2013/02/20

通史はどう学ぶべきか:三好行雄『日本の近代文学』から学ぶ (3)

(2のつづき)


前回までで、お題にしている文学の通史を扱った本のうち、論理構造を述べた箇所についての引用を終えました。

今回は、文学者をはじめ、表現にたずさわる仕事・趣味をしている人にとって、その内容を見ておいてほしい箇所を引用しておきます。

◆構造ではなく内容に着目すべき箇所◆

p.63
 心境小説のもっとも簡単な原則は、作者の体験した事実ではなく、事実に遭遇した心境の波紋を描くことにある。行為や事件はほとんど意味をもたず、したがって、それは本質として時間的・空間的な構造性をまったく欠くことになる。が逆にそのことによって、読者は作品の中核に居すわって強い光芒をはなつ作家個性の魅力、その生身の手ざわりを直接たしかめることができる。実生活の断片にまで後退した非小説性と、にもかかわらず、文学的世界としての存立をかろうじてたもつ作者の素顔。そのあやういバランスのうえに心境小説は成りたつのである。そうした質の作品が個性の円熟なしに不可能なのは自明である。

p.118
 戦争を批判する思想性を求めるべくもなかったが、それでもなお、この時期の戦争小説は文学性をまったく喪失してはいない。
→仮に読者のみなさんが、この人は信用できる、という筆者に出会った時に、当人の書籍をすべて自分のものにしたいと考えたとしましょう。そのとき、こういう高度な概念が登場する文面に出くわした時には、それとしっかり向き合っておかねばなりません。ここでは、こう考えるべきです。では、筆者の言う「文学性」とはどういうものか?、と。この問題意識を通して、当人の仕事と向き合うことで、「文学とは何か」という本質的な規定を目指す手がかりになるからです。

p.119
 〜などの芸術性の高い私小説が書かれている。
→上記と同じように、では著者にとって、「芸術性」という概念は、どのようなものとして把握されているのか?また「芸術」とは?、というふうに考えていってください。<文学>や<芸術>などといった高度な概念は、初心においていきなり像を結べるほど生易しいものではありません。それまでの自然成長で身につけてしまったことばの感覚を基にして、「物事を深く知ること」のレベルで<学問>を把握したり、「すごい理科の実験」のレベルで<科学>を把握してしまってはどうにもならないのと同じこと、です。

p.195
 文人――江戸後期に、朱子学から古学へ、唐詩から宋詞へという儒学の変質にともなって、官学としての儒学の正当から派生した趣味の貴族たち。その隠棲を愛し、風流韻事をほしいままにする精神の系譜は明治の作家たちによって確実にうけつがれていた。たとえば、成島柳北から斎藤緑雨・幸田露伴・永井荷風というふとい一本の線がすぐ目に浮かぶが、そのほか漱石や鴎外にしても、かれらは皆、漢詩を感性の世界にとりこむことのできる作家たちであったのである。
→「漢詩を感性の世界にとりこむことのできる」という能力が、一流の作家となるために必要な条件である、と著者は考えているようですが、知識的にも、構造的にも、ここはより探究を深めなければ手も足も出ないほどに難しいことだと思います。文学の歴史的な一般性にかかわることばでしょうが、わたしも十分に明確な像を結べません。特に文学を専攻する人は、忘れずにおいて探求してゆかねばなりません。

p.210
 理論が実作に先行するのは過渡期の現象としてありふれている。「詩と詩論」に対立したプロレタリア文学にもその傾向が顕著だった。しかし真の詩的創造は、理論の金縛りを脱した個性が固有の世界をきずくときに、はじめて実現する。
→「理論が実作に〜」というのは、どんな分野でもまさにその通りです。実践を導く理論があたらしく出現した時に、その方向性に従った実作が雨後の竹の子のように生まれる、ということは珍しくありません。この本の筆者は、本書をとおして、独り歩きして形式主義に陥りがちな理論というものに批判的な態度をとっていますが、これは日本の近代という時代性における文学が、近代化を西洋化と直結させて目指してしまったということの功罪を見て取ってのことです。ですからここを、ある表現を高めるためには、結局のところ実作あるのみで、理論など使いものにならないのだ、などと短絡させてしまわないでください。理論と実践の区別と連関、過程的構造は、立体的に把握されているのでなければ、正しい実践を導くものが皆無となり、結局、当たるも八卦、という実践になってしまいます。

