2012/05/11

どうでもいい雑記:猫拾いました

※5/12 18:00に写真を追加しました。

タイトルそのままですが、


研究の帰りしなにカラスにつつかれている猫を保護してきました。

飼い方どころか生後どれくらいの猫なのかもさっぱりわからないのですが、買ってきた猫缶は食べてくれたのでとりあえず安心しました。

ペットショップで他の猫を見たら、3月生まれの仔猫と同じくらいのサイズに見えましたから、まだまだ子供のようです。けっこう大きいものなんですね。

◆◆◆

聞いた話ですが、アメリカ・インディアンのある民族では、自然と人間の生活とが戒律で厳しく分かたれていて、掟を破って子供の狼を保護した青年が腕を切り落とされたこともあるそうな。

仔猫の代わりに腕一本…なかなか難しい問題ですね。
カラスはカラスで食べるものに困ってのことでしょうから、本当のことをいえばどちらの味方をすればいいのかは判断の付き難いことなのかもしれません。

自然というものをどこまで人間の尺度で測ってよいものなのかというのは、どの人間にとっても大きなテーマなのでしょう。
いまのわたしには、ここまで大きな問題を解くだけの力はありません。

しかしまあ、とりあえずここが日本で良かった。
お陰様で、仔猫もわたしの腕も健在です。

◆◆◆

仔猫はといえば、はじめはガタガタ震えるばかりで、目があったら威嚇するわ、撫でようとしたら引っ掻いて噛み付くわ(そりゃそうですよね。殺されかかっていたわけですから)で取り付く島もなかったのですが、食事にありついたあたりから、どうやらこいつは敵じゃなさそうだと感じたようです。

頭を撫でていたら寝てしまいました。

しかしこのあとが問題だなー。


◆追記◆


いろいろと調べてみましたが、思っていたよりももっと幼いのかもしれません。
とりあえず、怯えたり警戒したりはしなくなり、撫でているとすぐに眠るようになりました。


代謝機能(摂取と排泄)は促してやればいちおう出来ています。
あとはじっくり基礎的な体力を回復させてゆきます。

素人目には「アメリカン・カール」という種類に似ているように思えます。

2012/05/10

理想をいかに形にするか:自転車バッグG4 "TRUNK" (1)

GW前の革工作は、


もうひとつあったのでした。

さきほど記事にして取り上げたG2Rと違って、このG4はデザイン面ではさほど難航しませんでした。

オーナーと何回かお話しした時に、「トランクケースのようなもの」ということで基本的な方向性は定まっていたからです。

そこではすべて盛り込むのが不可能なほどのアイデアが出ました。
・モチーフはトランクケース、旅
・iPadを天板につけられるサイズ
・トランクケースらしくベルトもつけたいがこれまでのコンチョも捨てがたい
・自転車の色に合わせた裏側も貼ってほしい
・金属の蝶番と取っ手もつけたい
などなど。

わたしも当然ながら、その「これは面白い、やろうやろう!」と議論に花を咲かせていた張本人なのですが、オーナーと別れたあとちょっと冷静になってみて、ふつふつと疑念が沸き起こってきました。

「…これ、ホントに出来るのかな?」

◆◆◆

しかし覆水盆に返らず、口に出してしまったものは引っ込められません。

自分の実力に見合うものでなくとも、とりあえず約束してしまったものはやらざるを得ない。
大口を叩いたあとに冷や汗をダラダラ流しながら、また実際に汗水たらしながらごりごりと前に進んでなんとか形にしてゆくことでなければ、実力以上のものはできませんからね。

そういうわけで、なんとか前進する手がかりを探すことになりました。

わたしが自転車向けにこれまで作ってきたバッグというのは、どれも一枚革のぐるりに側面がついたものでした。
ところがこの構成で作ろうとしても、いわゆるトランクケースのような適度に角張った箱型になりづらい。そこが、大きな問題でした。

そういうわけで、他のやり方を模索してたどりついたのが、重箱型でした。

いいかげんな展開図ですが、こんなふうですね。


展開図がいいかげんなのは、わたしの性格もありますが、そもそも設計の段階ではいいかげんなものしか書けなかったからです。

◆◆◆

ところで、革を使ってバッグを作るときには、ほとんどの場合は型紙というものを作ります。

しかし、画用紙や模造紙で作られた型紙と違って、革には厚みもコシもある関係上、型紙と同じサイズに革を切り取って組み立てたとしても、思っていたとおりにはなりません。

そういうわけで、大体の場合は少し余分目に革を切り出しておき、バッグを組み立てながら、不要な部分を特定しながらそれを除いてゆく、ということになるのです。
(そのことと同時に、不要だった部分を測り、型紙にフィードバックしてゆくことで、型紙が仮説の段階から理論の段階へと高まってゆくことになります)

