2012/02/06

【メモ】岩波文庫版『ロダンの言葉抄』 (4)

今回引用した


p.228〜の、「動勢とは一つの態度から他の態度への移りかわりだ」という箇所は、三浦つとむ『日本語とはどういう言語か』のp.223で、彼の言語論における時制の理解を根拠付けるために援用されています。同書を読んでいたときに理解が足りないと思った人は該当箇所に当たってみてください。

わたしは彫刻の創作活動をはじめて十年ほど取り組んだあとロダンの「動勢」についての理解を目の当たりにして、頭上にカミナリが落ちたかのような衝撃を覚えました。それまでの自分のやり方が根本的に誤っていたことが即座にわかりました。恐ろしいまでの極意です。

三浦つとむが言語というものをより広い「表現」のなかのひとつであると正しく位置づけたとき、必然的にロダンの指摘から大いな刺激を受けたと見えることも、何らの不思議はないものと思います。


◆ポール グゼル筆録◆(p.215-303)

p.218 ギリシア人による部分と全体の統一
「ギリシア人は、強烈に論理的な精神を持っていたので、本質的なものを本能で自然と強調した。人間の形の主要な特性をあらわした。しかし、決して生きた細部を除き去りはしなかった。それを包んで全体の中に溶かし込んで満足したのです。」

p.219 肉付けの法
「「私の行った事をようおぼえておいで、」とまたコンスタンが言いました。「お前がこれから彫刻をする時決して間口(まぐち、拡がり)で見ないで、いつでも奥行(厚み)でお見。……一つの表面を見る時、それを必ず一つの容積(量)の端だと思いなさい。お前の方へ向いた大なり小なりの尖端だと思いなさい。そうすればお前は『肉付けの法』を持つ事になる。」

p.220 肉付けの法の適用
「私はこれを人体彫刻に応用しました。人体のいろいろの部分を大なり小なりの平たい表面だと思う事をしないで、内面の容積の出っ張りだとしてそれを表わしたのです。胴や手足の隆起ごとに、深く皮膚の下に蔓っている筋肉や骨の圧出を感じさせるように努力したのです。」

p.221 偉大な彫刻家は色彩を止揚する
「大変詭弁のようには見えますが、偉大な彫刻家たちは一流の画家、むしろ一流の版画家と同様に色彩家なのです。」

p.222 私は誰よりも宗教的だがその意味は注意を要する
「宗教というものは信経の誦読とはまるで別なものです。それはすべて説明された事のない、また疑いもなく世界において説明され得ないあらゆるものの情緒です。」

p.223 真の人間は宗教家である
「真の芸術家は、要するに、人間の中の一番宗教的な人間です。」

p.223 芸術家は自然の内面の真を表現する
「芸術家という名に値する芸術家は「自然」のあらゆる真を表現すべきです。ただ外面の真ばかりでなくまたやはり、またことに内面の真をです。」

p.237 芸術は自然についての洞察である
「芸術は静観です。自然を洞察し、また自然の中の心霊を推測する喜悦です。その中の自然の中の心霊がこの心霊を活かしているのです。芸術は万象の中で明らかに鑑じ、また意識を持って照り輝かしつつ万象を再現する叡智の歓喜です。芸術こそ人間の最も崇高な使命です。世界を会得しようとつとめまたそれを会得させようとつとめる思想のはたらきだからです。」

p.237 芸術は芸術家を映す
「芸術はまた趣味です。芸術家の作成する物体の上にあらわれる彼の心の反映です。家や家具についての人間の魂の微笑です。思想の魅力であり、また人間が使ういっさいのものに編み込まれている情緒の魅力です。」

p.238 自然に忠実である
「総じて私は「自然」に服従します。そして決してそれに命令しようとはしません。私の唯一の願うところは彼に飽くまでも忠実である事です。」

p.259 美は到るところにある、われわれが認めるならば
「美は到るところにあります。美がわれわれに背くのではなくて、われわれの眼が美を認めそこなうのです。」

p.274 美しくあろうとしないがゆえに美しい(=否定の否定)
「古代芸術は、不当に賞讃を当てにするアカデミックの芸術とは根から違います。/わが国の嘘の古典芸術はいわば「美を製造し」ています。容態ぶっています。人が眺めるので固くなっています。その作る人物は、「皆諸君は俺を何と見る。どうだ」と尋ねているような気がします。そしてあの高尚な姿勢に絶えず気を配っているのが結局芝居じみた誇大に陥り、醜悪に陥ります。/ところが古代彫刻のは自分たちが美しいという事さえ念頭にないようです。まったく、これは彼らがこの上もなく単純で直実であるからに過ぎません。」

