2011/03/08

文学考察: 母ー芥川龍之介

文学考察: 母ー芥川龍之介


ノブくんが復帰されたようですので、さっそく見てゆきましょう。

この前のエントリで言ったように、あと2作品ほどはわたしが評論するつもりでしたが、
彼が早くに復帰されましたので、本人の手に委ねます。

そのほうが、他の読者にも益になると思いますので。

実のところ、「たたき台」の存在は、認識が進化してゆく過程では非常に有益なのです。
古くはギリシャ時代のソクラテス、身近なところでは禅問答の禅者が、
彼らの話し相手、それぞれソフィストや禅問答の考案者なくしては、
あれほどの、いわば頭脳の運動性を身につけることができなかったことを思えば実感としてよくわかるのではないでしょうか。

これを一人のアタマの中でやるのは、とても大変ですし、もしできたとしても、
同じくらいのレベルの他者同士でやるのとは、まるっきり効率が違うのです。

ともあれ「議論」というのが、テレビで政治家なんかがやっているようなレベルや、
就職活動のディベートレベルのものしか想起できなければ、なかなか理解しがたいところではありますが。
あれらがなんの進展ももたらさないのは、「結論ありきで罵り合っているだけ」で、
まるで議論と呼べるシロモノではないから、ただそれだけの話です。

議論とは、互いの立場は違っても、ともに真理へと近づいてゆこう、
という目的だけは共有されていなければなりません。
不意打ちしてでもとにかく勝ちという既成事実がほしいのであれば、別のところでやるべきです。


さてわたしとしては、まともに仕合ってくれる友人を見つけるのがうまくないので、
いまはこうして、「敵」を作っている段階、ということになります。
ここを見に来てくれる読者のみなさんは、よきたたき台ノブくんの立場に立って、
いつかコメント者に渾身の一撃を見舞わんとする主体性と志を持って読み進めてください。

間違っていてもまったくかまいませんので、思うところある方は、ぜひとも教えてください。
わたしはそういう人が大好きです。
そういう姿勢で臨めば、わたしのコメントも、たたき台の役割をはたすようになってくるはずです。

では始めましょう。


◆ノブくんの評論◆

 ある上海の旅館に泊まっている野村夫婦は、以前に子供を肺炎で亡くしており、以来妻の敏子は密かに悲しみに暮れていました。そして、その悲しみは隣の家の奥さんの子供の泣き声を聞くことで膨らんでいる様子。ですが、やがて野村夫婦が上海から引っ越した後、その隣の奥さんも子供を風邪で亡くしてしまいます。そして、それを知った敏子は自身のある人間的に汚い部分を垣間見ることになるのです。それは一体どのようなものだったのでしょうか。
この作品では、〈相手の気持ちが分かるために、かえって相手が落ちたことを喜ばずにはいられないある母たちの姿〉が描かれています。
まず、物語の中で上記のあらすじの問の答えであり、私が挙げた一般性の貫く箇所が2箇所あります。下記がそれに当たります。

女は敏子の心もちに、同情が出来ない訳ではない。しかし、――しかしその乳房
の下から、――張り切った母の乳房の下から、汪然と湧いて来る得意の情は、どうする事も出来なかったのである。

「なくなったのが嬉しいんです。御気の毒だとは思うんですけれども、――それでも私は嬉しいんです。嬉しくっては悪いんでしょうか? 悪いんでしょうか? あなた。」

ひとつは隣の奥さんが敏子との会話の中で、その感想を表しているもの。そして、もうひとつが子供を亡くした奥さんから手紙を受け取り、現在の心情を敏子が吐露しているものです。上記に共通していることは、「同情」という言葉であり、これは相手の気持ちになって考えていることが出来ている証拠でもあります。そして、その次の言葉に私たちは目を疑うはずです。何故なら、相手が苦しんでいる一方でなんとその状況を喜んでいるというのです。さて、何故彼女たちは相手の気持ちを理解しているにも拘らず、それを喜ぶことができるのでしょうか。それは彼女たちが相手の気持ちに入り込んだ後、自分の気持ちに戻り比較しているからにほかなりません。そうして彼女たちは、相手が自分の立場に届いていないことに優越を感じ、或いは自分と同じ立場に立ったことに対して喜びを感じているのです。
ですが、今回の作品では相手の気持ちを知り、自分の立場にかえってくることが悪い形で作用していますが、その運動自体はとても重要なことです。例えば、一流のホステスなんかは一度相手の気持ちに入り込み、その現在の気持ちや心情を知り、自分の立場に戻った後、自分に何をするべきなのかを考え、話題を変えたりおしぼりを渡してあげたりするのもです。
それでは、この母たちの問題は何処にあったのかと言えば、それは彼女たちの運動(相手の気持ちに入り込み、自分の立場に戻ってくること)そのものが悪かったのではなく、その後の受け止め方が悪かったことが例と比較することで理解できるはずです。彼女たちがもっと「相手のために私たちができることは」と考えていれば、お互いに相手も自分自身も傷つけるような真似はせずに、助けあうことができたかもしれないのです。


