2012/12/31

年納めのごあいさつ

読者のみなさまはじめそばにいてくれるみなさま、


今年もお世話になりました。


先ほど、共に研究している学生さんたちに、年賀状代わりの研究成果の郵送をすませてきて、ようやくひと安心しているところです。

やるべきことを済ませて寒空の下両腕をおもいっきり伸ばして深呼吸すると、心身ともにぎゅっと引き締まる思いがします。

振り返ってみると、これはひとつの道を歩もうと志す人間にとっては言うまでもないところだと言われるでしょうが、今年はただひたすらに努力、努力、努力の日々でした。

年のはじめ、その節々にぎりぎりの目標を立てて、それを危うい綱渡りもありながらなんとかこなすことができましたが、いざ終わってみれば、やはりその過程にはたくさんの回り道があったものだなあ、というのが正直なところです。

回り道のなかには、本質的でないただただ無駄なもの、つまり<否定の否定>の過程性を持ち得ないものもあったことは、大いに反省すべきことだと考えています。

◆◆◆

人類の持ちうる最高の認識の形態、つまり学問的な段階のものごとの進め方をするということは、目標の設定をそのレベルで規定して歩むだけでなく、その過程についても学問的に進めてゆき、その進め方そのものの方法論を本質的に前進させてゆくことでなければなりません。

いちばんうまく歩くことができるということは、それ自体に着目するだけではそれだけのことでしかありませんが、「いちばんうまく歩くことができるようになるにはどうすればよいか」という、その上達過程に目を向けて、歩くということが秘めている過程的構造を浮き彫りにすることができるならば、いちばんうまく走るためには、またいちばんうまく泳ぐためには、ひいては、いちばんうまく書く、描く、踊る、歌う、といった方法でさえも、一般的なところまでは押さえることができるようになってゆくものです。

その土台となるものは、言うまでもないことながら弁証法という論理、法則性の把握と目的的な適用です。

しかし今年の過ごし方を振り返ると、たしかに言い訳もし得ないほどに自分にできうるかぎりの努力をしたつもりではあっても、その努力を注ぐ対象や、その注ぎ方という方法論が、本質的に無上のあり方で向上していったか?と問う段になると、結果から見れば、不備や甘えが残されていたと思うのです。

ただがむしゃらにやるということが尊いわけではないということは、恐ろしくも思い知らされる事実です。

まだまだ、未熟、未熟の感しきり、です。

◆◆◆

しかしそうは言っても、何度も反省を重ねているわけにもゆきませんから、今年の泣き言はこれまでとし、転んですりむいたり谷底に落ち込んだとしても、次の瞬間には頭を振って気持ちを入れ替え、起き上がってよじ登ってまっすぐ前を見つめて歩みを進めるのみ、です。

今年は新しい出会いや、志に目覚めた人たちとの関わりが少しずつ明確なかたちを取り始めたという感慨深い年であり、この僥倖を無駄にせず、切磋琢磨しともに一歩一歩進んでゆくことを誓います。

去年の今頃もご紹介しましたが、わたしの恩師に授かった一句を記し、年納めのごあいさつに代えさせていただきたいと存じます。

体当たりに 必ず骨を立つべしと
家伝一系 野武士剣法
詠人不知

本年も誠にお世話になりました。感謝を込めて。

2012/12/16

【メモ】マインドマップは何ができて、何ができないか

概要については省きますが、

浅井えり子『ゆっくり走れば速くなる』のマインドマップ

マインドマップというのが何かといえば、見ての通りです。

一般の本屋さんに行けば、いろいろとガイドブックがあり、その中では脳科学や心理学といった理論が引用された上で、この図形の理論的な根拠が述べられていますが、根拠に深入りする必要はありません。

ソリューションとして売り込もうとする魂胆が見え見えだという感情的な反撥はいちおう棚上げするにしても、いかにもアメリカ的な現象論的コジツケが多いですので。

もっといえば、同じことをするのにマインドマップということばを無理に使う必要もなく、系譜図や樹形図の現象的な形態を、アイデアを練ったり整理したりするという目的のために、「かたち」を借りている、という位置づけの発想であることを押さえればよいと思います。

ですからマインドマップで表現できることは、「生き物」という太い幹から、「動物」や「植物」や、場合によっては「細菌」というやや細い幹が延びており、その先には「哺乳類」や「広葉樹」などがあり、さらに先細ってゆくにつれて「犬」、「チワワ」、「おとなりの田中さん宅のポチ」が位置づけられている、という繋がりなのであって、それ以上でもそれ以下でもないということです。


マインドマップを使うことの利点は、この「見たままに使える」ということにあるので、色とりどりの表現で新しい発想を促したりするにはもってこいで、純知識的な資格試験のレベルにまでなら有効に使えます。

