またもや連載の途中ですみません。
前に会ったときに、論者が実に嬉しそうに自身の新しい発見について語ってくれていたので、我意気に感ず、というわけで、少しでも早くお返事をしたかったのです。
今回扱っている問題は少し難しいですが、人間の認識を本質的に理解したい、という場合いは、避けて通れないはずの問題に言及していますので、文学作品ともに読んでおいてほしいと思います。
◆文学作品◆
エドガー・アラン・ポー Edgar Allan Poe 佐々木直次郎訳 黒猫 THE BLACK CAT
◆ノブくんの評論◆
文学考察: 黒猫ーエドガー・アラン・ポー
「私」はもともと大人しく情け深い性質で、動物が大変好きでした。その為、鳥類や金魚や兎や「黒い猫」等を飼っていました。特に最後に挙げた獣は非常に大きく美しく利口であり、「私」の一番のお気に入りでした。ですが彼はいつしか、酒乱の為に自分の奥さんはおろか、可愛がっていた動物、そして自身のお気に入りだったはずの「黒い猫」にまで手を出すようになっていってしまいます。
そしてある時、とうとう彼はあるひょんな事をきっかけに憤怒(ふんぬ)し、「黒猫」の目玉をくり抜いてしまいます。しかしその時の興奮がおさまり我にかえった彼は、自分のしたことに対して後悔を感じはじめました。ところがやがてその後悔は消え去り、彼は再び暴力をふるいはじめ、遂には「黒猫」を殺してしまいます。
こうして「黒猫」を殺した後、彼は再び後悔の念に襲われる事になります。そして次第にその感情の強さ故に、自然と同じような猫を探し求めるようになっていきました。そんなある時、彼は酒場で自身が嘗て殺した猫と瓜二つのものに遭遇します。その猫と出会った瞬間、彼は迷わず持ち帰り、家で飼うことにしました。ですが、やはり彼の動物への虐待の習慣は抜けきっっておらず、嘗て「黒猫」を殺した時と同じ感情をこの猫に感じはじめていきます。しかし猫を殺した時の後悔がその時は強かった為、彼は猫に手をあげる事を我慢することにしました。
ですが、次第にそうした感情は強くなっていくにつれて、彼は猫に対してどういうわけか恐怖をも感じはじめ、とうとう猫を庇った奥さんと猫自身を殺して家の壁に塗りこんでしまうのでした。
そしてある時、彼の家に警官が来て、家宅捜索が行われました。ですが怪しいものは一切出て来ません。これに気を良くした彼は、警官たちの前で、「この壁はがんじょうにこしらえてありますよ。」と言ってわざと壁を叩いて見せました。すると、彼はどこからともなくあの忌々しい「黒猫」の声を聞き、慄いてしまいます。その様子を見ていた警官たちはすぐに壁を崩し、死体を発見したのでした。
この作品では、〈後悔の念が強いあまり、かえってそれ以上の失敗をしなければならなかった、ある男〉が描かれています。
この作品を一読した後、多くの読者は「何故主人公はあれ程までに猫を殺した事を後悔していたにも拘わらず、それ以上の失敗をしなければならなかったのか」という大きな疑問を感じるのではないでしょうか。その理由を考えるにあたって、私は彼の感情の揺れ動きに着眼しました。というのも、彼は猫と関わっている時、いない時に拘わらず、恐らく酒乱し猫を傷つけた時点から、彼の精神は極めて不安定になっていき、そこが螺旋階段を転げ落ちるように、転落しなければならなかった要因になっているのではないかと考えたからです。
そこでここでは順を追って、彼の行動と感情を軸に、何故彼が猫を殺さなければならなかったのかを見ていきましょう。そもそも彼は酒乱の為に、猫自身に虐待するようになっていきました。ですが、この時はまだ猫の中には彼の怒りをかう要素は全くなく、単なるとばっちりに過ぎなかった、と言って良いでしょう。そして次第に虐待はエスカレートしていき、遂には「黒猫」の目玉をペンナイフでくり抜いしてしまいます。そこから彼は「黒猫」に対して、後悔の念を感じはじめます。ところがそうして後悔を感じていくにつれて、その後悔はやがて怒りへと転化していきます。これはちょうど、私達が昔の失敗を友人達に掘り返される心情に似ているところがあります。幾ら、その事を後悔しているとは言え、その友人が第3者か当人であったかに拘わらず、数度、数十度と言われれば、怒りがわいてくるものです。この作品の主人公もそれと同じで、直接的に掘り返されずとも、「黒猫」を見る度に、嘗ての恐ろしい自分を思い出し、いつしかしつこく責めたてられているような心情になっていったのです。やがて、ある時点で彼のその怒りは頂点に達し、「黒猫」を殺してしまったのです。
