的に区分しています。
この理解にはいくつかの大きな問題があります。


◆世界観の問題…唯物論の立場に立てているか

まず一つ目の問題は、論者が、この書籍で扱われている一つの現象を、ありのままに正面に据えて理解するのではなく、いわば自分があらかじめ用意した価値観やキーワードに基づいて「解釈」しようとしているという点です。
本質を先天的(ア・プリオリ)に規定して対象を見ることを観念論と言い、さらに身勝手な解釈を展開することを、哲学になりきれないできそこないという侮蔑的な意味合いをこめて「思想」と言うことがありますが、これはまさにこれらに該当する理解の仕方であって、ここまで勉強しておきながらこの状態に留まっているというのは、残念だと言わざるを得ません。

どこまでが対象のありのままの理解であり、どこからが解釈となるのかは学問にとって非常に重要な問題ですから、大きく疑問に感じる方がおられてもおかしくないですし、それどころか絶対的に必要な問いかけなのですが、ここで詳しく立ち入ることは今回の論点をぼかすために次の機会にゆずるとして、ここではひとつ常識的に考えてみてください。
はたして論者の言うとおり、「征服によって強制的に欲求を抑えられたこと」が、「相手の征服や大まかな感情を受け止める器を形成してい」くことに繋がるのかどうか、と。
これではあたかも、「サリバンがヘレンを力でねじ伏せた」ことが直接的に、「ヘレンが愛情を受け止められるようになった」という結果を招いたかのように読めますが、本当にそうでしょうか。

サリバンはヘレンと出逢った初日に、こう言っていますね。
「ヘレンの気質をそこなわずに、どうやって彼女を訓練し、しつけるかがこれから解決すべき最大の課題です。私はまずゆっくりやりはじめて、彼女の愛情をかちとろうと考えています。力だけでは彼女を征服しようとはしないつもりです。でも、最初から正しい意味での従順さは要求するでしょう。」
この点の批判をまだ続ける必要があるでしょうか。もっともサリバンが、初日に言っていたとおりのことをまるでできていない、というなら話は別ですが…。
さて、論者がこのような誤りに陥った原因は、さきほども指摘したとおり、論者がその世界観として<唯物論>の立場を堅持できていないということ、いったん規定した欲求云々という、悪く言えば似非心理学的な用語をどうしても変えたくなかったことのほかに、もうひとつ大きな問題がありました。それが、<論理>の問題であり、これが2つ目の大きな問題なのです。


◆論理の問題…弁証法的な論理をつかめているか

そもそもを言えば、わたしがこの書籍を認識論の題材に選んだのは、この本が、というかサリバン女史の教育方針とその土台となる世界観が唯物論的であり、またその論理が弁証法的であるからです。
アン・サリバンが唯物論やら弁証法やらを使えたとは…?そんなことは初耳だが、といぶかしがる向きもあるでしょうが、唯物論も弁証法も、「私は唯物論的弁証法の立場に立って研究している」と宣言すれば満たせるような生易しいものではないものですし、また逆に、そう明言しなくともそのように考えられている人もいる、ということを改めて確認しておきたいと思います。サリバンがヘレンと出逢った初日に何を言ったかをさきほど引用しておきましたが、その箇所をもう一度読んでみてください。
さきほど見てきた論者の理解と、どう違いますか。

論者にあっては、「あれをすればこうなる」式に、「あれ」→「これ」と、直接的に結びつけようとしたために無理が生じ、かえっておかしな解釈をつくりあげることになっていることを見てきました。書店の店頭に並ぶハウトゥ本やビジネス書が単なる解釈のでっち上げに終わって、その解釈というレベルでは、書籍が主眼に置いているはずの、論理の現実的な適用がむしろ成し得ないのはこの点です。とても大事なことですから、じっくり考えてください。
ここをサリバンその人は、どう言っていますか。征服→訓練だとか、征服→愛情だとか考えていますか、決してそうではないでしょう。

ではどう書かれているかといえば、これからの指導にあたっては、大きな方針としては、あくまでもヘレンの気質をそこなわずに彼女を訓練してゆくことであると、まずことわっています。
その大きな方針から導き出されることとして当然に、力づくでヘレンを征服するようなことは彼女の思うところではないのですが、それでも、それが必要な場合があるであろうことも認めており、それというのが、ヘレンが「正しい意味での従順さ」を発揮してくれない時である、というわけです。

