2012/10/16

日常生活での「相互」の浸透のあり方:「やる気があったらなんでもできる」は本当か (3)


(2のつづき)


前々回と前回では、ひとつの、弁証法を実践への適用の問題としてどう考えるべきか、ということをおさらいしつつ述べてきました。

そこでは、弁証法という法則性は、たしかに人間の身体と精神に働いているものではあっても、わたしたちが人間である以上、あくまでもその法則性を認識の上に捉え返して、さらに目的意識を持ってそれを現実へと適用してゆくことを繰り返すなかで、しだいしだいに技化してゆく、という過程がどうしても必要なのだ、ということを言いました。

◆◆◆

ところで、ここまでを結論的に無理矢理整理してみることにすると、「人間には弁証法性が働いており、弁証法を実践に活かすにはそれを認識し続けることが重要である」ということにもなりかねません。
弁証法を使った文章や論文を読んだとき、全文を読んでも、そこで描き出されている<構造>を見るだけの力がないと、当たり前のことから話し始めて、当たり前の結論で終わる、というようにしか感じられません。
そのため読後感としては、「それはそうだろうが、だからどうしたの?」といった感想になるでしょう。

実は今回の質問をくれた人が自身の友人に、ここのBlogで書かれている文章を読んでもらったところ、「当たり前のことしか書いてなくてつまらん」との感想をこぼしたと聞き、それはそうでしょうねと二人で笑いあったものでした。まったく無茶をしたものです。

それに対してこの質問者が、質問への回答をなるほど、と聞くことができるのは、そこに実践への強い関心があるからです。
自分自身が自分自身の役割や責任を果たすために、どうしても解かなければならない問題にぶつかったときには、行動のための指針というものがどうしても欲しい、となるのは当然のことです。
しかもこの行動のための指針というものは、「こうしたら」→「こうなった」を直線的な矢印でつないだ単なる経験則ではなくて、その根底に働いている、対象の持つ構造を描き出すものでなければ、どんな場合にでも通用する指針にはなりえないものなのです。

読者のみなさんが駅の本屋に行けば、恋愛やビジネス、金儲けについてのハウツー本が、店頭にうず高く山積みになっています。
そこには、「私はこうして年収1000万円になった」だとか、「私はこうして運命の人と出会った」などとあります。
しかしそれを手に取る人は、その筆者の経験談をそっくりそのまま聞きたいというのでは、実はなくて、実際には、その経験談から自分の実践の指針となる手がかりを得たいはずなのです。
しかしああいったたぐいの本をいくら読みあさっても、実際にそれを実践に移そうとしてみた途端、現実は冷たくもそのハウツーなるものを拒絶します。

この理由はといえば、それが個別の経験則の域を出ないものでしかないだけに、その他の場所や時間、それとは違った対象に向き合う時の指針には、どうしても使えないものだからです。
著者ご本人が、ビジネス思想や恋愛哲学などといかなる大仰な言葉で自説(?)を呼んでみても、実のところ、個別の現象から「論理」を引き出せていない、論理と呼べるレベルにはとても達していない、ということなのです。

ここで大事なのは、どのような経験をしたのかという個別の経験よりも、そこからどのようなことを学んだか、どのような論理を学んで、次の実践に活かす指針にし得たか、という論理の問題なのです。

ああいった個別の経験をいくら集めても、論理というものは絶対に出てこないので、眼の前の問題に根拠を持って取り組みたい実践家は、著者たちの口吻を真に受けるかたちで、「所詮“論理”などというものは実践とは無縁のものなのだ…」と溜息をつき、彼らの人生は、「論理」と名のつく言葉から絶縁することになってしまいます。

しかし実際には、高度の実践を確かに導くものは、高度な論理とその体系である理論、という他にはあり得ないのです。
そこでは個別の現象は捨象されて止揚されていますから、個別の社名や個人名は直接は出てきませんが、人間の経済活動や人間の認識のあり方が、その構造に立ち入るかたちで論じられているために、新しい問題にぶつかるときにでも、それを解くための導きの石になるものなのです。

繰り返しになりますが、この質問者が実に熱心に回答を聞きうるのは、その問題意識の高さによるものなのであって、しかもそれが、あくまでも実践に照らした問題意識であるから、なのです。
こういう、実践のために論理を学びたいという人にとって、「当たり前のところから論じ始めて当たり前のところにたどり着いた」という結論というものはさほど意味を成さないのであって、より重要なことは、そこにどのような過程的な構造が明らかにされているか、ということになるわけです。

対象がどのようなものであっても、それに向き合う当人が、個別の現象を一般化して、論理を引き出す習慣がなければ、たとえば構造面に触れている文章であっても「当たり前のことしか書いてなくてつまらん」となったり、「論理を振りかざす人間は現実を知らないだけだ」といった感想となってしまいます。

◆◆◆

それでも、なかなかに、「実践」と「論理」というもののあいだに、水と油のように絶対的に相容れ難い区分を設けてしまう人が跡を絶ちません。
ビジネス書はともかく、研究書と呼ばれるものであっても、ほんとうの意味での論理が提示されてこなかったという研究者側の責任もあって、実践と論理というものは、一般の人たちの常識としては、実に中の悪いものになってしまいました。

そのせいで、人の命を預かる立場にいるのに理論の助けを借りることができなかったり、低いレベルの論理を現実に押し付けようとして専門馬鹿と呼ばれ軽蔑される人たちが出てきてしまいます。

そこで、というわけで、実践から論理を引き出す必要のある人たちに、簡単な文章をたくさん読んでもらい、そこから論理を実際に引き出してみる、ということを繰り返し繰り返し、やってもらうのです。

質問者に見てもらったのは、以下の文章でした。
この引用では、マラソンランナーである浅井えり子さんが、ご本人を直接指導した監督の指導を受け入れるまでの事情が、自分自身の率直な感情を交えて書かれています。

ここには、タイトルの副題に挙げた問題、「やる気があったらなんでもできる」は本当か、を解く鍵が隠されているのですが、読者のみなさんにはそれを以下の文章から取り出すことができるでしょうか。次回までに考えてみてください。

「LSDをやり始めたばかりのころのことです。佐々木監督から、2時間、ゆっくりと走るように指示されたのですが、時間がたつにつれて苦痛になり、ギクシャクした走りになってしまうのです。2時間という時間がとても長く感じられ、連日のLSDは苦痛にさえ思え、仕方なく走っているような状態でした。そんな私に佐々木監督は何も言いません。次の練習のときも同じように走っても、それでも佐々木監督は怒りません。そんな練習を続けていくうちに気づいたのです。どんなに遅くても構わないのだと。どんなに遅くてもいいのなら、無理しなくていい。そんなふうに思えるようになってから、なるべく2時間を楽に過ごそう、という気持ちで走るようになったのです。楽に、という気持ちがフォームにもよい影響を与えたのでしょう。肩の力が抜けて無駄な動きがなくなり、ゆっくりの中にもリズムが生まれて、リラックスした無駄のないフォームに変わってきて、2時間という時間が苦にならなくなっていったのです。 
 このように、ゆっくり長く走ることが、苦痛から楽しく感じられるようになるには、数ヵ月の時間がかかりました。さぼりの精神から、ゆっくり走れるようになっただけですから、LSDをきちっと理解できたわけではありません。でも、頭では理解できなくても、身体は自然と覚えてくれます。考えすぎてしまう人が多いのですが、わたしの経験から、考えるより身体で覚えていくことが大切だと思うのです。」(浅井えり子『新版 ゆっくり走れば速くなる』p.29)

(3につづく)

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