ですが、再び同じ失敗をしてしまった彼は、再び後悔の念にとらわれていったのです。感の鋭い方はもうお分かりでしょう。彼はこうして、自身の心の中で後悔と怒りとを交互に感じていき、しどろもどろになっていったのです。ですが、ただ同じ繰り返しを心の中でしていたわけではありません。1度目の失敗と2度目の失敗とでは、後者の方が罪がより大きくなっているわけですから、後悔の念もより大きくなっており、それだけ猫を見た時に感じる気持ち(自分で自分を責める気持ち)も大きくなっていったのです。すると、今度はその後悔の念が大きすぎるあまり、その怒りに加えて、恐怖を感じていくようになっていきました。こうして「黒猫」は彼の心の中で、彼の存在を脅かす、まさに魔物と化していったのです。だからこそ、彼は是が非でもその魔物を再び退治して、自分の身を守る必要があったのでした。そしてそうした念の強さあまって、彼はなんの関係もない奥さんまで殺してしまったのです。ですが、いよいよ後悔と恐怖の念が強くなっていった彼は、壁を叩いた瞬間、つい自分がしてしまった事の恐ろしさを改めて感じてしまったのでしょう。その時、彼は自分の心の中の猫の像から、「黒猫」の声を聞いてしまい、つい慄いてしまい、つかまってしまったのです。
このようにして彼は、後悔と怒りと恐怖を複雑に感じていくにつれて、殺人という大罪を犯してしまったのです。
※余談
またこの作品の不気味さというものは、こうした彼自身の心情の変化の他に、著者自身の描写力からきています。というのも、この作品は主人公である「私」の一人称視点から物語られています。そして主人公は自分が殺人を犯し他人に見つかるまでの過程の中で、2匹目の「黒猫」に対して、1匹目の「黒猫」に自分がつけた痕が日に日に浮かび上がってくる、壁に埋めたはずの猫声を聞く、等の奇怪な現象に遭遇します。その描写はどれもリアリティがあり、恐ろしいながらも、つい目を休めてしまうことを忘れていくことでしょう。ですがもし一般の作家が同じ場面を書いたならば、「あたかも」、「まるで」など、それは主人公だけにしか見えていなかったのだ、という含みの言葉を用いて、作品自体のリアリティを削いでしまうことはないでしょうか。そして、もしそういった言葉を使わなかったとしても、ここまでリアリティある言い回しになっていたのでしょうか。
そう、こうした場面は作品の世界では起こっていないが、主人公の頭と「読者には」そう見えていなければならない。また、後に「あれは主人公の頭の中でしか起こっていないのだ」ということを「読者にだけは」理解させなければならないという、複雑な場面なのです。
こうした場面を描ききってしまい、私達にリアリティがあるけど、作品の中でこの描写が起こっているのではなく、主人公の頭の中で起こっているのだ、と理解できるのは、この著者の手腕がそれだけ確かな事への証明にもなっているのです。
◆わたしのコメント◆
物語は、明日絞首刑となる「私」が、彼がなぜそうなる運命となったのか、ということについての省察が、遺書として書かれることで展開してゆきます。
子供の頃にはおとなしくて情けぶかく動物好きだった彼でしたが、成人してから一匹の猫と親しみを深めた頃に転機が訪れます。彼はその頃、酒癖のために気むずかしく癇癪もちになり、彼の手荒さに驚いた猫がその手を噛んだことに怒り、その眼窩から片眼をえぐり取ってしまうのでした。次の日の朝、冷静になった彼は恐怖と悔恨の入り混じった感情を持ちますが、それも長くは続きません。結局、そのうちにいくらか回復してきた猫を見たとき、彼は、猫を木の枝に吊るして殺してしまうのでした。それはなぜかを刑の執行を明日に控えた彼が見るところによれば、その時の彼には天邪鬼の心持がやってきたのであり、それは、悪のためにのみ悪をしようとするという不可解な切望、であるというのです。
その晩、原因不明の火事で彼の自宅は焼けてしまうのですが、焼け残った壁には、なんと巨大な猫の姿が現れているではありませんか。そのことはさらに、彼を恐怖させ、追い詰めてゆくことになります。しかしその間にも彼の心の中には、悔恨に似た感情が戻ってきており、酒場で一匹の黒猫を見出します。ところが彼は、その猫を連れて帰ったとき、それが片眼であることを知ると、自分自身のかつての罪悪を思い出し、それを恐怖するようになるのです。その感情は、猫の首の模様が絞首台の形に見えたことで憎しみへと変わり、ついには黒猫をかばった妻を殺してしまうのでした。
