2012/02/02

文学考察: 最後の午後ーモルナール・フェレンツ(森鴎外訳)

今日は、地元ではめずらしく雪でした。


子供たちははしゃぎまわっているのに大人はしかめっ面の人が多いようですね。
どこで変わったのでしょうか。


◆文学作品◆
モルナール・フェレンツ Molnar Ferenc 森鴎外訳 最終の午後

◆ノブくんの評論◆
文学考察: 最後の午後ーモルナール・フェレンツ(森鴎外訳)


市の中心から外れた公園の、人通りの少ない道で、ある男女が散歩をしていました。その中で、どうやら彼らは別れ話をしている様子。
しかし、女と別れるにあたって、男は女に対して気になっていることがあるというのです。それはまだ彼女の事を愛していた頃、ある時彼は人妻であった彼女から、「これが、わたくしの夫ですから、よく見ておおきなさい」と女の夫の写真を見ることとなります。そして男は、彼女の夫の容姿の良さに嫉妬し、自身も懸命に容姿に磨きをかけていました。
ところがある日、男は実物の女の夫を見る機会を得ました。すると、彼女の夫は写真の男とは似ても似つかない、お粗末な容姿をしていたのです。これを知った男は、自身への容姿への興味をなくしていゆくと同時に、女への愛情もなくしていったといいます。ただ彼の中には、何故彼女が自分に偽物の夫の写真を見せる必要があったのかという疑問が残るばかりでした。
しかし、ここまでが女の計画の全てだったのです。彼女が男の容姿を良くするために、あえて写真を見せて男の嫉妬心に火をつけたのです。そして、彼に興味をなくし別の男を好きになると、実物の夫を見せて自分への愛情を失わせていったのです。
 
この作品では、〈あるものに価値を見出す為に、その対象とは別のものに価値を見出すこともある〉ということが描かれています。 
まず、この作品の面白さとは言うまでもなく、恋愛において、それまで優位に立ち回っていたと思われる男が、物語の最後で、実は女の手のひらで踊らされていた事に気がつくという滑稽さにあります。ですが、そもそも男は何故この女性に踊らされてしまったのでしょうか。
彼ははじめ、彼女の偽物の夫の写真を見た時、「どうしてもわたくしのどこをあなたが好いて下さるか分からなかったのです。」と、自分よりも夫が美男子だと分かると、かなり弱気になっています。ですが、本物の夫の素顔を知った途端、彼は強気になって、彼女への愛情も冷めていってしまいました。つまり、彼は彼女自身になんらかの価値を見出しているのではなく、彼女の価値を見出すために、彼女と結婚している夫の容姿と自分とを天秤にかける事で、彼女の価値をはかっていたのです。そして、夫が自分より容姿が優れていると感じた時には、女はその証であり、男性よりも容姿をよくして彼女の心を掴もうと努力し、逆の場合はその夫が自分より劣っていると感じ、同時に女も劣っていると感じたために、その愛情も冷めていってしまったのでしょう。女は男のこうした性質を巧みに利用し、結果、男は架空の夫と一人相撲を繰り広げなければならなかったのです。


◆わたしのコメント◆

夫のある「女」が、恋仲にあったひとりの「男」と別れ話をするところから物語は始まります。男は彼女とつきあうようになった頃、一枚の好男子が映った写真を見せられます。これが夫だという彼女のことばを真に受けて、彼は負けじと己を磨き始めます。そうして月日も過ぎた頃、女の落とした一枚の手紙をきかっけにして、彼女の実の夫というのは、その写真とは似ても似つかぬ人物であるということが明るみに出ます。男はその風采を見て張り合いをなくすと共に、女への気持ちも冷めていったことで、別れ話へと繋がっていったというのです。

物語の終焉では、男が夫への対抗心を燃やしたことも、女への愛情を失ったことも、すべては女の企てによるものであることが明らかになります。別れ際に「男の方と云うものは、写真一枚と手紙一本とで勝手に扱うことが出来ますの。」ということばを残して立ち去る彼女は、男心の扱い方を充分にわきまえていたというわけです。

