2012/10/02

土台論を踏み外しは何を招くか:「文学考察: 童話における物語性の喪失ー新美南吉」を考える

この作品は、


論者だけでなくほかの読者のみなさんにも批判的に検討しておいてほしいところです。


◆文学作品◆
新美南吉 童話における物語性の喪失

◆ノブくんの評論◆
文学考察: 童話における物語性の喪失ー新美南吉
 この作品では著者が昨今の新聞社やラジオ局の物語の作品募集のやり方について、物申しています。というのも、それらのあるやり方が物語の面白さを失わせ、物語でなくしているというのです。では、それらの具体的にどのようなやり方が、そうさせているのでしょうか。
この作品では、〈あらゆる物語の重要性は、形式よりも内容にある〉ということが主張されています。
上記にある、著者が物申したいあるやり方とは、作品に対する制限、特に文字数に関して物申しています。そもそも書き手の側からすれば、作品の重要性は文字数などといった形式にあるわけではなく、言うまでもなくその内容にあります。それを文字数を制限される事によって、その内容の重要性が希薄になり、結果として作品自体が面白くないものになっていると著者は主張しているのです。
例えば原稿用紙3枚の作品を10枚にしてしまうと蛇足ばかりで退屈になってしまいかねませんし、10枚の作品を3枚にすると今度は内容が薄くなりこれも退屈なものになってしまう、ということです。
こうした主張は至極当然な主張と言っていいでしょう。ですが中には驚くことに、物語の重要性は内容ではなく形式にあると考えている人物もいるのです。ある児童文芸家はこうした著者の主張に対して、「ストオリイの面白味なら実演童話に求めたまえ。われわれの創作童話にそれを求めて来るのはお門違いである」と反駁したというのです。しかし、当然これは誤りです。あらゆる芸術は表現する事を目的とするからには、必ず鑑賞者の存在を意識しなければなりません。文学作品もその例外ではありません。ですから、鑑賞者を退屈される事を前提とした作品など、あっていいはずがないのです。
いかなるジャンル、いかなる目的があるにせよ、作品というものは内容を重視し、鑑賞者を楽しませるという目的を常に果たさなければならないのです。

◆わたしのコメント◆
論者は原典に則してなかなかによく整理していると思うのですが、いかんせん、今回扱われている小論の主張そのものに相当の混乱が見られるので、なんとも苦しい論述にならねばならなかったようです。

筆者である新美南吉は、30を迎えずして他界してしまった童話作家ですので、わたしはこの原典にあたったとき、なんだか文学論を書いてきた学生のレポートを添削しているようだなあ…という感想を持ちました。

というのも、彼の主張したいことは、少なくとも気持ちの上ではわからないわけではないのです。
若く、エネルギーもあり責任感もあることが高じて、世の文学の堕落にたいする義憤を抑え切れない感情を、なんとかして筆の運びとして書き留めよう、問題提起しよう、という気持ちはよくわかるのです。

しかしそれにしても、感情の高まりに論理能力と表現がついて来ず、その結論へ持っていくという論述の部分にけっこうな無理があり、主張そのものの正当性が問われる事態になっているのは、もともと優れていたはずのものが対立物へと転化したものとして、二重に残念なことと言わねばなりません。

筆者本人が、もしわたしが実際に見ている学生さんならば、その真っ直ぐな感情を、よりよく活かしうるだけの表現の力をつけられるよう導きたいところですが…まともな感じ方の若い人が、その表現力の乏しさのせいでかえって奇人扱いされることは少なくないのですから。

そういう理由があって、今回は、評論へのコメントではなく、原典となっている新美南吉の小論へのコメント、という書き方になっています。

◆◆◆

筆者の論述を見ると、このようなものです。

昨今のジャアナリズムは、作家たちに、三十分で完結するもの、登場人物は×名位が好都合であるなどと註文をつける。

これはちょうど洋服屋が客の註文に応ずるようなものであるが、洋服屋には各種の大きさのストックがあるのに対して、作家はそうではない。だから作家は次第に、寸法に合ったものを作るようになってゆく。