ただ逆からいえば、マインドマップのこの性質に規定されて、いわば、「日常生活の小仕事」(エンゲルス)をするには十分だけれども、より複雑で高度な仕事、つまり論理的・理論的な仕事をするためにまでこの手法を横滑りさせてしまうことは、その仕事に重大な欠陥を孕んでいることに気付けないままになってしまうという危うさを持っています。

学問というものの本質は、対象の持つ立体的・重層的な構造を頭脳の中に体系的な像として描く=認識する、ところにありますが、平面的・図式的な整理だけでは、これを満たすことはできません。

ですから、先ほど見た「マインドマップでできること」のうちの、いわば繋がり方の把握は、学問レベルでの<体系化>と同等であるなどという勘違いはしてはいけない、ということが言えるわけです。



概念的な整理をされてもなんだかわかりにくい(=像としてつかみにくい)という場合には、たとえばこんな文章で現されていることが、その構造を捉えながらマインドマップとして表現できうるか、と考えてみればよいと思います。

以下で引用するのは、阿部知二 著『文学入門』(河出書房)の、「文学の生成」という章にある文章です。
「まず文学の発生ということについては、二つの場合が存在する。第一は、歴史的に見てゆくことであり、第二は、各人の心のなかでの文学心の芽生えをみる、ということである。しかし、ここで面白いことは、その二者がかなりの程度まで類似しているということである。それはちょうど、生物の世界において、個体の発生成長の経路が、生物全体の進化の歴史をほぼ縮小したようなものになっていることと似ている。」
著者は、文学をその生成段階において見るならば、そこでは二つの見方ができると言います。

ひとつは、人類総体としての文学の生成。
もうひとつは、個人の内面での文学の生成、がそれにあたります。

そして、この、規模も担い手も全く異なるこのふたつが、(どういうわけかはわからないが)「かなりの程度まで」――つまり一般的な構造においては――類似している、と言うのです。
さらにこれは、生物の世界でも見られるところなのだ、と言っていますね。



本文には明言されていませんが、生物学におけるこの構造の把握というのは、ヘッケルの手による「個体発生は系統発生を繰り返す」という論理です。

たとえばわたしたちがお母さんの身体からおぎゃあと産声を上げて産まれるまでには、受精卵からの長い道のりがあります。

その身体の発達の仕組みを見ると、当初は単細胞的な段階でしかなかったものが分裂を繰り返す中で、しだいしだいに尻尾の生えたサカナのような段階から、手足の生えたイモリのような両生類的な段階へ…と進んでゆくことがわかります。(中学校の生物で習ったはずですね)

この一年にも満たない「個体」の発生と発達のあり方というものは、より長いものさしで見るならば、地球上で生まれた生命体が現在の人間の段階にまで発展してきたという、いわば「生命体」の、数億年にもわたる発生と発達が極めて短期間で繰り返されるという見方が成り立ちうるのであり、「その二者がかなりの程度まで類似している」ということが言える、ということなのです。

わたしたちが<論理>という名前で呼んでいるものも、実のところ、こういった生成と発展の段階を大きな目で、また小さな目で通して・透かしてみたところに、そういった構造が把握できる、という発見が積み重なり統合されてゆくうちに質的に発展してきたものです。



このように、規模も担い手も違い、また文学のあり方と生物のあり方という、まったく質的に異なる対象ですらもが、一般的にいえば同等の生成と発展の過程を持っているときに、この立体構造、重層構造、そして一般的な構造をいかにして扱うか?と言えば、これはどうしても、図式化して丸暗記するだけではどうにもならないのだ、「自分のアタマに」過程を負ってみることのできるだけの力を技として磨かねばならないのだ、ということがわかってもらえるのではないでしょうか。

マインドマップの発案者はどうしても、それが人間のアタマの構造をふまえたものになっているから理解が進むのだと言いたいようですが、実のところここでふまえられているのは、個別的な知識と、そのレベルの上り降りの関係の繋がりだけ、なのです。

たとえば、「犬」は「動物」のカテゴリに入っており、またそれは「チワワ」や「コリー」を内包する概念である、ということでしかない、ということです。
このレベルの把握は、いわば整理、の段階であり、さほどの論理性もないものです。

もしこのマインドマップのあり方を、わたしたちのアタマの中にそっくりそのまま写しとってしまったとしたら、わたしたちは誰一人として、学問の道を歩めなくなってしまいます。

なぜかというに、学問の本質は個別の知識の集成にあるのではなく、その構造性の把握にあり、しかもその構造は、平面的ではなく立体的かつ過程的なものでなければならない、からです。
しかし残念なことに、<体系化>というものを、知識どうしの繋がり、というレベルにまで引きずり下ろして理解してしまっている人間が、研究者にもたくさんいるという事実があるのです。

