2012/12/16

本日の革細工:iWood 5ケース

年のさいごの12月は、


ふつうの倍くらいのスピードで過ぎ去っていくような気がします。

こういう期間を必死で過ごしていると、論文の執筆や創作活動などいつもは1週間くらいかけてじっくり取り組むことでも、「なにがなんでも絶対に仕上げる」と覚悟のレベルで目的を持っていれば、実際に取り組むまでのすきま時間をうまく使って、当日すぐに取り掛かれるような段階にまで目的像を明確にできることがわかってきます。

そうした一日が終わるころ、手元に残った表現を見たとき、
「これ、どうやって作ったんだっけ…?」
などと思ったりするものです。

もしとてもこの期間でやったとは思えない、という仕事を、年末だけでなく毎日やれるのなら、よっぽど偉く(?)なっているだろうなあ…と思わないでもないですが、これも、「あなたは毎日毎日飽きもせずに基礎修練ばっかりやってるね」と言われ続ける日々を過ごしてこそ、なのでしょう。まあ第一、身体が持ちませんしね。

ところで、年の切れ目や世紀の節目などに、重要な発表が集中したりすることがあることはご存知でしょうか。

わたしはウチに来る学生さんに、必ず学史研究をしてもらいますので、何度か、このことについて質問されたことがあります。

たしかに、いくら12/31だろうがミレニアムだろうが、それぞれの日々はそれぞれの日々だけでしかないのであり、それぞれの年も同じようなものであるから、この日やこの年が特に特別であるという理由などはないのだ、という考えもあり得ます。

しかし歴史的な事実を見ると、どうにも気のせいとも言い切れない、という思いがあるからこその質問、ということでしょう。

月の満ち欠けが出産に与える影響というのは、人間の生理面への働きかけですが、ある時間的な節目に出来事が集中するということは、これとは質的に違った原因がありそうですね。いちど考えてみてください。

◆◆◆

さて、どうでもいいお話ばかりをしていると、毎日毎日お伝えすることが溜まってゆく一方なので、少しでも消化しておきたいと思います。

今回は表題のとおりの革細工なのですが、iWoodって何なの?という方は、これを見ていただければ一目瞭然です。


マホガニーです。(Miniot | Unique wooden accessories for iPhone and iPad


数年前にもここで買ったものを使っていたことがあるのですが、そのときはウッドカバーに入れると革ケースに入らず、ということで、あれかこれかしか使えなかったのですが、もはや今となってはその心配も要りません。

当時も、木の削りだしの精度に驚いたものですが、あれから3〜4年のあいだに、さらに恐ろしいことになっていました。以前は荒く、結局自分でヤスリがけした表面の処理も今回は抜け目なく、角度を変えて見るとなめらかに光る表面を見ていると、それが木であることを忘れてしまうほどです。

スリープボタン、ボリュームボタンもぎりぎりまで薄く削られた木によって、カバーを付けたままで操作することができます。
製造元はオランダの会社ですが、ミリ単位をはるかに通り越したミクロン単位で木の加工ができてしまうという事実を見るにつけ、もはや天然素材のものですら、製品の質を「手作りだから」という理由で保証することはできないのだ、ということを見せつけられる思いがします。

◆◆◆

とまあ、日本のものづくりは心配ながら、この製品(というか作品、と呼んでもよいレベル)には見るたびに感心させられ続ける毎日で、率直に言ってめちゃくちゃ気に入っています。

ここまでの仕事を見せられて動かねば、一介の表現者として名折れであろう…ということで、夜を徹して色々と作ってみました。おかげで、昨日は湯船で寝落ちです。



その1。
前に使った帆布の切れ端で、めちゃくちゃ薄くて幅の狭いものを目指してひとつ。


放ったらかし風の入り口はどうなの?、と言われそうですが、これがいちばん使い勝手が良かったので…
あまりに薄いので、入り口の余白を切り詰めてしまうと入れにくくなっちゃうんですよね。


アタマのところをぐっと押し込むと、側面の革の部分のテンションがうまく働いて、本体だけがすっと出てきます。見た目はアレですが、使い勝手はなかなか。


最近作ったカメラのクッションケースとおそろいです。



その2。

でもいかんせん、帆布は端の処理をきちんとしておかないとどんどんほぐれてバラバラになっていってしまうので、工程が増えがちです。

で、同じ使い勝手のものを革でやれないかな、と思って作ったのがこれ。


G3 iPadケースで考えた縫い方を使って、できるだけ横幅を抑えました。


丸っこくてかわいいです。

ただ横幅を気にし過ぎてぶ厚めに。
縫い目は本体と重ならないようにすべきでした。

上に載せて操作しても安定しているのはいいところですね。
とりあえずしばらく使ってみて、欠点を洗い出します。



その3。

これは同じく木のカバーを買った人からの頼まれもの。(10時の方向です)


