2011/05/09

どうでもいい雑記(メンテナンスモード)

【追記】画像のサイズがおかしくなっちゃいますね。URLタグを手直しするのもめんどうなので、不具合がなおったらなおします。

【追記2】いろいろと試してみたところ、
ダッシュボード>設定>投稿エディタを選択>以前のエディタ
を選択すると、とりあえずは編集ができるようになることを確認しました。
編集画面を新しいバージョンに更新するところなのかもしれません。

◆◆◆

今日は図書館がお休みで、そこそこ人間らしい生活です。
GW中はけっこう時間をうまく使えたので、やり残した仕事はなし。これは嬉しい。


ところがどっこい、この時間を有意義に使おうと、
書き溜めた記事を掲載したり、iPad 2のレポートなんかも更新しようと思ったら、
Bloggerのシステムがおかしくなっているらしく、Macからだと満足に書き込めない。。

でもせっかくだから、できることはやっておこう。
本当の力が試されるのは、異常時なればこそ。
iPadの実力を見せてもらおう。

◆◆◆

今回のモデルの目玉はなにかといえば、薄型化や軽量化なんかよりも、
「Smart Cover」のほうがずっと大きな意味合いを持っているように思う。

通称「風呂の蓋」と呼ばれるこれ、画面のカバーなのはもちろん、スタンドにも使えるのだ。
そういうわけで、蓋がどれほどスマートなのかというテストも兼ねて、
届いたばかりのiPadには早速働いてもらうことにする。カバーを折りたたんでスタンドにし、Bluetootheキーボードを接続。

わ、これはだめだ。

スタンドの傾斜が急すぎて、背筋を伸ばしたままだとタイプしにくくて仕方がない。
スタンドの下になにか噛ませるか、iPad本体と距離をとるかしないといけない。
このスタンドの斜度からすると、動画の再生に使えということなのだろう。
昨日のiPhoneスタンド風のiPadスタンドも作ろうかな。

◆◆◆

いちばん期待していたのはSmart Coverだったので、個人的にはちょっと惜しい。
でも、タブレット型のコンピュータをはじめて触る方にとっては、
しばらくはこれ以上の最適解は現れなさそうだ。

次はやれ3Dだ、Retinaディスプレイだと噂だけが一人歩きしがちなiPad 3も、
ミーハーの期待を裏切ってこのホームファクターを継承したとしても、なにもおかしくはないだろう。


初代と違う点で、あまり触れられていない点を書いておく。
・画面については、初代よりも色調が白い。
…大手メディアは、こぞって綺麗になったと言っていたが、初代のほうが色が深くて綺麗だ。
今回のディスプレイはコスト削減なのか、初代よりも黒に深みがなく、白っぽい。
わたしは初代に引き続き黒モデルを選んだので、色温度の影響はほぼないため、
初代は手元にないけれどそこそこ正確なことを言っていると思う。
ただ、指紋がつきにくくなったことは良い点。

・スピーカーについては、初代よりも音がこもる、シャリシャリする。
…これも、大手メディアは音質が良くなったなどと言っていたが、どんな耳をしているのだろうか。
音質に加えて、本体のデザインが変更されたために、iPad 2のスピーカーは、斜め向こうを向いているから、
どこかに反射させるのでなければ、ユーザーの耳には音が入りにくくなってしまっている。
床にベタ置きするのでなければ、なにか反射板をつけるなりしたほうがいいだろう。
もっとも、モノラルスピーカーでしかないから、どちらにせよ過度の期待には値しないのだけど。

◆◆◆

しかし、大手メディアというものは、あまり当てにならないものなのだろうか。
わたしはよくも悪くも色キチガイだから、たとえばMac OS Xが10.6になったとたん、
色味がとんでもなく変わってしまったことを気持ち悪く感じ、
原因を探して探しまくった挙句、標準のガンマ値が変わったことを確認してほっとしたような人間であるから、
一見したところの違和感というものの理由が明らかになるまで心安らかでない。

音についてもやはり近しいものがあるが、こういう感覚は、日頃の過ごし方が認識へと転化しているものだ。
音感などというものは、あるかないかではなくて、その間には決して同一視できないほどの開きがある。
こういったことについてのわたしのものの見方などは、趣味の域をでない。
それでも、明らかな間違いは指摘できる。

もし、音や色なんかを、生業として論評するのなら、自らの見識眼を高めるという意識をもって日常に向き合い、
そこでの違和感というものが、どういう理由によるものなのか、また勘違いでしかないのかということを確かめ、
仮説の段階からすこしでもたしかな認識になるべく研鑽を欠かしてはいけないのは当然だと思う。

ここの研鑽過程を努力せずに、言い訳を作り上げることばかりに努力をするから、
素人のそれなりに正しい「音がおかしい」という感覚を、
「エイジングがまだだから」などといった神秘主義に解消してしまうのである。
エイジングなどは、本来ソースとなる音やスピーカーはという物質的な条件だけで論じることはできず、
必ず聞き手との相互浸透の過程をふまえねばならないものだ。

再聴のたびに、新しいジャンルの音楽が理解できるようになっていく実感から類推すれば、
一般的なところまではごくふつうの常識的な判断でわかることである。

プロというのは、自分のわからない事柄については、決して語らないことをもって、そうと自負するのではなかろうか。
iPadのようなタブレット型の機器は、これからはいちばん大衆に近いコンピュータになっていくのだから、
PC系のメディアというのは、これまで以上にリベラルアーツ、人間の芸術文化への深い理解が必要になるはずである。

◆◆◆

さて悪口はともかく、iPad 2自体は、けっこう良いものですよ。
円高も手伝って安くなりましたし、ふだんコンピュータを使わない子供さん、年配の方にこそおすすめです。

眠れない夜のための革細工

クイズ、これなんだ?