念押しにと一言で要すれば、知識だけではなく構造も、形而上学的ではなく弁証法的に、捉えなければならぬ、ということです。

ですからマインドマップでできるのは、個別的な知識の繋がりの把握です。
その用途としては資格試験には使えますし、わたしはその用途に限れば非常に有用だと思っています。
しかし、それを学問的な段階だと勘違いしてはいけない、ということはぜひとも言っておきたいのです。



マインドマップを作る時には、たとえば資格試験の目次をコンピュータで機械的に打ち込んでしまい、次に本文を読みながら、それを印刷したものに自分の手で書き加えてゆく、というやり方がいちばん良いと思います。(この記事の冒頭のマップを参照のこと)

アプリケーションへのリンク
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もっとよいのは、マインドマップをイチから手書きすることですが、これには相当な時間がかかることと、デザインを凝っていると時間ばかりが過ぎてしまう欠点があります。

意地でも手書きで全部描く、という根性を発揮することは大いに結構ですが、その場合にでもコンピュータで作られたものを参考にしてもよいわけですから、柔軟に考えて進めてください。

知識的な習得も相当に時間がかかりまた大変なものですが、学問にとってそれは、いくら必要不可欠とはいえ、長い目で見れば単なる叩き台、捨て石にしかならないものですから、その段階ですべてを修めたとはゆめゆめ思われぬことです。

本日の革細工:iWood 5ケース

年のさいごの12月は、


ふつうの倍くらいのスピードで過ぎ去っていくような気がします。

こういう期間を必死で過ごしていると、論文の執筆や創作活動などいつもは1週間くらいかけてじっくり取り組むことでも、「なにがなんでも絶対に仕上げる」と覚悟のレベルで目的を持っていれば、実際に取り組むまでのすきま時間をうまく使って、当日すぐに取り掛かれるような段階にまで目的像を明確にできることがわかってきます。

そうした一日が終わるころ、手元に残った表現を見たとき、
「これ、どうやって作ったんだっけ…?」
などと思ったりするものです。

もしとてもこの期間でやったとは思えない、という仕事を、年末だけでなく毎日やれるのなら、よっぽど偉く(?)なっているだろうなあ…と思わないでもないですが、これも、「あなたは毎日毎日飽きもせずに基礎修練ばっかりやってるね」と言われ続ける日々を過ごしてこそ、なのでしょう。まあ第一、身体が持ちませんしね。

ところで、年の切れ目や世紀の節目などに、重要な発表が集中したりすることがあることはご存知でしょうか。

わたしはウチに来る学生さんに、必ず学史研究をしてもらいますので、何度か、このことについて質問されたことがあります。

たしかに、いくら12/31だろうがミレニアムだろうが、それぞれの日々はそれぞれの日々だけでしかないのであり、それぞれの年も同じようなものであるから、この日やこの年が特に特別であるという理由などはないのだ、という考えもあり得ます。

しかし歴史的な事実を見ると、どうにも気のせいとも言い切れない、という思いがあるからこその質問、ということでしょう。

月の満ち欠けが出産に与える影響というのは、人間の生理面への働きかけですが、ある時間的な節目に出来事が集中するということは、これとは質的に違った原因がありそうですね。いちど考えてみてください。

◆◆◆

さて、どうでもいいお話ばかりをしていると、毎日毎日お伝えすることが溜まってゆく一方なので、少しでも消化しておきたいと思います。

今回は表題のとおりの革細工なのですが、iWoodって何なの?という方は、これを見ていただければ一目瞭然です。


マホガニーです。(Miniot | Unique wooden accessories for iPhone and iPad


数年前にもここで買ったものを使っていたことがあるのですが、そのときはウッドカバーに入れると革ケースに入らず、ということで、あれかこれかしか使えなかったのですが、もはや今となってはその心配も要りません。

当時も、木の削りだしの精度に驚いたものですが、あれから3〜4年のあいだに、さらに恐ろしいことになっていました。以前は荒く、結局自分でヤスリがけした表面の処理も今回は抜け目なく、角度を変えて見るとなめらかに光る表面を見ていると、それが木であることを忘れてしまうほどです。

スリープボタン、ボリュームボタンもぎりぎりまで薄く削られた木によって、カバーを付けたままで操作することができます。
製造元はオランダの会社ですが、ミリ単位をはるかに通り越したミクロン単位で木の加工ができてしまうという事実を見るにつけ、もはや天然素材のものですら、製品の質を「手作りだから」という理由で保証することはできないのだ、ということを見せつけられる思いがします。

◆◆◆

とまあ、日本のものづくりは心配ながら、この製品(というか作品、と呼んでもよいレベル)には見るたびに感心させられ続ける毎日で、率直に言ってめちゃくちゃ気に入っています。