しかし今回の場合は、このやり方で本当にバッグとして仕上がるのか、直立するのか、形が歪んでしまわないのか、フタがしっかりと閉まるのか、どれだけ余分に革をとっておけば出来上がるのか、といったありとあらゆることが不明瞭なままでした。

このように工程のところどころに不明瞭な工程が見られる場合、「作りながら考え、作れたものを見て考えながら作る」ということが要求されます。

これまでのバッグが、「切り出して、縫う」という大きな2工程で組み上げてゆけたのに対して、今回のバッグは「切り出して縫って出来たものを見ながら他の部品を作り、複数の工程を同時に進める」という作業がどうしても必要でした。
このような場合、工程は正確に数えることができません。

この複雑な工程でもなお、最終的にはそれなりの作品を仕上げるために、わたしは不確定な要素を徹底的に排除しようとしました。

その手段は、次の2つです。
・焦点を絞り込むこと
・出来得る限りあらかじめ規格を揃えた部品作りをすること

◆◆◆

前者について、今回の作品でどこにフォーカスするのか、ということをオーナーに確認します。

まずは、重箱型を採用した経緯と、そのことによる作品の特性を伝えました。

【革でつくる重箱型バッグの特性】
・重くなる(上の展開図でわかるように)反面、丈夫になる
・厚紙で作るわけではないので、どれだけうまく作っても噛み合せが悪くなる

iPadのMapアプリを乗車中に使うためには、天板が丈夫である必要があるために重箱型を採用することになりましたが、重箱はそれなりの堅さを持った素材で作ることを前提としているために、革で同じものを作ったところでぴったりとは噛みあわないだろう、ということです。

ここにはデメリットもありますが、そのことを押してでも、
「iPadを使える自転車バッグ」
という要素はオーナーにとって魅力的だったようです。

わたしにとっても、これはとても面白いことになる、とワクワクするに十分でした。

このような経緯があって、まったく先の見えない状態からのスタートになりました。
ともかく、賽は投げられたのです。

(2につづく)

2012/05/09

デザインの世界観をいかに継承するか:G2R "BLACK KIWI" (4)

GW前までの連載で、


デザインの世界観を継承するにはどうすればよいか?という問題を、G2Rという実例を上げながら考えてもらいました。

わたしたち人間が持っている認識のあり方には、経験から得た具体的な個物の像の共通点を総合するとともに抽象化する、という働きがあります。

この「抽象化」という働きは、一定の一般性を持っています。
しかし高度な実践を行う際には、それが対象としているものによってあらわれる特殊性についても、しっかりと掴んでおかねばなりません。

たとえばわたしたちは、コリーやプードルやバーニーズマウンテンドッグの像を抽象化して「犬」という概念を観念的に持つことができます。
そうして、その「抽象化」という働きを、観念的な技術として適用することによって、スコティッシュフォールドや三毛猫、アビシニアンという個物からある像を持ち、それを「猫」という概念で整理することができます。
そしてまた、いったん持った像を用いて、新しく出合った個物がどの概念に属しているのかの判断をすることができるようになってゆくのです。

ところでこれらの概念と抽象化という技術がいかなるレベルのものであるかは、「ペットを選ぶ」などという実践的な必要性によって規定されているのであって、これがたとえばあなたがブリーダーであったり、生物の生態学者であったり、今回のようにデザインモチーフとして採用する場合などには、それに応じたレベルが必要とされてくるわけです。
(一般化・抽象化は、実践的な必要性に照らして規定される)

わたしたちは今回、生き物の身体の作りから学んで、抽象化という認識における技術を目的的に高めることによって、前作G2の精神的な継承を試みました。

そうして最終的に目指したのは、フロントバッグはフロントバッグで、リアバッグはリアバッグでそれとして成立していながら、両者の母体となる自転車を含めた全体として、ひとつの調和を作り上げることにあったのです。
それが成功しているかどうかは読者の批判を仰ぎたいところです。

◆◆◆

まず前面から。


前作とあまり変わりがないように見える前面部ですが、ここを作る際には課題が少なくありませんでした…


…というのは、フェイスの下部、ベルトよりも外側の部分について、少し切り欠きを作ったので、内蓋の開閉部分を工夫しなければならなかったからです。

内蓋は蝶番式になっていますが、蝶番部がフェイスの下から覗いてしまうのが嫌だったので、前面を上下に分割する中央線よりも少し上に蝶番を持ってきています。

また、内蓋はマグネットで固定できるようになっており、写真に見える両サイドの円形の縫い目は、どこにマグネットがあるかが触ってわかるためのガイドになっているのです。

◆◆◆

底面部。


こちらも、もうおなじみになった棒を使った蝶番式ですね。

これが思いの外、バッグとキャリアを強力に固定できるために、もはやベルトが必要なくなってしまいました。
ベルトが不要になると、雨の時にでもバッグ全面を覆うようにレインカバーを付けられる、という大きなメリットが生まれます。

