2012/02/12

文学考察: 船医の立場ー菊池寛

故障もずいぶん良くなってきました。


心配をさせてしまって申し訳ないかぎり。

というわけで、「こんな文量どうやって読めばいいのか」と別種の悲鳴をあげている読者の方にはこれまた申し訳ありませんが、じきに元のペースに戻りますのでどうぞよしなに。


◆文学作品◆
菊池寛 船医の立場


◆ノブくんの評論◆
文学考察: 船医の立場ー菊池寛
日本がまだ外国と自由に貿易をしていなかった時代、武士である吉田寅次郎と金子重輔(じゅうすけ)はどうにかしてアメリカ船に乗り込めないかと試行錯誤していました。彼らは、そうして外国へ渡りその技術を盗む事で、外国人を追い払おうと考えていたのです。そして数々の苦難を乗り越えた末、やがて彼らは念願のペリー提督が乗っているアメリカ船、ポウワタン船に乗り込むことに成功します。
一方、彼らが搭乗したポウワタン船では、この二人を受け入れるか否かをペリー提督と艦長と副艦長を中心に会議が開かれていました。まず艦長と提督の主張では、現実的に考えて彼らを受け入れる事は日本政府を刺激する事になり、二国間の友好関係を悪化させる恐れがあるというのです。ですが、副艦長は二人のアメリカの文化に対する関心は本物であり、二人を受け入れるべきだと主張しているのです。そして彼は、そもそも自分たちは閉鎖された日本国の人々を解放することが目的であり、提督らの主張はそれとは矛盾している事を指摘しました。この弁には提督も感動してしまい、何も言い返せなくなってしまいます。やがて提督は、苦しまみれに「ほかに意見はありませんか。」と、他の者に助けを求めはじめます。すると、船医であるワトソンは、その日本人の中の一人の手指に腫れ物があったことを思い出します。これは、寅次郎が旅先である女中に感染された、疥癬(※しつ)と呼ばれる皮膚病だったのです。そして、彼らの国ではこの病気が珍しい事を理由に、ワトソンは彼の皮膚表を脅威と見なし、彼らを受け入れる事を拒否すべきだと主張しました。この彼の一言によって、結局、寅次郎と重輔は船から追い出されてしまいます。
その三日後、アメリカ船に乗った日本人二人はその罰として、その首を切断される事になってしまいます。この事態を知ったポウワタン船の一同は、彼らを助けるのだと意気込みはじめます。しかし、そんな中、船医のワトソンはその時の自分の判断に自信が持てなくなり、果たして日本人が持っていた皮膚病が本当に脅威であったかどうかを、改めて調べはじめるのでした。
 
この作品では、〈正論を認められない為に、別の大義名分を用意して自分の主張を正当化する事がある〉ということが描かれています。 
まずこの作品の軸というのは、下記にある、船医であるワトソンが会議の中で発言した一言にあります。
「私は船医の立場から、ただ一言申しておきたい。彼の青年の一人は不幸にも Scabies impetiginosum に冒されている。それは、わが国において希有な皮膚病である。ことに艦内の衛生にとっては一つの脅威(メナス)である。私は、艦内の衛生に対する責任者として、一言だけいっておく。むろん私はこの青年に対して限りない同情を懐いているけれども」
この一言によって、それまで日本人を受け入れる事を主張していた副艦長も、言葉を失ってしまいます。またその事に反対していた提督の方では、「青年の哀願を拒絶するために感ずる心の寂しさを紛らす、いい口実を得た」と考えていました。こうして、彼らは二人の日本人を拒絶することにしました。ところが、実際にその日本人たちが罰せられているところを目の当たりにした事で、ワトソンは自身の上記の主張に疑問を感じはじめ、再びそのそれが正しかったのかどうか、改めて検討しはじめます。つまり、彼はこの発言をした時、「艦内の衛生に対する責任者として」という言葉の裏には別の意味合いがあったのです。そこには恐らく、提督と同じような心持ちがあった事でしょう。だからこそ、彼は日本人を受け入れる事が決定しそうなタイミングで、寅次郎が皮膚病を患っている事を思い出し、それが本当に脅威なのかどうかをまともに審査せず、船医として上記のように発言してしまったのです。そうして彼は結果的に、寅次郎と重輔が罰せられている姿を見た時、良心を痛めて自分の判断を再び検討せずにはいられなくなっていったのです。


わたしのコメント◆

この作品は、鎖国政策をとっていた日本にあって、黒船に乗り込もうとする二人の武士を中心に描かれています。彼らは名を「吉田寅二郎」、「金子重輔(じゅうすけ)」といい、「夷人の利器によって夷人を追い払う」ことを目的としアメリカに渡ろうというのです。

彼らが散々の苦労を重ねて「ペリー」を提督とするポウワタン船に乗り込む段になると、そこでは二人の日本人を船に容れるかどうかに関して議論が起こります。副艦長である「ゲビス」は、二人の熱誠に動かされて賛成の立場をとりますが、提督は簡単には首を縦に振りません。このことがきっかけで日本国政府と軋轢を起こすことになったり、もしも二人が間者であったときには責任を負えないというのです。ただこうして立場の違うアメリカ人二人ではありますが、二人の日本人が、信用に足る若者であるということについては意見が一致しています。

ゲビスが、日本人の武士にとって命よりも大切だとされる大小の刀を棄てることになってまで、また追い返されれば処刑されることになることを覚悟してまでアメリカに渡ろうとする青年の姿を見て、なにか感じられるところはないのでしょうかと問うと、提督も言葉を失います。ところがここにおいて船医であった「ワトソン」が、日本人青年が疥癬(しつ、かいせん)に罹っていることを指摘したことをもって、風向きが変わることになったのでした。

