2011/01/31

文学考察: 猿ヶ島ー太宰治

【修正】
読み返していると気になったので、細かな表現の修正を行いました。
大意としては同じです。


文学考察: 猿ヶ島ー太宰治


◆ノブくんの評論
 はるばる海を超え、ある島にやってきた「私」は、そこが何処であるのかを散策している最中、自分と同じ猿である「彼」に出会います。「彼」は「私」よりもこの島に長くからいるらしく、「私」に島に関する様々なことを教えてくれます。そして、「私」が人間たちをその島で目撃した時、「私」は「彼」の口からこの島の真実を聞くことになるのです。
 この作品では、〈甘んじるとはどういうことか〉ということが描かれています。
 まず、この物語の鍵を握るこの島の真実ですが、それは実は「私」を含む猿たちは人間の見世物になっており、島は動物園の敷地の中だったのです。これを知った「私」は「彼」共に危険を冒し、動物園を脱出しました。さてここで注目すべきは、行動だけを見れば2人共動物園を逃げ出した同じ脱走者なのですが、その動機には大きな違いがあるのです。
 はじめに「私」の動機ですが、彼は山で自分を捕らえ、無理やりここまで連れてきた人間に強い怒りを感じており、その人間に見世物にされていることを恥じています。そして人一倍プライドの高い「私」は自身の羞恥心に従い、動物園を脱出しました。
 一方の「彼」ですが、そもそも「彼」は動物園の暮らしに全く不満を感じていませんでした。むしろ、「ここは、いいところだろう。この島のうちでは、ここがいちばんいいのだよ。日が当るし、木があるし、おまけに、水の音が聞えるし。」とその生活に満足さえしているのです。ですが、その傍らでは「おれは、日本の北方の海峡ちかくに生れたのだ。夜になると波の音が幽かにどぶんどぶんと聞えたよ。」と自身の故郷を懐かしんでいます。「彼」は自身の故郷を懐かしく感じながらも、動物園から出る恐怖とその場の居心地の良さから、今の環境に甘んじているのです。そして、そんな「彼」が彼と行動を共にした理由はなんでしょうか。そもそも「彼」というのは、「私」が来るまではずっと一人ぼっちだったと語っています。そして孤独な毎日を送る中、ある日同じ日本出身の猿が同じ境遇を経て、この動物園にやってきたのです。それは「彼」にとってどれほど嬉しいことだったのでしょう。何しろ「彼」がこれまで苦労して築いてきた縄張りをあっさりと、「ふたりの場所」にしてしまったのですから。まさに、「彼」は「私」の中に自分と同じものを感じているのです。しかし、そんな中、「私」はこの島の真実を知ると、すぐに動物園から出て行くというではありませんか。「私」がいなくなれば、「彼」再び孤独になってしまいます。そして、「私」の制止に失敗した「彼」は孤独になることを恐れ、「私」と共についていくことにしたのです。
 このように、「彼」はその環境こそ変わりはしましたが、「彼」の中にある、何かに甘んじるという姿勢は対象を変えただけであり、根本は何も変わっていないということが理解できます。
 さて、この現象を現実に当てはまると、どのようなことになるのでしょうか。例えば、学校に遅刻しないで通学した2人の学生がいるとします。この2人は行動だけ見れば同じ遅刻をしなかった者同士ですが、それぞれの動機は同じとは限りません。一方は先生に叱られる事が嫌で、毎日真面目に通学している人だとします。そしてもう一方の学生は、自身の勉強に対する姿勢として、遅刻しないことなど当たり前だと考えている人です。そして、この2人の間にある大きな違いとは何も動機ではありません。最大の違いは、他人というものが関係ないということがいえるでしょう。前者は先生という第3者の存在があり、そのために遅刻を嫌っています。ですが、後者はいかなる状況においても、勉学をするのであれば、遅刻は絶対にしないでしょう。
 それでは、上記の例を踏まえて、もう一度物語を見てみましょう。すると、「彼」という人物は、環境に左右されやすく、たまたま「私」が脱走したから、ついて行ったに過ぎません。一方の「私」は自身の恥から、動物園を脱走しています。このように行動が同じなために、レベルが見えにくい場合でも、その動機によってそこには大きな違いがあることは確かなのです。


◆わたしのコメント
 前回のエントリーで、論者の思想性の減退を指摘しておきましたが、うまく受け止めてくれたようです。
 折よく今回扱った物語というものも、簡潔な表現の中にいわゆる「ドラマ」が、多種にわたり詰め込まれている作品なので、良い教材となってくれています。
 一般に「ドラマ」というものは、論理の面からいえば、ある人物と他者との関わり合いの中で、彼ら、彼女らが影響を与え、また受け止めるという、影響の与え合いを指すことがほとんどです(<量質転化>的な<相互浸透>)。育ちも目的も違う他者同士であれば、表面化するにしろしないにしろ、互いの間のの矛盾は避けられないものですから、そこでの関わり合い方がどのようなものであるかを描くことが、直接的に物語におけるドラマという形態をとっています。また、そこには矛盾が解消する場合の他に、その懸隔がより広がる場合、良い解消、悪い解消など、様々なパターンが存在していますから、一般的には人の気持ちに関わる<矛盾>、と一口に言ってしまえる構造にも関わらず、多様なドラマが展開されているように現象するわけです。

