2011/01/26

どうでもよくない雑記

ご無沙汰しています。


前回更新から数週間の間が空いてしまったことをお詫びします。
年を明けてから、この3ヶ月で達成する新しい目標の設定と下調べに負われているので、
今月いっぱいはこのような更新頻度になってしまうと思います。

ともあれ卒論シーズンはようやく終わったので、連日にわたる昼も夜もないような生活は避けられそう。
ただ、新しいことを始める、というときには、その分野全般の知識を網羅的に下調べするので、
Blogで書き記すようなことはほとんど出てこないんだね。


指導に「手」が行き届かずに歯がゆいのだけど、
アドバイスができるかどうかはともかく眼は通しているので、
学生のみなさんは手を抜かずに自らの道を突き詰めてくださるようお願いしておきます。

◆◆◆

毎度怒られ役をしてくれているノブくんに、
ここで言えることだけに限って述べておきます。

1月に入ってからの評論の修練について、全般的に言える欠陥は、
「読者を想定できていない」ことと、
「一般性の捉え方が大雑把すぎる」ことです。

この2つが欠けているというのは、文章を発表することの根幹に関わる重要事なので、
なんとしても深く反省してもらわねばなりません。

◆◆◆

論者の評論の形式は、このような形態を持っているのでした。

1. あらすじ
2. 物語の根幹を一言で表した<一般性>の指摘(多くは、問いかけの形)
3. 1と2を受けて、自らが提示した問題を解く。

◆◆◆

まず、一つ目の欠陥を修正するためには、
作品を知らない読者が、自分の書いた評論を読んだ時に、どんな感想を持つか、
という視点で読み返してください。

論者は、この観点がまったく欠けており、読者を困惑させる文章しか書けていません。
まず、1と2を読んだ時点で、「これは面白いな、この先はどうなるのだろう?」
と思ってもらえなければ、絶対に失敗です。

◆◆◆

二つ目の欠陥については、一般性の捉え方が、
もとの作品を丁寧に読んだ結果に提示されたものではなくて、
それを大きく捕まえただけの、一般的なものにとどまっているということです。

矛盾や相互浸透的な量質転化などというものは、
人間の心情を描いた作品であれば、当然に出てくるものなのであって、
そんなことを偉そうに指摘しても、読者にとっては何らの利益ももたらしません。

ある二人の登場人物が対立の果てに和合したり、
逆に友人どうしがあることをきっかけに袂を分かつというのは、
典型的な物語のパターンです。
そういった作品の「ドラマ」というものを、難しい言葉で置き換えたからといって、
新しいことを言えていると思ってはいけません。

◆◆◆

欠陥が大きすぎるだけに、個別のアドバイスをすることで、
かえって視点が低くなりすぎるのではないかと思いましたので、ここで指摘しておきました。

わたしの心情は表立って出さないように努めましたが、
とても焦っている、
とだけお伝えしておきます。

弁証法というものの見方を、
「当たり前の現象を、もったいぶって難しく論じた」という
一番悪い形で発揮しているので、
反面教師としては、他の読者の参考になるかもしれませんが…


以前に口頭で指摘したような、
結論ありきで論を展開するという「自分のストーリーの押し付け」は無くなりましたが、
この欠陥については、以前から常々言ってきたことです。


その日その日をいい加減な気持ちで送っているから、
誰かに毎日指摘されないと、背筋が曲がっていってしまうのではないですか。


日々の修練というものは、人の目の届くところにいるときだけ、
やっているように「見せる」ことを目的としているのではありません。

本日より、自らしっかりと戒めてください。

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