おおよそ55mm*35mm

ヒント:隙間に何かを挿し込んで使います。

厚みは約10mm
◆◆◆

実はこれ、iPhoneのスタンドなのだ。

外出先で動画を観たり、外付けのキーボードを使うときに、
ちょうどいい角度で固定できるスタンドがほしくて、
いろいろと探してみたのだけど、あんまりない。

かさばるのも大きいのもどうしてもイヤで、
それを頑として譲らないから選択肢がほとんどないのだが、
そこをなにかスマートな解決策を提案してくれるものはないものかと探しまわった。


研究でもそうなのだけど、わたしはとにかく、
取り組んでいるものごとの全体像が見えなければ気持ち悪くてたまらないのだ。

いま流行りだからとか、自分の先生がやっているからだとかいうやり方を採用して、
研究が進んだあとに、もっといいやり方を知ったら?これは悲劇である。
だから、おおまかな地図を手に入れたあとで、
目的地にうまく辿り着くことの出来る、
考えうる限り最良の泳法がどれかなのかは、とても注意して選ぶ。

こういう人間なもので、周りからみると、スタート時には、
まるで微動だにせずに足踏みしているように見えるらしく、
事実全行程の8割ほどもこの方法論の検討に当てることも珍しくないものだから、
「あいつはなにもやっていないが大丈夫か」と言われることがある。

◆◆◆

そうして、「iPhoneに最適なスタンドは何か」どころか、
「スタンドとはどういうものか」まで網羅的に検索してみた挙句、
結局さいごにたどり着いたのはこれ、MoviePeg。


選ぶ基準になったのは、「Less is More」(過ぎたるは猶及ばざるが如し)である。
ずいぶんまえにMacBook Airのレザーケースを作った時もそう言ってたっけ。

すこし具体的に言うなら、「なんにでも使える」ことを目指してかさばるものをつくるくらいなら、「この用途だけにしか使えないけれど、シンプルなもの」を目指そうと思ったのだ。

◆◆◆

ただ、「この用途だけにしか使えない」というのは、
「この使い方だけしか認めない」のとは、用途の範囲以上に、その思想が違うと思っている。

一時期流行った「ユニバーサルデザイン」とか、「エルゴノミクスデザイン」だとかは、わたしは当時から、どうも苦手である。
道具というものをとおして、開発者の「こう使え」という思惑が伝わってきてしまうのは、正直言って窮屈に思えてしまうんだもの。

「ユニバーサルデザイン」が売りらしいマウス
「エルゴノミクスデザイン」が売りらしいキーボード

「手で使うものだから手のひらそのままの形にするべきだ」というのは、
いくら製造工程が複雑でコストがかかってプレミアがつくのだとしても、
「理論」と「実践」をいきなりイコールで結んでしまうという短絡そのものなのである。
道具というものはそれが道具である限り、必ず使用者の「使う」という過程との相互浸透において把握せねばならないから、道具の作り手は、「理論」と「実践」をむすぶ、「方法」にこそ着目せねばならないのである。

砕いていえば、使い手である人間に、「どれだけの使い方をまかせるか」、
という観点を持たねばならないということである。

そうして、それぞれの使い手にそれぞれの使い方ができうるように考えて、
論理的帰結としては柔軟性のあるデザインを考案せねばならないのであって、
「こうでしか使えない」というものは、多くの人の手に渡ることはない。
これは、こと大衆向けの工業製品としてロングセラーを目指すのなら、不可欠な視点である。


スタンドについてもその思想は当てはまると思ったので、
いつもの、いちばんいいものだけに「勝手に弟子入り(=私淑)」する、
というルールに従って、取り寄せるつもりであった。

ただこれ、日本に送ってもらうのに英国からの送料がかかるらしく、
本体が8ドル弱なのに送料のほうが高くつきそうである。

◆◆◆

100円のアプリを買うのも1週間ほどかけて、
「ホントにいまの自分にこれが必要か?」と尋ねてしまうわたしにとって、
これはとてもじゃないが割りに合わない。

でも見ているうちに、
これなら作れるんじゃないか、と思ったので自作することにしたのだった。
(あいかわらず、本題までが長いな!)


3mmの革を3枚がさねで作ろうと思ったときに、
ふにゃふにゃにならないだろうかと心配したけれど、ちゃんと自立してくれた。


縦でも横でも、かなり柔軟に使える。


誰かに同じものをくれ、と言われたら、「パクリなのでやれん」
というお答えになってしまうのだが、とりあえず自分で使ってみて欠点を洗い出し、
なにかとんでもないいいアイデアが思いついたらそういうこともできるかもしれない。

創作は模倣からはじまるのはたしかだけれど、
そこにとどまっているわけにはいかないものね。
わたしたちは人間だから。

2011/05/04

このBlogはなにを伝えたいのか(3)

(2のつづき)

※一節目を中心に、初学者にも読み解くための手がかりを記した上で、圧縮した表現をやや解きほぐす形で、補足と修正を行いました。なんとか理解したいがどうにかならないか、とご意見をくださった読者の方、ありがとうございます。(2011/5/4)




 余談として、趣味についてのエントリが持っていた大まかな構造を述べておきます。
(ここで「余談」と前置きして、「読まなくてもいいよ」というニュアンスを持たせたのは、
同記事がもともと初学者向けのものだったからです。
ところがある表現を弁証法、つまり事物を固定したものではなくそれらの運動形態として描き出そうとすると、
それが「あれからこれへ」といった変化ではないために、それ相応の立体構造への理解が必要になってきます。
初学者のみなさんへは、こういった立ち入った構造の精確な理解ではなくて、
「なるほど、あの記事はこういった『思い』をもって書かれたのか」、
とわかっていただければ十分だと思っていたから、というわけです。)

 あの記事にふくまれていた、全体の構造はこのようなものでした。
それはひとつに、一般的な人間観から人間らしい趣味を媒介としての本質的な人間観へ。
ふたつには、趣味レベルの感性的な趣味を正しい人間観で捉え返しての理性的な筋を通した趣味(=我が道)へ。
それら二重性を持った否定の否定の流れです。


 ここでは「正しい人間観」が把握されていることが前提となっていますが、その内実とは、「人間とは、目的意識を持って対象に働きかけるとともに、その対象を変えることによって自らをも変えるものである」というものです。その人間観を土台として趣味というものを考えてみれば、「人間らしい趣味」というものが、どのような方向性を持っているのかを一般的に示すことができるというわけです。そういうことをふまえて、わたしは「趣味」を、単なる余技だとか暇つぶしの娯楽だとは扱わなかったのでした。そういうものは、そもそも人間らしい営みではないのですから。動物と人間を分けるのは、目的意識を持った「労働」をしているかどうかにあり、「趣味」はそのなかの特殊性として位置づけられるのですから、そこにも、やはり「目的意識を持って対象に働きかける」という性質がなければならないことになりますね。