ここまでの仕事を見せられて動かねば、一介の表現者として名折れであろう…ということで、夜を徹して色々と作ってみました。おかげで、昨日は湯船で寝落ちです。



その1。
前に使った帆布の切れ端で、めちゃくちゃ薄くて幅の狭いものを目指してひとつ。


放ったらかし風の入り口はどうなの?、と言われそうですが、これがいちばん使い勝手が良かったので…
あまりに薄いので、入り口の余白を切り詰めてしまうと入れにくくなっちゃうんですよね。


アタマのところをぐっと押し込むと、側面の革の部分のテンションがうまく働いて、本体だけがすっと出てきます。見た目はアレですが、使い勝手はなかなか。


最近作ったカメラのクッションケースとおそろいです。



その2。

でもいかんせん、帆布は端の処理をきちんとしておかないとどんどんほぐれてバラバラになっていってしまうので、工程が増えがちです。

で、同じ使い勝手のものを革でやれないかな、と思って作ったのがこれ。


G3 iPadケースで考えた縫い方を使って、できるだけ横幅を抑えました。


丸っこくてかわいいです。

ただ横幅を気にし過ぎてぶ厚めに。
縫い目は本体と重ならないようにすべきでした。

上に載せて操作しても安定しているのはいいところですね。
とりあえずしばらく使ってみて、欠点を洗い出します。



その3。

これは同じく木のカバーを買った人からの頼まれもの。(10時の方向です)


これも、G3 iPadケースで考えた原理を使ったものです。

自分で作っておきながらナンですが、わたしにとってG3というモチーフは、自転車バッグにしろiPadケースにしろ、アイデアの宝庫です。
厳しい制限や制約をくぐり抜ける過程こそ、最も偉大な創造の母であるが所以です。

一般的に言って、表現の本質というのはある厳しい規定を自らに課した上で、最も最良の形態と内実を探究してゆく過程にこそあります。

自らに課した何らの制約もなく、野放図な自由を満喫したようなものをわたしたちがただの自己満足に感じ、鑑賞に耐えうる質を備えていないとみなすのはそのためです。

さてこの前作ったG3 iPadケースは、わたしに無駄な余白を徹底的に切り詰めることを求めましたが、今回はそれをさらに一歩進めました。

この写真を見て、「あれっ?」と思われた方は、ひとつの表現を見た時にそれが作られた過程を追ってみることのできる人です。
革は扱いやすい素材なので、取り組まれてみてはどうでしょうか。認識さえしっかりとできているのなら、それを表現に移すための技術については、時間が解決してくれる問題です。



側面にはコバ(革を切り落とした部分)がありますが、入り口とフタの部分にはありません。どうなっているかわかるでしょうか。


iPhone本体を出し入れする時に、手のひらに当たる感触を優しくしようとして、このような形にたどり着きました。


内蔵マグネット式のフタを開けると、木製カバーの端が少し出ていて表情を添えるとともに取り出しやすくなっています。


この革ケースのオーナーは、iPadトラベルケースをお持ちの方なのですが、iPhoneにはインドカリン(深い赤色の木肌です)の木製カバーをつけておられるので、内張りまで赤にしたり柿渋染めにしてしまうとアクセントの色が重複してしつこくなってしまうため、生成りの革のままにしてあります。

その見当が効果的に作用しているかどうか、iPadとiPhoneをケース付きで並べたところを見せていただきたいものです。

今回の、コバを見せない作り方は色々と応用できそうなのですが、0.2mm単位で革の貼り合わせる位置を定めておかねばならないので、型紙をしっかり作っておかないといけません。他所では見かけない方法なのは、そこらへんに問題があるのかもしれません。

◆◆◆

ともあれ、先ほども書いたとおり、表現の質的な向上を求めるのならば、最も必要なのは、うまく革を切ったり縫ったり磨いたりするという<技術>よりも、どういう目的のための道具を作るのか、という道具そのものについての<認識>を高めること、なのです。

ひいては、<自分の認識のあり方>を高めることこそ!、なのです。

ところが多くの人は何のために、何を創るか、というところをあまりにも等閑視してしまっているので、その論理的強制として、他人の作ったものを無批判に横滑りさせて、既存のものをちょっと綺麗にしただけのものや、既存のものに要るか要らぬかわからぬような機能を足したりちょっとした色や形を加えたりといった、小手先の技巧を凝らしたものを作らねばならぬはめになるのです。

一流の人たちは、これから取り組もうとするジャンルで、世にはあれやこれやがあることはひととおり調べはしますが、それでも大事なことにはそれをいったん棚上げして、つまり「これから創る道具は何をするためのものか」、「これから創る作品は何を表現するためのものなのか」というゼロ地点にまで、借り物のコジツケ・亜理論ではなく自分の足で下りてみた上でものごとを考え直します。

