2012/06/07

文学考察: 普請中ー森鴎外

論者はこのところ、


なかなかに苦労しているようです。

わたしもここ数日、論者のレポートのあまりの不出来にたいして、どう指導したらよいものか(叩きのめすのではなくどう導くのか)と思案しながら、コメントを毎日書きなおす日々であったので、そういう意味では同じく困難な時期だった、と言えないこともありません。
言えないこともない、という言い方をしたのは、単に指導というものがそもそもそういう困難を必然的に伴うものでしかないから、ということです。

わからなければわからないで構わないのですが、わからないなりに「どこがわからないのか、どうわからないのか?」と問い続けて、自分のわからなさを明らかにする努力をしなければなりません。

では「自分のわからなさを明らかにする」ためにはどうすればよいか?

これは姿勢としては簡単です
−−何回も何回も対象に向い合ってその構造を手繰り寄せ、自分のわかるところまでをできうる限りの力で持って表現すればよいのですから−−
実際にやるのは、非常な努力が必要なのですが。

ともかくこのようにして作られた表現というものは、指導する側から見れば、「ここは言葉足らずだが、きっとこういうことを言いたいのだろう」とか、「ここは対象の構造を平面的に捕まえてしまっているのだろうな」などと予測ができるために、もし点数としては0点をつけざるを得ない場合でも、その過程をしっかりと読み取って評価し、真っ当な指導ができるのです。

これは表面上にはひとつの失敗に見えますが、その失敗の過程が必然的なものであることによって、将来的には大きく花開くための可能性を内包しているので、わたしはこれを「正しく失敗する」などと言って、とても評価します。

しかもより重要なことには、この正しい失敗の繰り返しには、立ちはだかる壁に向かって、砂を噛むような味気なさ、前進するかのように自分は思っているが実際には足踏みしているだけなのではないかという恐ろしさ、を押しての努力を続けるという姿勢そのものが、なんどもなんどもの繰り返しによって次第次第に質的に転化して、当人の認識のあり方そのものを鍛えてゆくという大きな効果があるからです。

しかしこれとは逆に、見た目の上ではひとつの成功を示していても、そもそもの問題のたて方が自分の実力よりも低かったり、もっと悪いことには問題を甘く見て手を抜いたりするときには、その姿勢が「質から量」への転化を遂げるために、これでもかというほど厳しく指導することになります。

◆◆◆

さてそういう観点から言って、今回の評論は正しく失敗できているのか?と言えば、残念ながら今回のものは、まぎれもなく「悪い失敗」である、ということになります。

点数も0点ですが、そこで働いている認識も0点であり、さらに悪いことには作品に向きあうという姿勢そのものも0点です。

そもそも学問という観点に立てば、どのような分野のレポートであったとしても、もし弁証法という論理学を知らなかったとしても、つまり経験的に獲得した自然成長的なものであったとしても、対象から手繰り寄せたそれなりの論理性が含まれていないものに点数をつけるわけにはゆかないのですから、当人に伝えるかどうかはさておき、だいたいのレポートは0点からのスタートになりますし、それでよいのです。
そして、わたしたちの立場といえば、それぞれの専門分野は違っていても、学問という立場を絶対に手放さない、ということでは一致しているし、そうであらねばならないのです。

ですから認識を評価するにあたっても、もし弁証法を技ではなく、受験勉強的に単なる知識的に習得しようとする認識の場合にはさらに悪く、0点どころかマイナス点からはじまるのであり、まずはその自然成長的な個性を感性と理性(論理性)とに切り分けさせる努力をしてもらったあと、使えない論理性面をまずは棄て去り、弁証法的に根本的に新しく作り変える、という努力をさらに最低1年はしてもらいます。

しかしここまる2年は、弁証法の修練とともに弁証法の範囲ではあっても認識論を「習」得し、また「修」得せんとしてきたはずの論者にあっては、このレポートについては大きな問題として捉えてもらわねばなりません。

作品の理解を違えてしまう、という面に関しては、論者の能力がまだ不足しているということでしかないのですから、そんなことを詰っても仕方がありません。
それゆえ点数が取れないことはさておいても、ではどうすれば、姿勢くらいには点数をもらえたのか?と考えてゆかねばなりません。

