2011/02/03

文学考察: あばばばばー芥川龍之介

文学考察: あばばばばー芥川龍之介


今日の評論について、はじめにレポートを受け取ったときに、こういう感想を持ちました。
「これでは義務教育の作文レベルですらない…いったいどうしたのか」。

なぜかといえば、自分の出した問いかけに、正しい形で答えられていないからです。
小学校の国語で何回も教えられたように、
ある設問に「~とはなぜか」とあれば、「~だから」と答えるのが自然というものでしょう。
これは、理由を聞かれているので、その理由を答えねばならない、という、形式上の決まりごとだからです。

これが満たされていなければ、満足にコミュニケーションすらとれていないという大問題なのですが、
論者の場合にも、同等の誤りをおかしています。

どういう評論を書いていたか、見ておきましょう。


◆ノブくんの評論(1回目)
 安吉はある時、行きつけのお店に煙草を買いに行ったところ、いつも見慣れている眇の主人の代わりに西洋髪に結った若い女の姿を見ました。彼女は安吉が「朝日を二つくれ給へ。」というと、恥ずかしそうに接客をします。ですが、彼女は朝日を彼の前に出さず、違う商品を渡してしまうのです。そしてそれに気がつくと、彼女は顔を真赤にして謝り、一生懸命朝日を探します。女はいつ来てもこのような調子で、顔を真赤にしながら失敗ばかりする始末。
ですが、その翌年の正月、女はそのお店から突然姿を消してしまいます。さて、彼女はどうなったのでしょうか。
この作品では、〈世界観とはどういうものか〉ということが描かれています。
まず、気になるのは女のその後ですが、安吉は二月の末に例の店の前で「あばばばばばば、ばあ!」と、再び赤子をあやしている彼女の姿を目撃します。そして、その時安吉は偶然彼女と目が合い、この瞬間、彼は彼女がいつものように顔を真赤にする様子を想像します。しかし、彼女の顔は一向に赤くならず、澄ましています。そして再び我が子をあやしはじめるのです。一体なぜ彼女は顔を赤らめなくなったのでしょうか。
その答えを紐解く最大のヒントは、安吉の心の声にあります。彼はこの時、「しかし娘じみた細君の代りに図々しい母を見出した」と、述べています。そう、彼はこの女が娘の立場から、母親の立場へと変わったことで、顔を赤らめなくなったと考えているようです。では、それは具体的にどういうものかを見ていきましょう。
例えば、ある人物が革職人の友人と共に街を歩いていたとします。そして、そこに並ぶあるお店のひとつの財布に彼は注目します。彼はよっぽどその財布が気に入り、「この財布、いいね。使い勝手が良さそうだ。」と友人に告げます。すると、友人もその財布が気に入っておりこう彼に返します。「うん、このボタンのつけ方は職人の業だね。」
さて、ここで注目すべきは、二人の会話の中身です。二人は同じ財布を褒めていますが、その褒めているベクトルというものは大きく異なっています。前者の台詞というのは、自分が使っている姿を想像して、その使いやすさを褒めています。一方の友人の台詞は、その職人
が創作活動をしているところを想像し、その技巧の高さを褒めているのです。このように、私たちの世界感とは、自分の今置かれている立場によって異なってくることが理解できます。
話を作品に戻すと、この女が恥ずかしがらなくなったことも、彼女が娘の立場から母親の立場になったことにより、その世界観もそれと同時に変わっていったことによりものです。


論者の言い方はこうです。

「世界観とはどういうものか」と問いかけたにもかかわらず、
当の世界観がどういうものであるかの説明を全くせずに、
「私たちの世界感とは、自分の今置かれている立場によって異なってくる」と、
結論をそっちのけで自分だけで満足して終わってしまっているからです。

わたしはそのことを指摘して、このようにコメントをしておきました。


◆1回目に対してのわたしのコメント
 残念ながら、あまり意味のある文章が書けていないようです。

 まず最大の誤りについて指摘しておきます。論者は一般性を〈世界観とはどういうものか〉としています。論者の主張を汲めば、人類一般の持つ森羅万象の見方を指す「世界観」という言葉よりも、個人の持つ「価値観」、とでも言うべきでしょう。しかし、ここでの最大の誤りというのは、そんな概念規定のことではなく、自らが引き出してきた一般性に、明確な答えを与えられているかどうか、ということです。
 では、どんなふうに答えてゆけば良いのかを簡単に述べておきます。論者は、「価値観とはどういうものか」と問いかけているのですから、その問いに答えようとすれば、その解答は当然に、「価値観」という概念に、一定の定義を与えるものになります。そうすると答えの形は、「価値観というものは、この作品ではこういうものだと語られている」となるのが当然です。
 ところが論者が述べているのは、いわば「価値観の変遷は、個人の行動をどう変えるか」といったものなのですから、この答えにたどり着いたときに、一般性の表現についても、変更をしておかねばなりません。(念のため言いますが、上で挙げたものが正しい一般性である、と言っているのではありません。問いと答えの形式の「整合性」ということについて注意をしています。)

