2013/02/07

本日の木工作:ペーパーウェイト

「なんですかこれ?」


先日、学生さんが写真を見て尋ねられたのでご紹介。

ここでは紹介してませんでしたが、去年扱っていた素材が木だったので、いろいろな木について調べて、気になるものについては取り寄せて切ったり削ったりしていたのでした。

わたしはもともと石を彫刻するのが好きなので、同じやり方で一般的なところまでは木もいけるだろうと思っていましたが、木はもと有機体だということもあり、たとえば木目の流れを踏まえる能力がなければ刃が入ったり入らなかったり入りすぎたりなど、とてもまともに扱えないという意味で、素材との向き合い方をより深めておかねばならないということに気付かされました。

素材としての木を試しがてら作った小さな人形は、色々作っては人に贈り、作っては、ということをしていたので手元に残らず、ですが、今回のものだけは実用的な機能があるので残しておいたのでした。

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これが何に役立つのか?と言えば、お題の通りペーパーウェイトです。

習字のときに使うものは、金属製の角棒で、半紙固定する機能を果たしていますし、石ころのようなものは、書類が飛んでいってしまわないようにできています。

わたしの場合も、確かに紙に重しをするという用途でもありますが、それとは少し違った用途にも使えねばならないので、木のブロックを組み合わせたようなかたちになっているのです。


幅の違う同じ長さの木を、2本組み合わせて、幅の長い方には革を貼ってあります。

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ふつうのペーパーウェイトとしてはこんなふうですね。


わたしはA3の紙を折ったものを、学史の系譜図を整理するためによく使うので、こういう長さが必要なのです。

でもこれだと、木を貼り合せる必要もないんじゃあ…と思われるでしょうが、下の写真をみるとわかってもらえるのではないかと思います。


本を、開いたまま固定するためのものです。

普通、こういう用途では、書見台というものを使うことがほとんどです。


この形態だとコンピュータへの打ち込み作業はたしかに楽ですが、これだと線を引いたり書き込みをするときに不便ですし、頻繁にページをめくるのがむずかしいのです。

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もともとわたしの場合、片手で作業をする必要があったのは、飼っている猫が膝の上で寝に来るので、左手で支えておかないといけないから、でした。

(書く、という動作も、やはり書く対象と書くもの(手)・モノ(筆記具)との相互浸透において成り立っているわけですから、たとえば書く対象が書くものの動きと合わせて動いてしまうようでは、動作そのものが成り立ちません。たとえば、氷の上では刀は振れない、いくら効率が良くても自然界には車輪というものが存在しない、などといったことと関連付けて考えてみられているでしょうか。)


ところが、ふつう木だけでペーパーウェイトを作ろうと思っても軽すぎて、本来の働きを果たせないことがほとんどですから、市販のものは、表向きは木製であっても、中に金属製の芯棒が入っているのではないかと思います。


わたしのところには芯棒を入れる穴をくり抜くための設備もないので、この点とどう向き合うかが問題でした。

そのために、今回使ったのがイスノキ、という木材だったのですが、この木は比重が0.9ほどあり木の中ではかなり重いほうで、樫の木と並んで木刀としても使われることがあるくらいのものです。

4℃の水の比重が1ですから、イスノキを水につけると、沈みきらないまでも本体の一面を残して水面下に沈む、といったようなイメージです。
体積と質量、硬さや叩いた時の音、などが関連性を持ってイメージしてみられるでしょうか。

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さてさいごに、例によって少しばかり真面目に考えておきましょう。

世にある表現を見るとき、たとえば今回のような道具のあり方を見るときに、それだけのためにこんなたいそうなものを作るとは、という気持ちを込めて、「あほか」という感想を持つことは不思議ではありません。

この感情を、理性の面から捉え返して言えば、それは「膝に登ってくる習慣を持つ飼い猫がいて」、なおかつ「一分一秒を惜しんで研究したい」、そしてさらに「本には線を引きノートを取りながら研究を進める」という条件が、そうそう簡単に揃うものか、こんなものを他の誰がほしがるというのか、というところから来ているわけです。

しかしここで大事なのは、単に「あほか」という感想を持つにしても、「自分には必要ない」という単に主観的な理由だけでそう思っているのか、そんな条件はなかなか揃わないだろう、という客観的な条件を見た上でそう考えているのか、ということでは、大きな開きがあるのだ、ということです。

これを一言で要すれば、客観視の構造は否定の否定である、ということになりますね。

生まれ持った感性を振りかざして世にあるものを一瞥し切って捨てるのでよいのか、そうでないのかは当人の自覚によって違いますが、ほかでもなくその繰り返しが認識の力を創りあげているのであって、それが技であるだけに、いわゆるセンス、審美眼、ものを見る目、といったものは決して生まれ持ったものではない、という一事は自らの責任でふまえておくべきです。


認識の質的な転化が人格、と呼ばれているものなのですからなおのことなのだ、ということは、言わなくてもわかってもらえていることと思います。

「なぜペーパーウェイト如きでそんな難しい話をせねばならぬのだ…」という「感情」をお持ちになった方は…、これも、もうおわかりですね。

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