◆◆◆

論者のあらすじは読みやすく書けていますが、一般性については残念ながら、奥歯にものが挟まったような言い方になっています。
〈あるものに価値を見出す為に、その対象とは別のものに価値を見出すこともある〉という表現だと、「別のもの」が指す範囲が広すぎて、読者はその意義をうまくつかめなくなるでしょう。
ですから、もし「男が女本人を愛するつもりで実のところ女の夫こそに嫉妬心を燃やしていたにすぎなかったことが男の失敗につながったのだ」と言いたいのならば、「あるもの(対象)」と、それと繋がりを持ちながらも本質的でないものという意味で、「副次的な要素」などということばを使えば良いことになります。

ただこれでも表現が硬すぎて、この物語に寄り添う形の一般性だとは言いがたいものです。
この物語の本質は、なにも男その人のものごとの見方だけに焦点が当たっているのではなくて、物語全体を俯瞰すれば、男が女を支配しているつもりが結局は「女の手のひらで踊らされていた滑稽さ」にあるということは論者も述べているとおりなのですから、一般性でもその「かえって」の構造が滑稽さに結びついていることを示しておきたいところです。

そのことをふまえると、わたしが一般性として書くのなら、この物語は、<女を支配したい一心を逆手に取られて支配されてしまった男>を描いているのだ、とするでしょう。

ここには、自らの価値観を外部に置く人間は、その対象を押さえられると容易く足元を掬われる、という意味合いが含まれていますが、この物語に含まれている教訓的な内容は、滑稽さの次の副次的な要素であると考えるのが自然なようですから、それほど硬い表現を使わずともよいでしょう。

おなじ構造を持ったことわざは、孫子の兵法に登場する「敵を知り己を知れば百戦危うからず」にあらわれているとおりで、自己顕示欲や支配欲など、ひとつの欲望に取り付かれていたり、一定の世界観に凝り固まっているほどに、その当人の弱みを見つけることは容易いのだ、ということです。

◆◆◆

ともあれ、評論全体を見ると認識の段階では作品についての見落としがないようであり、表現の不味さはともかく論者の捕まえている作品の一般性はそれなりの妥当性を持っているようですから、一般性の導出をしたあとには、論証部に身近な例を引き合いに出したたとえを書いてほしいところです。

たとえを書くというのは、読者の作品理解を助けるだけではなく、現象から引き出した論理を、さらに現象の段階におろす、という「のぼり」「くだり」(帰納と演繹)の訓練にもなっているわけですから、それをしなければ創作の技術も磨いてゆけないということになります。

さらなる精進を期待しています。

◆◆◆

以前、また直接の指導で指摘しておいた誤字脱字は、今回はどうやら一箇所だけのようです。(致命的な箇所というのが残念ですが…)

【誤】
・最後の午後→最終の午後

また、修練が一定の段階に達しつつあるので、内容における文法上の誤りについても言及しておきます。たとえば、以下の箇所です。

・「それはまだ彼女の事を愛していた頃、ある時彼は人妻であった彼女から、「これが、わたくしの夫ですから、よく見ておおきなさい」と女の夫の写真を見ることとなります。」
→「それは〜」と書き始めたからには、名詞のかたちで終わらねばなりませんから、「〜ことです。」と締めるのが正しい表現です。

◆◆◆

ひとまずは、ケアレスミスが持っている構造を見ておきたいので、「どのようなことを念頭に置いて」注意したら、誤字を見つけられたのかをメモしておいてください。

自らの道を歩むにあたって、矛盾があるところはどんなことでもすべて、それは未解決の問題であり、解かねばならない問題なのだと考えてください。そのことを通して、失敗を含めた矛盾にこそ着目するという姿勢を培ってください。

さいごに余談ですが、文中の"Notre cœur"は、モーパッサンの長篇のタイトルで、『われらの心』として全集3巻に収録されているようですので、気になれば調べてみてください。

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