 さらにいえば、論者の挙げている例えも、適切とは言えません。この作品では、「ある人物が『娘じみた細君』から『図々しい母』になった」という物質的な状態が変わったことに伴い、個人における価値観が移り変わったことをテーマにしているのですから、「異なる人物が違った価値観を持っている」ことを取り上げても、的を射た例示にはならないからです。
 そもそも例示というのは、自分があることを説明するときに、それを話す相手の立場に立って、彼や彼女にとって身近な例を引きながら、あることをイメージしやすくし、その理解の手助けをするものです(具体段階から表象段階へのぼり、同等の表象を持つ具体へと降りる)。論者のように、一般性の抜き出し方も適切でなく、さらに適切でない一般性をそれにそぐわない例示で説明しようとしてしまえば、読者を混乱させるだけです。語っていることの内容について議論をする以前に、答え方が間違っているのですから、文字通り論外、というべきです。

 自分の言葉に責任を持ちたいのであれば、自分が意味のある文章をどうしても書けないという場合には、それが明らかになるまで「黙して語らず」という姿勢をとることも必要です。いまだ義務教育の作文レベルの注意をされることは、読者にとっても、コメント者にとっても、論者にとっても、何らの益をもたらしません。


これを発表するというのは、あまりに、と思いましたので、直接連絡をしたのですが、
わたしのアドバイスというものは、まるで聞き届けられなかったようです。
そのことは、返ってきた2回目の評論を見ればわかるとおりです。


◆ノブくんの評論(2回目)
 安吉はある時、行きつけのお店に煙草を買いに行ったところ、いつも見慣れている眇の主人の代わりに西洋髪に結った若い女の姿を見ました。彼女は安吉が「朝日を二つくれ給へ。」というと、恥ずかしそうに接客をします。ですが、彼女は朝日を彼の前に出さず、違う商品を渡してしまうのです。そしてそれに気がつくと、彼女は顔を真赤にして謝り、一生懸命朝日を探します。女はいつ来てもこのような調子で、顔を真赤にしながら失敗ばかりする始末。
ですが、その翌年の正月、女はそのお店から突然姿を消してしまいます。さて、彼女はどうなったのでしょうか。
この作品では、〈必然とはどういうことか〉ということが描かれています。
まず、気になるのは女のその後ですが、安吉は二月の末に例の店の前で「あばばばばばば、ばあ!」と、再び赤子をあやしている彼女の姿を目撃します。そして、その時安吉は偶然彼女と目が合い、この瞬間、彼は彼女がいつものように顔を真赤にする様子を想像します。しかし、彼女の顔は一向に赤くならず、澄ましています。そして再び我が子をあやしはじめるのです。一体なぜ彼女は顔を赤らめなくなったのでしょうか。
その答えを紐解く最大のヒントは、安吉の心の声にあります。彼はこの時、「女はもう「あの女」ではない。度胸の好い母の一人である。一たび子の為になつたが最後、古来如何なる悪事をも犯した、恐ろしい「母」の一人である。」と赤ん坊の存在が彼女を変えたのだと指摘しています。では、赤ん坊は具体的にどのようにして女に影響を与えて行ったのでしょうか。
例えば、ある人物は大家族の一人で、他の兄弟達は大食いで、食事の際は彼らの好きなものから順番になくなっていきます。するとその人はこの大家族の中で、食事に関して得をしたいと思うならば、必然的に図々しく他の兄弟達よりも先に好きなものに手をつけなければならないということになります。そうして彼が図々しくなっていったとするのであれば、それは紛れもなくその兄弟達との関係性にあると言えます。
話をもとに戻すと、女の気質がかわったことも、まさに赤ん坊との関係性にあると言えます。女が以前のように、他人と話すときにいちいち顔を赤らめていたら、果たしてこの赤ん坊をまっとうに育てていけるのでしょうか。女は赤ん坊の存在を考えれば、どのような状況であれ、その子の前に立って引っ張っていかなければいけません。いちいち顔を赤らめている余裕すらないのです。
また、このように私たちは変えることの出来ない環境の中で、自身の性格が変わっていくことを〈必然〉と呼びます。まさに女の気質が変わったことはこの〈必然〉によるものなのです。

