2010/10/25

女類―太宰治

・ノブくんの評論

 戦争が終結し、東京で雑誌関係の仕事をしている伊藤は、行きつけの屋台、「トヨ公」のおかみに惚れられ、ねんごろになっていきます。そんなある時、彼の郷里の先輩、笹井氏がたまたま「トヨ公」にやってきます。そしてやってきたかと思うと、「聞いた。馬鹿野郎だ、お前は。」といきなり伊藤を怒鳴ってきたのです。どうやら彼は伊藤が女性と親しくしていることが気に入らず、その行為自体が「地獄行きを志望」しているというのです。一体どういう事なのでしょうか。
 この作品の面白さは、笹井にとって「真実とはどのようなものなのか」というところにあります。
 この笹井という人物は、「若い頃、その愛人にかなり見っともない形でそむかれ」以来女性を非難し、男類、女類説(男と女では動物学的に違い、決して相容れぬものではないというもの)を述べるようになっていたのです。
 そしてこの男類、女類説を伊藤とおかみの前で言ったことにより、伊藤とおかみはすれ違いを起こし、やがておかみは死んでしまったのです。こう考えると、笹井氏におかみが死んだ原因が必ずしもないとは言い切れないでしょう。ところが、笹井氏は「なんだ、怒っていやがる。男類、女類、猿類が気にさわったかな? だって、本当ならば仕様が無い。」と、あたかも伊藤とおかみのすれ違い、またおかみの死について自分には全く原因がないと言わんばかりの発言です。
 しかし、こう豪語する彼にも自身の説に揺らぎを感じているようです。それはこの発言をして、伊藤たちにボコボコにされている時、「男類、女類、猿類、いや、女類、男類、猿類の順か、いや、猿類、男類、女類かな? いや、いや、猿類、女類、男類の順か。ああ、痛え。乱暴はいかん。猿類、女類、男類、か。香典千円ここへ置いて行くぜ。」と、明らかな動揺を見せています。そして何故か香典に千円という大金を払おうとしています。この奇妙な行動から、恐らく笹井氏も自身に原因があることを心のどこかでは認めていることが推察されます。ですが、自身が犯した罪にどうしても耐え切れなかった彼は、男類女類説を持ち出しその罪を逃れようとしたのです。
 彼にとって真実というものはどうでもよく、重要なことは自分にとって都合のいい事実だった、ということが言えます。ですが、この苦しい彼の説は、真実の前では蟻のようなもので、それを必死で振りかざそうとする様が私達には滑稽に見えてしまうのです。


・わたしのコメント
 論者は、「なにが『おかみ』を自殺に追い込んだ直接の原因であったか」という問いに答えようとしているようです。そこでは、「真実」と「事実」の区別を用いて、前者を「笠井の男類・女類説によるものである」という笠井を除く周囲の見方と、後者を「私が何を言おうと、起こるべくして起きたことなのだ」という笠井の見方が対比されています。しかし、どちらが真実らしいかといえば、とくに何等の根拠も述べられていないのですから、論拠とはなりえません。
 そういう論じ方を見ていると、まるで論者は、「真実と事実」という概念を披露したいがために、その図式を物語に当てはめ、押し付けて論じようとしているに過ぎない、と邪推されても故のないことではないのです。事実、論者の論じ方では、この物語の本質に触れることなく、なぜか一人物の真理の捉え方なるものに脱線して、結局本題に戻ることがないまま終了してしまっています。