「ここから文学が貴重なものを失った事実は、容易に首肯される。文章をひきのばす努力のため、簡潔と明快と生気がまず失われ、文章は冗漫になり、あるいはくどくなり、あるいは難解にして無意味な言葉の羅列になった。同時に内容の方では興味が失われ、ダルになり煩瑣(はんさ)になってしまった。これらをひっくるめて物語性の喪失と私はいいたい。」

そうして大人の文学が物語性を失うと、児童文学も、見よう見まねで堕落した。「今日の童話を読んで見るとその物語性の殆(ほと)んど存していないことに人は気付くだろう。自分の子供や生徒に、お話をきかせてやるため、あなた方がストオリイを探そうとして、百篇の今日の童話を読まれても、あなた方はただ失望の吐息をつかれるばかりであろう。」

「小説が口から離れて紙に移ったところから小説の堕落がはじまるのである。」

「童話はもと――それが文学などという立派な名前で呼ばれなかった時分――話であった、物語りであった。文芸童話の時代になっても童話は物語りであることをやめてはならなかったのである。」

◆◆◆

この小論の構成を見て取るために、これらを順序立てて整理してみましょう。すると、こうなります。

・ジャアナリズムが作家に形式を押し付ける。
・作家は次第に形式を前提として作品を書くことを余儀なくされる。
・そうして、大人の文学は物語性を失った。
・次いで、児童文学も物語性を失った。(※)
・童話は、もともと口伝えでその面白さを確かめられていたものなので、童話はあくまでも「物語り」であるべきである。

このうち、おそらく、筆者のもっとも問題としていたのは、「今日の童話を読んで見るとその物語性の殆(ほと)んど存していないこと」でしょう。(※部)
その結論を導く原因を探し、ジャアナリズムに行き着いたのが前半部、そして、ではどうすれば物語性を取り戻せるか、を考えて論じたのが後半部、ということになります。

◆◆◆

こうして全体の構成がつかめると、ではその論証が正当性を持ちうるか、という観点から、この小論を見てゆけることになります。

しかしここでいきなり、問題が起きるのです。
さきほど見たように、筆者が主眼をおいているのは、文学における「物語性の喪失」というものなのですが、この小論のどこを読んでも、この重要なことばである「物語性」というものが一体何であるか、ということが明確には書かれていません。

そのことに関連することとして、筆者が自分なりにでも最も意味を込めたであろう箇所は、以下の引用です。
「ここから文学が貴重なものを失った事実は、容易に首肯される。文章をひきのばす努力のため、簡潔と明快と生気がまず失われ、文章は冗漫になり、あるいはくどくなり、あるいは難解にして無意味な言葉の羅列になった。同時に内容の方では興味が失われ、ダルになり煩瑣(はんさ)になってしまった。これらをひっくるめて物語性の喪失と私はいいたい。」
どうですか、この論証で納得できるでしょうか。

しかもこの引用箇所の前に筆者は、新聞雑誌で「「私に課せられた題目は×××であるが、このような問題は与えられた紙数で論じつくせるものではない云々」」という断り文句から察せられるように、与えられた形式がその内容を書きつくせるほどに多くはないという面で、作家に与えられる制限を論じているにもかかわらず、この段になるとそれとは逆に、今度は、少ない内容をひきのばそうとさせるから内容が薄くなるのだ、などと言い始めます。

なぜこの踏み外しが起きたかといえば、それはほかでもなく、あらかじめ決められている筆者の主張に合わせるように、論拠となる事実を取捨選択しなければならなかったことによる、論理的強制からなのでした。

◆◆◆

ここで筆者の気持ちを汲み取って、形式的な制限が多かろうが少なかろうが、それが制限であることに変わりはないではないか、という意見を聞き届けることにすると――しかしこう認めると、やはり続く論証が成立しなくなってしまうのですが――いよいよ「物語性の喪失」について、筆者の主張を聞ける段になります。