わたしは1回目のコメントで、こう書いておきました。
「語っていることの内容について議論をする以前に、答え方が間違っているのですから、文字通り論外、というべきです。」
(以前のエントリーでご説明したように、「論外」というのは、なにも啖呵を切っているわけではなく、
議論する以前の問題だから、「論外」というのです。バイアスをかけずに受け止めてください。)

これは表現を変えながら、
内容ではなくて、形式(答え方)がまず間違っているのだ、
と指摘したものですが、はたしてまるで伝わらなかったのでしょうか。

大きな問題というのは、
「世界観」とか「価値観」とか「必然」とか、
作品をどう見たか、という<言葉>の問題ではなくて、
まず<形式>の問題なのだ、ということをお伝えしているのです。

こうはいっても、通常の場合は言葉の良し悪しで議論の正しさを測るのですから、
それが重要であることにいささかのかわりもないのですが、
言葉の問題が問題として浮かび上がってくるのは、
まずもって形式を整えてから、ということがなぜわからないのでしょうか。

形式を守らないということは、極端にいえば、
「今何時?」と聞かれたのに、「ここは日本です」と答えているような馬鹿馬鹿しさなのです。

◆◆◆

これは、常日頃、自らが説明したことが、相手にしっかりと伝わっているかどうか、
という反省をしていないからです。
個人の生育史に照らしてみれば、自発的に身の周りの物事をまともに整理したことがない、
ということに問題があります。

「酷い決め付けをするな」とおっしゃる方もおられるかもしれませんが、
専門家というのは、一般の人たちが見えないものが見えて当然なのですから、
ここだけを読んで御理解いただけなくても残念ながらやむを得ません。

ただ当人には、持ち物をよく失くしたり、どこにしまったかわからなくなった経験が多いはずですから、
わたしの指摘も理解できるはずです。


「物ごとのつながり方を知るときには、まずその素材が整理されていなければならない」、というのは、
「論理能力を発揮するときにも、明確な概念規定が必要であること」と論理的に同一です。

より生育史を遡れば、「整理能力」は、幼少の頃の「自発性」に由来しています。
海保静子『育児の認識学』が望ましいですが、現時点では難しすぎてまるで読めないはずですから、
平井信義『意欲と思いやりを育てる』くらいは、自分の生育過程を振り返るようにして読んで欲しいものです。

そこから、ではこれからの生き方をどう努力して変えていけば、まともな大人というものになることができ、
そしてまた、まともな人間を育ててゆけるのか、と自ら問いかけてください。
仮にも次代に責任を負う自覚があるのであれば、
「人と関わる」、「人に教える」ということについての探求は、
自らの責任と覚悟でもって、人間として果たさねばならない使命です。

寿命が来るまで生きてさえいればよい、というのであれば、これ以上何も言えないものですが…

◆◆◆

評論に話を戻せば、
〈世界観とはどういうものか〉も、
〈必然とはどういうことか〉も、
そこにどういう言葉が入っているかにかかわらず、
その<形式>を一見しただけで、これはおそらく誤りだろうな、と判断がついてしまいます。

なぜならそれは、何回も言いますが、内容ではなくて、形式が間違っているからです。
「世界観」という非常に一般的な概念について、明確な答えを持ち合わせている文学作品が、文学史上あったでしょうか?
これがありえないのは、なにも文学作品の力が劣っているからではなくて、
文学作品というのは、おもにある人間の間のドラマを描いているものであるから、
このような一般的な概念で括るのは、あまりに一般的すぎるから、というのがその理由です。

ではどういう一般性を導きだしてくればよいかというと、
わたしが、1回目のコメントで、「これを答えにしては困りますが」とことわったうえで答えておいた解答例を見てください。
「価値観の変遷は、個人の行動をどう変えるか」。

一般的すぎる一般性から、より作品に即したものへと降りてきているのがわかってもらえるでしょうか。
1回目の評論に、このくらいの一般性がついていれば、まずは合格点をあげられる、ということです。
(2回目の評論は、コメントの曲解に引きずられているので、参考にしないでください。)

このレベルにまで高まっていなければ、通常の場合であれば、コメントをしようもない、
という事実にまず気づいてください。
見せる相手がよほどの暇人かお人好しでなければ、門前払いを食らい、二度と期待すらしてもらえないはずです。
だから、「(誰にとっても)何らの益をもたらしません」と述べておいたのです。

そして、仮にも「議論」というものをしたければ、まずは「形式」を守ってください。
問いかけにたいして、まったくベクトルの違った答え方をしているというのは、
議論の輪に加われてすらいない、ということです。

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