2012/06/29

記事への質問への答え (3):観念的二重化の実践

前回の記事では、老婦人を看護した知人の実例を挙げて、そこにはどのような認識についての手がかりがあるのかと考えてもらった。

 

この事例には、いくつもの注目すべき要素があるけれども、わたしたちが今回とくに注意を払わねばならないのは、この看護師は、眼の前に現象している老婦人の訴える症状と医師の診断のあいだの矛盾を手がかりに、当人の巡ってきた生活の過程をたぐることを通してこそ、その現象の本質を正しく理解することができた、ということである。

もしこの看護師が、担当医と同じ観点からでしかものごとを見れなかったり、前任の看護師と同じように現実よりも理屈を優先させてしまったのだとしたら、ものごとの本質へはとても行きつくことはできなかったのである。

ここには2つの問題がある。

ひとつは、眼の前の現実と、いかに向き合うか。
理屈からいえば問題ないと現実を例外と見做すか、それでも現実に起こっていることにはなんらかの理由があるはず、と向き合うか、ということである。

ふたつは、いかなる目的意識を持っているか。
看護師としての問題意識を、医師としての役割との区別においてどれほど明瞭に意識しているか、ということである。

◆◆◆

わたしたちがひとつめのような問題に迫られた時、あくまでも科学的な態度で臨むことを堅持するとしよう。

つまり、どれほどに理解し難いことであっても、眼の前にある現実は、なんらかの理由をもっているはずだ、と考えるということである。
今回の場合であれば、老婦人の表現をまずは肯定し認めたうえで、その原因はなんなのか、と本人の助けを借りながら探ってみた、ということである。

そもそもわたしたち人間が何らかのかたちで振る舞うとき、そこには必ず、そのもととなる認識が働いている。
実のところ、こここそが、動物と人間を大きく分ける分水嶺なのであって、たとえば人間は動物と違って、のどが渇いたら河に水を飲みにゆくのみならず、河のあり方そのものにすら手を入れ、河の流れを変え水を引き、自らの思った通りに環境を作り変えてゆくものである。

これがなぜこうなる必然性があるのかといえば、動物は、アタマのなかに、今眼の前にあるものしか像として描けないのに対して、人間というものは、アタマの中に、「こうなったらいいなあ」という理想の像を描くことができ、そしてまた、現実にはそれが達成されていないことを確認して、その像を現実のものとして実現するべく、対象に働きかけてそれを作り変えることができるからである。

「人間は認識的実在である」と言われたり、「目的意識こそが当人の在り方を規定する」と言われるのは、まさにこの、認識のはたらきを指してのことである。

◆◆◆

しかし、この当人がアタマの中に描いた認識のあり方というものは、当然にそのままのかたちで取り出すことはできない。
もし取り出せるのだとしたら、相手の頭上から幽霊のようなものが抜け出して、それが自分に語りかける、などといったかたちになるのだろうが、これは科学的な立場から言えばナンセンスそのものであるし、常識的にでもありえないことはわかってもらえると思う。

スポーツや組織的な活動において、目を合わせただけで相手の言いたいことがわかった、という以心伝心なるものが経験上存在する(ように思える)のは、人間の表現というものが、言語だけにとどまらず、ハンドサインやアイコンタクトなどをもふくんでいるからである。

この表現というものの中には、背中を曲げて歩く、口が半開きになっている、目つきが悪い、足を擦って歩く、などといった所作、立ち居振る舞いも含まれているし、もっと言えば、規範を共有する人間から見たときには、「いつも居る時間に居るはずのところに居ない」ということも、ひとつの表現になっている。
それらすべてを、わたしたちはそこに潜んでいる意味を汲みとるための手がかりにすることができるわけである。

ここでは学問のやり方に倣って、表現というものを、言語的な表現や創作した作品だけでなく、一人の人間が発する立ち居振る舞いなどといった、より広い意味を持った概念としてとらえよう。
そして以下では、学問的な意味でこのことばを使う時に、<表現>と書くことにしよう。

そうすると、わたしたち人間が、ひとつの<表現>をなしうるときには必ず、以下の図式が成り立つことがわかる。
対象 → 認識 → 表現
これは、ひとりの人間がその生活においてとらえてきた<対象>を元に、ある<認識>が行われた上で、最終的に<表現>として移し替えられる、ということである。

