2012/06/27

記事への質問への答え (1):真理は一定の範囲内において成り立つ

やっとこちらにも顔を見せることができました。


書いた記事についての質問に答えまくっていたら、1週間も経ってしまいました。
Blogだけをお読みになっている読者のみなさんにはやきもきさせてしまってすみません。

やる気のある学生さんたちとの出会いは願ってもないことなのですが、勢い余ってありったけの質問をわたしにぶつける前に、三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』は、必ず読んでから来るようにしましょう。
今回の質問については、読了前ですがその問いかけの意図を汲んで、みなさんにもお伝えしておこうと考えたものです。

あの本については、しっかり読んだつもりでも読み切れていない、ならまだしも、文中ですでに根本的な批判が与えられている話題を蒸し返すような質問がありますので…。
ちなみに念押ししておきますと、他の弁証法と名のつく本をいくら探してみても、弁証法についての理解をあれほどまとめて習得できる本はありません。

弁証法が身についたときには、こう断言する理由がよくわかりますが、それほどまでに他の書籍とは扱っている内実の深さが違います。
それでも他の本が良いのでは、と思われる方は、わたしのところに持ってきてください。
どこがどういけないのか、根本的に不足しているのかを納得させてあげますから。

まずは安心して、背筋をまっすぐに伸ばして真剣に学びましょう。

◆◆◆

話のついでに、ままよと苦言らしきものをおとな気なく述べてしまいますが、学生さんだけでなく、研究者にたいしても言えることに、堂々巡りになる問題を作った挙句、アポリアだのなんだのと名前をつけて弄ぶような向きがありますが、率直に言って、解けない問題があり得るのは、問題のなかに考えるべき原則の範囲を設定していない場合か、当人の論理力が問題に手も足も出ないレベルで不足している場合がほとんどです。(前者については今回の記事でも述べます)

ブレインストーミングの段階なら堂々巡りの問題について議論してみてもかまわないのですが、たとえば予算を決めないままどんな駐輪場を作るか?と議論したところで、答えなど出ないに決まっているではありませんか。

わたしは三浦つとむの仕事をダシにして、注釈や解説でご飯を食べてゆこうというような類の人間ではありませんし、みなさんにもそうなってほしくない、尊敬するなら当人よりも先を目指してほしいと思うので、ぜひとも、先人からしっかりと学ぶという姿勢だけは忘れないでいましょう。

何度も言いますが、ここの記事は、『弁証法はどういう科学か』を読み終えたことを前提として書かれていますからね。

弁証法を軽視しては、罰なくしてすまされぬ。(エンゲルス)

よろしく、ご了承のほど。

◆お手紙◆
昨日はありがとうございます 
今、ブログを読んで考えてみた事なのですが、「原則という土台の上に真理が成り立つ。したがって、土台となる原則が異なる為に真理は相対的である」と自分は解釈しました。 
そこで人が別の個人を理解するためには「人の表層化している人格(真理)のみならず、その下にある過去の人格、身体の形成の背景(原則)を認識する努力が必要となる。しかし、自分は自身の原則があり、それを他者のそれと完全に同一化することは出来ない。したがって,完全に他者の理解は不可能である。しかし自身の原則から他者の真理を通じ、相手の原則を視ようとする意識と能力を養ってやる」事が必要だと感じました。 
これをあなたはどう思われますか?
◆わたしのお返事◆

真理、原則といった概念の用法が混乱しているために整理は必要だけれども、問いたい事柄が本質的な問題意識から出ていることは受け止めた。

あなたの場合は、勉強は嫌いなわりにアタマの回転が早い(というかこれはある意味で必然なのであるが)ので、踏むべき階段を飛び越えてしまうことがこの先にも必ず出てくると思う。
それを避けるために、とにかく段階をひとつずつ踏みながら考えてゆくことを心がけよう。

あなたのいちばん優れた資質というのは、実際の問題をもっとも高いレベルで解決しよう、という意欲があるということだ。その意欲と姿勢を棄てなければ、必ず弁証法は身につくのでぜひとも正しく努力をしてほしい。

この問いかけが扱っている問題は、いろいろな事柄をいっしょくたに扱っているので、いくつかの回に分けて検討する必要があるけれども、こんなところでは基礎的な事柄に触れられないので、まずは『弁証法はどういう科学か』をひと通り読みこなしておいてほしい。

文面を敷衍すると、一番知りたいことは、「他者の内面をいかに知ればよいか?」という認識論の問題だと思う。
(弁証法的唯物論では<観念的二重化>と呼ぶので、Blogでそのことばが出てきたときには見ておいてほしい)
そしてこれはおそらく、自身の目指しているものと指導の実践から出てきた問題意識だね。

前回も言っておいたとおり、本質的な問いかけにはその基礎的な事柄から順を追って理解してゆかねばならないので、「急がば回れ」をすることにして、第一に、わたしたちが身の回りの対象をいかに認識しているのか、ということについて押さえておくことにしよう。