彼は妻を、半乾きのしっくいの壁に塗り込めひた隠しにしていましたが、警官が自宅を訪れた際に聞こえた金切り声によって、その凶行が明るみに出ることになったのです。彼はいま、獄中で述懐します。黒猫の奸策(かんさく)が私をおびきこんで人殺しをさせ、そのたてた声が私を絞刑吏に引渡したのだ、と。
◆◆◆
評論へのコメントを始める前におことわりしておきたいのですが、この文学作品の筆者であるエドガー・アラン・ポーという作家は、わたしたちが私淑し学んでいる三浦つとむという科学者が、その論理性を認めて再三引用している人物です。
直接作品に向きあってみても、そこからは、この筆者、なるほどたしかに理性の人、という緻密な構成が見て取れることから、文学作品をもその論理性を読み取ろうとするわたしたちにとっては、「避けては通れない作家」であるのです。
今回の作品は、表面上は探偵モノではないだけに、真犯人が明らかになるという直接的な記述はありませんが、それでもわたしたちに、この謎を解明してみせよ、と告げているかのような箇所が出てきます。
この作品の書き出しの一節には、以下のようにあります。
(私がこれから書こうとしていることはきわめて奇怪なもののように映るであろうが、)誰か私などよりももっと冷静な、もっと論理的な、もっとずっと興奮しやすくない知性人が、私が畏怖(いふ)をもって述べる事がらのなかに、ごく自然な原因結果の普通の連続以上のものを認めないようになるであろう。ここでは、この物語の主人公は、自分自身の凶行が、単に狂人の発作的な、非連続的で非合理的なものであるというのではなくて、そこに何らかの理由があり、原因があり、そしてそれらを合理的な連続性として見出すようになるであろう、と述べているわけです。
この箇所は、その凶行の結果、絞首刑になろうとしている主人公が、冷静に過去の自分の暴力を振り返って述懐しているので、理性的な傾向が強いものとなっています。
しかし同時にこの箇所は、作家自身が主人公の口で、この物語の読み方というものを示しているとも受け止められますから、わたしたちもそのとおりに、この作品を、単に恐ろしい物語、単なるホラー小説としてだけ受け止めるのではなく、あくまでもそこに、理性の光を照らしながら解いてゆかねばなりません。
◆◆◆
さてその問題意識は論者も共有するところであり、彼は「何故主人公はあれ程までに猫を殺した事を後悔していたにも拘わらず、それ以上の失敗をしなければならなかったのか」と問いかけ、その問題を解く鍵を、主人公の感情の揺れ動きに見出そうとしています。
そうして論者は、「後悔」が「怒り」へと転化し、その結果の凶行がさらなる「後悔」の念として主人公の脳裏に刻み込まれていったことにより、最悪の結果を招いたのだ、という過程的な構造を、その転化に力点を置きながら論じています。
特にその傾向は、人間というものは一般的に言って、過去の失敗をいくら「後悔」してはいても、第三者から何度も何度も指摘されることになると「怒り」にも転化するように、この物語の主人公も片眼の猫を見るたびに良心の呵責に苛まれたために、最終的にはその悩みの元を断とうとしたのである、という論証部に顕れています。
ただこの類推は、精確に言えば注意を要します。
というのも、過去の失敗を詰られて湧くところの怒り、というのは、第三者からの再三の指摘に対して向けられたものなのであって、過去の失敗そのものに対してではない、からです。
それに対して、この物語の場合で描かれているのはこういうことです。
私は、前にあんなに自分を慕っていた動物がこんなに明らかに自分を嫌うようになったことを、初めは悲しく思うくらいに、昔の心が残っていた。しかしこの感情もやがて癇癪に変っていった。他でもなく自分が眼をえぐった黒猫を見るたびに沸き起こる自責の念が、やがては自らをあまりに苛むようになっていったために、自分自身で受け止められなくなり、それは癇癪に変わっていき、最終的には悩みの種である黒猫の存在そのものを消そうとした、ということが書かれています。
整理して言えば、前者における筆者の類推は、過去の体験像そのものは第三者からの指摘を受けてもさほどの変化がないのに対して、後者の物語中の転化の構造は、主人公の持つ黒猫像そのものの転化である、ということになるわけです。
これらは、その構造面からいえば、残念ながら、まったく一致するとは言えないものになっています。
◆◆◆