p.280 芸術の本質は自然の思念を見わけることである
「芸術の本義となるものは、それは思念の統一です。……自然はつねに讃嘆に値します。けれどもそれを支配する思想と法則とがはなはだ複雑なので、自然はしばしば混乱して見えます。いかなる思念がここで一番勢力があるかを見わけてそれを自分の製作に力強く表すのが芸術家の仕事です。」

p.281 彫刻は動勢を訳出するもの
「よい彫刻の重要な美点は動勢を訳出するにあるという事は確かです。」

p.281 動勢を固定化されたものとして表現するという矛盾
「ただの人にとっては、動かない物質をもっていろいろの姿勢を表現させるという事は矛盾とも見えるしまた不可能とも見える。ところがそこが芸術の役目でもありまた勝利でもあるのです。」

p.282 作品を決めるのは芸術家の思想である
「芸術家が自分の取扱っている思想をいくら強く翻訳してもし過ぎるという事は決してないと思う。思想は作品の上に一目で読まるべきです。作品全体に君臨すべきです。思想は形の快適、線の整調よりも上です。むしろ思想がそれらのものを使っていっさいの美を構成するのです。美とは、実に、「真」の事に過ぎず、また思想とは一つの作品の中に訳出された「真」の事です。」

p.283 きれいに見せようとするあまりにかえって醜くなる(=否定の否定)
「愚かにも自分の見るところをきれいにしようと努める者、現実の中に認めた醜に仮面をかぶせ、その包含している悲しみを少くしようと望む者、こういう人たちこそ、本当に、芸術における醜に出会します。この醜とは表現力のない事です。彼の頭や彼の手から出て来るものは、観る者に何事も話しかけずまたその醜に何の効果ももたらさないので、無用で醜です。」

p.286 芸術は足るを知る
「芸術には無用な表現力のないものが一つだってあってはなりません。」

p.287 美はどこにあるか
「現実生活の絶対真よりほか真に美しいものはない!」

p.289 天才の性向とは
「しかしながら君たちの先輩を模倣せぬように戒めよ。伝統を尊敬しながらも、伝統が含むところの永久に実あるものを識別する事を知れ。それは「自然の愛」と「誠実」とです。これは天才の二つの強い情熱です。天才はみな自然を崇拝したしまた決して偽わらなかった。かくして伝統は君たちにきまり切った途から脱け出る力になる鍵を与えるのです。伝統そのものこそ君たちに絶えず「現実」を窺う事をすすめてある大家に盲目的に君たちが服従する事を防ぐのです。」

p.291 芸術は感情そのものだが技術がなければ表現し得ない
「芸術は感情に外ならない。しかし量と、比例と、色彩との知識なく、手の巧みなしには、きわめて鋭い感情も麻痺されます。最も偉大な詩人でも言葉を知らない外国ではどうなるでしょう。新時代の芸術家の中には、不幸にも、言語を学ぶ事を拒絶する多くの詩人があります。やはり彼らも口ごもるより外はありません。」

p.291 芸術家には辛抱が要る
「辛抱です!神来を頼みにするな。そんなものは存在しません。芸術家の資格はただ智慧と、注意と、誠実と、意志とだけです。正直な労働者のように君たちの仕事をやりとげよ。」

p.292 自ら省みて直くんば
「深く、恐ろしく真実を語る者であれ。自分の感ずるところを表現するに決してためらうな。たとい既成観念と反対である事がわかった時でさえもです。おそらく最初君たちは了解されまい。けれども一人ぼっちである事を恐れるな。友はやがて君たちのところへ来る。なぜといえば一人の人に深く真実であるところのものはいっさいの人にもそうであるからです。/しかし色目はいけない!衆目の目を惹くためしかめ面をしてはいけない。単純、率直!」

p.293 芸術家である前に人であれ
「肝腎な点は感動する事、愛する事、望む事、身ぶるいする事、生きる事です。芸術家である前に人である事!真の雄弁は雄弁を侮蔑する、とパスカルは言いました。真の芸術は芸術を侮蔑します。」

p.293 真実は数の多寡ではない
「もし君たちの才能がきわめて新らしいと、君たちは最初ほんの少しばかりの賛同者しか得ないでしかも群衆の敵を持ちます。勇気を失うな。前者が勝ちます。なぜといえば彼らはなぜ君たちを愛するかを知っているのに、後者はなぜ君たちが嫌いなのか知っていないからです。前者は真実に対して情熱を持ちまた絶えず新らしい同人を集めるのに、後者は自分たちの間違った意見に対してどこまでも続けてゆく熱中をまるで表わさない。前者は頑固であるのに、後者は風のままに変わる。真実が勝つことは確かです。」

(ポール グゼル筆録 了)

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