 その前提を踏まえて、全体の論理性についてもう一度文章で表現してみると、あらゆるジャンルの趣味という具体的な段階から、それを突き詰めることによって抽象的な段階へとのぼり、そしてその抽象的な段階で得られた一般性・本質・原理・原則というものをとおして、具体的な段階にくだり具体的なものを捉え返す、という、「のぼり、くだり」の構造があります。そしてそれら全体の流れは、感性的認識から理性的認識への発展を示しているのです。

 あの趣味についての記事がふくんでいたのは、そういう大まかな構造です。
その大まかな構造のなかで、上で述べた二つの構造が互いに浸透しあう形で量質転化していますから、
これらは全体としてみたときにはじめて、弁証法の法則を踏まえていることがわかってくるのです。
 ですから、これは入口であって出口であり、そのことは直接に、
これらが全体として弁証法的な発展の構造を指し示しているということになります。

 そうであればこそ、表題を「趣味は何を選ぶべきか」ではなくて、「趣味はどう選ぶべきか」としたのです。
内容ではなくて、形式をこそ指し示したかったわけですね。


 弁証法を使わずに、形而上学まで論理のレベルを落とした上で言いたいことを述べるとすれば、趣味は、正しい土台に基づく目的意識さえあれば人間としての真っ当な営みになりうるのだし、ぜひみなさんにもそうしていただきたい、ということに尽きていました。べったり平面的に要約してしまうと、これだけのことなのですから、なおのこと全体をとおしての弁証法性を把握していただかなければ、あまり意味のない記事になってしまうのです。この記事を読んだ感想が、「発展というのはあれからこれへ、といったような直線的な矢印で指し示されるようなものではないのだな」といったものであれば、言いたいことは十分に伝わったと言えるでしょう。

 そういったことをわたしなりに確認し、全体の構造が描けたと思ったときに、これで言いたいことはすべて言えたと思い、最後に人間の豊かさと責任に軽く触れて擱筆したのでした。

◆◆◆

 次に、なにやら予言じみたふうに、こんなことを言ったことがあると(1)で書きました。
わたしは根拠のないことは言いませんから、理由を説明しておきたいと思います。

 わたしが「あなたの今までやってきたことは、ある時にすべて活かすことのできる瞬間が来ますから、どれもあきらめないで、ずっと持っていてください」という個人的なアドバイスをした、とありましたが、これはお話しした当人が、すでに「一つの筋」を見つけているのだな、と判断できたからこそ、そうしたのです。

 もっと言えば、自分の生涯をかけての一つの筋を見つけつつありながらも、その若さ故の不安定さや、その不足を過度に引き合いにだしてすべてが間違っているかのように頭ごなしに封じ込めるといった不理解からの外圧に負けずに、しっかりとその道を進んでくださるよう激励する意味合いが含まれているのです。
 ですから、ここではわたしは人間としてごくごく浅いとはいえ、自らの経験でもって、その人の「一つの筋」、つまりこの先に生涯をかけた道になりうる、生き方における論理的な一般性を見て取った上で、「それは間違っていない」と言っているのですから、単なる運命論や気休めなどでは断じてありません。


 本質から目を逸らさずに生きるひとたちが、そのあらゆる過程で味わうであろう、あの、気を抜いた途端に底が抜けるような不安感、道行く人の雑踏や木のざわめきまでが自らの批判に向けられているのではないかというような、息も詰まるような孤独というのは、体験したことがない人間にはとても想像のつかない重圧です。

 自分の何倍も長生きしている人間から、しかも自らを指導するはずの立場にある複数の先達からの、やれ「お前はキチガイだ」、「お前にそんなことができるか、身の程を知れ」、「前例がないからやめろ」などといった心無い批判に加えて、その尻馬に乗った連中からの、ありったけの罵詈雑言の類を浴びせかけられることが、人間の世界にはあるのです。
 その不理解に追い打ちをかけるように、理解あるような体を装いながらまるで思惑を汲むことのない、「若気の至りで一旗揚げたいのはわかるが」といった前置き。これは、想像するに余りある境遇ではないでしょうか。

 「一旗揚げる」!?
これだけのことを、目立つためにやっていると思っておられるというのか。
そうではない、そんな動機ではない、そんなことのために生きているんじゃない!

 夢のため、後進のために道を譲れないひとならば、こう叫びたくなることだってあるでしょう。

◆◆◆

 程度はどうあれ、わたしもこういった期間を、「これを諦めるのなら生きる意味がない」といった覚悟を確固たるものにしようともできない意志の弱さの揺れ動きの中で、毎日鏡に写る悄げた顔が性格として定着しないよう空元気で励ましながら、「覚悟を決めろ」、「覚悟を決めろ」と念じながら前に出る足一歩一歩に力を入れながら歩んだことによって、その意志の内実を確かなものにしてゆくという日々を過ごしてきました。
 目標が高ければ高いほど、周囲からこれが一流だと薦められるものをどう検討しても、私が探しているのは「決してこれではない、あれでもない」としか思えないものです。自分の、「これではない」という感性的な、なんの根拠もない感覚以外に、確かなものがまるで無いという中でも、周囲の理解しようとしてくれる人たち、そしてまた理念の実在形たる偉大なる先達に支えられて、どうにか心を歪めずに、志を持ち続けてこれたのです。

 そうだからこそ、ひとりの個人が持っているにもかかわらず、その身をはるかに超える夢の大きさ、重さに押しつぶされそうになる人たちにたいしても、自分が助けられたぶんの、できればそれ以上の手助けをすることで、人類全体に恩返しをしてゆきたいと決心しているのです。

◆◆◆

 たどり着いてみなければわからないのですから、
直接触れるように感じさせてあげることはできないことが本当に、心底もどかしいのですが、
決して大げさでもないのです、人間が築いてきたものの広さと、深さを強調するということは。
決して根拠のないことではないのですよ、あなたの持っている夢というものは。
現在のわたしの立場に立ってですらそう感じられるほどなのですから、
これはまだまだ捉えきれていないほどの豊かさが、間違いなくあります。

 そして「深いところでは、あらゆる道がひとつのところに通じている」のですから、
表向きはどんな職業についていたとしても、誰かの残した表現の裏側に、
その人が生涯をかけて貫いてきた姿勢を見つけ響き合うことがあるときには、
これまでの孤独にはすべて意味があったのだ、この瞬間のために生きてきたのだという、
たとえようもない感動があるものです。

 ですから、「誰にも認められない」ということは、相手の理解する気持ちが欠けている場合はともかく、
やはり現時点での自分には、目標とする高みに比べれば内実も表現力も
まだ伴っていないのだなと冷静に真摯に受け止めつつ、
それでもその事実をもって夢を諦めなければならない根拠にはならないのだ、
ということだけは、心に誓ってしっかりと覚えておいてください。