さて類推の成否はいちおう棚上げするとしても、論者は評論全体を通して、主人公の内面における後悔から怒りへの転化、またそれに類する感情の転化を中心に論じており、感情の転化を扱おうという姿勢と、弁証法を使って過程的な構造をたぐろうとする努力が見られることは一定の評価に値するものです。
しかしそれだけでは、この物語の理解は片手落ちになってしまうのです。
その理由はなにか?と尋ねられれば、わたしが答えずとも、上記した引用部の続きが語ってくれています。
長文になりますが、物語の本質を理解するためには避けて通ることができないゆえに、問題となる箇所をすべて引用しておきましょう。
それから、まるで私を最後の取りかえしのつかない破滅に陥らせるためのように、[天邪鬼]の心持がやってきた。この心持を哲学は少しも認めてはいない。けれども、私は、自分の魂が生きているということと同じくらいに、天邪鬼が人間の心の原始的な衝動の一つ――人の性格に命令する、分つことのできない本源的な性能もしくは感情の一つ――であるということを確信している。してはいけないという、ただそれだけの理由で、自分が邪悪な、あるいは愚かな行為をしていることに、人はどんなにかしばしば気づいたことであろう。人は、掟を、単にそれが[掟]であると知っているだけのために、その最善の判断に逆らってまでも、その掟を破ろうとする永続的な性向を、持っていはしないだろうか? この天邪鬼の心持がいま言ったように、私の最後の破滅を来たしたのであった。なんの罪もない動物に対して自分の加えた傷害をなおもつづけさせ、とうとう仕遂げさせるように私をせっついたのは、魂の[自らを苦しめようとする]――それ自身の本性に暴虐を加えようとする――悪のためにのみ悪をしようとする、この不可解な切望であったのだ。ある朝、冷然と、私は猫の首に輪索(わなわ)をはめて、一本の木の枝につるした。――眼から涙を流しながら、心に痛切な悔恨を感じながら、つるした。――その猫が私を慕っていたということを知っていれば[こそ]、猫が私を怒らせるようなことはなに一つしなかったということを感じていれば[こそ]、つるしたのだ。――そうすれば自分は罪を犯すのだ、――自分の不滅の魂をいとも慈悲ぶかく、いとも畏るべき神の無限の慈悲の及ばない彼方へ置く――もしそういうことがありうるなら――ほどにも危うくするような極悪罪を犯すのだ、ということを知っていれば[こそ]、つるしたのだった。彼によれば、彼自身を最後の破滅に導いたものは、「天邪鬼の心持」、であるというのです。
(引用者註:文中太字は[ ]に置き換えた)
最後の破滅に導いた、と言うからには、この物語を理解するためには、ここを避けては通れない、と受け止めるべきでしょう。
この人間の心に巣くうその原始的な衝動は、人間の一般的な感情のあり方とその行動が、「すべきであるからする」、「したいからする」という繋がり方を持っていることに反して、「してはいけないからする」ことを要求するのだ、というのです。
この「天邪鬼の心持」なるものを持ったればこそ、彼においては、「猫が自分を慕っていたからつるした」、「猫が自分を怒らせるようなことをしなかったからつるした」、「自分の魂を神の無限の慈悲さえ届かなくするためつるした」、と、一般にはまったくの逆説ともとれることが言える、というわけです。
◆◆◆
この物語の主人公は、表向きでは、飼い猫の眼をえぐり首を吊り、最後には妻を手に掛けるという凶行をしていながら、その時々では極めて冷静に、自分自身の行いを理性的に見ることができていることが、ここから読み取れます。
眼の前で凶行をふるう自分と、それをあたかも背後から冷静に客観視し、後には理性的に分析するという、いわば引き裂かれた(ように思われている)内面を持つ主人公であったればこそ、事に及ぶ際にも「眼から涙を流しながら、心に痛切な悔恨を感じながら、つるした。」といった状態とならざるをえなかったことがわかります。
彼が、天邪鬼の心持というものを哲学は少しも認めてはいない、と言うのは、大まかに言って、哲学者や心理学者などといった学者は、「すべきであるからする」といった合理的な行動の原理はそれなりに解き明かすことができても、実際の人間には「すべきでないからする」といった非合理的な側面も含まれているということを認めたがらない、と言っているわけです。