G2のオーナーは、「半年で早くもG2はレガシー(前世紀的な)バッグになってしまったね」と言っていましたが、まさにそのとおり。

それだけの画期性のある蝶番式のアイデアをいっしょに考えてくれた友人には、特許料でも支払いたいところです。

◆◆◆

以前の記事でも触れたとおり、バッグの側面はハニカム型になっていて、この角度はリアキャリアからとったものです。
ちなみにこの角度は、84.0度です。
シートポストも同じ角度なので、ひとつの合理的な理由のあるマジックナンバーなのかもしれません。


写真でもぴったりですね。

リアキャリアの背もたれをぴったり使うことができることで、固定部を背もたれ側に持ってこれますから、そのぶん底面をかなりすっきり作ることができました。
底面がすっきりしているということは、これからもしパニアバッグなどを作った時にでも、リアバッグと共存させることが容易い、というメリットがあるということにもつながっています。

細部を設計段階からしっかりと詰めておくと、後々得することが多いですね。
数学の証明問題を解く時に、結論は同じでも、無駄の多い証明はそれ止まりになることに対して、理路整然とした証明は何にでも使える、ということと似ています。
もっとも科学の世界の「遠回り」は、ずっとずっと後になってから気付かされることも少なくないのですが。

◆◆◆

ベルト留めは立体的な構造になっています。


「これどう作ってるの?」と聞く人は、自分の手でものづくりをしたことがあるか、ものづくりに向いている人ですね。
見た目の対象の構造が、どのようなものになっているのかと着目できなければ、ものづくりはできませんから。

その意味でものづくりは、作り手を現象論的な段階にとどまらせることを許しません。
また反面、評論家や形而上学者が現象論から抜け出ることのできない理由もここにあるわけです。

◆◆◆

バッグの後部にはDカンがついていて、サドル下のレールとベルトで固定できるようになっていますが、底面の蝶番がこれだけしっかりと作れるようになった今、あまり必要ではなくなりました。

天板にボタンで留まっているベルトの開始が唐突にならないように、またフロントバッグからの流れを感じさせるように、Dカンの下には意匠が施してあります。


Dカンは要らなかったんじゃあ?という質問もありそうですが、こんなふうに使えるようです。(オーナーが写真を送ってきてくれました)


寝袋とマットが、バッグの横幅とぴったりですね…なんという偶然。隙がなさすぎる。驚きました。

◆◆◆

フロントバッグが子鳥だとすると、リアバッグは親鳥です。


子鳥のほうはずいぶん良い色になっていますが、れっきとした同じ革です。
どう変わってゆくかが楽しみです。

自転車全体の写真が届いたら、おいおいそれも載せることにしましょう。

(了)

2012/05/08

【メモ】自転車ツアーの反省

※GWに行った自転車ツアーの反省メモですので、自転車ツアーやその認識論に特別な関心のない一般の読者の方は無視していただいてけっこうです。


今回のツアーを殿(しんがり)から見ていると、あまりに危ない走り方をしていることがあったので、走行時の規則について簡単に確認しておきましょう。

まず自転車ツアーの本分は、目的地に着くこと以上にその過程を楽しむことにあります。
過程については大きく分けて、走ることと降りて行動することのふたつありますが、ここで確認したいのは「走る」という側面についてです。

わたしたちが自転車で、自動車も混在する公道を走るときのことを思い浮かべてください。

道路を走るときに、わたしたちはどこを走ってもよいということにはなりませんね。
当然ながら、そこにある看板や速度制限、白線を手がかりに走行を進めます。
しかし注意しなければならないのは、それらはあくまで一般的な手引きという意味しかないのであって、その枠を越えなければ常に安全でいられるかといえば、そうではないということです。

白線などの手引きは、進路の選択の手がかりになりますが、それが一般的なものであるがゆえに、その時々の道路状況(特殊性)にはふさわしくない場合もあるからです。

たとえば、横断歩道の上をいくら正しく歩いていたとしても、右折してきた車にぶつかられては意味がありません。
またたとえば、白線の中を正しく走行しようとしたとしても、排水路の金網にタイヤをとられてしまう場合や並行段差が多い場合には、白線の外側を走る必要があることも少くありません。

旅という過程を楽しむという自転車ツアーの原則として、第一に「安全」の確保があるということは、白線などの手引きに従っていればよいというわけではないことを意味しています。