こういう論理的な文章が目の前に現れた時、「この人はああ言えばこう言う、こう言えばああ言うものだな。結局のところ、教育において相手を征服すべきなのかしてはいけないのかどっちなのだ!?」という、あまりにも寂しい自らの低い論理レベルに押し下げて読んでしまう人が大の大人の中にもたくさんいますが、ここにいる読者のみなさんはぜひとも、それだけは避けてもらいたいと思います。
ここに書かれているのは、そんな頭ごなしの感情的な反発や、論理の高い文章を手も足も出ないからとダブルスタンダードだと決め付けるような低レベルの非難で片付けてしまって良いような内容では決して無く、大きくひとつの原則を立てられているからこそ、今回の場合であれば正しい人間観に立脚できているからこそ、各所・各所での複雑な現象を、はっきりと切り分けて、「ここまではやっても良いがこれ以上はダメ」だ、というふうに判断できるということ、なのです。

これは現実が複雑だからとそれにあわせて右往左往することが生きることであったりビジネスであったりと捉えてしまうまでに忙しい社会に身をおく人たちにとっては、なかなかに理解し難いことのはずです。
それでも、その困難を押しのけてどうしてもわかってもらわねばならないのは、複雑な現実の中の各場面において、一本の筋の通った判断をしようと思えば、そう思えば思うほどに、そこには大きく根を張る原則を持っていなければならない、ということです。
明確な原則があるからこそ、その光に当てられて複雑な現実を正しく見ることができ、また問題を正しく処理できる。この論理を、弁証法では、論理を排除して実践だけをとるのではダメで、論理があるからこそ正しい実践が導け、正しく実践を繰り返すからこそ正しい論理が導けるのだと、どちらが欠けてもどちらも成り立たなくなるという関係性において捉えるところから、それを<相互浸透>というのでしたね。

もちろんサリバンは、自らを唯物論的弁証法の立場に立つ実践的研究者を自任していたわけではありませんが、彼女の行動や記述の中には、このような論理があまりにも豊かに含まれていることを見逃してはいけません。


◆以上をふまえて本文を読む

さてでは、以上で述べてきた、唯物論と弁証法という世界観と考え方をしっかり持った上で、あらためてもう一度引用箇所を、より具体的に見ておきましょう。
「ヘレンの気質をそこなわずに、どうやって彼女を訓練し、しつけるかがこれから解決すべき最大の課題です。私はまずゆっくりやりはじめて、彼女の愛情をかちとろうと考えています。力だけでは彼女を征服しようとはしないつもりです。でも、最初から正しい意味での従順さは要求するでしょう。」
サリバンはヘレンと初めて出逢った時、サリバンが当初想定していた人物像とは違っていたのでした。
それはその時点で、そのままの状態ではヘレンに「教育」を与えるのは不可能、より正しくは、歪んだ土台の上に教育を与えても悪い影響しか与えることがないであろう、という見通しが立ったということでもあったのです。
ですからサリバンは、ヘレンと出逢ってから3/20までのあいだ、「教育以前」の問題に取り組まねばならなくなったのであって、それが、この引用箇所に決意表明されていることの内容であったのです。

ここをしっかりと覚えているのであれば、1887年の3/20に、サリバンがありったけの喜びとともに語ったことの意味が、その気持ちが、自ら経験したかのようにつかめてくるはずです。引用してみましょう。
「今朝、私の心はうれしさで高鳴っています。奇跡が起こったのです!知性の光が私の小さな生徒の心を照らしました。見てください。すべてが変わりました。
 二週間前の小さな野生動物は、やさしい子どもに変わりました。私が手紙を書いていると、彼女は私のそばに座って、はれやかで幸福そうな顔付きをして、赤いスコットランドの毛糸で長い鎖編みをしています。彼女は今週、ステッチを覚えました。そして、しあげることをとても自慢にしています。部屋の向こうまで届くほど長い鎖を編むのに成功すると、得意になって、自分で作った最初の作品に愛情をこめて頬ずりしました。
今では彼女は私にキスもさせますし、ことのほかやさしい気分のときなら、私の膝に一、二分のあいだ乗ったりします。でも、私にお返しのキスはしてくれません。大きな進歩−−価値ある進歩−−をしました。この小さな野生児は、服従という最初の教訓を学び、そして、拘束が楽なものだと気づきました。今や、この子どもの心の中で動き始めている美しい知性を方向づけ、形づくることが、私の楽しい仕事となりました。」
わたしとしては、この2つの引用部が、すでに今回の課題において、ほぼ直接的に答えになっていると思えてならないのですが…。
さきほどの引用箇所と同じようにこちらも説明してしまっては、もうそれは解答そのものと言ってもよいほどになってしまいますから、もう一つ念押しの意味も込めて、論者の妙な思い込みについて批判をしておきます。