しかしそうでない人たちは、世の中のあれやこれやをそのまま無批判に正面に据えてしまい、その前提やそれらの生成し発展し発展させられ「発展してきてしまった」(=継承してはいけないもの)過程をまったく見ようとしない!のです。

考え方そのものが根本的に逆を向いているのに、一流の高みになど登りつめられるはずがない、というのは当たり前の事実ではないでしょうか。

これは道具やデザインなどに限らず、文芸でも研究でも同じことが言えるのですが、この国の文化のあり方を憂う者として、やはりどうしても言わずにはおれない一事、であるのです。

2012/12/05

本日の革細工:カメラケース

このところ、


年末までの目標を達成するための修練と指導に圧されるかたちで、あたかも革職人の製作日誌であるかの感を呈する当Blogですが(革記事だと、読者の認識の進展を把握する必要がないので書きやすいのです)、退屈されている方もおいでかと思うと、どうにもならないとはいえ心苦しく思われるところです。

ただお断りしておきたいのは、扱っているものが芸術やデザインのような対象だからといって、それに直接関わりのある人たちだけしか参考にならない記事にはしているつもりはないのでよろしくお付き合いください、ということなのです。

言い換えれば、このBlogで常々述べている論理というものは、なにも文字で書かれたものを対象とした時に限って発揮される能力や性質ではない、ということを言いたいのです。(もっともこれは、ひろく文芸を論理的に探求してゆく中で次第次第に判明してきたことなのですが)

◆◆◆

例えばみなさんが、仕事で必要になって、旅行かばんを選ぶときのことを考えてください。

仕事帰りに百貨店に寄って売り場を見ると、素材も色もかたちも大きさも値段も、様々なものが並んでいます。
このとき、「旅行かばんと名のつくものならどれでもいいや」とばかりに、「適当なのください」と言ったところで、腕利きの店員さんもこれだけではさすがに困ってしまうでしょう。

ここであなたの買い物にとって必要なのは、まず「旅行かばんがなぜ必要になったのか」という目的の像を明確にしながら、「何泊の旅行なのか」、「荷物はどれくらいの量なのか」、「現地ではどのように使われるのか」、などといった、あなたにとっての目的に照らしながら、適切な旅行かばんの像を明確にしてゆく作業に他なりません。

ここをつきつめていって、後悔しない選択をし、営業旅行というそもそもの目的をそつなくこなすということがあなたに求められているわけですが、とはいえどれだけ突き詰めたとしても、いきなりベストの回答に辿り着けることばかりではありません。

デザインだけで選んだら、取っ手が硬すぎてマメができてしまったとか、必要な書類がそもそも入らなかったとか、硬い素材のケースを選んだのに、空港のトランジションで雑に扱われてかえって破損が激しくなってしまったとかいう教訓を実践から学ぶことも少なくはありませんから。

◆◆◆

そうして、アタマの中で突き詰めてみたことが、いざ実践される段になった時、「思っていたこととは違った」といったかたちで、自分の認識の至らなさを思い知る、ということは誰にでもあるでしょう。

ところが、ここでの、反省から学ぶということが、人によってはうまくいったりいかなかったりすることがあります。
何度も同じ失敗をするだとか、いつまで経っても買い物がうまくならないだとか、ときには良かれと思ってしたプレゼントが相手を怒らせてしまったりだとかいうことさえ起こります。

わたしたちの経験は、いうまでもないことながら、どんなに満足しようがどんなに後悔しようが、取り返しがつかない、ただただ一回きりのものです。(返品すれば取り返しがつくのでは、というのは、後悔したあとに行動しているのですから筋違いです)

その意味で、「旅行かばんを買う」ということは、実際には、個々別々の、どこそこのメーカーの何々という型番の、あなたがタイの営業旅行で右下の隅っこを凹ませて帰ってくることになる、たったひとつの旅行かばんを買った、という、個別の経験として獲得されるわけです。

しかし、ここでの経験をただ一回きりのものだけにしかし得ないのであれば、あなたは何かを買ったり選んだりするたびに、あたかもアテモノのように、当たるも八卦当たらぬも八卦で、良いものであったり良くないものであったりしなければならなくなります。

ですからわたしたちは、良くない道具を選んだときの苦い経験を生かして、次にはちゃんと下調べをしたり経験者に話を聞いてもっとよいものを選ぼう、と思うのがふつうです。

こう考えるときに、わたしたちのアタマの中でどのような働きがなされているのかといえば、それそのものでは個別の経験であるものを集めて総合して検討したり、他人がした経験であったりするものを自分のことのように捉え返して参考にしたりという、大きな意味での<一般化>です。