これも、G3 iPadケースで考えた原理を使ったものです。

自分で作っておきながらナンですが、わたしにとってG3というモチーフは、自転車バッグにしろiPadケースにしろ、アイデアの宝庫です。
厳しい制限や制約をくぐり抜ける過程こそ、最も偉大な創造の母であるが所以です。

一般的に言って、表現の本質というのはある厳しい規定を自らに課した上で、最も最良の形態と内実を探究してゆく過程にこそあります。

自らに課した何らの制約もなく、野放図な自由を満喫したようなものをわたしたちがただの自己満足に感じ、鑑賞に耐えうる質を備えていないとみなすのはそのためです。

さてこの前作ったG3 iPadケースは、わたしに無駄な余白を徹底的に切り詰めることを求めましたが、今回はそれをさらに一歩進めました。

この写真を見て、「あれっ?」と思われた方は、ひとつの表現を見た時にそれが作られた過程を追ってみることのできる人です。
革は扱いやすい素材なので、取り組まれてみてはどうでしょうか。認識さえしっかりとできているのなら、それを表現に移すための技術については、時間が解決してくれる問題です。



側面にはコバ(革を切り落とした部分)がありますが、入り口とフタの部分にはありません。どうなっているかわかるでしょうか。


iPhone本体を出し入れする時に、手のひらに当たる感触を優しくしようとして、このような形にたどり着きました。


内蔵マグネット式のフタを開けると、木製カバーの端が少し出ていて表情を添えるとともに取り出しやすくなっています。


この革ケースのオーナーは、iPadトラベルケースをお持ちの方なのですが、iPhoneにはインドカリン(深い赤色の木肌です)の木製カバーをつけておられるので、内張りまで赤にしたり柿渋染めにしてしまうとアクセントの色が重複してしつこくなってしまうため、生成りの革のままにしてあります。

その見当が効果的に作用しているかどうか、iPadとiPhoneをケース付きで並べたところを見せていただきたいものです。

今回の、コバを見せない作り方は色々と応用できそうなのですが、0.2mm単位で革の貼り合わせる位置を定めておかねばならないので、型紙をしっかり作っておかないといけません。他所では見かけない方法なのは、そこらへんに問題があるのかもしれません。

◆◆◆

ともあれ、先ほども書いたとおり、表現の質的な向上を求めるのならば、最も必要なのは、うまく革を切ったり縫ったり磨いたりするという<技術>よりも、どういう目的のための道具を作るのか、という道具そのものについての<認識>を高めること、なのです。

ひいては、<自分の認識のあり方>を高めることこそ!、なのです。

ところが多くの人は何のために、何を創るか、というところをあまりにも等閑視してしまっているので、その論理的強制として、他人の作ったものを無批判に横滑りさせて、既存のものをちょっと綺麗にしただけのものや、既存のものに要るか要らぬかわからぬような機能を足したりちょっとした色や形を加えたりといった、小手先の技巧を凝らしたものを作らねばならぬはめになるのです。

一流の人たちは、これから取り組もうとするジャンルで、世にはあれやこれやがあることはひととおり調べはしますが、それでも大事なことにはそれをいったん棚上げして、つまり「これから創る道具は何をするためのものか」、「これから創る作品は何を表現するためのものなのか」というゼロ地点にまで、借り物のコジツケ・亜理論ではなく自分の足で下りてみた上でものごとを考え直します。

しかしそうでない人たちは、世の中のあれやこれやをそのまま無批判に正面に据えてしまい、その前提やそれらの生成し発展し発展させられ「発展してきてしまった」(=継承してはいけないもの)過程をまったく見ようとしない!のです。

考え方そのものが根本的に逆を向いているのに、一流の高みになど登りつめられるはずがない、というのは当たり前の事実ではないでしょうか。

これは道具やデザインなどに限らず、文芸でも研究でも同じことが言えるのですが、この国の文化のあり方を憂う者として、やはりどうしても言わずにはおれない一事、であるのです。

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