筆者であるポーは、人間存在についての本質を作家としての感受性でつかまえた上で、主人公の口にこう述べさせているので、たとえこの物語が現実には実在しないものであるとはいえ、それでもこの作品が読者に少なからぬ恐怖をもたらして、なおかつそうして世に残っていることを考えれば、この物語で描かれている人間の感情のあり方も、ひとつの合理性を持ったものとして正面に据え検討しなければなりません。
ここを「所詮フィクションだから」と言って、人間感情は永久に不可解であるということを前提として認めてしまったり、その問題を問題として認めずに逃げてしまっては、人間の認識が持っている構造は、永遠に闇に閉ざされたままとなってしまいます。
ひとつの文学作品がフィクションという体裁をとっている限り、その世界は事実のそのままの忠実なかたちをとってはいませんが、それでも、現実的であるのでなければ、ひとつの作品足りえるはずがないのです。
フィクションの世界でも、人間は大気を吸い込み食事をし、他人と関わりながら生活を送るなかで時には恋をし裏切られ友情を育み感情を揺さぶられる存在なのであって、その他の自然・社会・精神のありかたも、作者の認識にすくい上げられた法則性がその世界に持ち込まれているからこそ、現実的なものとなり、実際に現実を生きながらそれを読むわたしたちの糧となるものなのです。
ですからここでの問題は、現在の認識論は、この問題を解きえないのだろうか?ということになります。
◆◆◆
そういう姿勢でこの問題を解くにあたって、まず一つ目の落とし穴は、「人間存在の行動原理において、「すべきでないからする」という非合理はあり得るであろうか?」といったふうに考えてしまうことです。
この考え方のなにがいけないかといえば、すでにここまで抽象化してしまった概念を、いくらこねくり回したとしても、結局のところ「非合理」という概念とアタマのなかだけで格闘してしまうことに始終し、いくら考えても形而上学的な結論しか出てこないから、なのです。
アタマのなかで創り上げた図式を現実に当てはめて、お前の抱いている感情は理屈に合わないから異常である、などと分類して病名をつけるのが心理学や認識論の仕事であると言いたいのならもはや止めはしませんが、自分自身の人格にかけて人間の認識を科学的に見てゆこうとするのなら、どんなに難しくても、どんなに原因が究明できずに苦しくても、あくまで、眼の前の現実にそのままのかたちで向きあって、そこから論理を引き出す、ということでなければなりません。
◆◆◆
そう断った上で、この問題を考えてゆく前に、まずわたしたち人間の認識が持っている一般的な性質を押さえておきましょう。
一般的な性質といっても、この理解が土台となって続く理解を下支えするのですから、「当たり前すぎてつまらない」などと言って軽視しないようにお願いしておきます。
さて、わたしたちがたとえば澄み切った海を見たときのことを考えてみてください。
ある人は、こんなところで泳げたらさぞかし気持ちがいいだろうなあ、と思うのに対し、昔溺れた経験のある別の人は、足を踏み外したら死んでしまう!という恐怖の念を呼び起こしながらそれを見るでしょう。
ほかにも、同じ犬を見るときにでも、愛犬家が見るそれと、昔犬に噛まれたことのある人間が見るそれとでは、その認識が描き出す像に、質的な大きな開きが出てきます。
ここから読み取らねばならないひとつの論理は、わたしたちがアタマの中に描き出す像というものは、それがいわゆる五つの感覚器官を通して、ひとつの像として合成されることを繰り返して発展させられてゆくという性質を持っている以上、そこには感情というものが少なからぬ影響を与えているということです。(ここでは、感情の生成・発展についてはひとまず棚上げしておくことにしましょう)
昔犬に噛まれた経験のある人が、犬を見るたびに「ああ怖い」、「噛まれたらどうしよう」、「狂犬病の致死率は100%だと聞いたしなおのこと恐ろしい」などなど、「怖い!」という感情をそこに感じ続けながら像を繰り返し繰り返し受け止め発展させてゆくとなったときには、彼女や彼にとっての「犬」の像は、不快なイメージを多分に伴ったものとして出来上がってゆきます。
このことは、さして実害のないはずの昆虫に異常な拒否反応を示す人たちの存在や、食わず嫌いというもの、また四六時中手を洗っていなければ気が済まない、といった潔癖症などといった実例からもわかってもらえることだと思います。(ちなみにいえば、こういう感触を「生理的に嫌い」という事実は、精神的なあり方が生理面にも浸透していることを暗に陽に把握してのものです)