◆わたしのコメント◆

 はじめに評しておきますと、キーワードとして引用した2箇所は、まさにこの作品の要諦をとらえており、適切です。そのおかげで、あらすじが要所をおさえたものとなり、その最後の問いかけに本論で答えていけるという、形式上の正しさにつながっています。ただ一般性の言語表現については、大筋は誤っていないものの、「落ちた」の目的語が的確に設定されていないため、読者に不明瞭な印象を与えるでしょう。当該箇所を、たとえば「相手が大事なものを失くしたことを」、または「相手が大事な赤ん坊を亡くしたことを」(漢字が違うことにも注意してください)などとするほうがよさそうです。

 さて論者は、本論の中で、相手の感情を自分のアタマの中に写しとるという、いわゆる「観念的二重化」について論じています(余談ですが、この堅苦しい言葉は、あくまでも説明の時の便宜を計って用いている専門用語ですから、論者が「評論」中でこれを使わずに、日常言語での説明をしたことは評価しています)。この過程をたどるときには、認識が直接目には見えないものであるだけに、まずは相手のしぐさやふるまいなどを表現として見てとることになります。そこを手がかりとして、言い換えれば表現を媒介として、相手の認識を手繰り寄せるようにしながら、自分のアタマの中にそれを像として描いてゆくわけです。この作品で言えば、「女」が「敏子」を観念的に二重化し(二節)、また「敏子」が「女」を観念的に二重化する(三節)形で展開されてゆくのですから、論者の指摘は正当です。しかし、加えて言うならば、その指摘は、ある者がある者への観念的二重化、という単層構造に留まっており、ここに多重性があることを明確に捉えきれていません。
 言い換えれば、論者は、観念的二重化ののちに、自分の立場に戻って、対象化された相手の感情を思いやるかどうかは選べるのだと述べていますが、これほどまでの「感情のねじれ」がなぜ起こるのかについては、うまく説明できていないのです。たとえば単純にケンカをするときにでも、「ただぶたれたか」、「ぶってからぶたれたか」、また「ぶってからぶたれたか」、「ぶたれてからぶったか」では、あとで許すかどうかという判断に差が出るでしょう。

 三節をみるとたしかに「敏子」は「女」に観念的二重化を行っているのですが、そこでの「女」というものが、かつて「敏子に観念的二重化をしていた『女』」である、ということを指摘しなければ、この物語を正しく理解することはできないのです。両者が経験した出来事は独立ではなく、関わり合いを含んだものですから、それが同じような経験であったとしても、どちらが先にそれを経験していたのかは、物語を理解するにあたって欠かすことのできない重要な要素となってきます。そのことを理解するために、いちど物語を整理してみましょう。

◆◆◆

3つの節からなるこの作品を現象面から整理しておくと、このようになります。
一 子供を病で失った「敏子」は、隣の部屋から子供の泣き声を聴く。
二 隣の部屋の「女」と出会い、敏子は「女が産んだ赤ん坊」を目の当たりにする。
三 後日、敏子は隣の部屋の女が、自分と同様に子供を亡くしたことを知る。

そこを、感情面について整理すると、このようになります。
一 「敏子」は、隣の赤ん坊の声を聴いて、自分が亡くした赤ん坊を思い出し辛く思う。
二 「敏子」は、「女」と「女が産んだ赤ん坊」を見て、自分が亡くした赤ん坊を思い返し辛く思う。
 「女」は、「敏子」が子供を亡くしたことを知り、気の毒に思うと共に、浮き上がってくる得意の感情を隠しきれない。(女から敏子への二重化)
三 「女」は、子供を亡くし、その旨「敏子」に手紙を出す。「その時の私の悲しさ、重々御察し下され度」とある。
 「敏子」は、「女」が子供を亡くしたことを知り、気の毒だとは思うが、嬉しさが込み上げてくる。(敏子から女への二重化)

◆◆◆

 論者の指摘した2つの引用箇所は、それぞれ二、三節に含まれているものです。
 まず二節での、「女が敏子に」観念的二重化をしたところを見てみましょう。

 「女は敏子の心もちに、同情が出来ない訳ではない。しかし、――しかしその乳房の下から、――張り切った母の乳房の下から、汪然と湧いて来る得意の情は、どうする事も出来なかったのである。」

 ここでは、「女」は「敏子」が子を亡くしたことを知り、同情しながらも、彼女とは違って自分の子どもはこうして乳を吸っている、という「得意の情」を隠しきれない様子が描かれています。ここでは、「敏子」が「女」の感情を察知したかどうかまでは書かれていませんが、「得意の情は、どうする事も出来なかった」という表現を見れば、少なからず「敏子」も、「女」の感情を見て取っていると判断するのが自然でしょう。ここで「敏子」は、同じ子を持ったことのある母親として、「女」から、表向き同情されつつも得意げな表情をのぞかせた雰囲気で接せられたのだと、おさえておいてください。

◆◆◆

 話を三節に移しましょう。そんな「敏子」はといえば、ある年月が立った後、「眼だけ笑いながら」手紙を夫のものとより分けているおり、「女」からの自分宛の手紙に気づきます。それには、こうありました。子どもが風邪をこじらせて死んだ、と。それを夫に読み聞かせた敏子は、こんな反応をします。

