2012/06/28

記事への質問への答え (2):観念的二重化

前回のお手紙では、真理は一定の範囲内において成り立つ、ということを述べてきました。


逆から言えば、相対的であるところの真理が、どのような範囲でなら通用するのか、という視点を常に持っておかなければ、真理を主張しているつもりが知らず知らずのうちに誤謬に転化してしまう、ということでもあるのです。

世にある誤謬というものを調べてみると、それを主張する当人は、実に大真面目そのものであることがわかります。

前回のお返事の中でも考えてきたように、たとえば唯一絶対の真理なるものを永遠に固定された個物として探しまわる研究者というのは、実のところなぞなぞを楽しむ子供にだって馬鹿にされるほどの頭脳活動で研究に取り組んでしまっている、ということでもあったほどなのです。

しかしそのような場面に遭遇した時に、そのご当人のあり方を、ただ馬鹿だから無視せよとばかりに切り捨てるのではなくて、「なぜ高度な頭脳活動をしているはずの、しなければならないはずの研究者が、そのような単純な誤りに陥ってしまうのか?」という問題意識をもって、「真理はどのようなときに誤謬に転化するのか?」と理性的に考えてゆくことこそが、科学的な態度なのです。

自らは科学を堅持していると思い込んでいる研究者よりも、それを素朴な観点から誤りだと見なし、その誤り方をこそ客観的に見てみようとする人間にこそ、実のところほんとうの意味での科学という姿勢と認識が宿り始めているというのは、実に皮肉なことです。

このように落ち着いて見ることができれば、つまり、理性的に、論理という光を照らして見ることができさえすれば、わたしたちはそれを反面教師として捉え返し、自らの姿勢を点検しながら歩んでゆかねばならないことも、同時にわかってくるでしょう。

今回の記事では、前回質問をくれた学生さんの問いかけを書き換えるかたちで、
「様々に現象している相手の言動やふるまいから、如何にして当人の本質を理解すればよいか?」
としておいた問題を考えてゆくことにしましょう。

ここからは手紙の本文になるので、常体表現に変わります。


◆わたしのお返事2◆

前回のお返事で、あなたの意図を汲むかたちで、問題の表現をこう書き換えておいたね。

「様々に現象している相手の言動やふるまいから、如何にして当人の本質を理解すればよいか?」

ここで登場する<現象>と<本質>ということばは、対になる学問用語としてよく使われる概念なので、ぜひわかっておいてほしい。
簡単には、前者が、一見したところの、見たままの状態を指すのにたいし、後者は、表向きからは見えないが、その奥底にあるそのものをそのもの足らしめているところの部分、と言えばなんとなくの像を持ってもらえるだろうか。

たとえば、身体の仕組みはどうなっているかという問題意識に照らしたときには、目に見えるあなたという一人の人間が<現象>にあたり、それにたいしてあなたの体の内部の体幹・骨格などといった部分が<本質>に当たることになるだろう。

前回のお手紙の内容を受けるかたちでここでも注意してほしいのは、たとえば問題意識を、あなたの人柄はどうなっているかというものにしたときには、あなたの外面は<現象>であることに変わりはないものの、先ほどとは違って、<本質>はあなたの精神である、ということになるということである。

ここに概念というものの難しさがあるのだが、問題意識が変われば、その概念に対応する具体的な事物というものは変わるのだ、ということに注意しておいてほしい。
そういうわけなので、概念と個物を紋切り型に対応してまる覚えしてしまうというような受験勉強的な頭脳活動をしてしまうと、いくら考えたところでまともな結論にたどり着くはずもない、ということなのである。

◆◆◆

さて、ここから冒頭の問いの考え方を見てゆくことにするが、ここでは、イメージしやすいように(像を描きやすいように)、実例あげて考えてみることにしよう。

これは看護師の知人の実際の体験談であるので、あなたの問題意識とは具体のレベルでは接点はないけれども、他者の認識に働きかけるという問題を扱っているからには、論理的に見ることができるなら、指導にも、はたまた営業にも応用しうる実例である。

これは、わたしの知人からの伝聞である。

彼女が看護師として働き始めて、仕事に慣れ始めた頃、ひとりの患者さんのお世話を引き継ぐことになった。
その患者さんというのは、戦時中に幼少期を過ごした老婦人で、矍鑠(かくしゃく)としていながらも、時折疼痛(とうつう)を訴えることがあるので、通院が長引いているという人である。
担当医によれば、脇腹がずきずきと痛むとはいうが、あらゆる検査をしてもなんらの外傷も疾患も認められないことから、単なる気のせいだろう、ということであった。
また前任の看護師によれば、いつも訴えるのは、脇腹の同じ箇所が痛いということだが、医師からは問題ないとの診断が出ているし、きっと、寂しさのあまり誰かの気を引きたくて病院に通っているのであろう、という推測であった。

さて、あなたがもし、この患者さんを看る看護師になったとしたら、どのようなところに注意を払うだろうか?
わたしたちは看護の専門家ではないので、素人意見になることを承知の上での判断でかまわないので、考えてみてほしい。

まずはじめにわかるのは、ここには、ひとつの矛盾があるということである。
専門家である医師は、患者の身体に問題はないと言っている。
しかしそれに対して、当の本人は脇腹がずきずき痛む、と述べているということである。

前に担当していた看護師は、医師の判断を信用して、患者の気のせいである、とみなしていた。
結論から言えば、医師の判断はそれはそれで間違いではなかったのだが、あなたは、ひとりの人間を心身ともに理解しようとする立場から考えて、まだできることがあるのでは、と考えられはしないだろうか?

◆◆◆

ここでわたしの知人という人は、このように受け止めたのである。

医師の診断は確かのようだが、それでも当人がそこまで何度も何度も痛がるということを、まずはちゃんと受け止めよう、というのがその姿勢である。

知人は、数度の検査でもなにも別状がなく、問題がわからないところからかえって落胆する老婦人の横に座り、「おばあちゃん、またずきずきするんだね。こうしてるとちょっとは楽になるかな」と言いながら、脇腹をさすることにした。

看護師として、患者の生命力の消耗を少しでも抑えようとしたためであった。

看護師当人は、未熟な自分に手も足も出ないことがあるのが悲しい、それでもせめて、気持ちの上だけでも少しでも痛みを和らげられたら、という思いで、老婦人の語ることに耳を傾けたのである。

そしてそのことがきっかけで、老婦人はその看護師に、心を許すようになっていったのである。

このケースの転機というのは、老婦人が、「私があなたの歳だった頃にはねえ…」と昔話をしはじめた時に訪れた。
戦死した兄のことに話が及ぶと、老婦人はハッと、そうだったのか、という顔をして、泣き崩れたそうである。

本人が落ち着いた後に話を聞いてみると、老婦人の兄という人は、召集され戦地で命を落としたのだという。
彼女自身はそのことを直接見聞きしたわけではないが、帰らぬ兄を待っていた折、隣の寝室から母のすすり泣く声と、それをなだめる父の声がぼそぼそと聞こえたらしい。
わずかに聞こえるところの、「脇腹に弾を受けたのが致命傷になったそうな、可哀想に…」という母の声が、齢を重ねた今でも忘れられなかった、ということであった。

老年になり、病気になると、それまでは働き詰めだった自身の身を省みるようになり、また天寿を全うした時には兄と会えるはずだが、天国で兄はどのようにしているだろうか…との思いが重なったために、本人も意識しないままに疼痛の種となっていたことが、当人にも思いもかけずはじめてわかったのである。


わたしたちは、この事例から、どのような認識についての理解を引き出しうるであろうか。


(3につづく)

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