ですから、この物語の主人公という人は、かつては愛していたはずの黒猫「プルートォ」に、酒の勢いで片眼をえぐるという凶行に及んだあと冷静になり、その猫を見るたびに、そこに恐怖、悔恨、悲しさといった感情を重ねて「プルートォ」像を創りあげていった、というわけです。
◆◆◆
本文での描写を見てみましょう。
朝になって理性が戻ってきたとき――一晩眠って前夜の乱行の毒気が消えてしまったとき――自分の犯した罪にたいしてなかば恐怖の、なかば悔恨の情を感じた。が、それもせいぜい弱い曖昧な感情で、心まで動かされはしなかった。私はふたたび無節制になって、間もなくその行為のすべての記憶を酒にまぎらしてしまった。この「プルートォ」像がマイナスイメージを持ったものとして固定化されることが自覚されるようになるとともに、彼は再び、その像と正面から向き合うことから逃げるようにして、さらに酒をあおることになってゆきました。
この感情の転化の過程に着目すると、彼は、人間としての真っ当なあり方を知らないわけではなく、むしろ酒が抜けて冷静になった時には、かつての愛情深かった自分や、その自分に懐いていたプルートォの姿をありありと思い浮かべることができるからこそ、その葛藤に悩まされていたことがわかります。
言い換えれば、ここでの彼の中には、人間として、飼い主として「するべきこと」は、なんらかのかたちで自覚されている、というわけです。
しかし行動をみれば、彼は「するべきこと」ではなく、実際には「するべきでないこと」を「やって」しまったのであり、こここそが問題の焦点となっているのでした。
このような、「するべきこと」と「するべきでないこと」の相克がひとつの精神の中に現れているとき、その構造はどのようになっているのでしょうか。それを、考えてゆかねばならなくなります。
◆◆◆
この問題を考える時、わたしたち人間が、今のままの状態を続ければ、「このままでは自分がだめになってしまうだろう」という見通しが立つ場合のことを考えてみてください。
たとえば、期限が迫る資格試験を前にして友人と遊んでばかりいて不合格が確実になりそうなときや、1日に一箱もの煙草を吸っておりこのままでは健康を害する危険性が高まりすぎている場合がそれに当たります。
こういう場合、わたしたちのアタマの中には、それまでの習慣が転化したところの実感としての「やめたくない」という思いがあることに対して、内面からの「しかしどこかで生活の過ごし方を変えなければ…」という思いもが存在することになります。
これらをそれぞれ認識論では、<自由意志>と<対象化された観念>と呼びます。
ここで特に注意を要するのは後者でしょう。
この<対象化された観念>というのは、自分を客観視してみたときに、「このままではいけない」と思われる場合には、自分が自分自身の力で、惰性的な運動を続けようとする自由意志に反して、それとは別個のものとして創りあげる場合もありますし、主治医の、「このままでは肺癌のリスクが相当に高くなりますよ」というアドバイスが、自分のものとして受け止められることによって創られる場合もあるということを指します。
ここでは一つの固定化された観念として、自由意志に「〜すべきである」や「〜するべきではない」といったかたちで働きかけることから、観念の対象化されたもの、つまり<対象化された観念>と呼ばれているわけです。
これらの場合には、自由意志と対象化された観念は、あくまでもひとつの頭脳を実体とする精神の働きの中に、敵対的な関係として両立することになりますから、この対立は、どちらかがどちらかによって消滅させられるまで続くことになるのです。
資格試験に合格したいという目的意識が強ければ、対象化された観念が自由意志へと浸透しそれを作り替え、最終的には友人との付き合いを試験日以降にまで先延ばしするという行動を導くことになりますし、健康でいたいという目的意識が強ければ、異常化した生理面を整えるのが困難な場合には治療が必要であるとはいえ、やはり構造としては同じような過程をたどります。
この過程を結論からいきなり見てしまうと、「やりたくない」という意志と「やった」という行動が直接的に地続きに繋がっているように見えるために、あたかも「やりたくないからやった」という非合理的な因果関係が現象しているように見えるのです。
ですからそこに、まるで悪魔が地の底からはい出てきて乗り移った、などといった解釈の余地が入り込んできてしまうのですが、このことは作中の表現からも読み取れるところです。
