2012/12/05

本日の革細工:カメラケース

このところ、


年末までの目標を達成するための修練と指導に圧されるかたちで、あたかも革職人の製作日誌であるかの感を呈する当Blogですが(革記事だと、読者の認識の進展を把握する必要がないので書きやすいのです)、退屈されている方もおいでかと思うと、どうにもならないとはいえ心苦しく思われるところです。

ただお断りしておきたいのは、扱っているものが芸術やデザインのような対象だからといって、それに直接関わりのある人たちだけしか参考にならない記事にはしているつもりはないのでよろしくお付き合いください、ということなのです。

言い換えれば、このBlogで常々述べている論理というものは、なにも文字で書かれたものを対象とした時に限って発揮される能力や性質ではない、ということを言いたいのです。(もっともこれは、ひろく文芸を論理的に探求してゆく中で次第次第に判明してきたことなのですが)

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例えばみなさんが、仕事で必要になって、旅行かばんを選ぶときのことを考えてください。

仕事帰りに百貨店に寄って売り場を見ると、素材も色もかたちも大きさも値段も、様々なものが並んでいます。
このとき、「旅行かばんと名のつくものならどれでもいいや」とばかりに、「適当なのください」と言ったところで、腕利きの店員さんもこれだけではさすがに困ってしまうでしょう。

ここであなたの買い物にとって必要なのは、まず「旅行かばんがなぜ必要になったのか」という目的の像を明確にしながら、「何泊の旅行なのか」、「荷物はどれくらいの量なのか」、「現地ではどのように使われるのか」、などといった、あなたにとっての目的に照らしながら、適切な旅行かばんの像を明確にしてゆく作業に他なりません。

ここをつきつめていって、後悔しない選択をし、営業旅行というそもそもの目的をそつなくこなすということがあなたに求められているわけですが、とはいえどれだけ突き詰めたとしても、いきなりベストの回答に辿り着けることばかりではありません。

デザインだけで選んだら、取っ手が硬すぎてマメができてしまったとか、必要な書類がそもそも入らなかったとか、硬い素材のケースを選んだのに、空港のトランジションで雑に扱われてかえって破損が激しくなってしまったとかいう教訓を実践から学ぶことも少なくはありませんから。

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そうして、アタマの中で突き詰めてみたことが、いざ実践される段になった時、「思っていたこととは違った」といったかたちで、自分の認識の至らなさを思い知る、ということは誰にでもあるでしょう。

ところが、ここでの、反省から学ぶということが、人によってはうまくいったりいかなかったりすることがあります。
何度も同じ失敗をするだとか、いつまで経っても買い物がうまくならないだとか、ときには良かれと思ってしたプレゼントが相手を怒らせてしまったりだとかいうことさえ起こります。

わたしたちの経験は、いうまでもないことながら、どんなに満足しようがどんなに後悔しようが、取り返しがつかない、ただただ一回きりのものです。(返品すれば取り返しがつくのでは、というのは、後悔したあとに行動しているのですから筋違いです)

その意味で、「旅行かばんを買う」ということは、実際には、個々別々の、どこそこのメーカーの何々という型番の、あなたがタイの営業旅行で右下の隅っこを凹ませて帰ってくることになる、たったひとつの旅行かばんを買った、という、個別の経験として獲得されるわけです。

しかし、ここでの経験をただ一回きりのものだけにしかし得ないのであれば、あなたは何かを買ったり選んだりするたびに、あたかもアテモノのように、当たるも八卦当たらぬも八卦で、良いものであったり良くないものであったりしなければならなくなります。

ですからわたしたちは、良くない道具を選んだときの苦い経験を生かして、次にはちゃんと下調べをしたり経験者に話を聞いてもっとよいものを選ぼう、と思うのがふつうです。

こう考えるときに、わたしたちのアタマの中でどのような働きがなされているのかといえば、それそのものでは個別の経験であるものを集めて総合して検討したり、他人がした経験であったりするものを自分のことのように捉え返して参考にしたりという、大きな意味での<一般化>です。

ですから、良い買い物をするということも、ひとつの認識の働き、それも論理的な働きなのだ、ということなのです。

一般化の能力がとても低いままでは、「お母さんにカーネーションを贈りたい」と思っても、どこに買いにゆけばよいのかが皆目検討もつかない、ということにもなりかねません。

カーネーションという個物を花という概念まで一般化して把握し、花屋さんに出かけるということができたとしても、旅行かばんでやった失敗をブリーフケースを選ぶ時に活かせるかどうか、また湯沸かし器で失敗した経験をスマートフォン選びで活かせるかどうかは、この一般化や、自分の目的像を集中して明確化するという、論理の働きを高められるかどうかという一点にかかっています。

この意味で、弁証法という論理の力を磨いて、自らの専門分野に新たな地平を切り開こうとしている読者のみなさんは、文字表現だけでなく文芸や身体運用などのどんな対象やどんな事柄についても、「なるほどそうにしかならないよな」と考えてみたり、またより進んで、「こうしたほうがもっとよくなるんじゃないかな」と考えてみたりすることを通して、論理力を高めるとともに、自らの論理が通用する分野をより拡げてゆく努力をしてもらいたいと思っています。