 「敏子は憂鬱な眼を挙げると、神経的に濃い眉をひそめた。が、一瞬の無言の後、鳥籠の文鳥を見るが早いか、嬉しそうに華奢な両手を拍った。」

 申し添えておきますと、「神経的」な反応、つまり意識的ではない一文目に対して、二文目は意識的な、「感情的」な反応であることをおさえておいてください。彼女は、「お隣の赤さんのお追善」なのだと言いながら、手の届かないところにある鳥籠をとるために、ハムモックで休む夫を起こそうとまでするのです。それも、「烈しい幸福の微笑」を浮かべながら。もはやここまで読めば、読者の疑念は確信へと変わります。彼女は間違いなく、「女」へ、憎悪に近い嫉妬を隠してきており、それが堰を切ってなだれ出てきたのだと。

 「敏子」にここまでの感情をもたらした原因を探ってみれば、敏子の感情を揺さぶっているのは、過去の経験によるものなのだとわかります。そこでは彼女が、単に、「女が敏子に観念的二重化をした」のとは逆に「敏子が女に観念的二重化をした」だけではない、ことに気付かされるはずです。いわば、「敏子が『かつて自分自身に観念的二重化をした女』に観念的二重化をした」のです。敏子からすれば、「女」が純粋な同情の念の他に、隠しきれない一物を抱えていることを読み取っていたわけですから、自分がこんなに悲しみにくれているのに、この女は私を理解したふりをして、得意になっているところさえあるのではないか、という感情が暗に渦巻いていたのです。
 そこに、「女」が自分と同じ境遇になったとの報せが入ったのですから、「敏子」の感情が、二節で「女」が感じたものよりも、ずいぶんねじれて増幅された形で表出していることがわかるでしょう。ここに潜む二重性によって、「あのときの貴方は、私のほんとうの気持ちを理解してはいなかっただろう、それがいまわかっただろう」という感情が加味されてくるからです。

◆◆◆

 ここまで、やや冗長に思えるほどに述べてきましたが、理解してもらえたでしょうか。当たり前のことをなぜにこれほどくどくど解体して理解しなければならないかと言えば、このような短編ならいざしらず、長編ともなると、人物の感情の揺れ動きは、さらに複雑なものとなってくるからです。文学作品に限らず、ドラマの中軸となる人間模様というものは、幾重にも渡る構造が横たわっているために、いわば必然的に複雑になってゆかねばならないわけです。この作品に照らしていえば、主人公である「敏子」は最終的に、「女」にたいしてこのような感情を描いて物語は終幕となっています。

 「私と同じように子供を亡くした貴女であれば、あの時の私の感情を思い知っただろう。あの時私は、自分の子供を失ったばかりでなく、その傷跡を貴女の子の泣き声や子を愛おしむ姿によって想起させられるという、二重の苦しみを受けていたのだ。あの時に貴女が私の苦しみについて理解していたのは、前者だけだったであろうが、私と同じ境遇になった今の貴女であれば、そこに後者の苦しみが加えられていることを、身にしみて思い知ったはずだ。」

 読者は、「敏子」の夫と同じように、彼女の中に「何か人力に及ばないもの」を見いだすほどに、恐ろしいものを感じ取るでしょう。著者が、『母』というタイトルに込めた幾重もの意味は、ここにあります。
 この短編ですら、ここまで複雑な人間模様になっているのですから、長編ともなれば、また実生活で齢を重ねた人間であれば、それぞれの感情を持つに至ったきっかけなどを解きほぐして理解しようとすれば、易しいはずがないのも頷けるのではないでしょうか。そこでは、登場人物の感情が重層構造を持っていることをおさえておかねばなりませんし、それに付随する要因として、複数の人物が同じ体験をするときにでも、その順番が厳しく問われる、ということなのです。物語を評するときに、「心理描写が浅い」、「登場人物の言動が軽い」。「動機が薄弱で感情移入できない」などと言われることがありますが、それは、こういった感情における重層構造を描ききれていないからなのです。とくにいったん創作活動したあと、それを対象化しての見直しの段階では、どうしても飛ばせないプロセスになってくることを知っておいてください。逆に、それができさえすれば、これほどのリアリティをもって迫ってくるのですよ。

 ともあれ、論者の人間心理の構造についての理解は、第一歩としては申し分ないものであり、「理解の仕方」そのものとしては、至極真っ当なものです。復帰第一回目がこれだけのものであることは、率直に嬉しく思います。


【正誤】
・行初めの一マス空け
→フォーマットをリッチテキストにしてからコピー&ペースト

・ですが、今回の作品では相手の気持ちを知り、自分の立場にかえってくることが悪い形で作用していますが、
…一文の中での「が」の連続は、読者に文脈が伝わりづらくなるため避けるべき

・例えば、一流のホステスなんかは
→「なんか」は口語。文語は「など」。今回の文脈からすれば、「なんかは」→「などにもなると」などが適切か。

・話題を変えたりおしぼりを渡してあげたりするのもです。

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