キーワード:
一定の範囲内での真理(=相対的真理)、現象と本質

◆◆◆

まず一般的に、世界は時間的にも空間的にも無限の広がりをもっているけれども、わたしたち人間は、それを有限にしか認識しえない、ということを押さえておいてほしい。

この矛盾があるからこそ、わたしたち人間のあいだで議論が成り立つのであり、またそのなかで認識が発展してゆくことになるのである。

たとえば身近な例を引いて、「朝は四本足、昼は二本足、夕は三本足。この生き物ってなんだ?」というなぞなぞについて考えてみよう。

なんでそんな子供っぽいものを?と、馬鹿にする気持ちがあるとしたら、それは棚上げしておいてほしい。
ここで注意してほしいのは、このなぞなぞを知識的に解くということよりも、「「このなぞなぞを解く」ということそのものの中に、どのような構造が含まれているのか?」と考えることがよりいっそう大事なのだ、ということである。

対象がどのようなものであったとしても、それを好き嫌いで判断したり軽視せず真正面に据えて、あくまでも眼の前の事実から考え始める、というのが科学的な姿勢であった。まずは、ここでもその姿勢をしっかり持ってほしい。
というのも、まともに学ぶ姿勢さえあって、正面に据えて調べてみることができるのなら、単なるなぞなぞであっても、そこから弁証法の理解を深めてゆくことができるからである。
(※「眼の前の事実」などというものは人によって違うのでは、と哲学的に探求したい向きもあるであろうが、そのような存在論的な規定は、歴史的な観点、とくに歴史的な論理性を抜きにしては答えの出ない、というか堂々巡りになる必然性を持った性質のものであるので、後日の記事を待ってほしい。以下の展開は、そのような哲学的・禅的問答に深入りしない、ごく一般的なことばのレベルで考えてみるだけでも十分に考えてゆけるものである)
さて、このなぞなぞの問題を実際に考えてみて、「みなさんわかりましたか。このなぞなぞの答えは『人間』なのです。なぜなら…」という説明を聞いた時に、わたしたちがなるほど、と納得したとしよう。

わたしたちがここをどのように納得したのか、と考えてみると、「なるほど、問題にあった3つの事柄はそれぞれ、四つん這いでハイハイしている赤ん坊、成長して2本の足だけで歩くようになり、さらに成長を重ねて老いたときには杖を使って歩くようになるということか」というものであることがわかる。

この理解の流れというのは、表面的に(=現象の面から)言えば、「一見したときにはそれぞれのあり方は違っていても、そのあり方をその人の一生を通してみた時には、ひとつの存在のあり方として明確になってゆくのだな」というわかり方である。

◆◆◆

これは論理の面から言えば、さまざまな現象は、それぞれその時々で違った側面を見せてはいるけれども、より突っ込んで調べてみて、それらを貫く性質を探すことが出来たときには、ひとつの答えらしいものにたどり着くことができるのだ、ということである。

ここで、「より突っ込んで調べてみる」ための学問的な方法が、弁証法という技なのである。

「現実は、現象としては様々な面を持っている。」

この一事にどう向き合うかということが、学問の道を歩めるか否かの大きな分かれ道になっているのだが、自らが転がり落ちてしまったことにどうしても気付けない人間が多いことは悲しいことである。

子供が楽しむなぞなぞでさえ、その構造を手繰り寄せて理解するときには、現実の持っている立体的な構造が明らかになるのだから、対象を受け取る側の姿勢が、学問にとってまずは何よりも重視されることがわかってもらえると思う。
これは当然に学問の問題を解くというときのみならず、現実の複雑な問題を解くときにも、そもそもの大前提として、絶対的に要請される姿勢であることをぜひともわかってほしい。

弁証法を習得できずに使えない、と、自らの姿勢の不味さを棚上げして弁証法を切って捨てる人間が陥っているのは、残念ながらこの落とし穴なのだ。

現実の世界でなぞなぞを馬鹿にしながら、自分自身は研究の世界では「唯一普遍の絶対的な真理はどこにあるか」と探しまわっているのだとしたら、当人の頭脳のレベルが実のところ、なぞなぞで楽しむ子供より下、ということを露呈しているわけである。

一人の人間ですら、その生涯を眺めてみたときには様々な有り様として現象しているときに、「そのどれが真理なのか?」と、犯人探しをするように、つまり固定化された実体を探しまわるように探求してしまっては、解ける問題も絶対に解けなくなってしまうのだから。

なぞなぞからもわかるとおり、3つの現象は、そのどれもが正しいのである。
それと同時にこれには、「ある年齢の範囲内では」、つまり「一定の範囲内では」という但し書きをつけなければならないわけである。