たとえば、ここで書かれている革細工の記事において、道具の持っている構造が目的に適っているか、という観点から見てゆくことができれば、自分自身の買い物についても、よりよいものを失敗せずに選んでゆけることになるはずです。

(ここでいちばん重要なのは、わたしがすでに作ってしまったものを前提として考えてしまってはいけない、ということです。あくまでも、ひとつの道具を作る、という問題意識を立てて、それを突き詰めてゆくことを自分のアタマでやってみて、それをわたしの作ったものと比べるようにしてください。すでに誰かが作ったもの、つまり結果でしかないものにいくらケチをつけたとしても、考える力はすぐに頭打ちになってしまいます。極意論的にいえば、問題はすでに出来た1ではなく、「0から1へ」の<過程>にこそある、ということになりますね。)

ものごとを見る目を高めるという発想を持ってそれを高めてゆくのなら、「見る目がない」や「買い物下手」と言われる性質がどのようなものであるかがわかりますし、「女性が道具の選び方が下手なのはなぜか」という社会的な経験則までを、幼児の育てられ方との連関で解いてゆけるものなのです。

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前置きが長くなりました。話の節々をより詳しく聞きたい、という場合はいつものとおり個別に聞いてください。

さて前回の革細工記事で、カメラにストラップをつけていちおう外に出せるというところまで行ったのですが、いつも首にかけているわけにはいかないので、やっぱりというか結局、ケースを作ることになってしまいました。

近いうちに帆布を扱っておきたいということで少し買っておいた生地があるのでそれを使うことにして、革の部分は前回と同じくハギレのものを消化することにします。

以前に、カメラ本体にぴったりとくっつけるカバー、いわゆるボディケースをつくってみたのですが、採寸が大変なわりにあってもなくても変わらないことがわかったので、もっと汎用性の高い、クッションケースのようなものにしようと思い立ち…

…できました。


牛乳パックみたいになりましたね。

見た目はかわいい、というか思ってたよりも可愛くなりすぎた気もしますが、製作にかかった時間は全然かわいくありませんでした。

構造を複雑にしたせいで縁を縫うのが大変だったのです。
革よりもコスト的に劣るはずの帆布を使うと、かえって全体としては工程が多くなりコスト高になってしまいました。

素材で劣るのに値段が高いとなると作り手としても進められないので、この型は試作品で終了になると思います。
帆布を使うのなら、別の形態のものにしなければいけません。

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専用品として作っただけあって、


カメラとぴったり、ストラップとも色の組み合わせを揃えました。


レンズを付けたままで運ぶことになると思って、レンズを付け替えた時にでも対応できるようなラフなサイズ感のものにしました。

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レンズを変えた場合にどうやってがたつきを抑えるかというと、


マチ(側面)の折り目です。内側への圧力を少しだけかけて、カメラの本体部分を押さえてくれます。
この前、眼鏡ケースで考えた仕組みと同じです。

上の写真で、マチに逆Y字型の三本の折り目がありますが、そのほかにも折り目があるのがわかるでしょうか。


ヒント:裏側にも折り目がありますね。

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これは、紙袋と同じ仕組みです。

マチをたたんで、


ぺったんこにし、


たたんでしまえます。

写真撮影と相性のいいものといえば、自転車ツアー!、ですが、その場合荷物をいくらでも持てるわけではないので、省スペースはとても大事なのです。
ボディケースや速写ケースまで専用性を高めてしまったものは、どうしても畳めませんからね。

◆◆◆

自転車用のバッグにも、


もちろんぴったり。


蓋の部分がラフに止まっているのは、こうやって使うことが主眼に置かれているからなのでした。

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さいご。

マチの部分以外はクッション素材を織り込んであるので、少々ラフに扱ってもカメラを傷つけることはありません。


底面には、柿渋染めがうまくいかずハギレになっていたものを流用しています。(革の部分によっては染まり方が均一にならないのです)

焼印なんかを押せば様になると思うのですが、そんなものをデザインしだすと歳が明けてしまいますからそのままです。


蓋の部分には、弱めの磁石が入っていて、これもラフに止まっています。
カメラを傷つけることのないように金具部分を一切出しませんでしたが、作ってみるとボタンくらいはあってもいいかなとも思います。

今日見せた人からの反応はすこぶる良かったのですが、今回はなかなかに安請け合いすることもできません。なにしろ製作に時間がかかりすぎてお代がとても高くなってしまうので…
むしろ総革にすれば、値段の割にかなり良い物になりそうです。
(この場合、折りたたみ機能はなしにしたほうがよさそうですが)

素材自体に強度の低いものを使おうとすると、それを補うために工程や部品が増えてしまい、結果的に全体としてはかえってコストに跳ね返ってしまうという事実は、単純ながら意外な盲点でした。

今回こういう失敗をしておくと、ミシンという道具の機能性とその効用も、自らの実感を通した反面として、より深く捉え直すことができるようになってゆくというわけです。

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