先ほどの引用箇所をもう一度読んでみましょう。
そこには、「文章をひきのばす努力」というのは、形式面では、簡潔、明快、生気を失わせ、冗漫、くどさ、難解さ、無意味さへとつながった。それと同時に内容面では、興味を失い、ダル、煩瑣となった。これらを、「物語性の喪失」と言いたいのだ、とあります。

ここまで読んだとき、文章をひきのばすと内容も煩瑣となる、というところまでは意味が取れますが、それがなぜ直接的に、物語性の喪失であると規定できるのかがまるで書かれておらず、読者としては「とにかくこうなのだ!こうに違いない!」という筆者の思いは伝わるものの、理性として納得できないままになってしまいます。

仕方がなく先を読み進めることにして、筆者が後半部で述べているところを見れば、彼にとっての物語性というものは、いわば「ストオリイの面白味」であり、文学の中の、読者にとって面白さを感じさせる本質的な部分、という位置づけであることはわかるのですが、それでも「長編小説だからストーリーが面白くない」とは言えないのでは…というのが素直な実感ではないでしょうか。

わたしたちがひとつの文学作品を読むときのことを考えてみても、「この作品はこの1000字にも満たない文章表現で、よくここまでの人間心理を描写し得たものだ」とか、「この作品はなんだか長々と続いてはいるが、内容が薄くて読み進めるのが苦痛なほどに退屈だなあ」とかいう感想を持ちます。
これは他でもなく、文量の多寡と内容の面白さは相対的に独立していることを意味しているわけです。

文量が少ないからどうせつまらないだろうとか、これだけの大著ともなれば面白いに違いない、などといった予測は、現実の作品にぶつかってみれば単なるヤブニラミであることがはっきりします。

それは、物語性というものが実のところ、文章全体を広く見渡したときに、「こういう状況ならばこの登場人物もこのように行動するのも無理のないことだな」とか、「あのときの苦労がここで報われたのだな」とかいうふうに、読者にとって各所の部分部分が全体としての繋がりを無理なく保っており、その話が全体として合理性を持っているという、そのまとまりの性質を意味することばだからです。

全体としてのまとまりが合理的であるか否かは、文量が多いか少ないかとは関係がありません。

ですから物語性のありかを、直接に文章の形式に押し付けてしまっては、論証そのものが成り立たなくなるのも無理のないことなのでした。

◆◆◆

これらの問題が、なぜに起きてしまったのかといえば、筆者の文学についての捉え方のうち、致命的に欠けているものがあるからです。
それが何かといえば、筆者は、「認識」と「表現」というものが区別できていなかったために、それらの繋がりもまたわからなかった、ということです。

彼は、ジャアナリズムの要求する制限が作家の用意している素材と食い違っていることを、洋服屋との比較で論じようとしました。
「洋服屋には何呎(フィート)でも服地はある。だから大きい寸法には大きい服地をもって臨むばかりだ。しかし作家にはいつでも、いかなる寸法の註文にでも応じられる大小様々の素材のストックがあるわけではあるまい」、と。

この冒頭でいきなり、認識と表現との転倒が起きているのです。
というのは、作家がアタマの中に持っている素材、いわば作品のタネというものは、物理的な制限を持ったものではないのであって、その認識を表現に移し替える時には、それが1000字で表現されようと、10000字で表現されようと、それなりの柔軟性を持って変化させうるものだからです。

筆者の言い方は、作家があらかじめ用意してすでに完成した原稿を、ジャアナリズムの制限によって厳しく削られたり、文字が足りないからと勝手に付け加えられたりする場合には的を射ていますが、その作家が素材として持っている作品のタネという認識を、物理的に決まった広がりを持つ服地と直接に関連付けて論じることは、そもそも不可能なことなのでした。