◆◆◆

二人の日本人の乗船をめぐって議論するアメリカ人たちは、個人的な感情に限れば、日本人青年の熱意を極めて高く評価しているのです。ただそれが、自分たちが日米の国交において重要な役割を担っているという社会的な責任を思えばこそ、それとの板挟みとなって、尽きぬ議論の火種となっているわけです。

この物語の焦点を端的に言えば、「感情と役割との矛盾」を描いているのですから、論者の指摘している一般性は、主語を欠いており表現が不明瞭である(一般性で言いたいのは「ワトソンは」でしょうか、「人間一般は」でしょうか?)ことに加えて、内容としてもこの作品の本質を余さず捉えているとは言えないものになっています。

この作品の特性をうまくつかまえるために、もし仮に、と考えてみてください。
もしこの物語が、「感情」派と「役割」派にわかれた議論を繰り広げていたならば、作品全体が持つ論理性は、より浅い、形而上学的なものになっていたでしょう。
児童文学や勧善懲悪の物語では、物語の主張を明確に表明するために、そういった工夫が現実の人間模様を単純化するかたちであえて用いられることもありますね。
ところがこの物語の最も大きな特徴は、登場する主要な3人のアメリカ人、つまり「ペリー提督」、「副艦長ゲビス」、「船医ワトソン」のすべてが、その矛盾を多かれ少なかれその内に宿している、というところにあるのです。

命をかけるまでに自国で学びたいという日本人青年の熱意は痛いほどにわかるけれども、立場上それが容易でない、という矛盾はそれぞれの脳裏に明確なかたちで宿っており、その矛盾を抱えたままでさえも議論では一定の立場に立たなければならないところから、議論の状況は非常に緊密なバランスにおいて成り立っています。船医の一声で事態が急転するのも、そのためですね。
菊池寛という作家が、心に矛盾を抱えた生の人間の人物描写に極めて長けていることは、論者も『恩讐の彼方に』などから学んで知っているはずです。そのことを知った上で、彼の作品を全体として見渡した上で本質を指摘するからには、論者が指摘した一般性では視野狭窄に過ぎるのではないか、と自身で判断してほしかったところです。

物語に話を戻すと、結局のところ、ワトソンの指摘した疥癬が閉ざされた船内においては致命的であることを口実として、日本人青年二人は本国に送還され、投獄の憂き目にあってしまいます。
死を前にしてもなお従容として座す二人の姿とそのことばに、ペリーは自らの誤りを認め、ゲビスに、提督としての権力をすべて使って彼らのためにできることをやるようにと命じます。ワトソンはここにおいて、青年の病気が、本当に彼らの志を退けてまでに致命的な理由であったのか、と自らに問わないわけにはゆかなくなったのでした。

◆◆◆

自らの進言が大事を招いたことに責任感を覚え、悄然とした様子で船内を歩く船医の姿がさいごに描かれていますが、直接にペリーに助言したのが彼であったとしても、3人のアメリカ人はそれぞれに矛盾する重いを抱えながらの苦渋の決断であったはずです。
そうであるからには、タイトルにもなった船医の姿は極めて特殊な立場であるというよりも、アメリカ人たちを象徴的に代表したものであるとみなすのがふさわしいでしょう。

ペリーが自らの誤りをどう理解したのかを見てみましょう。
むせび泣くゲビスのそばに歩み寄って彼が発した言葉がこれです。
「そうだ。君の感情がいちばん正しかったのだ。君はこれからすぐ上陸してくれたまえ。そして、この不幸な青年たちの生命を救うために、私が持っているすべての権力を用うることを、君にお委せする」
「君の感情が」正しかったのだ、としていることに注目してください。ペリーはゲビスが感情的に、日本人青年に肩入れしすぎることを諌めたりもしましたが、結局のところ、良心に従うべきだったのだ、と、役割よりも感情に重きをおくべきこともあることを認めたわけです。

◆◆◆

さてそのとき、自身の役割からの助言をした船医ワトソンはどうしていたのかも、さいごに触れておきましょう。
「ワトソンは、心の苦痛に堪えないで、自分の船室へ帰って来た。が、そこにもじっとしていることができなかった。彼は、自分の船医として主張した一言が、果して正当であったかどうかを考えずにはおられなかった。彼の心には Scabies が、この高貴にして可憐な青年の志望を犠牲にしなければならないほど恐ろしい伝染病であるかどうかが、疑われてきた。彼は、皮膚病学の泰斗がそれについてどういう言説をなしているかを知って、自分の激しく動揺する良心を落ち着けたいと思った。彼は悄然として、船の文庫(ライブラリー)の方へ歩いて行った。」
ワトソンは、日本人青年の処遇を招いたところの、自分がした助言の責任を誰よりも厳しく感じ取っているのですが、そういった自分自身の感情の揺れ動きでさえも、感情そのもので落ち着けることができないために、あくまでも「医師として」の自分の役割がまっとうであったのかを確認することでそれに替えようとするところが、職業人としての不器用さ、その裏側の絶妙な人間臭さを表しているとは思わないでしょうか。

この物語ではこのように、徹頭徹尾、人間としての感情と、自身の社会的な責任の狭間で揺れ動く個人と、それらが織り成す人間模様を描いているのですから、一般性も、やはりその先に見据えてほしいところです。

評論全体について、あらすじが長すぎる、一般性の導出が十分でない、それが明確であれば叶ったはずの論証部がない、誤字が数箇所あるなど、文章全体としての質が突き詰めきれていないようですから、表現のみならず作品の理解をより確かなものとするために、まずは一般性からもう一度考えてみてください。再読に値する作品です。

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