 人間存在の深さに触れるまで、そこへの信頼が根付くまで、
倒れてもなんとか起き上がってほしい、そうしてさいごまで道を歩み続けてほしい、
そういう激励を込めた後進へ向けての、趣味についての一節なのでした。

(了)

どうでもいい雑記:反省と独学の精神

世間は連休でのようですね。


連休なので、どこかに行ってきた、といったようなご報告をすればいいのかもしれませんが、
そういうことは他の方におまかせするとして、わたしは、
連休中だからこそ気を引き締めて修練を欠かさない人のことを応援したいと思います。
というわけで、あいも変わらずの内容ですが、どうぞよろしく。

◆◆◆

さて先日、趣味のエントリについての読み方を公開したら、いくつか感想をいただきました。

一部には脳天をたたき割られたような衝撃があったというような感想もあり、
自分のものごとの見方がまだ表面的な段階に留まっていたのだと気付かされた、
といった率直なご意見などは、うまく言いたいところが伝わったのだとありがたく受け取りました。

ほかにも暗に陽にあの記事での内容を踏まえた連絡をくださった方はありがとうございます。
お気持ちは、直接に表現されていなくても、しっかりと伝わっていますよ。

ものものしい文体の学術論文と向き合うときならば、わたしたちが読者になるときの視点というものは、
「そこに潜んでいる論理性とはなんなのか」と問いかけながらのものになりやすいですが、
日常言語で書かれた文章や、ある人の日常的な言動などを見たときにも
そこから論理性を引き出せるかどうかは、受け取り手のものごとの見る目の高さにこそかかっています。

表現が平易だからといって、内容が薄いのだとただちに直結しないようにしたいものです。


趣味についての補足、3つめのエントリは、より深い理解のために表現を圧縮して書いたものでしたが、
なんとか理解したいというご意見もありましたので、
表現のまずかったところなど、すこし補足しておきたいと思います。
あとで参照なさってください。

◆◆◆

反省していただいておいてなんですが、ちょっと気になることがあるので書いておきます。

先にありがたいと言ったように、
まだまだ自分にやるべきことはあったのだという実感をきっかけにして、
日常生活、また自分の道についても、目の前にあるものごとをより深く理解する、
という姿勢を身につけていってもらえれば、ここでの記事も役目を果たしたことになります。


ただそれと同時に、自分の認識の実力について、
「ああ!なるほど!そういうことだったのか!」といった大きな反省があったときには、
その浮きあがったぶんの感情が災いして、沈むのもまた極端になることを想定しておいてください。
(ここは<対立物の相互浸透>です)

いま大きな反省があり、本来ならばそこでの思いを持ち続けることによって、
将来的には大きな発展がありうるにもかかわらず、そのときの感動の大きさのあまり、
次の日には前日ほどの思いの大きさが維持できず、
とたんに縮小していくかのような感触になっていってしまう、ということです。


わたしはどちらかというと、こういった感情の浮き沈みがあまりないほうで、
さらにいえば人生を旅(=今日と同じことを明日できることが最低条件)だと思っていることもあり、
毎日同じ姿勢を続けるのがそれほど苦ではないしむしろ好きなのですが、
「やる気があったらなんでもできる」式の気合論で育ってきた方には、
こういった場合に感情の浮き沈みがとても大きい場合があるように感じます。

漫画やアニメの中の主人公達は、友人の危機に「うおお!」で強くなったりできるのだし、
現実の世界でもそういったことを意識的に行い、いわば瞬発力をあげることはあらゆる面で欠かせないわけですが、
ああいう姿勢は、空想の世界で極端に描かれているほどには長続きしない、ということは覚えておいてください。
もちろん、これは浮き沈みが激しいといったような「性格」のことを批判しているのではありません、念のため。
「やる気でがんばる」、の姿勢はすばらしいですが、そこを形而上学的に逆をとって、
「やる気がないとがんばれない」のでは困ります、ということです。

どんなものごとに対しても、ほんとうの実力を付けたければ、
やる気などに頼るよりも、習慣として身につけてしまったほうがはるかに楽です。
人間というのは認識的な実在とされているとおり、動物とは違って、
精神面での消耗が身体的なそれよりも、体力をはるかに消耗させるものです。
この問題は、習慣として身につけて、「やらないと身体が変になる」とすることで安々と乗り越えられます。
(ここでは、「精神→身体」への影響と、「身体→精神」への影響を述べています)

ですからやはり、週末に気合を出して24時間徹夜で努力するよりも、
必要のないつきあいはそこそこにしてマイペースな生活を保ち、
毎日3時間でも2時間でも自分なりの努力を続けたほうが、はるかに成果として現れるものです。
(ここは<量質転化>ですね)

◆◆◆

学生さんたちの、人の話を聞くときの姿勢をみていると、
たとえばなにかの上達するための基本的な姿勢などをお伝えしたときに、
「なるほど!そういうことだったのかあ!」といったような勢い任せの姿勢で受け止めようとする方は、
1ヶ月後にはさっぱり忘れて身についていないことがほとんどです。

たいして、「あっそうか、そうすればよかったんだ」というふうに、
それまで疑問だと思っていたことが氷解した、といった姿勢で受け止めることのできる方は、
それがどんなに些細な反応に見えたとしても、だまっていても自分で進めていってくれるものです。

すこし背中をそっと押してあげると、どんどん前に進んでゆける。
前に進んだところでぶつかって、「なぜだろう、なぜかしら」という問題意識がつく。
その問題意識を通して、自分から質問したり、実際に試してみることができる。
これが、独学の精神です。

そんな姿勢というものがなぜわかるかといえば、うなずき方やノートの取り方から、
わたしが「ここは大事なことを言ってるから、他のところはさておきここだけはわかってね!」
と心を込めておはなしをしているところを、とても敏感に察知しておられることが伝わってくるからです。
教師が教壇に立つというのは、学生を見下して偉そうにいばるためではなくて、
そういう学生の、些細な反応を見逃さずに、指導のあり方を反省するためです。

◆◆◆

これらことを、学生さんからではなくて教育者・保護者の観点からいえば、
子どもに与えなければならないのは、「些事に渡る知識」ではなくて、
「ものごとの考え方」や、「人との関わり方、話の聞き方」といったものである、と言えることになりますね。
実のところ、「学校ではこれこれを勉強してきなさい」というのではなくて、
「友だちと仲良くしなさい、先生のおっしゃることをよく聞きなさい」という漠然としたアドバイスのほうが、
子どもにとってはかえって有意義なことも少なくないのです。