これらを整理して言えば、「白線などの手引きはわたしたちの安全を保証してくれない」ということです。

◆◆◆

今回のツアーでいえば、左側に合流路のある直線で、それまでの直線上をそのままに走る、という走法は、非常な危険を感じさせるに十分なものであったと指摘しておきます。


「×」で示した左側の図の走法では、合流路から来る車両の存在が無視されています。

一人で走行する場合なら、合流帯の存在を確認した上で、左側後方を目視し、合流しようとする車両が無いことを見て取ればそのまま直進したとしても安全を確保できることもあります。

しかし、連隊でツアーするからには、先頭車は後続車の安全をも確保したかたちで進路を選択しなければなりません。

今回の場合では、一般的な車両の動線(グレーの帯)が明らかである以上、それとなるべく重ならないように動線をデザインしてゆく必要があるというわけです。

◆◆◆

自転車ツアーをしようとするときには、この「動線」を見る、という力が不可欠です。

ここで言う「動線」とは、白線などの手引き(一般的な「「導」線」)と具体的な道路状況(特殊的な「動線」)を手がかりに、アタマのなかに観念的に作り出されるものです。

この「動線」は、それを選んで走行すればまずは安全に走れるであろうという進路を指していますが、これを導くのは、「安全に走る」という自転車ツアーがもっている原則です。

このBlogで常々書いているように、原理や原則があってこそ、正しい実践が導かれる(対立物の相互浸透)のでしたね。

◆◆◆

では、どのようにすれば「動線」を導けるようになるのか、と問いかける前に注意したいことは、動線はあくまでも、当人の実力に従って「観念的に」作り出されるものですから、白線の内側を走るようにすればなんとかなる、というものでは決してない、ということです。

動線がどこかに眼に見える実体としてあるのだと勘違いしている人は、もし交通事故にあったときには交通規則の遵守を根拠に相手の不注意をなじって慰謝料を請求すればよいと考えているかもしれませんが、事故を起こせば旅は続けられません。
それに、命を落としてしまえば正当性を主張することもできなくなります。

安全を保証するのは、眼に見える白線や道路交通法などではなくて、わたしたちのアタマのなかにある動線と、それを作り出す認識における実力です。
自分の身を守る規則を、他所にだけ委ねてしまってはいけません。

◆◆◆

動線を引き出し正しく扱うためには、それ相応の目的意識と、それらが技として身につくための訓練が必要です。

動線の導出と、それに合わせた実践にはいくつかの過程があります。

・動線を認識する
まずは、動線を認識するための素材として、他の車両がどのように走っているのか、という像を持つことです。
上で挙げた右の図では、グレーの帯で表示されていましたね。

しかしこのグレーの帯は、あくまでも一般的なものですから、これは白線などの手引きから機械的に導き出せるものでしかありません。
ですからこのことに加えて、その時々の道路状況を加味して考えた上で、それらを合わせた動線を引き出してゆくべきです。

たとえば、前方をフラフラしている車両があれば、「あれは飲酒運転だろうか?それとも、居眠り運転だろうか?」などと考えてみて、もし目の前の動線のほとんどが危険地帯として塞がれていると認識されるのであれば、続く連隊に停車の指示を出さねばならないことは当然です。

◆◆◆

・動線を走る

また次に、動線を認識した上でそれに従って走る、ということは、ひとつの表現であると考えねばなりません。

それが表現であるからには、自ら、自分たちの走行というものが、他者にとってはある意味をもって受け止められる、ということでもあるのです。

たとえば、あなたがジグザグに運行しているのならば、他の車両からは「危なっかしい運転だな。もっと距離をとりたいところだが…」と見なされます。
しかしあなただけを見た時にはそうであっても、眼の前の信号が赤に変わりそうだったり、自分の後ろに多数の車両が控えている場合には、その車両の操手は危険を犯してあなたを追い越す場合もありえます。
この場合には、あなた自身が危険に晒されているということでもあるのです。

またたとえば、あなたの走行自体がひとつの表現であるということは、後続車にとっても同じことが言えます。
あなたはあなたの認識によって進路を選択していますが、後続車にとっては、それ自体が安全を保証してもらえているものと感じてしまうために、先頭車の後ろをただただついて行くことが多くなります。
この場合たとえば、先頭車がぎりぎり通過できた信号であっても、後続車は無理な横断になる場合があるでしょう。

そうでなくても、キャリアに荷物をつけた自転車が前方を走っている場合には、前方に何があるのかが目指できなくなっていることがほとんどです。
この場合たとえば、先頭車がいきなり進路転換したことに反応しきれず、後続車がポールなどの障害物に接触してしまうという場合もあるでしょう。

