2012/06/10

技としての弁証法は何を導くか (2)

(1のつづき)


前回の記事では、「亀は甲羅でその身を守っている、と言われるのはなぜでしょうか。」という質問を出しておき、論理性を異にする答えを4つ挙げておきました。

前回までに触れた2つの答えのうち、ひとつめは姿勢の時点で躓いており、ふたつめの答えは古代ギリシャの哲学者が各々の議論の形式を高めよう、論証の確からしさを高めよう、ともがいていたころの論理性を使ってのものでしかないのでした。

歴史を知識的にでなく、その流れを追ってみたことのある人には自明の理なのですが、論理性というものも、長い目で見れば明確に歴史的な発展を遂げているのです。

「いつの時代も人は変わらない」などという言葉を「まるっきりそのまま」真に受けてしまう、つまりその言葉がどのような論理のレベルの意味内容であるかがわからない場合には、古代ギリシャも中世もドイツ哲学の完成期にも、人類はまったくおなじ物事の考え方をしていたのだ、という短絡をしてしまいがちです。

しかしこの考え方というのは、生き物の進化というものを、サルからいきなりヒトが出現し、そこからいきなり人類がポンと出てきた、と説明するのと論理的には同一の誤りに陥っているのです。

もしあなたが人類の出現について、「地球の歴史上のある一時点において、妊娠したサルのメスから、いきなりおぎゃあと人間の赤ん坊が生まれたのだ」、という説明はいくらなんでもおかしい、と考えられるのならば、サルは永遠の過去からサルのままであり、ヒトは永遠の過去からヒトであったのだ、とも思わないはずですね。

であれば、わたしたち人間の持っている論理性というものも、永遠の過去から同じものであったなどという考え方も、おかしいのだ、と自得することができねばならないのです。

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宗教的な強制があって進化論を認められない場合はさておき、現代における生きるわたしたちは、どうしてもそんなところに留まっているわけにはゆかないことから、学問的にものごとを考えてみるときには、「過程における構造」が何よりも大事なのだ、という姿勢が必要不可欠になってくるわけです。
(余談ですが、わたしは日本のカトリック系の教会で宗教史の講義をさせてもらったことがありますが、現在ではどの教会もよっぽどに原理主義的なところでないかぎり進化論を認める方向ですので、進化という概念は問題にはなりませんでした。キリスト教では世界の創造が数日にして成ったと教えるために、つまりサルも人間もはじめからそのものとしてポンと出来上がったのだと教えるために、進化という考え方と矛盾が起きてしまうのです。アメリカでは、まだ根強い反対論があります)

過程における構造に着目してものごとをみるときには、眼の前にある対象がいかなるものであっても、それがどのような環境との相互浸透的な量質転化、量質転化的な相互浸透のなかで生成されてきたのか、そしてまたそれがどのように発展して現時点までの段階にまで完成されてきたのか、と追ってみなければならないのです。

そうであればこそ、人間の精神の生成を知るには人間の社会を知らねばならないのであり、社会の生成を知るには自然を知らねばならないのであり、自然のうちサルの生成を知るには哺乳類を、それを知るには両生類、魚類、クラゲ…というふうに、最終的には地球の自然を知るために、宇宙のことを知らねばならないのだ、というわけです。

ここもまたまた、知識的なお勉強に染まりきっている人は、「そんなものをすべて知り尽くせるはずがなかろう、バカを言うのもほどほどにしろ」と言ってしまうのですが、だからこそ、論理というものがあるのですよ。

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さていちいち長くなってしまいますが、ここでの記事は、読者のみなさんの要望に後押しされて、どうやら世間の常識とはずいぶんかけ離れたところまで来てしまっているようですから、前からの読者のみなさんも呆れずにもうちょっとお付き合いください。

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では3つめの答え、「亀の甲羅の強度は計測可能であるから問題にすらならない」はどうなのか、と言えば、これは問題をもう一度よく読んでください、というのが答えになってしまいます。
しかし答えた人の気持ちだけは汲むことにして、それと関わりのある考え方についても少しお話しておきましょう。

実験器具や数式を使って数値化すれば真理がわかる、という姿勢は、真理というものを、永遠普遍に揺るがしがたいなにか固定化された実体である、と思い込んでいる人のものでしょう。

しかしいつも述べているように、ひとつの真理を導き出すときには必ず、それを照らしだすための原理や原則、というものがあるのです。
たとえば一人の女性は、その母から見れば一人の子であり、彼女の子から見れば一人の母であり、夫から見れば一人の妻なのであり、さらには人類総体から見ればひとつの個体なのであって、そのどれかでなければいけない、というものではないのです。

「扱う対象が社会性を含んだものだから複雑になっているのでは…」とまだ言いたい人は、その対象を実験で扱う対象に入れ替えて考えて見れば、その指摘が誤りであることに気づけるはずです。

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同じような考え方で、科学というのを絶対不変の一般法則、一般概念を導き出す考え方であると信じきっている場合には、その考え方を突き詰めてみれば、自分自身で自分自身の考え方と敵対的な矛盾(背理)が導けることが明らかになります。

たとえば、「実験室で肉眼で観察できる対象だけからしか科学が生まれないのだ」という考え方を単純に延長させると、「論理的な推論で導かれた結論など、追試も反証もしようがないから科学でない」、「実験器具を通して見た対象には観察者を騙す悪魔が含まれているからそれを徹底的に排除せねばならない」だとか(デカルト的ですね)、「そもそも社会科学などはもっての外である」という考え方が論理的な強制として導かれます。