Blogのなかで「原則」と表現したのは、ここの、真理が真理でありうる範囲、のことを指していたことがわかってもらえるだろうか。

◆◆◆

ともかく、上で挙げたスフィンクスの問題のようななぞなぞから深く学んで、それらのなぞなぞが持っている、その構造から学ぶことにして、「真理というものは一定の範囲内でのみ通用するものである」、ということをまずは押さえておくことにしよう。

これは同時に、その真理というものが、どのような範囲では成り立つのか、をしっかり踏まえておかねばならないことも要請する。

そしてまた、スフィンクスのなぞなぞでは3つの現象を総合してひとつの答えを導き出してきたように、一定の範囲内において浮かび上がってきた現象を総合すると、いかなる本質が浮かび上がってくるのか、という考え方も大切なのだ、と押さえておこう。

ここで押さえた事柄をふまえ、またあなた流の「他者理解」という問題意識に照らしながら、冒頭の問題を言い換えることにすると、それは「様々に現象している相手の言動やふるまいから、如何にして当人の本質を理解すればよいか?」との問いである、ということになるであろう。

あなたの問いと、先ほどのなぞなぞの持っている構造は、おおまかには一致しているけれども、決定的に違っていることがある。
それは、人間が何本の足で歩くか、という現象は目に見えるけれども、わたしたち人間の持っている「認識」のあり方は、手に取ることもできなければ目で見ることもできない、ということなのである。

相手の認識がそのままに掴めないのなら、当人を本質的に理解することは不可能なのか、と思われるだろうが、安心してほしい。
相手の認識はたしかに、そのままのかたちとしては掴みとってみることはできないが、相手の行動やふるまいを媒介として、その依って立つ認識を捉え返してみることはできるからである。

こう言うと、上で批判的に見てきたような、科学信仰の行き過ぎで「絶対的な真理を探しまわる」類の人間はこう言うかもしれない。
「相手の認識を捉え返すといったところで、相手の人格をまったくそのままのかたちで理解することはできるはずがない、自分のことさえわからないのに…」と。

このような相対主義的な発想で、珠の傷をひとつでも見つけたら珠として認めない、一羽でも白がおればカラスは黒とはいえない、人はすべて違っているので正常などというものはない、などという発想で問題そのものを不可知に追い込んで切り捨てようとする前に、自らの姿勢と論理能力を、まずは問うてみるべきなのである。

相手の人格は、たしかにそのままそっくり自分のアタマのなかに写し取ることはできないけれども、一定の範囲内においては十分に可能なのであり、それを読み取る側の目的が定まっている場合には、なおのこと正確に読み取ることが可能なのである。
たとえば、一目惚れした相手に自分の思いを伝えたいのであれば、その友人にでも当人の人物像について少しばかり話を聞いてみることで、当人の人格について、一定の理解をすることができる。

これは認識論で言えば、おぼろげながら、当人の「像」を自分のアタマの中に持つ、ということなのであり、その像の深さが、ラブレターを書くほどの深さに達していれば、十分に目的を叶えることができるわけである。
意中の相手の出生や出身校、それまでの交際相手などすべてを知るのでなければ恋文など物せるものではない、などという人間がいるであろうか。

他にも自身が取り組む実践的な問題に照らして、指導する相手についての像や、組織の成員として仕事を任せるための像などがあるように、相手を理解するというときには、全人格すべてを理解することが、必ずしも必要であるわけではないことがわかる。
職人を雇って会社を運営するからといって、職人と同じだけの専門知識が当人に必要であるはずがないように、自分が達成したい目的意識に従って、その範囲内での像を持てていればよいわけである。

◆◆◆

以上のことで、真理は一定の範囲内において成り立つ、ということを押さえてもらえただろうか。

そしてまた、目に見えている様々な現象と、その奥に潜む本質、という関係性がおぼろげながらでも受け止めてもらえたであろうか。

これらを踏まえて、次では、ご本人の問い、<観念的二重化>について、その構造面についてすこし見てゆくことにしよう。

前もって断っておくと、具体例を挙げての例示をする余裕までは無いので、形式面についての言及にとどまると思う。

独学をしたい場合は、人間心理の構造を扱った文学記事「文学考察: 風ばかー豊島与志雄」などや、三浦つとむの認識論を看護の世界で発展・継承した薄井坦子『科学的看護論』が図入りで看護師と患者の認識を扱っている箇所などに当たってほしい。

指導者の指導力が根本的に足りないのは、認識論を持たないから、という一点にほとんどの本質的な問題があるので、問題意識さえあれば十分に独学はしてもらえるはずである。


(2につづく)

1 件のコメント:

  1. 昨日に書こうと想いつつ…今日になってしまいました。
    「タイガー」って、目が怖いですね…でも、その目がとても好きです。

    待ちに待った更新をありがとうございます。
    >あなたの場合は、~<、以下に書かれている事が、
    昨日は一瞬~自分のことのように思えてしまいました.
    ありがとうございます~このような学びの場を~

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