ですから、前方に障害物がある場合には、後続車の立場に立って、その認識のあり方を我が身に捉え返した上で、その旨口頭やハンドサインで直接的に伝えたり、前もって十分に速度を落とすなどの振る舞い方(表現)でもって、後続車に危険を伝えることが必要になってくるわけです。

これらのことを鑑みるに、先頭車は、連隊を組んでいる後続車と、それらの間の車間距離を含めた長さを「観念的な自分」像として持った上で、それを危険に晒さない動線を選択してゆかねばならないことになるのです。

簡単に「観念的な自分」像、といえば、なるほどそういうものかと思われるかも知れませんが、自らの自転車の全長に加うるにそれに続く車間距離と後続車の全長を足せば、それがいかに予測の困難な幅を道路上に占めているかがわかってもらえるでしょうか。
ましてやそれが、3台、4台と続く場合にはどうなるかがわかるでしょうか。

先頭車には、まともに想像してみれば恐ろしくなるほどの責任がのしかかっているのです。
そのために、多人数でのツアーでは分隊という組織単位がどうしても必要になるのです。

◆◆◆

今回の、動線の認識と、その実践的な適用の技術というものには、まずもって認識論が必要であることを確認してください。

車両を操作しているのは、他でもない人間ですから、その操手がどのように考えてどうふるまうのか?を、その人の立場に立って常々考えてみることのできる問題意識を、まずは養ってください。

そのために、ツアーの経験が抱負な人間とペアを組んで、後続車として走る場合には、経験者が目の前を走っているのを見ながら、「ここで止まったのはなぜだろう?」「ここでスピードを落としたのはなぜだろう?」「曲がり角の手前で待っていてくれたのはなぜだろう?」などと、常々考えながら走ってください。

そのことをとおして、ある程度の「なるほど、そういうことだったのか」を積み重ねて、走り方がわかってきたときには、道路状況の良いところで先頭車として実際に走ってみてください。
そのときに、後続車として走っている経験者から、「さっき左折しようとする車と接触しそうになっていたよ」「自分が信号を通れればいいわけではないよ」「停まる前にはスピードを落としていなければいけないよ」などとアドバイスをもらうようにしてください。

その修練過程のどれもが、他者の表現から、「その人がなにを考えてそうしたのか」という認識のあり方をさぐる過程をもっていることがわかるでしょう。

◆◆◆

自転車ツアーの確からしさを保証するのは、「怪我なく帰ってきた」ということにあるのではありません。

その過程におけるそれぞれの判断が、正しい認識に基づくものであったか、またそれらをしっかりと正しく組み合わせて実践できていたか、ということにあるのです。

それは、わたしたちはわたしたちの身の危険を、「運」などというもので切り抜けるのではなくして、「確かな認識とその論理的な組み立て方」で避けてゆくことで、旅を少しでも安全で楽しいものにしてゆかねばならないからです。

2012/05/02

GW期間中のお休みのご報告

G2Rのデザイン記事がいいところなので、本当に心苦しいのですが、明日の早朝から自転車ツアーにでかけていて更新ができません。

このところ、今回のゴールデンウィーク休暇のために時間を作ることと、レザーバッグのオーナーさん方が一堂に会すこともあって、わたしのほうでもいろいろと準備をする必要があったために、ここでの更新を楽しみにしてくださっているみなさんをお待たせしてしまいました。

直接口頭で記事について感想や批判をくださる方だけでなく、メールもコメントもひとつひとつとても大事に受け取っていて、ありがたいなあと感じています。

わたしとしても少しでも時間があればとにかく書きたい!少しでもまともなことをみなさんにお伝えしたい!という思いはいつだって強いのですが、今回ばかりは時間が許しませんでした。申し訳ない。

数日で戻ってきますので、そうしたらすぐに続きを公開しますね。

といっても革細工とデザイン好きには気になって仕方がないでしょうから一枚だけ。


上がG2、下がG2R。
G2Rの底面後部に盛り上がりがあるので、下に本と靴の箱をかませています。
同じ革で作ったんですが、上のものは半年ほどでずいぶん色が変わっていますね。
本日のツアーで、オーナーが自転車仲間にお披露目するので、ここでも公開できるようになりました。

次の記事は写真が中心になるので、デザインなのに文字ばっかりでどういうこっちゃ、なみなさんにも安心して読んでもらえると思います。

では、行ってきますね。

デザインの世界観をいかに継承するか:G2R "BLACK KIWI" (3)

昨日の記事では、


抽象から具体、具体から抽象へののぼりおりのお話をしました。

わたしたちはその過程を通して、抽象的な図形の組み合わせをいくつかのモチーフを使って具体化することによって、実際に身をもって生きている生き物のありかたにデザインを近づけてゆこうとしたのです。

