2012/10/17

どうでもよくない雑記:いま出している問題の解き方について

一連の記事の途中ですみません。


前回の記事のさいごに出しておいた問題について、いくつか答えらしきものをもらったのですが、問題を解く以前のところで躓いてしまっている人がいるようですので、答えの公開を明日あたりに延ばして、ヒントらしきものを書いておくことにします。

「問題を解く以前」で躓いているというのは、おおまかに言って、出されている問題のことば、学問的に言えば概念、というものについての把握が、日常言語のレベルでしかないままに問題を解こうとしてしまっている、ということです。

たとえば、幼稚園児が大人から聞いて意味もよくわからないままに誰かを「愛している」ということばを使う時と、身分の違いを押して駆落ちをした二人が、老年になって相手のことを想って「愛している」ということばを使う時とでは、そこに込められている意味がまったく違っていることはわかってもらえるでしょう。

これを認識論の世界では、「像の厚みが違う」といって、表現は同じであってもその内容が質的に異なるものとして扱います。(認識と表現の相対的な独立)

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日常でよく使われることばでさえ、こういった違いがあるときに、同じことばが日常で用いられるときと、学問的に用いられるときとでは、よりいっそう意味が異なっていて当然であるということも、わかってもらえるのではないでしょうか。

しかしだからといって、いきなり学問的な規定を身につけようとしても近道というものは絶対にない(ここを受験秀才は、辞書的な定義をまる覚えすることで、その概念習得の長い道のりを「暗記」で済ましてしまおうとする傾向が強いのです)のですから、出発点としては、日常言語レベルの像として把握しておいてもよいのです。

その日常言語レベルの像から出発して、学問的な構造を含めたことばが概念として一語に要されている書籍や文章にぶつかりながら、学問的な世界ではこれだけの意味を込めてこの言葉を使うのだ、という説明を繰り返し繰り返し聞くことを続け、「ああ、私はことばの概念というものをあまりにも低く見すぎていたのだな」という反省を日々繰り返すことを通して、学問の道を歩んでゆくことになるのです。

ところがそれでも、せっかくこんな文字ばっかりのBlogを、貴重な時間を費やして読んでいるにもかかわらず――つまりこのことは、自分の生涯というものを、自分の仕事を趣味を、外に出しても恥ずかしくない文化のレベルでやっていきたい、本質的に歩んでいきたいという志が多かれ少なかれあるはずだと信じるのですが――像の捉え方についての反省が、あまりにも感じられない回答の仕方は、さすがにもったいなさすぎる、と思ってしまうのです。

しかしこうは言っても、先ほども確認しておいた通り、「像の捉え方が浅い」ということは、初心においては避けられないことですから、そのことを詰っているわけではありません。

わたしがここで述べたいのは、
「自分で使っていることば、言葉、コトバに、(自分なりにではあっても)しっかりと「過程」というものをふまえようとしていますか?」
ということなのです。

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いきなり学問の概念を扱うときの姿勢を身に付けることはできませんから、「ことばの持っている像の厚みがどういうものであるか」という視点を、まずは、日常生活においてでも常に確認し続ける習慣をつけてください。

たとえば「私たちってずっと友達だよね」ということばを使ったり使われたりするときに、部活動で部長・副部長の関係として、喧嘩しながらも互いの全力を出しきって支えあいながらの6年間を続けてきたという過程を脳裏に捉え返しながら発せられたことばなのか、今日うっかり忘れてきた絵の具を借りたいがために発せられたことばなのかでは、ことばの持っている重みや込められた感情、つまり過程というものが、大きく違っていますね。

自分の使う言葉、自分に使われている言葉を、常に、こうやって確認し続けるのです。
これは何の修練になるのかといえば、ことばの持っている像の厚みを、そのレベルに分けながらとらえ、また駆使するという力、大きく言えば認識の力を磨くためのものです。
最終的にはこのことが、確かな人格の形成につながるものとして、自分の人生に直接関わる重大事として取り組んでください。

以前に、「弁証法は世界の運動法則である」と言ったときに、「なるほど、だからあなたはいつも刀を振り回したり山を走り回ったりしているのですか」と合点した研究者がいました。

これはあまりにも…な例ですが、言わんとしていることはわかるでしょう。

この人は、<運動>という学問レベルの非常に高度な概念を、自分が日常生活の経験から身につけた「運動」、つまり「からだをうごかすこと」であるとしてわかってしまった、そういうレベルにまで引きずり下ろしてしまったことを全く自覚できないままにわかったつもりになってしまった、のです。

しかし学問の道を歩む者なら誰しもが、振り返ってみたときには多かれ少なかれこういう恥をかきながら前に進むことになるのですが、それでも同じ所で足踏みをし続けてしまわないためには、「今自分が使っている言葉が、どのような像の厚みを持ったものであるか、どのような過程性をふまえているものなのであるか」という観点は、絶対にわすれてはいけません。

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以下は、「あなたは過程性をふまえてことばを使うことができていますか?もう一度考えてみてください」という意図で、わたしが数人の学生さんに返信した内容です。


タイトルに、「〜は本当か」とあるということは、そういう一般常識があるけれども、事実ではない、ということを本文で述べようとしているわけだね。 
さて大きなつかみとしてそのような流れがあるとき、今回批判している考え方というのは、「やる気があればなんでもできる」、つまり根性論とか、良くて精神論、のたぐいである。 
こういう、精神があれば身体は勝手についてくる、という考え方をする人は、精神の力を極端に誇張して捉えるために、「やる気があればなんでもできる」と言うが、このことは裏を返せば、「やる気がなければなんにもできない」ということでもあるわけだ。
これが単なる藪睨みではないということは、気持ちを病んだらとにかく休ませるしかない、身体を動かすのはもってのほかである、引き篭もってもやる気が出るまでそのままにしておかねばならない、といった方針からも事実的に窺い知れることである。 
たしかに、やる気があれば、物ごとがうまく進むという事は事実である。
人間はアタマの中に目的意識を持って、その像を目指して行動するのだから、本質的な規定としても大まかには当然ということになろう。 
しかし他面で、このやる気というものは天から降りてくるようなものではなく、我々の頭脳という実体が作り上げているものに他ならないのである。 
以上のことを受けて、「やる気」を始めとする認識が、頭脳という実体のはたらきであるということは、それはどのような土台を持っているであろうか?、というのが今回のお題であった。そこをもう一度ふまえてほしいと思う。
あなたの答えを見ると、やる気が何らの前提も無しにいきなり存在しているかのような捉え方をしてしまっているけれども、そこはあくまでも、「過程」というものに着目しながら考えを進めなければいけない。 
学問レベルで実践に取り組みたい、組織に頼らず一人で仕事をする能力、簡単には手に職をつけたい、という理由で、わたしのところで修練を積むことにするとなると、弁証法を使って、その「過程」をこそ、相当に厳しく問うてゆくことになる。少しでもやるつもりがあるのであれば、そういう考え方に今のうちから慣れておいたほうがよい。

ここには、「あなたの実力ならばもっとよい答え方ができるはずなのに…」という思いも込められているのですが、読み取ってもらえているでしょうか。

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