◆◆◆

 今回の『猿ヶ島』という作品で描かれるのは、大まかには次のようなドラマです。
 ある島に連れてこられた「私」が、そこで出会った「彼」と打ち解けてゆくうちに、あるとき「人間」と遭遇する。はじめは「彼」の説明を真に受けて、それを面白い見せ物として楽しんでいたものの、しだいに見せ物という位置づけが、彼らに対してではなく、彼らから自分たちに向けられたものであることに気づいてゆく。驚いた「私」は自分を騙していた「彼」を罵るものの、彼の口から告げられた思いやりに気付かされ涙する。その気づきをきっかけにして、むしろより「彼」との絆が深まった「私」は、ともに旅立つことを決意する。

 この物語には、いくつかの種類の猿が描かれていますが、人格を持った主人公はといえば、擬人的な二「人」のニホンザルたちだけです。ですから、そういう意味では、論者がその二人のうちに、種族という同じ性質と、異なる物の見方という違った性質の両面を見ていたことは、ドラマを受け止める前提としては正当です。そのような文脈でいえば、表現はまずいながらも(後述)、論理的な把握を前面に押し出した論じ方は、ようやく評論らしくなってきた、と一定の評価を与えてもよいものになってきています。

惜しむらくは、論者は、「甘える」と「甘んじる」という言語表現を混同しているようで、それに引きずられて論証が強引になってしまっています。「甘える」というのは、主に対人関係で、相手に極度に依存することであり、「甘んじる」とは、自らが置かれた状況を受け入れる、という状態を指していますから、明確に別の概念として取り扱わねばなりません。
 そういった言語表現を厳密にすることの他に、〈甘んじるとはどういうことか〉という一般性の捉え方では、まだ絞り込みが足りません。まず自らの書いた問いかけ、つまり一般性に目をやり、それを念頭において自分の文章を読み返してみてください。その上で、自分の書いた評論は、自分の立てた問いに、しっかり答えられているだろうか、と。今回の場合であれば、「甘える(?)」という概念一般を説明するのだ、と言明しているわけですから、「果たしてこの内容で、『甘える(?)』ということを一般的な意味で論じられているだろうか?」と問い返してみれば、まだまだ一般的すぎる、ということはわかるはずです。そうすると、より焦点を絞った表現にせねばなりません。
知識的にも、論理的にも精進を重ねてください。自らの表現は、それが書かれた時点で手を離れて対象となるのですから、それは、「読者の立場から」読まれねばなりません。作品を書くときも読み直す時も、書き手としての自分を出ることができず、結果として作品を客観視できないから、自分の作品の欠陥に気付けないのです。

◆◆◆

 さて、ある失敗について、それを重ねて批判することは本意ではありませんが、前回のエントリーで一喝したことでここまでの実力が発揮できるということは、逆にいえば、他者に指摘されなければ手を抜いてしまう、という思想性の低さを露呈していることにもなっています。そのことはご自分でいちばんよく反省していることでしょうから、これ以上は触れませんが、自分の気質面の不足、認識の像の作り方の浅さを理解しておいてください。
 以前に、トレーニングを例にとって「常に全力で取り組んでいなければ、自分の実力もわからないし、次の目標も立てようがない」と言ったのは、まさにこのことです。自分を信用せずに、「どうせやらないだろう」と日々を過している場合にも、その日の終わりには、「やはり今日もやらなかった」という、悪い意味での安心感が得られてしまっている、ということはわかっておいてほしいものです。その悪い安心感が、当人をどう作ってゆくかもわかりますね。

 論者の場合は、言語表現をはじめ、対象にたいする「認識の像の薄さ」というものは、以前から指摘してきたとおり重大な欠陥であり、いまだ解消されてはいませんから、単発的な文などではなくて、意味のある文のまとまり、とくに接続詞でしっかりつながった「文章」、それも一流のものを、ジャンルに関わらず浴びるように読む、という努力を怠ってはいけません。しかもその努力というのは、強い問題意識を通してなされなければなりません。言葉を変えれば、「目的的に取り組む」ということです。

幼少の頃から、良い教材と教育を与えられており、美しい言語表現が身についている人間が、感性的な捉え方で美しい文章を書けるのとは逆のコース、つまり理性的なやり方で、論理的な土台の上に、目的的に築き上げた美的な認識を持って、美的な表現を加えてゆかなければならないのですから、並大抵の努力では敵わないことを知っておかねばなりません。「生い立ちに言い訳をしない」ということは、そういう努力を含めてのことのはずです。

 弁証法という論理の存在を意識でき、また身近に触れられることは、確かな土台をつくるためにはこれ以上ない経験ですが、それが努力を怠ってもなんとかなる抜け道、魔法の杖である、などという馬鹿な幻想は棄てねばなりません。短期的には、原理的な物の見方よりも感性的な認識のほうが、技よりも体力に任せた喧嘩殺法のほうが、画材よりもデジタルイラストのほうが、見た目の上では上回ることも少なくないのですから。

◆◆◆

 余談ではありますが、今回の太宰治『猿ヶ島』には、上で挙げたドラマ的な要素の他にも、「あれは人妻と言って、亭主のおもちゃになるか、亭主の支配者になるか、ふたとおりの生きかたしか知らぬ女で、もしかしたら人間の臍というものが、あんな形であるかも知れぬ。」といったような、ユーモアにあふれた人間の職業評も見所と言えるでしょう。「人妻」や「学者」のほかの職業を、ここで言われたものと同等の表現を使って表すと、どのようになりますか。そこではどのような論理が働いているかも含めて考えてみてください。また行間を多めにとり、読者の二次創作に委ねるという行間をうまく使った表現が用いられていますので、大いに参考にしてください。

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 課題として、今回の経験から、「思想性」というものが、上達論のなかでどのような役割を持っているかを整理しておいてください。

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