2010/10/20

王成  蒲松齢 田中貢太郎訳

ノブくんの研究へのコメントですが、学問と関連のあることなので、こちらに記してしておきます。
それにしてもYahoo!ブログのコメント数制限はどうにかならないのでしょうか…
◆ノブくんの評論
 王成は平原の世家の生れでしたが、いたって懶け者であったために、日に日に零落して家は僅か数間のあばら屋をあますのみとなり、細君と乱麻を編んで作った牛衣の中に寝るというようなみすぼらしい生活をしていました。そんな生活の折に、彼はひょんなことから自身の祖父の知り合いの老婆(狐仙)と出会います。そしてそこから彼の運命は大きく変わっていくのでした。
 この作品では、〈物事を成功するには〉ということが描かれています。
 まず王成とその細君の生活を哀れんだ老婆は、自身の40両を彼らに与え、それを元手に小生業することを勧めます。こうして、彼らは40両を老婆から得たのです。そして王成は、老婆に「言われたとおり」、これを葛布に変えて北京で売ることにしました。そう、彼はどんなときも他人の言うことに素直に耳を傾けていました。
 その後旅館で、北京で「南方との交通が始まったばかりの時で、葛布が来てもたくさん来なかったうえに、市中の富豪で買う者がたくさんあったので、価が非常にあがって平生と較べて三倍ほどになっ ていた。それが王成の着く前日になってたくさん着荷があったので、価が急にさがって」しまったことを知ったときも、そこの主人をアドバイスを忠実に守り、結果として大金を稼ぐことができたのです。
 大事を成すには素直に他人に忠実に従うことが重要なのです。
◆わたしからのコメント
 この物語は、この作品に触れた読者にむけて、ある教訓を発信する思惑があって書かれたもののようです。
 論者の主張では、この作品が表現している教訓というのは、「物事を成功に導くには、素直に他人に忠実に従うべきである」というものです。この一般性に照らして本文を読んでみると、たしかに、主人公である「王成」は、世家(文中での読みは「きゅうか」。昔、中国で、一定の地位や俸禄を世襲していた家柄。説明は『大辞泉』より)の出身でありながら身を持ち崩した人間であり、彼のある配慮から懇ろになった狐仙の言いつけに従い財を成すことに成功しています。
 ところが、彼は必ずしも、誰の言うことでもとにかく無批判に受け入れていたわけではないようです。とくに、財を成すもっとも大きな出来事である、強い鶉(うずら)を「王」に売るための商談においては、彼ははじめに提示した千両を引き下げて、六百両でそれを成立させています。これほど大きな例外があれば、やはり「他人に忠実に従った」とは言えないでしょう。
 論者の引き出してきた一般性の誤りを正すには、どうすればよいでしょうか。「王成」がこれ以上なく忠実に守り、従ったのは、どうやら狐仙である「老婆」の言葉のようです。そうすると、「物事を成功に導くには、素直に●●に忠実に従うべきである」という格言の、●●にはどういう言葉が入るでしょうか。それを考えてみてください。
 ここに「老婆」や「狐仙」という言葉を入れてみても、なんらの教訓としては読者に伝わりませんから、「王成」にとっての「老婆」が、どのような位置づけの人物であったかを確認し、その論理的な構造を引き出してくればよいわけです。
 <一般性>というものは、そこに例外があってはいけません。あってよいのは<特殊性>だけです。たとえば、「両生類は水中で生活をする生物である」という概念規定は、イモリやカエルには当てはまりますが、「爬虫類であるはずのカメが水中で生活する」という事実に矛盾します。
 一般性に誤りが含まれていれば、必ず論理の階段を踏み外して、それまでに培ってきた論理の体系、つまり理論は、砂上の楼閣と化すだけです。論理というものの正しさは、あるものの一般性の上に、どのような特殊性が乗っているのか、という構造の重層構造を指していますから、どれだけ正しく個別科学の研究をしているつもりでも、それを乗せる土台が間違っていれば、必ず間違った理論になるということです。
 「例外というものを認めてはいけない」。これは学問での原則ですが、評論など論理性を問われる営みにおいても採用すべき大原則ですから、しっかり噛みしめていただくようお願いしておきます。

3 件のコメント:

  1. 私にとって、あなたは●●の一人であるような気がします。
    勝手ながら、お恥ずかしい限りで。。

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  2. 師であり、友であり、ホント私は幸せですね。
    素敵な出会いに感謝しています。

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  3. 素直に●事物・事象の変化・運動的本質●かな?!
    駄目なら、それらがみえていると自分が確信・信頼している人物かな?!

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