そうすることでなければ、「悪い失敗」は「悪い失敗」のままなのであり、そのままでは必ず、質から量への転化へと繋がってゆきます。これを軽視してはいけません。

論者自身に対しての厳しい表現はあえて使いませんから、論者自身の力でしっかりと今回の教訓を捉え返すようにしてください。


◆文学作品◆
森鴎外 普請中

◆ノブくんの評論◆
文学考察: 普請中ー森鴎外
文明開化の時代、ある時渡辺は、普請最中のホテルにてドイツ人らしき女性と再会を果たした様子。その中で、女性は渡辺に対して気のある素振りを見せていますが、渡辺の方はそれに一切応じません。そんな渡辺の様を見て女性もやがては諦め、新たな関係を築いていくのです。 
 この作品では、〈一度別れた男女が、新たな関係を当時の時代と共に築いていく様〉が描かれています。 
 この作品はタイトルの通り、日本が鎖国をやめて外国の文化を取り入れて立てなおしている頃に描かれています。そしてそれに合わせるかのように、この作品に登場する渡辺と女性の関係もまた、一度は壊れたものの、新たな関係を築いて行っている様子が描かれています。この2人の関係というものはまさに、当時の時代を象徴したものと言っても過言ではないでしょう。

◆わたしのコメント◆
わたしは論者の評論を評価するときに、まずは作品を読む前に評論を一読します。

その表現から論者の認識をアタマの中に手繰り寄せるかたちで、論者がどれだけ作品を大きな視点で把握できているか、そして深く読めているか、という論者の認識を読み取るわけです。

しかしわたしはエスパーではありませんから、やはり表現そのものがある程度豊かでなければ、その書き手がどこで踏み外しをしているのか、どこを読めていないのか、どこを自分のレベルに押し下げて読んでしまっているのか、ということを判断する手がかりが得られない、ということになってしまいます。

残念ながら、今回の場合はまさにそのことが大きな欠陥となっています。

大掴みに言えば、文章の内容が豊かでない(文量が少なすぎる、ことも問題ですがここでは本質的な原因ではありません)ことに加えて、それを身勝手な解釈で埋めてしまおうという姿勢がそれにあたります。

◆◆◆

論者は、二人の男女が一度壊れた関係を新たなものへとしつつある、その二人の関係が、文明開化という時代の象徴ともなっており、この作品のタイトルともなっているのである、ということを言いたいようです。

しかし、少し立ち止まって考えてみてください。
もしあなたが評論を読む側の立場、つまり読者であったなら、論者が一般性として挙げている次の文言から、作品そのものの特殊性(この作品をこの作品足らしめている本質)を取り出すことができるでしょうか。

二人の男女は「壊れた関係を捨てて新しい関係を築きつつある」。

どうですか、なにか明確な像を描けましたか。

ここで問題なのは、あなたはすでに作品を読んでいますから、その記憶をたどることをとおして、この文言の像を豊かにしながら読むことができるということです。
しかし、一般の読者は当然ながらそうではないでしょう。

ですから本来ならば、一旦自らが表現したものを、「まったくの白紙の段階から」、「作品にも筆者にもまるで馴染みのない人の立場に立って」、捉え返してみなければならないはずなのです。

そのことをしっかり踏まえて、上記の表現をもう一度読んでみてください。

◆◆◆

さて、脳裏になんらかの像が浮かんできたでしょうか。

ほとんどなにもない!

というのが素直な実感というものではありませんでしたか。

それもそのはずで、
壊れた関係を棄てる、というからには当然ながら、その後に新しい関係がはじまるのであって、
また新しい関係がはじまる、というからには当然ながら、前提として古い関係があったに決まっているのです。

そもそも文学として表現されているからには、何らかの変化を扱っているのが当然というものではないでしょうか。

このたとえでは皮肉っぽく聞こえてしまうでしょうが、この表現というのは、「3時間目が終わりを告げると次には4時間目が始まった」と言っているのと大差ないのです。

もし身銭を切って買った小説の中に、こんな表現がいくつも出てきたら、怒りを通り越して「この作家は自らの職業にかける誇りというものがないのか…」と呆れてしまうとは思いませんか。表現を通して当人の認識や姿勢が見える、ということのあり方が少しはわかるでしょう。

さらにここで感じる違和感は、「新しい関係」という表現が漠然としすぎていることがさらに火に油を注ぐかたちになっており、読者からすれば、「それはそうだろうが、この書き手は何を言いたいのだろう?ひょっとすると、文字数を稼ぎたいから意味のない言葉を並べているのではないだろうか?それとも最悪、作品を読んでいないのではないだろうか?」などと邪推されても弁護しようがない、というたぐいの、内容を読み取りたくてもできない、という表現なのです。

◆◆◆

評論だけではなんとも要領を得ない、ということで仕方なく、何の手がかりも無しに作品に向き合うことにすると、以上のことに輪をかけて残念なことに、論者が作品そのものを読み誤っていることに気付かされます。