また前半部ではジャアナリズムの制限を批判しておきながら、後半部で自らが、「何故口で語られる童話と紙に印刷される童話が全然別種なものとされねばならぬのか。私には紙の童話も口の童話も同じジャンルだと思われる。」と、形式など物語の面白さには何の関係もないと、当初の論拠をあたかも忘れ去ったような持論を展開してしまっているというのも、この認識と表現を区別と連関において捉えられていなかったことからくる踏み外しと言えるでしょう。

◆◆◆

この小論で筆者がやらなければならなかったのは、素直な直感から、おそらく大きな問題として捉えていた「物語性の喪失」というものの原因を、かたちとして目に見える文章の多寡などといった形式などではなくて、堕落したと見なした具体的な作品を正面に据えてより深く検討することによって、表現過程を逆向きに捉え返し、直接は目に見えない、その作者たちの堕落した認識のあり方にこそ見出すべきだったのです。

それをなしうるのは、わたしたちの言う「弁証法的な論理性」というものに他ならないのですが、文学の成り立ちに関するこういった小論においても、ごく基本的な土台(ここでは表現の過程的な構造)を踏まえておかないのならば、なにを積み重ねても墓穴を掘ることにしかならない、という恐ろしさをまざまざと見せつけられているかのようです。

さきほども認めた通り、おそらく新美南吉のみた問題、文学者の堕落、というものは、その道を歩むまともな人間ならば、看過できないほどのものであったのでしょう。
しかしだからといって、そのときの感情に引きずられて、身の回りにある「キライ・嫌い・好きじゃない」ものを自分勝手に取捨選択し、どうせこれが原因になっているに違いないと解釈して、持論を展開するための論拠として使ってしまうことになると、当初はまともな直感であったはずのものが、かえって明らかな誤りとして世に残ることにもなってしまうのです。

科学・唯物論を自認する人間でさえも、対象に自分の好きや嫌いを押し付けて、無茶苦茶な論証をでっち上げて恥を晒す人間が後を立ちませんが、これはひとえに、大きく言えば論理能力が欠如しているからです。
より具体におろして言えば、自分の感情を否定の否定で見ることができない、つまり客観視できない、自分の感情を一旦でも棚上げできない、ということに原因があるのです。
知識と論理の区別がつかないことは、感情と理性の区別がつかないことと、表裏一体の関係にあるのです。

わたしは常々、文芸を理解するのにも論理が要るのだ、人の感情を理解するのにも論理が必要なのだと繰り返し言ってきました。
はじめてこれを聞いた人たちは、感情を論理で切るとは…人間を機械か何かと勘違いしているのではなかろうか…この人はと見定めて弟子入りしたのに失敗だったか…と、やはり自分の感情を含めた「論理」ということばのイメージのままに受け止めてしまいますが、こういったことを論じてゆくなかで、わたしが何を伝えたいのか、ということも、しだいしだいにわかってきてもらえていると思います。

今回取り上げた筆者である新美南吉さんが同じ世代を生きている人ならば、直接会って互いに学びあいたいとも思いますが、それも叶いません。

ひとつ言えるのは、倫理的・道義的に正しい直感を持っているからといって、それを正しく把握し、正しく表現し、正しく人に伝えるためには、やはりそれなりの学問の土台が必要である、ということなのです。

つまり、認識と表現というものは、つながってはいるが他方ではそれとは別に変化しうる、相対的に独立したものとして捉えなければ、こんなに初歩の段階ですら踏み外しが起きてしまう、ということなのです。
初歩、つまり土台の段階で踏み違えたものに、いくら努力してつぎはぎをしてみても、それは結局砂上の楼閣にすぎません。

これを読んでいるみなさんにおいては、歴史にいちおうの名を残した人でさえこれくらいの理解でしかなかったのだと、自らの身を戒めるように、土台をしっかりと、足の裏の感触で確かめながら踏みしめるように、前に進んでほしいと思ってやみません。
優れた倫理や優れた道徳を持っている人こそ、それにふさわしいしっかりとした論理を身につけておかねばなりません。


※正誤
・鑑賞者を退屈される事を

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