ここでは当然ながら、実際の生き物の写真をそのままに顔として使うわけではありませんから、いずれにしろ一定の抽象化が成されているわけですが、それでも、その抽象化というものが、出来の悪い創作物であってはいけない、ということは常々念頭に置いているのです。

出来の悪い創作物というのは、一言でいえば現実から学ばない、ということであり、今回の場合であれば、自然とそのあり方からなにも学んだ形跡がない、ということでした。

◆◆◆

それならば、わたしたちにとっての良い創作物とは何なのか、ということも明らかですね。

そういう問題意識を持ったうえで、動物の骨格の図鑑や筋肉の流れといったものとにらめっこして、生き物の身体のありかたを大掴みにつかまえられるようになると(これはひとつの技です)、モチーフそのものにはあまりこだわらなくても良くなっていったのです。

これが、前回のさいごで、「尻尾というモチーフは相対的に重要性が薄くなっていった」と述べていたところのことです。

そういうわけで、わたしたちが今回つくったものは、こんなかたちになったのです。

G2Rデッサン
◆◆◆

あえていくつかの薄い線を残してあるので、自分でデザインに取り組んだ人はちょっと面白くみてもらえるのではないかなと思います。

ここで使われている線と、その接点の選び方の説明に入る前に、今回のデザインにたどり着いた過程をおさらいしておきましょう。


最終的に、フロントバッグとリアバッグの関係は、小鳥(子鳥)と親鳥のような関係になりました。
そしてまた、それらが自転車を含んだ全体として、ひとつのまとまりを持っているように作ったことも、おいおい見てゆくことにします。

◆◆◆

さて、では今回のリアバッグのフェイス部分には、どういった線が隠されているのでしょうか。

中央のコンチョをはさむ両サイドのベルト部には、ベルト留めがあります。

ここにはたくさんの円が含まれていますが、円の中心はひとつしかないことに注意してください。(×で示したところ)
見た目にはたくさんの線が描かれている場合にでも、それらがひとつの原則や原理を守って描かれていると、意外と複雑にはならないのです。


同じように、コンチョの少し上には隠された中心があり、そこからいくつかの円が広がっていることがわかってもらえると思います。

×で示した点は、フロントバッグのコンチョと同じ高さに設定してあります。
この点は、バッグを作ってしまえば直接は目で見ることはできなくなりますが、それらをとりまく円周をたどってゆくことができれば、観念的に浮かび上がらせることができます。

フロントバッグが太陽だとすれば、太陽の光を受けた月が、このリアバッグということになります。

そのような隠された中央をもつ円は、フェイス部下の切欠きに描かれており、フロントバッグの一点から延びてきた線が、自転車を貫いて後部のリアバッグまで延びたうえで、ここにおいて円環となり、再びまたフロントバッグの一点へと収束してゆくかたちになっています。


ベルトの切り方も、やはり円ですね。
その曲線によって、コンチョの下部がゆるやかに囲まれることによって、動物でいう腹部のように見えることを狙っています。


この3つを、全部足すとこんなふう。

一見すると複雑に見えるデザインでも、実のところそれを構成しているのは単純な円と直線である、ということがわかります。
そうすると、それらの交点のうち、どの点を選び、そのことによって全体の調和をどうやって整えてゆくか、というところがデザインする側の問題になってくるのです。


ただ交点を選んだだけだと、直線と直線がいきなりぶつかって唐突な印象を与えるときには、そこから傾きを求めて、線どうしをなめらかに結ぶこともあります。

動物を見ていても、やはり「毛並み」というものがありますからね。


では次は、いよいよ実際に作ったものを見ながら批判を乞うことにしましょう。


(4につづく)

2012/05/01

デザインの世界観をいかに継承するか:G2R "BLACK KIWI" (2)

昨日の記事では、


ハニカム(蜂の巣型の六角形)をたくさんつかったフェイスデザインを検討しました。

試作001(前回掲載したものと同じ)
三角形や四角形、今回使った六角形などといった図形は、人類が自然のなかで見つけた多様な形象を、「かたち」像として抽象化したうえで、数字と関連付けることでより明確に持つようになった概念です。

そのどれもがまっすぐの線だけから構成されているので、純粋なものと見られがちであり、そのことを受けて、n角形で構成されたデザインを多用することによって純粋性を保とうとする作家もいます。

こうした観念論的な考え方では、眼の前に見える具体的な個別よりも先に、一般的な類型の存在を認めるのですから、「お隣のポチ」の前に「犬」のイデアがあり、それをもとにしてポチやハチ公が生成されているのだと説明します。