実はこれが、今回の問題で扱った、非合理的な精神現象、「天邪鬼の心持」というものの正体なのです。
◆◆◆
この過程を正しく整理すると、遊びたい、煙草を吸いたい、つまり「やりたい」という自由意志は、ひとつの目的意識を契機として、「〜するべきである」や「〜べきでない」といった対象化された観念を一時的に創り上げ、その対象化された観念との矛盾が、双方のうちどちらかが消滅したり中和することによって解消されることによって、最終的な行動に繋がってゆく、ということになります。
この、内面における葛藤というものが持つ過程において注目しなければならないのは、自由意志がいきなり行動に移されるのではなく、(どの程度浸透するのかということはさておき)対象化された観念が媒介として働いている、ということです。
作中で触れられている「天邪鬼」という精神現象も、この自由意志と対象化された観念という、精神における二重構造をその浸透過程から見てゆくことができれば、「「してはいけない」ということが他方ではわかっていつつも自由意志がその浸透を阻むほどに異常化している」ことによる現象だと理解できるのです。
この物語の主人公は、行動としては凶行を働いておきながら、もう他方ではそれを、あるべき人間観に照らして涙を流しながら行ったり、また客観視してその原理を観察したり分析したりといったふるまいを見せることから、読者にとってはさらなる不気味さを喚起しているという効果を生んでいますが、実のところこの二面性は、質的に異常化した自由意志のほうが対象化された観念の浸透を拒み続けている、という精神のあり方がそのように現象しているものなのだ、ということになります。
(自由意志の異常化が何なのか、については、作中での主人公がどういう生活を送っていたかでわかってもらえると思います)
◆◆◆
この作品の筆者であるポーは、主人公に「私は事実のつながりを詳しく述べているのであって、――一つの鐶(かん)でも不完全にしておきたくない」と言わせ、彼の異常な行動と理性という二面的な性格を浮き彫りにさせていますが、ここで働いている理性というのは、他でもなく著者自身のものであるようにも読み取れます。
筆者は、他の作品でも「天邪鬼」という精神作用についての論考を盛り込んだ作品を書いており、そのさまは、人間の精神を探究する過程で得た知見を、個々の小説というかたちを借りて披露しているようにさえ思えるほどです。
(事実、そのものズバリの『天邪鬼』と題された作品では、精神についての論考が作品の文量の半分以上を占めるまでになっています。岩波文庫『黒猫・モルグ街の殺人事件 他五篇』に所収)
この理性の人にあっては、やはり個々の作品は、異常・正常のどちらを扱うにせよ、精神についての探究を下敷きにして描かれているために、それなりの認識論の能力がなければ、表面的な見方にとどまってしまうものです。
先にも引用した通り、筆者が、主人公の口を使って言わしめた「誰か私などよりももっと冷静な、もっと論理的な、もっとずっと興奮しやすくない知性人が、私が畏怖(いふ)をもって述べる事がらのなかに、ごく自然な原因結果の普通の連続以上のものを認めないようになるであろう。」ということばは、まるで、「できることならこの謎を解いてみてほしい」と言っているかのように聞こえます。
この小説にも、筆者が、その感受性でつかまえた「天邪鬼」という精神現象の不思議が、ある程度までの探究とともに記されてはいますが、それでも、それはとても「ごく自然な原因結果の普通の連続」とはとても思えない、という実感があったように、筆者自身にとっても解ききれない謎として残った、ということだったのでしょう。
筆者の理解がそのような段階でとどまっていればこそ、この物語で描かれている心理描写を本質的に理解しようとする時には、作中の説明をそのまま横滑りしてしまっても、解きえない問題が残ったままになってしまうのです。
ですからその、経験的にはいかにもありそうでありながら、しかし論理的には説明のできない現象、つまり「天邪鬼の心持」を、現代の認識論の段階で読み解いた上で、筆者の言わんとしたが明確には把握しきれなかったところまでを、一般性として明確に提示することこそ、筆者の達成した文化をまともに受け継ぐことであると言えるでしょう。
◆◆◆
この先は、なかなかに難しいとは思いますが、それでも論者に考えてもらいたいために、一般性まで論じることは現時点ではやめておきます。