たとえば、作家が書いた文学作品や、画家が描いた油絵は、どれだけ抽象的なものであっても、作家がそれまでの生活経験で数限りなく出合ってきた対象をもとに認識を組み立て、それを自分の技術の許す範囲で表現したものである。
鑑賞者は、彼らの表現を鑑賞する時、その表現過程を作家とは逆向きに捉え返し、その認識を含めた作家の人格をつかんだときにはじめて、感銘を受ける。

また、足を放り投げるように猫背で歩いている人間というのも、当人が意識できているかどうかはさておくとして、その生活習慣が染み付いてしまったことからくるふるまい方であると言えよう。
わたしたちはこちらもまた、その立ち居振る舞いを手がかりにして、当人の認識の確からしさ、人格のあり方を掴みとるのである。
(この流れを大きく捉えて、物質的な対象が、認識という観念を媒介として再び物質的な表現に至る、という否定の否定を見出してもよい)

◆◆◆

しかし、ここで問題となってくるのは、ひとつの表現の受け取り手が直接に受け止めることができるのは、他でもない当人の<表現>のみである、という一事である。

美術の鑑賞にもそれなりの訓練が必要なように、人の気持ちを汲み取ろうとするときにも、それを読み取る側の認識そのものの実力と、そしてまた、相手のことを深く理解しようという目的意識が必要になってくる。

たとえば後輩に相応しい指導をしたい、相手のことを理解した看護をしたい、作品の本質をあまさず読み解きたい、といった目的意識を持ったうえで、とにもかくにもまずは、当人の<表現>をしっかりと見てゆかねばならないわけである。

そうした姿勢が整ってはじめて、しだいしだいに表現者の表現過程を逆向きにたどりなおすことができるようになり、その<認識>がどのようなものであったかを、自分のことのようにアタマの中に像として持つことができるようになってゆくのである。

上で挙げた看護師の知人の例であれば、患者の生命力の消耗を最小にするよう生活過程を整える、という看護師としての問題意識を強く自覚したうえで、主治医・前任の看護師の観察を手がかりとしながら、対象となる患者本人と正面から向き合い、彼女の人格と病を理解していったことになる。

ここでの看護師には当然ながら、物理的に何らの欠陥や外傷もないのならば、精神面になにか問題があるのではないか、そうすると、患者の生い立ちやこれまでの人生経験がどのようなものであったのかをおおまかにふまえたうえでなければ、疼痛を訴える、という表現の本当の意味するところを掴み切れない、という判断が働いていたわけである。

そのような問題の絞り込みがあってこそ、また看護師当人の老婦人にたいする働きかけがうまくいき、本人の協力を誰よりもうまく引き出せたことで、老婦人の持っている過去の特定ができたのである。
なにも老婦人についてのあらゆるデータをかき集めた、ということではないことはわかってもらえるであろう。

ここが、さきほど2つの問題として取り上げておいた後者、「どのような問題意識を持っていたか」ということの意味なのである。

◆◆◆

さて、以上のような展開を追ってみたとき、質問者であるあなたにもう一度問うてみたい。

相手のことを理解することは不可能だとする意見について、どう思いますか、と。

その問いかけに、いえ、なんとなくですがまるきり不可能でもないのだなとわかりました、という答えが返ってきたのであれば、ここまでともに考えてきたかいがあったというものである。

複雑であるがゆえに理解し難いものと映るあまりに、もはや知りえず、と短絡してしまう人間の認識というものを目の当たりにした時にも、それをなんとしても理解しようとすることが、まずは認識論の探求の入り口なのだから。

ここまでの展開をもういちど整理してみると、わたしたちを取り巻いている対象は、無限の広がりをもっていると言っておいたのと同じように、個人と向き合うときにも、わたしたちの認識のあり方は限定的であり、そうでなくとも眼の前の当人は今現在この瞬間も変わり続けているわけであるから、当人を理解「し尽くす」ことはできないないわけである。

しかし、だからといって当人の内面を汲み取ることはできないのかといえば、そうではない。
「あまさず汲み取ることはできないし、またその必要もないのであるが、その時必要とされている範囲内であれば、十分に可能である」、というのが正しいのである。