しかし唯物論、科学的な世界観では、そうは考えません。
あくまでもわたしたちがおぎゃあと生まれてものごとを見たり感じたりするという経験のなかで、お隣のポチや図鑑のコリー、映画の中のハチ公といった個々別々の個体をとりあえずは捉えた上で、それらを抽象化することによって「犬」という概念を生成させてゆくのです。

それらの概念は、物心付く前からわたしたちの脳裏に宿っているために、あたかも生まれる前や前世の記憶として、個を超えた人類全体が普遍的に持っているかのような錯覚を覚えたとしても、いちおうは無理のないことかもしれません。

しかし事実としては、意識しようとするまいと、犬という概念も、n角形というそれよりも比較的に抽象化の進んだ概念にしても、わたしたちの生活経験から抽象されてきたものです。

そういう向きでよくよく考えてみると、自然界には純粋な直線というものはほとんどありませんから、たとえばn角形に備わっているように見える純粋さは、自然の中にある素朴さではなくて、あくまでも「人間が観念的に抽象化したこと」に由来する純粋さであることを忘れてはいけません。

何が言いたいかというと、直線や円といった、抽象化された図形をいくらたくさん使っただけでは、シンプルで優れたデザインにはならないのだ、ということです。

◆◆◆

それではほんとうの意味で自然に学んで、そこから良いデザインを創りだそうとすれば、どのような過程を踏むのが正しいのでしょうか。

わたしたち人類が、その総体として歩んできた歴史のなかで、n角形や円といった図形が獲得されてきたことは先程お話しましたね。

しかしあの図形は、わたしたち個人個人が、自らの手で獲得したものではありません。
ここに、大きな問題があるのです。

ある意味では、ここまで抽象化が進んだからこそあれらの図形を小学生の間にしっかりと身につけることができ、さらにそれを公式的に使うことができるという利点を持っているのですが、その反面、それらがどのような個別を抽象化して獲得してこられたものなのか、という過程については、わたしたち一人ひとりのアタマの中にはぽっかりと抜け落ちてしまっているからです。

たとえばわたしたちが概念として持っている「三角形」という概念について考えてみてください。
わたしたちは、犬の耳やヒトデの足、角張った石ころの一つの面から、それを導き出しましたか?
そうではないでしょう。
それとは逆で、小学校のあいだに「三角形」という図形を習ったから、あらゆる個別の実体からその図形に似た形を引き出してくるだけの力が養われた、というほうが正確なはずです。

しかし実のところ、こういった学習の仕方は本質的な進歩から見れば、むしろひとつの後退を意味しているのであって、それがどれだけ高度なものであろうとも、誰かが発見した図形や公式を、いくら現実の中に見いだしたとしても、それは単なる追試にしかすぎないのです。

本当の進歩というのは、古代のギリシャ人が自然のなかの美しさから、黄金比なるものを引き出してきたのと同じことを、現代的な視点で新たに行える実力を養うことにあるのですから。

◆◆◆

ではどうすれば良いのか?

どうすれば、本質的な進歩として、普遍的でかつ新しいデザインを考えてゆけるのか、を結論から言えば、まずはわたしたちがすでに習得してしまった「抽象」像を念頭に置きながら、それを「具体」的な個別の中に見つけ続ける、ということにあります。

わたしたちが義務教育を始めとした学校教育で学んできたことは、当然ながらそれはそれで人類の進歩に従っての内実を含んでいるのですから、その意味では現代に相応しいだけの相当に尊く意味のあることなのですが、そこから自らの足で本質的な前進を遂げるためには、この「おりる」という過程がどうしても必要なのです。

すでに人類が抽象してきた概念を念頭に置いて、それらが具体的な個別のどこにあるのかと探しまわって、つまり幾度となく「おりる」という過程を繰り返すということは、結局のところ、人類がどのようにして個別から概念を抽象してきたのか、という「のぼり」の過程を逆向きに辿りなおすことでもあるのです。

この、個人としての「おりる」ことと人類としての「のぼる」の統一、つまり「のぼりおり」の中で、n角形とかその公式とか、そういった結論だけではなく、それらがどのようにして発見されてきて、どのようにして抽象化されて図形や公式といった概念となってきたのか、という過程、さらには過程的な構造をこそ、わたしたちは必死に習得しなければならないのです。

幼少の頃に、歩道橋の上から車のナンバープレートを見て、棒線でつながれている左右の数字を足したり割ったりする子どもや、習ったばかりの割り算でクラスを半分に分けようとしたら、最後の一人を真っ二つにしなければならないような気がして怖い思いをしたりする子供たちがいます。

彼女や彼らは一般的な観点から言えば学習が遅いので、周りからは取り残されたり変わり者扱いされることもありますが、最終的に飛躍的に伸びる可能性を持っています。
これは上で述べたような「のぼりおり」を独学でこなしていることによって、それなりの必然性を持つことになっているのです。