しかし、この誤りどころか、誤る可能性でさえも徹底的に排除する、つまりまったくの無前提からの知見でなければ科学とは認めない、という考え方をなおのこと延長させると、「実験で扱っている当の実体も、地球上の緯度や経度を変えて実験すれば違ったものであるかもしれない。そうでなくても、この一瞬はこの時この場のこの一瞬でしかありえないのだ!そうすると、追試を取った時に確かめられる確からしさとは一体何なのかもわからなくなってきた…」などと、科学を通り越して思想らしき終着点にまでも突っ走ってゆきかねません。

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ここで、「おいおいちょっと待て、そんなところまで延長させてよいと誰が言ったのか?私はそんなことは言っていない!」という反論が返ってくるでしょうか。

そうすると、わたしはこう確認します。
「ではあなたは、「私はこれこれこういった立場に立っているのだ」」ということを主張されるわけですね?」。

そうだ、となると、わたしはこう答えることになるでしょう。
「なるほどその立場というものが、すなわちあなたの前提、「原則」というものではないでしょうか。」と。

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意味がわかるでしょうか。
ある地点で延長を留めるという判断をするのなら、それは原則に照らしてのものであるはずなのです。
『弁証法はどういう科学か』にも同じことを指摘した箇所がありましたね。

対象やその構造を、どこまでも突き詰めて探求せねばやまないその気持ちというのは、痛いほどわかるのです。
研究者も学者も、「いちばん高い山に登りたい!そこから、下の風景がどんなふうなのかを見渡したい!誰が見たこともない景色を見てみたい!」という強い思いに駆られての出立であったはずですから。(ちなみに言えば、その景色を独り占めにしたくないと思える人間だけが、学者の道を歩むことを許されます)

その思いが強すぎるあまりに、人生を諦めた大人からの不理解や罵詈雑言、政治的な圧力や誹謗中傷など、ありったけの抵抗を受けるということもよくわかります。
それゆえ、この身だけは一流の道へと、強く強く祈念し、日々の一歩一歩の歩みを強い意志を込めて踏みしめ、弱い我が身を鼓舞して覚悟を固めてゆくということもよくわかるのです。

しかし、いいですか、その思いに突き動かされて、究極絶対普遍の真理なるものを探求したとしても、間違いなく失敗するのです!そもそものやり方が間違っている、登り方が間違っているときには、頂上まで登りつめられるはずがないのです。
今回の場合であれば、科学のつもりで疑似科学、宗教を生み出してしまうのです。

だからこそわたしたちは、最高の登り方、つまり論理というものを持たねばならないのだ、と何度も何度も、わかってもらえるまでわたしは言うのです。

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これが単なる思考実験ではないことは、過去の科学哲学の失敗を見れば一目瞭然なのですが、ここではその失敗から知識的に学ぶことよりも、それがなぜ間違ったのか?という問題意識を持って、あくまでも「論理の光を照らしながら」過去の科学者(彼らとて馬鹿ではありません!少なくとも、彼らが出した思想的な結論から推し量るよりもずっと)の失敗を調べることがなによりも大事です。

その失敗の原因を結論から言えば、先ほども述べたとおり、ものごとの真理を導き出すときには、必ずそれを照らしだすための原理や原則、というものがあるのだ、という一事を踏み外しているからなのです。

(ちなみに言えば、「科学哲学」というのは、ヘーゲルが集結させたと言われるドイツ哲学の完成前後から大きく広がった近代科学の流れを受けて現在に至るまでの「狭義の」自然科学だけから、その思想性を引き出して議論の俎上に挙げているに過ぎませんから、間違ってもあれを本当の意味での唯物論の<哲学>だなどとはゆめゆめ思われないことです。ほんとうの意味での<哲学>は、世界全体をその掌(たなごころ)に載せて、その現象的な一般性、その構造、その本質をすべて体系立てて解き明かす、ということなのですから)

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ちなみに統計云々のお話は、実態調査の考え方を学問的な真理の問題へと延長させてしまったという誤りです。大衆の支持を得たものが直接的に学問的な真理であった試しはありません。そうではなく学問的な真理として認められたものが時代の流れとともに大衆に膾炙する、ということならばあり得ますが、どちらかといえば学問的な真理は当時的には、その時代的精神の最高峰にいる、ごくわずかの、ほんのひとにぎりの人間の手に委ねられているのです。

もっともだからといって統計そのものを否定するわけではなく、問題のたて方が正しければ、世界が帯びている弁証法のあり方に導かれて、信じられないほどに少ないサンプル数でありながら統計学的に(推計学的に)おおよその答えを導くこともできるのです。

◆◆◆

あれやこれやとまとめて論じてしまいましたが、ここまでは、学生さんが踏み外してしまいがちな落とし穴に蓋をするという意味合いのものでした。

わたしの最も扱いたかったのは、4つめの考え方ですので、やっと本題に入る段になったということになります。


(3につづく)

1 件のコメント:

  1. <自由びと>2012年6月17日 6:36

    弁証法の指導をありがとうございます。
    現代とは、本当にスゴイ時代ですね。
    ネットで、このように学べるなんて~
    ただ…本物を感じる感性・理性が~
    本物を求める心・頭があればですが…。

    >「いつの時代も人は変わらない」を 読んで、
    教員時代に恩師でもある大先輩の同僚に、
    「いつの時代も子供は変わらない」と、
    諭されたことが想い出されました。
    そうですね~
    <いつの時代も人は社会的存在である>
    <いつの時代も「子は親の鏡」である>
    ~なのですね。
    今回も「論理」の学びを感謝しています。

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