この作品のあらすじはというと、参事官である「渡辺」が、以前に恋仲であったと思われるドイツ語を話す「女」と、日本で再び出会う、というお話です。

渡辺は昔の恋人と久しぶりに再会するというのに、自らの内面に何らの感情をもが呼び覚まされないことを、自分自身で驚きながら感じています。
実際に彼の態度は、始終変わらず冷澹(れいたん)なままで、女が、舞台の仕事で各国を共に回っている同業者との関係をほのめかしても彼は何の感情も示さず、「キスをして上げてもよくって」と言う女にわざとらしく顔をしかめ「ここは日本だ」と返す有様で、どこまでもつれません。
そんな彼の態度に痺れを切らせて、最終的に女が折れるかたちで切り出します。

その箇所は物語のもっとも最後の部分です。引用してみましょう。
 女が突然「あなた少しも妬(ねた)んではくださらないのね」といった。チェントラアルテアアテルがはねて、ブリュウル石階の上の料理屋の卓に、ちょうどこんなふうに向き合ってすわっていて、おこったり、なかなおりをしたりした昔のことを、意味のない話をしていながらも、女は想い浮かべずにはいられなかったのである。女は笑談のようにいおうと心に思ったのが、はからずも真面目に声に出たので、くやしいような心持がした。
渡辺はすわったままに、シャンパニエの杯を盛花より高くあげて、はっきりした声でいった。
“Kosinski soll leben(コジンスキイ ゾル レエベン)!”
凝り固まったような微笑を顔に見せて、黙ってシャンパニエの杯をあげた女の手は、人には知れぬほど顫(ふる)っていた。
×    ×    ×
まだ八時半ごろであった。燈火の海のような銀座通りを横切って、ウェエルに深く面(おもて)を包んだ女をのせた、一輛の寂しい車が芝の方へ駈けて行った。
“Kosinski soll leben !”の意味内容について、ドイツ語の日本語訳がありませんが、文脈からすると、「コジンスキイ(女の同業者)に乾杯!」とか、「コジンスキイの健闘を祈って」などという意味だろうな、と推測ができるはずです。

女は渡辺に、コジンスキイとの間柄を嫉妬して欲しかったのに、まったくそうではなかった返事がここにあるはずなのですから。

◆◆◆

このことをふまえて論者の引き出してきた一般性を評価することにしても、どうにも困る、あまりに悲しい、ということがわかってもらえるでしょうか。

論者の言う「新しい関係」というのは、気のある素振りを隠さない女にたいして、どこまでも「NO」のサインを出すという、あまりといえばあまりに存在(ぞんざい)な態度をとる渡辺と、彼女のあいだに結ばれた間柄のことを言っているのでしょうか。

しかしもっと言えば、彼女の気持ちに、遠まわしな拒否の姿勢でなく明確な「NO」を提示するならば、まだ彼女の新しい一歩を促す意味では彼女にとって好意的であるとも言えるのに、当の渡辺はそうするつもりもないのですよ。

そのことをふまえれば、そんな彼と、彼女とのあいだに、なんらかの意味のある新しい関係が結ばれたとは考えにくいのではないでしょうか。

むしろ最も最後に添えられた一文を見れば、彼らの、かつて途切れた関係は、この再会があったとしてもなお修復には至らず、さらに崩れていったのだ、と理解するのが自然です。

この物語では、「渡辺」の冷澹な態度がくどいくらいに述べられており、彼にとっては昔の恋人よりも、屋内の調度品のほうが気になる描写さえあるほどなのですから、その大掴みな方向性を念頭に置きながら、正しく作品を読み進めることが必要なはずでした。

◆◆◆

そしてここを今回のもっとも大きな反省点である「姿勢」の問題として述べるなら、もし作品をあまさず理解できなかったとしても、自分のわからなさをわからないままで評論というかたちにして人前に出す、ということは避けねばならないはずのことではなかったでしょうか。

わたしがこの評論を読んで一番寂しかったのは、「わからないことをわからないままでほったらかしにする」ばかりか、あろうことかそれを「どこかから取って付けたような解釈を添えて」「人前に晒す」ということなのです。

この表現に込めた思いの中に、いい加減に作品を書いてもどうせコメント者が推敲してくれるだろう、という甘えがまったく無かったと言い切れるでしょうか。

それが言い切れるというのは、自分の現時点での実力はとうていこの作品に敵わないけれども、それでも、登り切れない断崖絶壁でも、自分はありったけの力でここまで登った、もう手の力どころか指先さえ動かせないけれども、どこかを動かそうと思えば転落あるのみの無様な姿を晒したままだけれども、とにかく自分は、いまの自分はここまで登った、それは、そのことだけは見てもらえるはずだ、そういう感想があるときだけだとは思えませんか。