(このことは、庄司和晃が三段階連関理論で、また三浦つとむが『1たす1は2にならない』でヒントを述べていましたが、彼らの示唆に従って教育論に認識論を取り入れている人はあまりにも少ないようです。上のような問題を、訓練の数や感受性の問題だけとして捉えるのは誤りのもとです。教育や指導には、人間が持っている認識の立体構造の把握が必要です。)

◆◆◆

ここで述べた「のぼりおり」の必要性は、人類が個別から抽象して「のぼった」ことを逆向きに「おりてみる」という、とても大きな観点からの本質的な歩み方ですが、それを小さな問題として扱ったところに、前回のこの発言がありました。


「具体的なものをいったん抽象化したのちに、別の要素を加味しながら具体化しなおす」


今回の場合で言えば、わたしたちがフロントバッグの時に作った鳥の顔のモチーフを、単純な直線として抽象したあと、再び別のモチーフとして描き直す、ということです。

これが、今回問題にしている、世界観の継承のためのやりかたでした。

こののぼりおりの過程は、眼に見えない形ではあっても客観的な関係として結ばれることになりますから、たとえば自然界にはあり得ないようなドラゴンやキメラ、ユニコーンなどといった想像上の生き物を創作するときにも、抽象化と具体化がうまく組み合わさった時にはじめて、「ああ、なんだか本物みたいだな。本当にいそうだな」という感触を生むことになるわけです。

いくら独創的な創作物ではあっても自然のあり方から学ばないものは、成立の根拠を持ちえないというわけです。

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わたしは今回、先程も挙げた「試作001」が、角張っていて面白みのないデザインであることを確認した上で、さらに具体化を進めることにしました。

そのときに使ったのが、前回表にまとめておいた「鳥の尻尾」というモチーフです。

試作001+鳥の尻尾、はこんなふうになりました。

試作002


中央のコンチョの下の切り欠きが、ハニカムを少しずつ崩したような、鳥の尻尾のようなかたちになっていますね。
ほかにも、ベルト留めを2枚の革を用いて交差させられることが技術的にはっきりしたので、立体感を持たせる工夫を盛り込みました。

ところが、それと同時に、尾のようにつくった口の部分は歯車のようでもあり、ベルト留めも角張っていることから、フロントバッグの生物的な雰囲気に反して、機械的な印象を持つようになって来てしまいました。

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そのことを反省する方向で、さらに丸みを帯びるようにしたものが、試作003という形をとることになりました。

試作003
このときに、中央に位置するコンチョと、その両側のベルト留めのほかにも、あらゆるところに「円」が用いられ始めているのがわかってもらえると思います。

ベルトの先端も円ですし、ベルト留めの下の切欠きの曲線も円ですし、2つのベルトの先端の曲線も、それを大きく延長した時には鞄の腹部を抱え込むような大きな円を持っていますし、また顔となっている尾部も大きく見たときには円が隠されています。

このときに出てきた「円」というモチーフを念頭に置いて、オーナーと見つけてきた素材を検討しながら、次のようなイメージをふくらませてゆきました。
・自然というものが、雑多な様相を見せながらもなお一定のかたちで調和がとれているということ
・円があるからには、その中央は一点に集約されること
・フロントバッグの一点で始められた曲線は、リアバッグで円環を迎えて始点に戻ること

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完成を迎えた現在から言えば、このときに「円」というモチーフがとても深い意味を持ち始めたことから、もともとあった「尻尾」というモチーフは、次第に不要のものとなってゆくことになったのです。

ここでは紙面の都合上、3つの試作を掲載しましたが、実のところ、この他にも10案以上は実際に上記のようなデザイン案を作ってみては壊し、のくり返しが行われています。

ただひとつ言えるのは、そのデザインの過程というのは、大きく見れば一定の方向に進んでいるということであり、ほとんど逆向きには進まなかった、ということでした。
このことは、わたしたちの今回の進み方が、抽象から個別へ、という大きな流れの中にあるということであり、砕けた言い方をすれば、抽象的な概念的な図形から、実際に四肢を持って生きている生物のあり方へ、という方向性であったということです。

ひとつの生物の身体つきをみると、そこにはあらゆる形が見え隠れしており、抽象化しようとすればあらゆる図形が出てきますが、それでも、全体としてはひとつとして無駄のないかたちをとっているものです。

わたしたちはそういった、骨格や筋肉とそれらの連関、運動の際の緊密な連携という、生物の身体の仕組みから学んで、フロントバッグ、リアバッグはそれぞれとして個性を持ちながらもなお、自転車全体の一部として大きな繋がりを持っているというかたちに仕上げようとしたのです。


(3につづく)