ここにおいて、前回述べておいた、「真理は一定の範囲内において成り立つ」という学問的な整理が、いかに実践を導く手引きになっているかがわかってきたであろうか。

◆◆◆

先に、わたしたちがある人の人格を読み取ろうとするときには、まずその表現のありかたに着目すると述べたね。

そしてその表現を、表現者本人が認識→表現という過程で実現してきたことを今度は逆向きにたどり直し、その認識をこそ捉え返そうとするわけである。

このことによって、自分のアタマの中に他人の認識のあり方を二重化して持つ、という認識のはたらきを、唯物論的弁証法では<観念的二重化>と呼ぶ。

この実践のためには、いかに目的的に他者の認識を読み取る努力をしてきたか、という経験は当然ながら大きくものをいうことになるが、それでもやはり、人間の認識についての基礎的な理解がないと、内面を読み取ったつもりが、結局のところ自分の身勝手な解釈を相手に押し付けて喜んだり悲しがったりしただけであったという逸脱が起きてしまうことになる。
(文学評論にたいするコメント記事で、常々論者が注意されているのはここの誤りがほとんどである)

だからこその弁証法と、弁証法によって正しく特定された問題について、認識論的に順を追って考えてゆく、という訓練が必要なのである。
(このことからわかるとおり、唯物論における認識論とは、物理学・経済学などとならぶひとつの個別科学であり、最終的には認識学として完成されねばならないものである。)

また実践的に言えば、対象となる人物の認識を読み取るときには、それを読み取るための原則、つまり自分自身の立ち位置がどういうものであるか、という自覚をよりいっそう明確にしておかねばならない、ということもわかる。

先ほど挙げた看護師の例で言うなら、彼女は、医師の役割と、看護師としての自分自身の役割を明瞭に区別し、その上で自身の役割をしっかりとわきまえておけたからこそ、患者の過去をともに振り返ってみようというところに焦点を絞って検討してみることができたわけである。

同じように考えてみると、「指導者としての役割」という原則から後輩を見たときと、「遊び相手としての役割」という原則から同じ後輩を見たときには、当然ながら当人にたいするふるまい方は異なっていなければならないことがわかる。

それでも、原則をきちんとふまえていても、後輩とどう接するのがよいかがはっきりと見えてこない、という場合には、自分が表現から読み取ったことを、本当にその当人が認識として持っていたか、ということを確認し続ければよい。
また逆に、自分の表現を、後輩がどのように認識したのかを、つぶさに確認し続ければよいのである。
また人と人との感情の揺れ動きを扱った文学作品を丁寧に読みながら、そのそれぞれの登場人物に二重化してみることもできるのだから、身の回りに学ぶための素材は無数にあるものと言ってよい。

しかしそうは言っても実際には、人の気持ちが手に取るようにわかると思っている人間が、客観的に見れば自分勝手な解釈を押し付けてひとり合点している場合もあり、それとは逆に感受性の高すぎる人が、あまりにも他者に二重化しすぎて悲しみを本人以上に引きずってしまったりもするのであるから、これは、言うは易し行うは難し、ということを自省し続けねばならない修練の過程であり、生涯を通しての修練であると言ってもよいほどである。

認識について考える端緒までどうにかたどり着いたところであるが、おおまかには了承してもらえたであろうか。

◆◆◆

私事で恐縮だけれども、先日友人と夕食に行ったところ、ともに自転車で旅行したときの話が出てきた折、「あなたの走り方は後ろから見ていて感心します。とても勉強になるのです。」と言われたことがある。

こう評価されてとても嬉しかったのは、評価されたことそのものもさることながら、それ以上にわたしがただ前を走る、という見過ごされがちな当たり前の現象を、問題意識を照らしながら見ることができ、またその表現を貫いている認識をこそ、読み取ろうという姿勢が本人にあり、そしてなおのこと、事実正しく読み取ってくれていたからである。

いくら口を酸っぱくして重要事を伝えても、他人ごとのように正面から受け止めない者と、何も言わずとも背中から学ぶという姿勢がある者とで、その成長は当然のことながら、その認識の力というものが、いかほどに大きな差となって顕れてくるかは、それなりの期間を生きてみれば自ずと知れることであるが、知れたときには時すでに遅し、という恐ろしさがあるものである。

ここからも、認識について学ぶ、ということの成否は、当人が持っている問題意識そのものにかかっているのであり、人の気持ちを理解する、という認識のあり方は、実に目的的に当人の努力によって作られていることがわかってもらえると思う。

わたしが常々、人とかかわるすべての仕事、営みについて、認識論が欠けているならばどうしても一流には成り得ない、と言っているのは、まさにここに理由があるわけである。


(了)

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