これが、姿勢に問題がある、ということの内実であり、「悪い失敗」のそもそもの初歩にして致命的な問題点なのです。

表現がダメなのが悲しかったり寂しいのではありません。
そこに文学者としての覚悟、意地、思想性、果てるとしても前のめりで困難に立ち向かう、という姿勢がまったく感じられないのがなんとも悲しいのです。

たとえ学者だろうがなんだろうが、専門分野でない文学にまで偉そうに口出しするコメント者を一泡吹かせて、日々の人知れずの修練を糧に必ずいつの日かその地位から引きずり下ろして転倒させ、これが人類に誇る文学というものの高みだ、誰にも理解されなくても毎日毎日大志を込めてやってきたのだ、どうだ専門外の人間には手も足も出まい、と、なぜ言おうとしないのか、やろうとしないのか、日々を生きようとしないのか、その姿勢の欠如について悲しく思う気持ちが、少しでもわたしの立場になってみればわかってもよさそうなものです。

少しばかりは読み取ってくれていればよいのですが…。

◆◆◆

ちなみに言えば、この作品は、筆者の個人的な経験をもとにした、いわば自伝的な小説なのであって、『舞姫』のなかでの豊太郎とエリスの関係が、違ったかたちで描き出されているという位置づけの作品なのです。
そういう意味では、深い作品理解のためには、作品についての予備的な知識も必要になってきます。

ただここのところの論者の誤り方を見ていると、予備的な知識の有無などでは、到底埋まらないほどに、作品理解の溝は大きいものであるように感じられます。

今回の評論についての苦言はとりあえず以上とし、次回面談時に作品を真正面に据えてじっくりと反省をするとして、論者の失敗を客観的に見つめてみると、最近まで扱っていた菊池寛をはじめとした作品などと比べたときの、森鴎外作品のひとつの特徴が浮き彫りになってきます。

それはひとえに、物語が予定調和で終わらない、ということです。
おそらくここが、論者にとっては致命的に読みにくいところなのではないでしょうか。

察するに論者の価値観というものはたとえば、
苦難の道を歩んでいた登場人物には、等しく幸福な結末が待ってい「なければならない」のであり、
仲違いしていた恋人や家族は最終的には、当初よりもより強い絆で結ばれてい「なければならない」、
といったたぐいのものだと考えるのが自然のようです。

こういった価値観は、当然ながら対象となる作品の理解にも影響を及ぼさざるを得ず、自分自身は注意しているつもりでも、作品を読み進めるうちにいつしか、自分勝手な解釈を押し付けて文章表現を取捨選択する、つまり気に入るところは拾い、気に入らないところは棄てる、ということを無意識のうちにやってしまうことになっているのです。

ここでいつも書いているように、科学的な認識は、まずもって「事実から考え始める」ことをその要諦としなければならないのです。
眼の前にある対象が、その観察者が好きだとか嫌いだとか、認めるとか認めないとか、そんなことは科学にとってどうでもよい!のです。

科学者を装いながら、感性的に合うか合わぬかの向き合い方に思想的な味付けをして学問だ研究だと言いはる人間がいることは知っていますが、あんなものを参考にしてはいけません。

その道の専門家として以上に、人として失格だからです。
食えれば何をしたってよい、レベルが低いほうがむしろ大衆受けが良い、という生き方の、どこに人としての評価に耐えうる価値があるのでしょうか。
いいですか、わたしたちは人間です。動物とは違うのです。
最高位である精神たる人間として、まずはそれに相応しい誇りを持たねばなりません。

まずはそのことを言うまでもないほどの下限とし、そのとき向きあった作品が自分の価値観には相容れなかったりなどといった好き嫌いは「さておいて」、事実としてその作品がどのような構造を持っており、どのような本質と一般性を持っているのか、と読み進めなければなりません。

今回の場合で言えば、「作品のどこかではきっとこの二人は仲直りするはずだ。どこだろう?どこだろう?」という問いかけをしながら(目的意識を持ちながら)作品に向き合うのなら、まともに作品を理解できるはずもない、ということをまずはもう一度徹底的にわからねばなりません。

論者が作品理解などというものは人によって違うのだからどう読んでもいいのだ、などという種類の阿呆ではないことは信用するとして、とりあえずの指導を終わりとします。

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