(ここでもやはり、ものごとはその流れを大つかみにしなければ、
具体的なものごとをうまく成し遂げる指針にはつかえないのだ、
という論理が浮上していますね。ここは、<否定の否定>です)

わたしたちは、いかに子どもに対してであっても、その人の人生をすべて背負って立つことはできません。
問題を起こした大学生に対して、「あなたももう大人なんだから」という保護者がいますが、
「大人になった事実」よりも、「どう大人になったか」という過程こそが、当人の人格を形成しているのです。
ですから、本質的にその人のためになるはなにかと探すのであれば、いちばんの近道は、
その人が「自分の足で」歩みを進めてゆけるように、人としての正しい姿勢を身につけさせてあげることです。

もしわたしたちがおとなになってから、
すでについてしまった物心を捉え返して、それがまだ足りないと反省する場合には、
これからの意識でもって自ら培ってゆくしかありません。
しかしその努力は必ず、次の世代に受け継がれてゆきます。

わたしたちは来る日のために、
ほんとうの独学の精神を、日々の生活というくりかえしの中で身につけてゆきたいものです。

2011/05/01

本日の革細工

なかなか暖かくなりませんね。GWは大丈夫だろうか。

いちばん左の分厚いの、一般の方は知らない人がけっこういるらしい。
最近ちょっと使ってみたら、花屋の店員さんに中国製のパチモンだと思われた。
…初代iPodですよ!

今日は仕事のあと、iPhoneを新調したのでケースづくり。

以前から、RethinkさんのところのiPod touchケースを使っていて、
touchからiPhone 3Gに切り替えた時も、無理やり引き伸ばして使っていた。
でも今回のiPhone 4、角が角張っているのではみ出てしまう。

というわけで、余った革を切って縫って90分、作業完了。

◆◆◆

デザインは、わたしが革の工作をはじめるときに、
勝手に弟子入り(=私淑)したRethinkさんの、ほぼそのまま。
いろいろと無駄な知恵をしぼってみたけれど、
やっぱり使い慣れている形がいまのところいちばん。


◆◆◆

ところがいざ使ってみると、やっぱり使い勝手が違う。



Rethinkさんのものは、「ベタ張り」という技術で、
非常に薄く漉いた革を貼りあわせて、両面を表になるようにできている。

対してわたしの使っている革は、2mmのもので、ベタ張りなんて技術もない。
(日本で数人の職人さんしかできないらしい)
そんなわけで、見た目を同じに作っても、iPhoneの裏側に回した状態で
本体を操作しようとすると、なんかゴワゴワする。


くらべてみると、お師匠さまのものは1mmちょっとしかないのである。
ということは、革を0.5mmくらいに漉いた上で貼りあわせているだから、
これは恐るべし、というしかない。

さらにケースのカーブに合わせて、貼り目を少しずらしているらしく、
ここ5年ほど毎日使っているのに、型崩れがほとんどないのである。
参りました、というしかない。

見た目にはほとんど同じにみえるけれど、
一流の仕事というものは、残りの5%で勝負しているのだ。

やはり、神は細部に宿る。

◆◆◆


わたしはいいかげんなものを身の周りに置くくらいなら
そんなもの無いほうがよっぽどマシだと思っているので、
製品を買うまでこそが真剣勝負なのだが、そういう人間に言わせると、
iPhoneの完成度にふさわしいのは、世界広しといえどRethinkさんのケースだけだ。

わけのわからんメーカーの、
毛羽立ったままのほんとに革だか疑わしいようなわからんケースとか、
埃だらけのシリコンケースがぴったり張り付いたのを見ていると、iPhoneが可哀想である。

別にこれはなにもiPhoneに限ったことではないけれど、
その状況や使い方、その人間にはふさわしいモノというものがあるのであって、
中学生がブランド物のバッグを持っていてもおかしいのだし、
中に入っている金額の何倍もする財布というのも、やはりおかしいものである。

そんなところをチグハグな選び方をしている人を見るに付け、
「この人に、このモノの良さが分かっているとは思えない…」
と、こっそり思ってしまう(ごめんなさい)。

◆◆◆

しかしこのiPhone 4、自分のものとして使うのははじめてだけれど、
手にとってじっくり確かめるほどに、
iPhone 3G,3GSとは比べものにならないほどの洗練具合である。

シンプルなようでいて隅々に至るまで考えつくされたカーブと、
手にとったときに顔がほころぶようなモノとしての重み。
ボタンを押したときのしっとりとした感触と、
ガラスに張り付いたようなくっきりとした画面。
これは、誰にでもできるものではない。

国内のある車メーカーの技術者が、ベンツのドアの閉まるときの、
「パタン」という、かっちりとしながらしっとりとした音を再現するために、
どこからこんないい音がするのかと、分解して調べてみたそうである。
そのときにわかったのは、その音というのは、
あらゆる部品、部品にこだわり抜いた結果、
車内の空気がドアの周りの隙間からあくまでも自然に、
均等に漏れ出ることから来るものだったらしい。

表面だけを真似ても、いけないのである。


iPhone 3Gを手にとった時も、裏面の陶器のような黒に魅入ったけれども、
あれとはひと味も二味も違う、モノとしての確かな存在感だ。
いまの時代は、こういうものがそこそこの値段で手に入るんだねえ。


これにふさわしいケースは、わたしにはまだまだ作れないけれど、
しばらく自作のケースとにらめっこして、次のステップのための反省である。

2011/04/28

iPad 2販売開始

発表の翌日に発売とは、急な話である。


職業柄、業界の事情はちらほら耳に入るので、延期していた発売日は、
ゴールデンウィーク前のどこかになりそうだと推測はついていたのだけど、
公式の発表があったのは、なんと昨日の22時前。

店頭での販売開始は今日の朝9時だったそうだから、
発売日の公開から発売まで、なんと半日もない。
なんともやきもきさせられたものである。

震災のための延期であったとはいえこのAppleの秘密主義、
普通の企業ならユーザーも憤慨して不買運動でも起きそうなものだけれど、
注目度の高さからか、そういった動きはあまりないようである。

