2011/03/18

一般常識としての日本精神史

仕事ばかりしている。


ペンを止めたらいろいろ考えちゃうんだもの。
ともあれ、自宅にいながら、震災にあった人たちのためにできることはあるのだ。

それはあとで紹介するとして、放ったらかしにしていたやりかけの仕事をとりあえず終わらせたので、ここに置いておきます。

タイトルにも書いたとおり、一般常識としての日本精神史。
以前に、高校生の学生さんと話すときに、下調べしたものの清書だ。


一般常識としての日本精神史(PDF)

お持ちの家庭用プリンタではA4にしかプリント出来ないだろうから、
とりあえずプリントしたあと、コンビニのコピー機なんかでA3に拡大(約1.4倍)するとよさそう。
2枚組ですので、切って貼ってつなげてくださいな。

◆◆◆

「一般常識として」と断ったのは、
あまり複雑な変遷を書き入れると、いろいろと入れなくちゃいけないことが増えるので、
それを大雑把に省略してしまったからだ。

そういうわけで、これは「流れを読む」という意味での「系譜図」にはなっていない。
あくまでも、「大人ならこれくらい知っておいてほしい」という「知識的」なものである。

いつものことばで言い換えるなら、
これでは「歴史性」、「歴史的な論理性」はまるで読めない、ということだ。

◆◆◆

高校の倫理の教科書に載っているものを参考にしたので、
ジャンルとしては、宗教、思想・哲学、文学、文化運動などをふくんでいるが、
それなりに本を読む習慣のある方ならば、どこかで目にしたことのある人間ばかりであると思う。

わたしはいつも論理、論理、と言っているが、
これくらいの知識は最低限ないと、論理的に考えることすらできないと思う。
というのは、論理は知識を媒介としてしか学べないからである。
もっと言うと、歴史的な流れをみるときにも、やはり最低限の知識は必要ということだ。

◆◆◆

ともあれ、これ言っちゃっていいのかどうかわからないが、
参考にした倫理の教科書、なんか曲解まみれでなんとも言えない気分になった。

曰く。
「ヘーゲルの弁証法は正・反・合であり」、
「ソクラテスは正義を貫いた人である」。
などなど。

知っている範囲に限っても、間違いだらけではないか。

後者は解釈の違いとぎりぎりいえる範囲かもしれないが、
前者などは、ヘーゲル『哲学史』を読んでいないと言っているようなものだ。
だって、正・反・合ってのは、ヘーゲルがカントの弁証法を批判的に扱って表現したことばなんだもの。
読んだことのない本を紹介しちゃマズイよねえ。

まあ、こういうのはどっかのダイジェストになったものを、
またダイジェストにしてるからこんな体たらくなのかもしれないが、
紹介された本人も、安らかではおれるまい。

◆◆◆

というわけで、わかる範囲で、曲解を正しておいた。
ついでに、「なんでこの人入ってないの」って人は勝手に書き加えた。

補足・修正はほぼ全項目に渡っているから、すべてについて簡単には下調べしているが、
ほかにも、細かなところでは誤りが含まれているかもしれない。
もっとも、ある偉人の全生涯を一言でまとめているのだから、
読者にとっては誤解の種などはごろごろと転がっているようなものである。

そのほかにも、「〇〇派」に属すと見做されている当人が、
そのカテゴライズを嫌がっている場合もある。
しかしそんな主張をいちいち聞いていると、もはや学派分類がまったく意味をなさなくなるから、知っていてもあえて一緒くたにしてしまった。


というわけで、まともに勉強しようという方は、
眺めるだけじゃなくて、それぞれの項目を簡単にでも調べ直しておいてください。

これがひととおり学習し終えたら、さっさと個別の学問に移りましょうね。
これくらいを知っていても、「近所の物知りおじさん・おばさん」レベルでしかありませんので。

少年老いやすく、というわけです。

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