今回、もはや繰り返す必要もないはずの、世界観と論理の問題を振り返らざるを得なかったのは、ほかでもなく今回のレポートが、前回のレポートと比べて、論理のレベルをまるで高めることができていない、という一点が気がかりなためです。

論者はどうも、わたしの出しておいた課題の採点基準について、さも「答えが合っていれば合格をもらえる」かのように思い込んでいるようですが、勘違いも甚だしいとはこのことです。

弁証法的な論理が形而上学的な論理と決定的に違うのは、前者が過程をこそ正しく把握しようとする点においてです。
前回も説明しておいたとおり、たとえば前者においては、ひとりの人間という一個体の生育段階を、各過程がそれぞれ、人間一般に照らした必然性において折り重なるように発展してゆくものととらえます。
しかし後者にあっては、各段階をそれぞれバラバラにとらえるという踏み外しをし、さらに進んで、結果として発展しきったところの成人のあり方に焦点を当てすぎるときには、「どうせ成長してしまえば今の我々のような身体になるのだから、「小さな大人」のまま生まれてしまったほうが合理的」とまで錯覚してしまいかねないほどの論理の低さとなってしまうのです。

わたしは以前、歴史を考えるときにはいくらそれが曲がりくねった道をたどっているように見えたとしても、一見して特殊に見えるものを安易に例外であるとして片付けてはいけない、ときつく言ってあったはずです。
あれは、そうでなければ過程を正しく追うことはできないからこその忠告であったのだ、と思い返せているでしょうか。
三浦つとむがものごとが発展するというときには「ジグザグな道を通る」と言っていた理由がはたしてわかってもらえているのでしょうか。
あの本を弁証法的に読むということは、こういった各所各所も含めて全体を、弁証法的に読んでゆくということでなければならないはずですから、この箇所も相互浸透的に、「ではなぜ発展はストレートな道であるとしてはいけないのかな?」と読んでみることを通して、「自然に弁証法的な考えかたができる能力をこそ(!)」、培ってゆくのでなければ、いくら法則をまる覚えしても「なんの意味もない」、ということなのです。

というわけですから、どのような答えを出すかということ以上に、問題をどう過程的にとらえたか、ということを描き出す努力をしてほしかったものでした。
今回の課題の場合であれば、サリバンがヘレンと出逢ったその日に、それからの一定期間を「教育以前」、つまり「しつけ」の段階としてとらえたのはなぜなのか?
そして、そこを早まって教育に突き進んでゆかなかったことによって、ヘレンは一体どのような土台を獲得したのか?
と考えてゆけば、「教育以前」・「しつけ」の段階には必ずしも明確なかたちをとりえなかった大きな意味が、その次の段階では大きく浮上してくるということが、大きな感動とともに読み解けてゆくはずだと思うのです。

ひとつ大きな手がかりを指摘しておきましょう。
サリバンは3/20の感動を、このように書いています。
「今や、この子どもの心の中で動き始めている美しい知性を方向づけ、形づくることが、私の楽しい仕事となりました。」
この箇所は実践の中で導き出してきた弁証法が含まれているのです。しっかり読めていますか。

さて、論理が発現している文章や口頭での表現におやっ?と気付き、さらにその高低を推し量ることができたとしても、そこをなお弁証法的な文章として書ききるまでには、思っているよりも遥かな隔たりがあるものです。

このサリバン女史に胸を借りるつもりで、まずははじめからじっくりと、彼女がそこでそのような行動をとった、またとりえたのは、その根底にどのような人間観・また教育観があったからなのかとつぶさに追い、過程的にまとめてみることが大事です。


(8につづく)

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