それとも、Appleという会社への、素行についての期待値が低すぎるのだろうか。
いつもの、「新製品発表、翌日販売開始」ならばサプライズとして受け止められようが、
延期した発売日をぎりぎりまで公表しないというのはユーザーにとってメリットがない。

◆◆◆

ともあれ、わたしも出たらホイホイと付いて行ってしまう立場にいるのだから、
あまり批判できたものでもない。

わたしはiPad 2が発表されたときに、
「初代持ってるし個人的にはあんまり」みたいなことを言っていたのだけど、
友人がわたしの愛機を引き取るというので譲ってしまったのだ。
そうしたら、数日後に震災が起きて発売延期である。
ということは、もう1ヶ月以上もiPadなしで過ごしてきたわけだ。

ここしばらく新学期というせわしない時期を迎えていたので、
あまり触る機会がなかったということもあるが、
なくてもどうってことないな
というのが正直なところである。

あれだけ「毎日使っているから無いとやばい」なんてことを言っていたのに、
なんという変り身の速さかとも思われるだろう(本人もびっくり)が、
やっぱりわたしは、学問をするのを妨げられなければ、なにも不満が出ない人間らしい。

学問から離れて、
こういった現実の購買行動べったりの話をするのは、
なんだか雲の上からひょいと降りてきたような気がしてしまう。

◆◆◆

ただまあ、あったらそれなりに使いこなせはするので、
仕事の行きしなに店頭に行ってみた。

いきなりの発表だったためか、店員のお兄さん方が防犯ブザーを鳴らしてしまいながら
四苦八苦して、新モデルの什器の取り付け準備をしていた。

まだ時間がかかりそうだなと思ったので、10分くらいで店を出たのだけど、
カウンターのむこうでぼんやり立っているだけで
まるで声をかけてこない店員さんたちを見て、
このお店の売上は大丈夫なのだろうかと要らぬ心配をしてしまった。

「翌日いきなりの発売告知を聞いた上で、仕事前に店に寄る」という人間にすら
着目できない販売員というのは、どういう教育を受けているのかと思う。
「カモがネギ背負ってやってきた」というのは、まさにこういうことではなかろうか。

わたしのような人間は、声さえかけられればあっという間にコロリと転ぶような客なのに。

◆◆◆

どういうことなのかと思って、店内を見渡したら、
店の入口近くに、「御用のある方はこちらの番号札を」と書いてある。

ああなるほど、そういうことか。とすこし合点がいった。

どうやら本社か上からの指導なのか、
順番を抜かされたとかの客からのクレームなのかは知らないが、
「順番待ち」を制度化してしまっているのである。


一般的に言って、
こういう失態を犯してしまうのは、「制度」というものが、
同一の指示が行き渡りやすくなるという積極面と共に、
指示以外のことを主体的にやらなくなるという極端な消極面が存在することを認識していないからである。

もし「順番抜かしをする客がいる」のだとしたら、まずはそれを含めて制度を整えるのか、
それともそういった客は例外として処理するのかを問わねばならない。
なぜなら、制度化した途端に、それはある種の強制力を持って等しく店員の規律となると直接に、
店員が本来ならやれたであろう主体性という可能性までをも等しく制限してしまうからである。

規律をはじめとした労働の対象化が、
もともとは人のために作られたものであるのにもかかわらず、
できたらできたで人のありかたを縛るということを、「疎外」と呼ぶ。
かつてのマルクス主義なんかは、これを絶対に無視しなかったものである。

この場合にはやはり、店内には店員と客をふくめての規律が必要であるとしても、
そのことを隠れ蓑にした主体性の放棄につながっては元も子もないという、
矛盾した判断を両立させるための施策が必要である。

◆◆◆

さっき仕事帰りにもう一度寄ってみたけれども、結果はやはり同じであった。

やっぱり、誰も声をかけてこない。
什器を掃除している人たちも、まるであいさつがない。
どころか、手持ち無沙汰の店員たちが、
カウンターのむこうでなにやらおしゃべりばかりしている。

おそらくこのお店には、
「番号札をとった人間しか客として認識できない」
規律が存在してしまっているのであろう。

わたしは営業という仕事に偉そうな口を出せる立場にはないけれど、
これではあまりに機会損失もいいところ、というものではなかろうか。
「お客さんが店内で、なにを見ようとしているのか」という行動の中には、
無限とも言えるほどのおおきな手がかりが隠されていると思う。

◆◆◆

というわけで、わたしは組織についての一般論を確かめるという目標と、
どのモデルを買うべきかという意思決定をひとり達成して、満足して帰ってきた。
もちろん手ぶらである。

店舗での「対人サービス」に、「人間味」が無いのなら、
オンラインで買ったほうが楽だし早いもの。


iPadは新しく出たホワイトモデルにしようかと思っていたけれど、
フレームが視野に入りすぎて、没入感が著しく削がれることがよくわかった。
これは大きな収穫であった。

周囲が白縁、その内側の画面の余白が黒で、
その中に画像が表示されるような形になるのである。
対してブラックモデルならば、黒縁と画面の余白が黒で統一されているから、
黒い板の上に画像が浮きだしてくるような見た目になる。
容量は16GBでは足りないから32GBの、ブラックモデルにすることにした。

去年の夏に壊れたiPhoneについては、ホワイトモデルを新調することにした。
こちらについては、周囲が白縁であっても、画面の余白がほとんどないことも理由の一つである。

9.7インチのiPadについては白がダメで、
3.5インチのiPhone 4については白でも良いというのはひとつの矛盾だから、
ここを手がかりにして、周辺視野についての認識を考えてゆくことができる。
これも、大きな収穫であった。

2011/04/27

このBlogはなにを伝えたいのか(2)


(1のつづき)



ここまで断った上で、以前のエントリ「趣味はどう選ぶべきか」について、
これまた恥を忍んでご説明しておきたいと思います。

この記事を引き合いに出すというのは、
こういった考え方の形式を扱った文章だと、
具体的な内容があまり書かれていないことから、
細部の言葉尻だけを捕まえた読み方になってしまいがちであり、
そしてまた読者の論理性のありかたによって、
読み方が様々に変わってしまいがちであることがわかったからです。

◆◆◆

この記事では、わたしは「趣味は多くないほうがよい」と結論として書いておきました。
その理由は、外聞を気にして、あらゆることを中途半端につまみぐいをすると、
どれもこれもがモノにならずに終わりがちだから、ということなのでした。

