2011/05/04

どうでもいい雑記:反省と独学の精神

世間は連休でのようですね。


連休なので、どこかに行ってきた、といったようなご報告をすればいいのかもしれませんが、
そういうことは他の方におまかせするとして、わたしは、
連休中だからこそ気を引き締めて修練を欠かさない人のことを応援したいと思います。
というわけで、あいも変わらずの内容ですが、どうぞよろしく。

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さて先日、趣味のエントリについての読み方を公開したら、いくつか感想をいただきました。

一部には脳天をたたき割られたような衝撃があったというような感想もあり、
自分のものごとの見方がまだ表面的な段階に留まっていたのだと気付かされた、
といった率直なご意見などは、うまく言いたいところが伝わったのだとありがたく受け取りました。

ほかにも暗に陽にあの記事での内容を踏まえた連絡をくださった方はありがとうございます。
お気持ちは、直接に表現されていなくても、しっかりと伝わっていますよ。

ものものしい文体の学術論文と向き合うときならば、わたしたちが読者になるときの視点というものは、
「そこに潜んでいる論理性とはなんなのか」と問いかけながらのものになりやすいですが、
日常言語で書かれた文章や、ある人の日常的な言動などを見たときにも
そこから論理性を引き出せるかどうかは、受け取り手のものごとの見る目の高さにこそかかっています。

表現が平易だからといって、内容が薄いのだとただちに直結しないようにしたいものです。


趣味についての補足、3つめのエントリは、より深い理解のために表現を圧縮して書いたものでしたが、
なんとか理解したいというご意見もありましたので、
表現のまずかったところなど、すこし補足しておきたいと思います。
あとで参照なさってください。

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反省していただいておいてなんですが、ちょっと気になることがあるので書いておきます。

先にありがたいと言ったように、
まだまだ自分にやるべきことはあったのだという実感をきっかけにして、
日常生活、また自分の道についても、目の前にあるものごとをより深く理解する、
という姿勢を身につけていってもらえれば、ここでの記事も役目を果たしたことになります。


ただそれと同時に、自分の認識の実力について、
「ああ!なるほど!そういうことだったのか!」といった大きな反省があったときには、
その浮きあがったぶんの感情が災いして、沈むのもまた極端になることを想定しておいてください。
(ここは<対立物の相互浸透>です)

いま大きな反省があり、本来ならばそこでの思いを持ち続けることによって、
将来的には大きな発展がありうるにもかかわらず、そのときの感動の大きさのあまり、
次の日には前日ほどの思いの大きさが維持できず、
とたんに縮小していくかのような感触になっていってしまう、ということです。


わたしはどちらかというと、こういった感情の浮き沈みがあまりないほうで、
さらにいえば人生を旅(=今日と同じことを明日できることが最低条件)だと思っていることもあり、
毎日同じ姿勢を続けるのがそれほど苦ではないしむしろ好きなのですが、
「やる気があったらなんでもできる」式の気合論で育ってきた方には、
こういった場合に感情の浮き沈みがとても大きい場合があるように感じます。

漫画やアニメの中の主人公達は、友人の危機に「うおお!」で強くなったりできるのだし、
現実の世界でもそういったことを意識的に行い、いわば瞬発力をあげることはあらゆる面で欠かせないわけですが、
ああいう姿勢は、空想の世界で極端に描かれているほどには長続きしない、ということは覚えておいてください。
もちろん、これは浮き沈みが激しいといったような「性格」のことを批判しているのではありません、念のため。
「やる気でがんばる」、の姿勢はすばらしいですが、そこを形而上学的に逆をとって、
「やる気がないとがんばれない」のでは困ります、ということです。

どんなものごとに対しても、ほんとうの実力を付けたければ、
やる気などに頼るよりも、習慣として身につけてしまったほうがはるかに楽です。
人間というのは認識的な実在とされているとおり、動物とは違って、
精神面での消耗が身体的なそれよりも、体力をはるかに消耗させるものです。
この問題は、習慣として身につけて、「やらないと身体が変になる」とすることで安々と乗り越えられます。
(ここでは、「精神→身体」への影響と、「身体→精神」への影響を述べています)

ですからやはり、週末に気合を出して24時間徹夜で努力するよりも、
必要のないつきあいはそこそこにしてマイペースな生活を保ち、
毎日3時間でも2時間でも自分なりの努力を続けたほうが、はるかに成果として現れるものです。
(ここは<量質転化>ですね)

◆◆◆

学生さんたちの、人の話を聞くときの姿勢をみていると、
たとえばなにかの上達するための基本的な姿勢などをお伝えしたときに、
「なるほど!そういうことだったのかあ!」といったような勢い任せの姿勢で受け止めようとする方は、
1ヶ月後にはさっぱり忘れて身についていないことがほとんどです。

たいして、「あっそうか、そうすればよかったんだ」というふうに、
それまで疑問だと思っていたことが氷解した、といった姿勢で受け止めることのできる方は、
それがどんなに些細な反応に見えたとしても、だまっていても自分で進めていってくれるものです。

すこし背中をそっと押してあげると、どんどん前に進んでゆける。
前に進んだところでぶつかって、「なぜだろう、なぜかしら」という問題意識がつく。
その問題意識を通して、自分から質問したり、実際に試してみることができる。
これが、独学の精神です。

そんな姿勢というものがなぜわかるかといえば、うなずき方やノートの取り方から、
わたしが「ここは大事なことを言ってるから、他のところはさておきここだけはわかってね!」
と心を込めておはなしをしているところを、とても敏感に察知しておられることが伝わってくるからです。
教師が教壇に立つというのは、学生を見下して偉そうにいばるためではなくて、
そういう学生の、些細な反応を見逃さずに、指導のあり方を反省するためです。

◆◆◆

これらことを、学生さんからではなくて教育者・保護者の観点からいえば、
子どもに与えなければならないのは、「些事に渡る知識」ではなくて、
「ものごとの考え方」や、「人との関わり方、話の聞き方」といったものである、と言えることになりますね。
実のところ、「学校ではこれこれを勉強してきなさい」というのではなくて、
「友だちと仲良くしなさい、先生のおっしゃることをよく聞きなさい」という漠然としたアドバイスのほうが、
子どもにとってはかえって有意義なことも少なくないのです。

(ここでもやはり、ものごとはその流れを大つかみにしなければ、
具体的なものごとをうまく成し遂げる指針にはつかえないのだ、
という論理が浮上していますね。ここは、<否定の否定>です)

わたしたちは、いかに子どもに対してであっても、その人の人生をすべて背負って立つことはできません。
問題を起こした大学生に対して、「あなたももう大人なんだから」という保護者がいますが、
「大人になった事実」よりも、「どう大人になったか」という過程こそが、当人の人格を形成しているのです。
ですから、本質的にその人のためになるはなにかと探すのであれば、いちばんの近道は、
その人が「自分の足で」歩みを進めてゆけるように、人としての正しい姿勢を身につけさせてあげることです。

もしわたしたちがおとなになってから、
すでについてしまった物心を捉え返して、それがまだ足りないと反省する場合には、
これからの意識でもって自ら培ってゆくしかありません。
しかしその努力は必ず、次の世代に受け継がれてゆきます。

わたしたちは来る日のために、
ほんとうの独学の精神を、日々の生活というくりかえしの中で身につけてゆきたいものです。

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