ですから、良い買い物をするということも、ひとつの認識の働き、それも論理的な働きなのだ、ということなのです。

一般化の能力がとても低いままでは、「お母さんにカーネーションを贈りたい」と思っても、どこに買いにゆけばよいのかが皆目検討もつかない、ということにもなりかねません。

カーネーションという個物を花という概念まで一般化して把握し、花屋さんに出かけるということができたとしても、旅行かばんでやった失敗をブリーフケースを選ぶ時に活かせるかどうか、また湯沸かし器で失敗した経験をスマートフォン選びで活かせるかどうかは、この一般化や、自分の目的像を集中して明確化するという、論理の働きを高められるかどうかという一点にかかっています。

この意味で、弁証法という論理の力を磨いて、自らの専門分野に新たな地平を切り開こうとしている読者のみなさんは、文字表現だけでなく文芸や身体運用などのどんな対象やどんな事柄についても、「なるほどそうにしかならないよな」と考えてみたり、またより進んで、「こうしたほうがもっとよくなるんじゃないかな」と考えてみたりすることを通して、論理力を高めるとともに、自らの論理が通用する分野をより拡げてゆく努力をしてもらいたいと思っています。

たとえば、ここで書かれている革細工の記事において、道具の持っている構造が目的に適っているか、という観点から見てゆくことができれば、自分自身の買い物についても、よりよいものを失敗せずに選んでゆけることになるはずです。

(ここでいちばん重要なのは、わたしがすでに作ってしまったものを前提として考えてしまってはいけない、ということです。あくまでも、ひとつの道具を作る、という問題意識を立てて、それを突き詰めてゆくことを自分のアタマでやってみて、それをわたしの作ったものと比べるようにしてください。すでに誰かが作ったもの、つまり結果でしかないものにいくらケチをつけたとしても、考える力はすぐに頭打ちになってしまいます。極意論的にいえば、問題はすでに出来た1ではなく、「0から1へ」の<過程>にこそある、ということになりますね。)

ものごとを見る目を高めるという発想を持ってそれを高めてゆくのなら、「見る目がない」や「買い物下手」と言われる性質がどのようなものであるかがわかりますし、「女性が道具の選び方が下手なのはなぜか」という社会的な経験則までを、幼児の育てられ方との連関で解いてゆけるものなのです。

◆◆◆

前置きが長くなりました。話の節々をより詳しく聞きたい、という場合はいつものとおり個別に聞いてください。

さて前回の革細工記事で、カメラにストラップをつけていちおう外に出せるというところまで行ったのですが、いつも首にかけているわけにはいかないので、やっぱりというか結局、ケースを作ることになってしまいました。

近いうちに帆布を扱っておきたいということで少し買っておいた生地があるのでそれを使うことにして、革の部分は前回と同じくハギレのものを消化することにします。

以前に、カメラ本体にぴったりとくっつけるカバー、いわゆるボディケースをつくってみたのですが、採寸が大変なわりにあってもなくても変わらないことがわかったので、もっと汎用性の高い、クッションケースのようなものにしようと思い立ち…

…できました。


牛乳パックみたいになりましたね。

見た目はかわいい、というか思ってたよりも可愛くなりすぎた気もしますが、製作にかかった時間は全然かわいくありませんでした。

構造を複雑にしたせいで縁を縫うのが大変だったのです。
革よりもコスト的に劣るはずの帆布を使うと、かえって全体としては工程が多くなりコスト高になってしまいました。

素材で劣るのに値段が高いとなると作り手としても進められないので、この型は試作品で終了になると思います。
帆布を使うのなら、別の形態のものにしなければいけません。

◆◆◆

専用品として作っただけあって、


カメラとぴったり、ストラップとも色の組み合わせを揃えました。


レンズを付けたままで運ぶことになると思って、レンズを付け替えた時にでも対応できるようなラフなサイズ感のものにしました。

◆◆◆

レンズを変えた場合にどうやってがたつきを抑えるかというと、


マチ(側面)の折り目です。内側への圧力を少しだけかけて、カメラの本体部分を押さえてくれます。
この前、眼鏡ケースで考えた仕組みと同じです。

上の写真で、マチに逆Y字型の三本の折り目がありますが、そのほかにも折り目があるのがわかるでしょうか。


ヒント:裏側にも折り目がありますね。

◆◆◆

これは、紙袋と同じ仕組みです。

マチをたたんで、


ぺったんこにし、


たたんでしまえます。

写真撮影と相性のいいものといえば、自転車ツアー!、ですが、その場合荷物をいくらでも持てるわけではないので、省スペースはとても大事なのです。
ボディケースや速写ケースまで専用性を高めてしまったものは、どうしても畳めませんからね。