ただヒントとしては、以上で見てきた「天邪鬼の心持」が何であるか、ということの理解と、「黒猫」がそこにどう関わってくるのか、という問題は避けて通れない、ということは述べておきたいと思います。
先ほど上げておいた長文の引用部分以降は、実はホラー小説の体裁を保つために必要であった部分、という位置づけでしかありません。
そもそもを言えば、アメリカのホラー小説、ホラー映画をみれば了解される通り、そこでの精神現象の描かれ方、特に精神異常の描かれ方というものはまったく過程的でなく、一言でいえば突発的な、「悪魔が乗り移る」といったものがほとんどです。
これは、宗教的な影響や、アメリカの持つ学界的な風潮、特に心理学会の持つそれが客観主義一辺倒であることと、個別研究を重視しすぎるあまりに構造的な把握の段階にまで進んで行かないことなどで醸成されている世界観なのです。
例えばスティーブン・キング原作、スタンリー・キューブリック監督の映画『シャイニング』はごく普通の夫が殺人鬼に豹変し妻子を襲うといった映画ですが、最期まで観ても、「なぜ豹変したのか?」は結局まったく描かれないままです。
視聴者の中にはこういう作品を見て、「なぜだかわからないが怖かった」と満足できる人もいるようですが、一部の人は、「怖いのは怖いが、あの人はなぜああなったの?」と、その根本的な理由を知りたがるはずです。
そこを、アメリカのほとんどの作家や演出家は、「悪魔が乗り移ったから」として済ませてしまうわけですが、文化的な背景の違うわたしたちは、その説明では到底納得がゆきません。
しかしこの著者であるポーはさすがで、そこを彼なりの「天邪鬼の心持」の理解を土台としながら、ホラー小説として表現する、というやり方をとりました。
彼がこの作品をホラー小説たるために工夫した表現には、以下のようなものがあります。
(括弧内は原文。参照:“The Works of Edgar Allen Poe, Volume 2”内、“The Black Cat”。iPadのiBooksアプリでも無料で読めます。)
・プルートォ(Pluto; 冥界の神)
・魔女(black cats as witches)
・酒癖という悪鬼(the instrumentality of the Fiend Intemperance)
・悪魔のような憤怒(The fury of a demon)
・悪鬼以上の憎悪(a more than fiendish malevolence)
・天邪鬼の心持(the spirit of PERVERSENESS)
・この妖怪(this apparition)
ところが、国民的な風土に合わせたこの工夫の中にはどうしても、「悪魔憑き」的な発想が出てきてしまうために、その表現に引きずられて、彼の「天邪鬼の心持」についての理解は、自分自身の魂があたかも他所から来た邪悪な魂に取って代わられたかのような、現象論的な制限を受けざるをえないことになってしまったのです。
ちなみにいえば、「天邪鬼」という訳語だけを見ると、わたしたちは日本語で、「ひねくれた」といった意味のことばとして受け止めることになります。
しかし原文を見ると、これは“PERVERSENESS”であり、これが“per(完全に)+verse(回す)”という成り立ちをしていることからもわかるとおり、「逆さにひっくり返した」、という意味で使われていることもわかるのです。
(英語はじめ外国語が苦手な人は、まずは語幹に“verse”を持つ単語を逆引きで調べてみてください。外国語の単語も、実は漢字の熟語と同じような仕組みを持っていますので、接頭語と語幹の意味を押さえれば、知らない単語にぶつかっても意味を類推できるのです。)
この作品を日本語に翻訳した訳者は、全文をしっかりとしらべて“PERVERSENESS”を「天邪鬼」と訳したので、これは実にぴったりの訳語であると言ってよいのですが、しかし先ほどその構造に立ち入って調べてきたように、実はこの言葉は、「すべきだからする」のではなしに「すべきでないからする」という非合理的な行動原理を一言に要したものである、ということは、物語の本質的な把握のためにもしっかりとふまえておきたいものです。
※正誤
・虐待の習慣は抜けきっっておらず、
・そもそも彼は酒乱の為に、猫自身に虐待するように→猫自身を虐待するように
・リアリティがあるけど、→リアリティがあるけれども、(「けど」は口語表現)
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