ここまでは、文章をそのままに読まれても十分に伝わっていることだと思います。


ところが、これ以上の内容を読み取ってもらおうとすると、
どうしてもある程度論理の光を当てながら読んでもらう必要があります。
わたしはたしかに、「趣味は多くないほうがよい」と結論づけてはいるのですが、
そこだけを鵜呑みにしてしまうと、
「なるほど今の趣味は多すぎるのだな、もっと減らさねば」
といったような、表面的な理解に繋がってしまいます。

ここで、なにも趣味の数は少ないほどよいと言っているのではないことは、
「自分が大学時代にはいろいろと手を出してみたこと」や、
「表面的にはいまでも多趣味の人間に見えること」といった記述を見ればわかるとおりです。

ここについて、「あれかこれか」といった考え方をしてしまうと、
「こいつは前では趣味の数を減らせといったのに次には多趣味でもあると言っている、
あちこちで矛盾しているではないか」という印象しか持てないことになってしまいます。

ですからこの記事の場合であれば、
「趣味は多くないほうがよい、というのは、『どういう条件のときに当てはまるのか』」、
と問いかけながら読んで欲しいところなのです。

◆◆◆

わたしは結論をはじめに書いておいたあとで、
その結論にたどり着いた理由を説明する形で論じていました。

そこで、趣向をはじめとした自分というもののありかたをさぐるために、という意味を含めて、
学生時代にはいろいろと関心のあることに手を出してみた、と言ったのです。
そしてそのことをとおして、自分が目指しているのはこれなのだな、
という感触が得られるようになってからは、その問題意識に照らして趣味を選ぶようになっていった、
と書いておきました。

その経験をとおして掴み取れたのは、しっかり考えて趣味を選んでいれば、
たとえそれが、絵画や剣道や旅行や映画鑑賞などといった、
表面上ではなんらのかかわりのないジャンルの事柄だったとしても、
いつかはひとつの筋が通っていたことに気付かされるのだ、ということでした。

わたしはヤケクソとも言えるほどにあちらこちら手を出しては見たものの、そのことを通じて、どういう趣味を選ぶかよりも、どういう姿勢で趣味に向き当たるのかのほうが大事なのだとわかりましたから、読者のみなさんには、まずは「あちこちに浮気せずに、ひとつのことをきっちりやり遂げてみてほしい」と伝えたのです。
そのあと、そのことをきっちりやって「ひとつの道」が見えるようになってきたのであれば、新しいジャンルのことにもそこで得た普遍的な考え方を使えるのだし、違ったジャンルを極めようとしているひとたちとも、その普遍性をもって意見の交換ができるようになってくるのだ、と、脇道に逸れないための方法論を伝えたかったのです。

では、「ひとつの道」が見えるようになるためにはどうすればいいのか、という問の答えとして、「強い問題意識を持って物事に向き合う」ということを指摘しておきました。対象に向かって積極的に働きかけようとすると、「ここまではできるが、ここから先はまるでできない。やりかたすらわからない」という問題意識を持たざるを得ません。そうすると、「あれはどうなっているのだろうか。どういう仕組みになっているのだろうか。」と、あらゆる手がかりを探そう、という強い問題意識をもって、日常生活をすごすことになりますね。アルキメデスの「ヘウレーカ」、ニュートンのリンゴの逸話などを調べてみてください。(以前にわたしのBlogでも触れましたので、右の検索窓で探せると思います)
自分が実践における問題にぶつかったあと、どうしたら解けるのか、という問題意識を持っていさえすれば、ふつうの人ならばとくに注目せずに通りすぎてしまうような手がかりでも、「なるほど!」と思えるのです。

そういうふうに、ものごとの見る目を高くしておくということは、当たり前の日常生活を、論理の光を当てながら過ごす、ということですから、こういうふうに生活を送ってみて、ものごとの見る目が高くなっていれば、あらゆるジャンルのことについての見識眼がついてきます。

◆◆◆

ここでわたしは、「問題意識」や、「ものごとの見る目」、「見識眼」などといったことが大切だ、と言ってきた理由はこのようなものです。

かつてわたしたち人類は、動物であるサルからヒトへと進化してきました。しかしこの事実は、言ってみれば偶然の産物、といってしまってもよいのです。サルはなにも、社会性や精神を「持とうと思って」ヒトになっていったわけではないからです。サルは社会性を持つようになったことをきっかけとして、ヒトへの道を歩み始めるわけですが、ここまでは、「自然成長的に」作られてきたものです。ところがそれが人間と呼ばれるあり方になってゆくと、次には意識的に分業体制を整えた、「意識的な社会」をつくり始めてゆきます。括弧書きをしたように、ここでの社会というものは、動物やサルが本能のレベルで自然成長的に育んだものではなくて、あくまでも「意識的なあり方で」作られたものです。
そうすると、精神というものも、知らないうちに生成してきたものを自然成長のままに放っておくのではなくて、わたしたち人間が精神を持っているということを、「意識的に捉え返して」いってこそ、ほんとうに人間らしいありかたになってゆくのだ、という大まかな方法論を導くことができます。その方法論の土台は、以前にも述べたように、弁証法を日常生活の中で日々使ってゆくことで、それを自らの認識と相互に浸透するのと直接に弁証法性を鍛える形で、人類が培ってきた最高の論理の形態を獲得するとともに発展させる、ということ以外ではありません。

わたしはこのBlogをはじめてから、このことはくどいくらいに述べてきました。ただわたしも太宰に同調するようなところがあり、あまりくどくどとここはこういう意味があるのだ、などといった直接的な表現は好きではないために、圧縮した形で書いただけでした。ですからここでのほんとうの主張は、論理の光を当てて読んでいただかなければまるで浮上しては来なかったはずです。直近の表現を見てみてください。

 わたしたちは大人としての意識を持って、これから環境を作ってゆかねばならない立場にありますね。子どもと大人の違いというのは、子どもが環境に甘んじておればいいのにたいして、大人は、自らが環境を作ってゆき、そしてまた、自らが環境を作っていることを意識的に捉え返していることが最低条件なのです。Buckets*Garage: 盲目の人間が目を移植されたあと、その日から目が見えるようになるだろうか?(5)

ここでは、大人の最低条件が、「自ら環境を作ること」と、それに加えて「『自ら環境をつくっている』ことを意識的に捉え返すこと」だと述べておきました。これは、ハタチになったから大人として振舞わねばならないというのでは足りない、という意味です。自分が大人としてふるまって、そのふるまいを通して創り上げてゆく環境というものが、「いったいどのようなものなのか」と常に意識しながらとりくみ、その責任をとれるようになってゆくべきである、ということです。「人間としての精神」のあり方も、これと同じことが言えるわけです。