◆◆◆

自転車用のバッグにも、


もちろんぴったり。


蓋の部分がラフに止まっているのは、こうやって使うことが主眼に置かれているからなのでした。

◆◆◆

さいご。

マチの部分以外はクッション素材を織り込んであるので、少々ラフに扱ってもカメラを傷つけることはありません。


底面には、柿渋染めがうまくいかずハギレになっていたものを流用しています。(革の部分によっては染まり方が均一にならないのです)

焼印なんかを押せば様になると思うのですが、そんなものをデザインしだすと歳が明けてしまいますからそのままです。


蓋の部分には、弱めの磁石が入っていて、これもラフに止まっています。
カメラを傷つけることのないように金具部分を一切出しませんでしたが、作ってみるとボタンくらいはあってもいいかなとも思います。

今日見せた人からの反応はすこぶる良かったのですが、今回はなかなかに安請け合いすることもできません。なにしろ製作に時間がかかりすぎてお代がとても高くなってしまうので…
むしろ総革にすれば、値段の割にかなり良い物になりそうです。
(この場合、折りたたみ機能はなしにしたほうがよさそうですが)

素材自体に強度の低いものを使おうとすると、それを補うために工程や部品が増えてしまい、結果的に全体としてはかえってコストに跳ね返ってしまうという事実は、単純ながら意外な盲点でした。

今回こういう失敗をしておくと、ミシンという道具の機能性とその効用も、自らの実感を通した反面として、より深く捉え直すことができるようになってゆくというわけです。

2012/12/03

本日の革細工:カメラストラップ

「仕事で必要なので…」


という殺し文句がどこまで通用するか微妙なところですが、買ってきました。

最近はスマートフォンでめちゃくちゃキレイな写真が撮れてしまうので、わたしが数年前に買ったコンパクトデジカメは、iPhoneを5にしてから、引き出しの奥に仕舞われたままでした。

コンデジがiPhoneに勝っているところといえば光学ズームができるところだったのですが、ズームレンズをつけるとそのぶん最適化が難しくなるので、単焦点(光学的にズームできない、ということですね)を貫いているiPhoneの、年々の画質向上に白旗を挙げる時が来てしまったというわけです。

なのでカメラを選ぶときには、iPhone 5の画質は少なくとも越えてくれるものでなければ困ります。
かといって、カメラで食べている知人の持っているようなものを見ていても、わたしの手持ちのバッグではどーやって持ち運べばいいのか皆目見当もつかないような大きさですし、だいいち、車一台買えちゃうような額のものは買えません。

◆◆◆

そういうわけで、ここ1年ちょっと下調べしてみたのですが、カメラの世界って、写真が好きな人や写真を撮ることが純粋に好きな人よりも、「カメラという道具が好きなだけ」な人が妙に声が大きいもので、信頼に足る人を探すのがけっこう難しい気がします。高度な道具を使ってする営みには、どうしてもつきものの落とし穴ですけども。

いくら高いお金を出して良いカメラを手に入れたからといっても、表現したいものを明確にしてゆく努力をしないのなら、よい写真が撮れるはずもありません。

写真を単に写した文字が読めれば良い、証拠として残したいなどという記録だけの目的に使うだけならまだしも、いったんそれを芸術として表現しようとする場合には、その表現のうちに、表現者の認識の高みや深みが現れていなければならないからです。

写真というものは、機械が撮った写真が芸術と呼べるか、という画家からの批判を、より色鮮やかに、より明るく、より湾曲が少なく、という道具としての発展によって乗り越えてきたようにも見えます。
しかし、道具としての実力の向上がただちに芸術としての質の高まりに結びついているように解釈するのは、実のところ誤りです。

表現のための道具は、わたしたちがアタマの中に持つ理想像を現実的なものへと移し替える際に手助けをしてくれますが、それは創作過程のすべてを代替するようなものではありません。

ひとつの作品を芸術としての鑑賞に耐えうるものにするために決定的な役目を果たすものは、また芸術の内容を規定するものは、表現者の認識の高みと深み、広くは彼や彼女の人格、というものです。

◆◆◆

これはなにも、芸術としての体裁を備えているものに限りませんから、芸術をするための道具についても、その作り手の認識の深みを捉え返せるようなものであればよいと思うのですが…それでなくても、高い買い物ですしね。

で、今回のカメラですが、カメラ本体は全然文句ありません。
人によってはちょっとやりすぎな感じもするであろうレトロっぽい外見も、出てくる写真の色味も好みですし、とくに感度の高さにはうっとりさせられるほどです。

ただこれは…どうなんでしょうね。

写真は付属してきたカメラストラップですが、実際に触ってみるとベタベタのゴムのような質感の合皮です。

…見なかったことにしよう。

そっと、もとの袋にしまいました。
今回買ってきたのは自称プレミアムカメラ、ですから(実際そのとおりだと思います、本体はね!)、ストラップもそれに見合うものにしたい気持ちもありましたが、これなしで持ちまわるのは心許ないので、つべこべ言ってもいられません。