p.221
 秋桜子の唯美主義、誓子の主知と構成、草城のモダニズム、そして草田男の文学性、という常識的な理解にしたがって見ても、かれらと虚子との距離はそれほど遠くない。しかしそれが虚子の強烈な自己限定と無縁であるという意味では、無限の距離ともいえる。そこはもう、現代俳句のきりぎしであった。近代詩の方向に俳句形式が一歩を進めたとき、定型と季語がふたたび、形式自体に内在する重い限界と化しはじめる。秋桜子以下のすぐれた才能によってしか、それはのりこえられなかった。新興俳句運動の内部で、あらためて無季俳句と自由律俳句が出現し、つまり、ある文学様式が、様式の自立性の根拠自体を否定するというリスクがふたたびおかされたゆえんである。
→ひとつの芸術作品は、その中身で扱われている題材の他に、形式として一定の形式や方法論を持っています。机においた林檎を油絵具で描けば油絵になりますし、石で作れば彫刻にもなるでしょう。油絵は現実に近いかたちで色を再現できますが、実際には背面に虫食いがあったとしても再現できず、彫刻はそれとは異なる性質を持つことになります。どちらの形式が良いのかということは、形式だけを比べてみても優劣はつけられません。作り手の認識と表現がより正しく結ばれる手段を選ぶべきなのですが、ここで扱われている俳句というジャンルでは、形式の面で五・七の定型と季語という厳しい規定が前もって存在するために、そこで扱える題材も極めて限定的にならざるをえない、という考え方がありました。そこに、形式を崩して新しい表現を探求しようという向きが出てくるのですが、しかしそうすると、季語のないものや自由律のものを俳句と呼べるのか、という新しい問題が出てきます。この過程を要して言えば、芸術というものがひとつのジャンルとしていったん確立した後では、続く世代はよくも悪くもその形式に規定されながらの創作になる、ということです。形式による規定の強さは、上のように相当に強いものから、アレンジがかなりの部分認められている音楽というジャンルまで多岐に渡りますが、だからこそ、自分の専攻する表現のほかに、それが隣接する表現がどのようなものであるかを調べ、それらの区別と連関(=相互浸透のあり方)を明確に意識しておくべきだとも言えるわけです。

p.222
 戦争中に、無数の愛国詩や辻詩がほとんど<嬉々として>制作されたという事実が重要なのではない。詩の近代の加害がもっとも突出した偉大な個性において、しかも個性の必然として演じられたという事実の痛さが、決定的なのである。たとえば萩原朔太郎がそうであり、高村光太郎がそうであった。むろん、三好達治の場合を例示してもよいのだが、それは詩の近代がついに仮装でしかなかったことの明証であり、その重い事実のまえでは、たとえば金子光晴の存在などをもちだしてみても、どうなるものでもない。詩人の戦争責任を問うことは近代詩の歴史の責任を問うことにひとしいからである。つねに西洋を鏡として、風土からの抽象によってのみささえられた方法論=日本語を西洋の至近点にまで仮構化する方法論の決定的な破綻が、戦争を通過した詩のむざんな廃墟に露呈していた。

◆正誤◆

p.24 中頃
次作の春→次作の『春』

p.35 終わり
芥川滝之介→芥川龍之介

p.76 終わり
金料玉条→金科玉条

p.95 中頃
フロイディズム→フロイティズム
(ユダヤ人心理学者S.Freudは、ドイツ語読みでは「フロイト」となるため、通例dは濁らせて読まない。)

p.148 中頃
上にではなく、、→上にではなく、

p.154 中頃
ついにひとりの女流も生なかった→ついにひとりの女流も生まなかった

p.178 終わり
『小説神髄』(明治18)にはじまるわが国の小説様式が本格的な近代散文としてほぼ完成するのは、漱石・鴎外をはじめ藤村・花袋・終声・白鳥らの自然主義、荷風・潤一郎らの反自然主義の諸個性が輩出した明治40年代である。

『小説神髄』(明治18)にはじまるわが国の小説様式が本格的な近代散文としてほぼ完成するのは、漱石・鴎外をはじめ、藤村・花袋・終声・白鳥らの自然主義、荷風・潤一郎らの反自然主義の諸個性が輩出した明治40年代である。

※漱石・鴎外は「自然主義」作家とは言えないので、「藤村・花袋・終声・白鳥らの自然主義」と明確に区分するために、直前に読点を打つべきである。

p.190 はじめ
同党伐異→党同伐異

p.218 終わり
群れともいえるし、、→群れともいえるし、

p.223 終わり
課題を真にになおうとしたピオニールたちは→パイオニア

※ピオニールまたはピオネール(пионе́р,pioner)は、「旧ソ連の共産主義少年団」を指す言葉である。文脈からすると、ここには「先駆者・開拓者」を意味することばを入れるのがふさわしいので、パイオニア(pioneer)とすべきである。ちなみに言えば、もし仮にこれを英語読みでなくフランス語読みをしたとしても、最後のrはほぼ発音しないため「ピオニェ」となり、やはり誤りであることがわかる。

p.223 終わり
(「戦後の雑多な詩的グループのなかで、歴史の否定という苦い課題を真にになおうとしたピオニールたちは「荒地」の詩人群だけであったと思う。」に続いて、)
北村太郎が『孤独への誘ひ』(昭和22)で、戦争下における詩史の空白を否定したとき、かれの否定は、戦争期を<空白>にした近代詩の歴史そのものへの否定に届いていたかもしれぬ。

北村太郎が『孤独への誘ひ』(昭和22)で、戦争下における詩史の空白を批判したとき、かれの批判は、戦争期を<空白>にした近代詩の歴史そのものへの否定に届いていたかもしれぬ。

※この本文をそのまま読むと、「否定した」が、「戦争下における詩史の空白」に係るため、さも北村太郎が、「戦争下でも詩史は空白ではなかった」という主張をしているように読めるが、事実はそうではない。全体の文脈からすれば、北村太郎は、「戦争下における詩史の空白」についての反省を促したわけであるから、文中3箇所あるうちの前から2つの「否定」は、「批判」とするべきである。


(了)

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