わたしの表現は、すべてこういった論理的な「形式」に力点を置いて書いていますので、具体的な知識にとらわれるのではなくて、文章全体をおおつかみに捉えて、そこでは「どのような流れ」、さらに進んで「どのような流れ方」でものごとが論じられているのか、と読み進めていっていただけると、文筆家冥利につきる、というものです。
これはなにも、わたしが常々論理を認められないことについての溜飲が下がる、といった馬鹿馬鹿しいものではなくて、論理性を自然成長のままにまかせておくことのもったいなさを伝えたいがためにやっていることです。ですから、「ああ論理ね、私も常々それは大事だと思っているよ」という態度では、どうしても、本当に伝えたいところが伝わっていないことになるのです。

◆◆◆

わたしはあの趣味についての小論を書き終えたあとに、こういった質問があるのではないかと思っていました。

たとえば、「趣味の中に、『博打』などを含めてもよいのでしょうか?あれは内容や動機はともかくその形式としては、立派な労働とも言えるものだと思うのですが」や、
「まっとうな趣味を持っている人と、いわゆるオタクとはどう違うのでしょうか?社会性があるかどうかよりも、もっと本質的な違いがあるのではないかと思うのですが」といったものです。

しかし、読者の反応からすると、あの小論は、そういったレベルの質問が出されるほどにはうまく受け止めていただけていないのだな、と思ったわけです。

◆◆◆

実のところ、結論などというものは、それが導かれた過程ほどには重要ではないのです。
わたしは今回、論理的帰結として、「趣味はあまり多くないほうがよい」と表明しておきましたが、これは、そのほうが「ひとつの道」にたどり着くためには効率が良いことをふまえてこう書いたわけです。ここでは、「積極的な意味を認められない場合には」という条件が付いていることがあってはじめて成り立つ結論です。
ですから、これは「趣味はとにかく多いほうがよい」としてもよかったのです。その場合には、入り口としてはたくさんのジャンルに思いを巡らせてみて、そのなかから「自分に響くものを選ぶという過程では」と条件をつけることになります。すると、本論の展開としては、自分に響いたものから共通するものを取り出して、そこから趣味を再検討し、絞り込んでいってほしい、という書き方になります。
もちろん、こういったいくつかの表現を検討したあとで、もっとも言いたいことを伝えるためにはどれがふさわしいか、と考えた上で、あのような表現にしたのですが、このどちらの書き方も、結局のところ、「ものごとの考え方」、難しく言えば「物事に潜む過程的構造」を強調していることにはなんらの変わりもありません。


ここを表面上に受け止めて、「多趣味賛成派」と、「多趣味否定派」などといった、ワイドショーレベルのくだらない派閥争いには、どうか短絡させてしまわないでください。感情的にはともかく、理性的な人間という生き物として、ああいった小競り合いに心底嫌気がさしているからこその、弁証法の強調なのですから。弁証法は「あれもこれも」を主張しますが、だからこそ、それがどういった条件ではどちらになるのかを判断するためのものごとの見方、「原理・原則」を要求することになるのです。

これは逆に言えば、原則を一致させるということは、表面だっての主張は、その時々の情勢をみながら柔軟に変えてゆくことがありうるのだ、ということでもあります。ですから、それが原則を持ったものなのか、時代の流れに振り回されているにすぎないのかを判断できるようにも、やはりものごとの見る目を常に高く持っておかねばならないことになりますね。

◆◆◆

わたしたちは、幼少からの義務教育を通して、知識だけをつめ込まれて育ってきました。なおのこと、そこでの思想というものは、「やる気を出せばなんでもやれる」式の、精神論、もっと悪くは気合論が、形而上学的にまかりとおっています。そうやって社会に出たと思えば、ライバルの言質をとってやりこめるといったような駆け引きが日常茶飯事でしょう。ですから、そんなところで自然成長してしまった論理というものは、世の中の立体的な構造を踏まえたものごとの正しい判断のためには、どうしても役に立たないどころか、表面的・平面的で極端を導く力しかもってはいないのです。極端な暴言・妄言を振りかざす人間が消えてなくならないのは、まともに生きているはずの人間にも責任があるのであって、彼女・彼らが、前者の無意識的・意識的な踏み外しを、論理的に指摘できないからです。

これはこんな文章ばかりのBlogを見に来てくれるような奇特な読者のみなさんだからこそ言うのですが、きちんとした論理を持ってください。そのために、ここを使ってください。わたしは「ものごとの眼を高くする」方法を探求できるやりかたを見つけて以来、これこそ仕事や道を問わず、万人の礎になるものだ、と思って、知識的な習得と共に、日々論理面の向上を心がけてきました。それこそ、論理的に見える事実が一つも見つからない日には、恥ずかしくて眠れないほどです。事実、各方面で歴史の風雪に耐える作品に共通しているのは、知識的に優れているよりも、論理性が高い、という特徴です。弁証法と名付けられたその論理性は、「弁証法を使いこなす」段階までいかなくとも、「弁証法に使われる」段階でさえも、十分に効果が実感できるものです。なにとぞ、日常生活での修練を怠らずについてきていただけるようにお願いします。

そこでの基礎的な理解は、三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』ですが、『新しいものの見方考え方』など、日常生活での弁証法の効用を描いた同氏の著作も理解の手助けになります。もっとも、自ら学ぶ姿勢のある方ならば、すでに実践されていることでしょうから蛇足でしょうか。こういった方法論を、実際にやるまえからあまり細かく指摘するのはよくありませんしね。ほかに言えることがあるとすれば、弁証法というキーワードを含んでいる他の書物にはあたらなくてけっこうです。
ともかく、基礎的な理解がすみましたら、ただちに実践で使ってみてください。「否定の否定」は大きな流れの中でしか顔を見せないために難しいですが、ほかの2つの法則、とくに「対立物の相互浸透」などは、慣れてくればとてもたくさん見つかります。
「弁証法の現実への適用はこれであっていますか?」をはじめ、ご質問は随時。お待ちしています。

◆◆◆

読みやすいことばで書いた解説はここまでです。
以下は余談として、あの記事が持っていた大まかな構造と、「あなたのやってきたことは、すべてつながる瞬間があります」との予言じみた発言の理由について。

(余談をお読みになる場合はつづく)