◆◆◆

素材を買いにゆく時間ももったいないので、ありあわせのものでとりあえずなにか作ることに。

今回のお題を作るに当たっての条件はこんなところでした。

・金具を使うと、持ち運び中にガリガリ本体を削ってしまう心配をしていなければならないので、できる限り金具は使わない方向で。

次に既存のものを色々調べて回りましたが、

・ストラップ全部を革で作ると、折り曲げて収納しにくくなるし、劣化すると千切れるし、そもそももったいない。

というわけで、芯材は革以外のものにしましょうか。

となると、真っ先に思い浮かんだのは、前に自転車サイドバッグを作った時のあまりのアクリルテープです。

革を切り出す時間も惜しいなと思ってキョロキョロしてみたら、ついこの前アイデアノートカバーを作った時に余った、柿渋染めした革を発見。

これでいけそうです。

付属していた三角の二重リングは使いにくいので、100円均一で丸型のものを調達。本を読みつつながら作業で縫い進めます。

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というわけで、なんとか次の日にはちゃんと使えそうなものができました。


いつもこのペースで仕事できたらいいんですけどね。



唯一の金具、二重リングで本体が傷つかないようにガード。


この部分は、ベタ貼りしたiPadケースで使ったものの、ベタ貼り済みの革の余りをくりぬきました。



自分だけが使えればいいので、首かけと肩掛けの兼用にするのも簡単です。


市販のものは、色々な使い方のユーザーが使えるものにしなければいけないので、長さを調節するための金具を増やさねばなりません。



ストラップ部分は、表が柿渋染め、裏がすっぴんのツートンです。


これもわざとそうしたというよりも、たまたま余ってたのがこれだったから。

コバを削って段差をなくし、つるつるになるまで磨いているので、縫い目から1mmほどしかありません。

こうしてしまうといざというときのメンテナンスが難しくなってしまうのですが、今回のものは一期一会なのでかまいません。
潰れたらまた作るのみ。



以前の自転車サイドバッグのときは、アクリルテープと革の部分をサンドイッチのようにしたので、肩に当たる部分が硬めに仕上がってしまったのですが、

以前に作った自転車サイドバッグ。
肩掛けベルトの肩パッド部分がサンドイッチになっている。

今回はアクリルテープ部分は直接縫わないように、かつテープを少し寄せるようにしながら縫い進め、革の上下の縫い目によってテープを挟みこむようにしました。

こうすることで、首や肩にかかる部分に膨らみを持たせるようにできます。

今回のカメラストラップ。
テープ部分を横軸では縫わなかったことで膨らみをもたせた。



間に合わせで作ったわりには、これといった不満のないものができました。


あとは大雑把に放り込んでおけるケースがあれば、外でも安心して持ち運びができるのですが。



さいご。

この写真は付属の充電器なのですが、


なぜにこんな長いコードをつけちゃうんでしょうね…。
充電器本体にプラグをつければよいだけの話だと思うのですが。

どうにかなんないかな、と思ってこれまた部屋を見渡してみたら、


ありました!
iPad用の充電器のプラグ部分。



不恰好ですが、これで旅の持ち物が減らせます。

しかしこう言っては皮肉っぽいですが、周辺機器も「プレミアム」仕様にできないものなんでしょうか。

コストの観念がついて回るメーカーとしては、本体に全力を注げば周辺機器は二の次、ということなのかもしれませんが、実際に商品を買ってきて楽しみに封を開けるオーナーとしては、パッケージ全体でひとつの評価を下すのですから、梱包にしろ備品にしろ、細かな手抜きが積もり積もればそれなりの汚点と見なされてしまいます。

わたしは今回の製品のパッケージングを全体として見た時に、カメラストラップについては、「カメラを落とした客から来るであろうクレームにビビってつけた」という判断があったのだろうと、作り手の立場を捉え返して理解しましたし、ACアダプターについては、「プレミアム機種なのにコンデジと同じバッテリーの使い回しでコスト削減を狙った」のだろうと理解しました。

コスト意識を働かせるのが悪いことだとはまったく思いませんし、それどころかそれが創造の母になることも少なくないとさえ思うのですが、誰がどうみても、作り手の消極的な判断だけしか読み取れないようなものは、思い切って「つけない」という判断をしたほうが、中途半端につけてしまうよりもむしろ高評価につながるのではないでしょうか。

ここでもやはり、製品なり作品なりといったひとつの表現は、作り手のところをいったん離れたからには、それを観るものによっていかようにも解釈されうる、という認識と表現の相対的な独立の構造があることが読み取れます。

だからこそ作り手は、その構造を自らの創作過程を導くものとして捉え返し、「お客さんがこれを見たらどう思うかな?」という観点を持たねばならない、ということになりますね。