 ところで、日頃身の回りにはびこっている形而上学的な考え方から抜け出すには、弁証法の論理性を身につけるしかありません。そしてその論理力の向上のためには、まずは弁証法の三法則を土台として、つまり唯一の土台として、それに沿って物事を理解すべきであるとお伝えしてあります。
 身の回りには「真実と事実」や、「原因と結果」、「内容と形式」、「存在と価値」などといった二分法的な図式がよく用いられているために、それをツールとして使ってしまうということになりがちです。しかし何度も口を酸っぱくして言うように、「ニワトリかタマゴか」や「ソクラテスは死ぬ」の論証などといった平面的な論理では、森羅万象の立体構造を決して捉えることはできません。世のビジネス書や自己啓発書にいくらそのような図式が踊っているとしても、一流を目指す人間の論理性としては、進歩どころかむしろ大幅な後退ですので、それらをふまえてしまってはわかることもわからなくなってしまいます。形而上学的な割り切りは、口論や詐術のツールとしてしか効力を発揮しえませんから、学んではいけません。正しい論理性が身に付き始めたときには、これらの概念を用いることは有用な場合もありますが、初心においては、あくまでも弁証法の三法則を基礎に据える訓練を怠らぬようにお願いしておきます。


 さて、この物語の論じ方としては、以下のようになります。
 まず「僕」の回想として、物語の中頃にすでに一般的な男女にまつわる悲劇の形式が述べられています。
 「男というものは、女からへんにまじめに一言でもお世辞を言われると、僕のようなぶざいくな男でも、にわかにムラムラ自信が出て来て、そうしてその揚句、男はその女のひとに見っともないくらい図々しく振舞い、そうして男も女も、みじめな身の上になってしまうというのが、世間によく見掛ける悲劇の経緯のように思われます。」

 では「僕」の経験は、その一般的な悲劇をなぞらえるままになってしまうのか、ということが描かれてゆくわけです。

 そういった展開の中で現れる登場人物は、言うまでもないことながら「笠井」という作家です。彼はある女性にふられてから、めっきり女性不信に陥って結婚もせずに暮らしており、男類・女類は互いに相容れないという持論を持つ人物です。そしてまた、彼と、その持論が物語にとっても重要な転機となるのです。

 そんな彼の発言のうち、彼の女性観をもっともよく表しているのは以下の箇所です。
 「あのひとの個人的な事情なんか僕は、何も知らない。僕はただ、動物学のほうから女類一般の概論を述べただけだ。」

 さて、ここまで指摘しておくと、彼のどういった論じ方が、巡り巡って「おかみ」を死に至らせた原因となっていったのか、という理由が読み解けてきたでしょうか。

 さらにヒントとして他の手がかりを示しておくと、以下の箇所となります。
 「女の事は気をつけろ。僕は何も、あの女が特に悪いというのじゃない。あのひとの事は、僕は何も知らん。また、知ろうとも思わない。いや、よしんば知っていたって、とやかく言う資格は僕には無い。僕は局外者だ。どだい、何も興味が無いんだ。」
 個人の女は知らない、論じる資格もないし興味もない、だが女一般は知っている。それが彼の持論です。その持論を譲らない、彼の精神構造と、その女性観というものが、どういった結果へと変転してゆくのか、という流れが読めてきましたか。


【正誤】
…以前から常々指摘しているように、あまりに誤字が多すぎます。
とくに固有名詞の間違いなどは、ことばを扱う仕事を目指す者として、その誠意を疑われかねません。
経験から、自らの認識のあり方とその欠陥はわきまえられるわけですから、それに対する対策をきっちり行い、誤字脱字がないよう厳に謹んでください。
修練とはいえ、毎回の評論というものは、自分の作品であるという意識を忘れてはいけません。

・「笹井」→「笠井」
・見っともない形でそむかれ→見っともない形でそむかれて
・ボコボコにされている→小突かれている、など。(文章に格式を持たせようとするなら、口語表現は慎むべきです。)
・真実の前では蟻のようなもの→(このような表現はありません。創作する場合にでも、もっと的確な喩えがあるはずです)

2 件のコメント:

  1. 学問と感情を切り離せない場合に起きた悲劇のような気がします。

    相互に正しく、また、間違っていることに気づきにくくなるような。。。

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  2. 醜男に対するお世辞か、誠意のある愛情か。
    彼女自身の誠意の表し方が、ただ自殺であっただけのこと。
    稚拙に体系化された学説よりも、奥深い事実がある。

    「現代とは」から引き続き、表層的な認識から
    逸脱しようとしてるんだね。頑張れ、ノブ!!

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