2010/11/02

非凡なる凡人―国木田独歩

ノブくんの評論
非凡なる凡人―国木田独歩

 この作品は著者の友人である、桂正作という技手について語られています。彼は秀吉やナポレオン等の非凡の類ではありません。ですが凡人でもありません。著者曰く、「非凡なる凡人」というが最も適評だと述べています。また著者は彼のその特性を尊敬している様子。一体著者は桂のどのような特性をそう評し、感心しているのでしょうか。
 この作品では、〈成功するとはどういうことか〉ということが描かれています。

 まず桂の才能というのは、著者も述べているように平凡なもので、特に目立った特性もなく私達と何ら変わらない人物です。ですが、桂は凡人であるが故に自身の才を生かすこととなるのです。彼の生き方というのはまさに一歩一歩階段を上るようなものでした。地道にお金を貯めて上京、そして上京すると今度は数年かけて、帰郷するためお金を貯め、帰郷したかと思えば、今度は自分を追うようにして東京にやってきた弟達の面倒をも見ています。この忍耐の必要な人生を一体何人が真似て出来るでしょうか。人生において、確かに才能や周りの環境によって自分の思い通りの人生を歩む者もいます。しかし、一方で才能等はなくても一歩一歩直実にステップを踏むことによっても、自分の人生を成功させ、思い通りに生きることができるのです。


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わたしのコメント

この作品は、『非凡なる凡人』というタイトルのように、天才ではないが努力家の、ある青年の生き方を描いています。その青年というのは、筆者の友人の「桂正作」という人物で、貧しい生まれでありながら、『西国立志編』に感化されたことをきっかけにして、自らの人生を極めて長いスパンで物事を考え、実行できる人物となっていったようです。筆者は、秀吉やナポレオンなどといった天才とは違った意味で、彼に感心しており、この作品は彼への讃歌といっても過言ではないでしょう。

さてその作品を論じるにあたって論者は、この作品の一般性を、<成功するとはどういうことか>という形で抜き出してきています。
まずはじめに評しておくべきことは、作中に一度も用いられていない「成功」という概念を用いてこの作品を整理するならば、それだけの必要と意義があってしかるべきですが、見たところ、その要はないようです。おそらく、作中では「非凡」とされていることを受けて、そういった表現を採用したのでしょうが、なぜ「非凡」という概念を用いて、たとえば<非凡とはどういうことか>と言えなかったのでしょうか。(この一般性が正しい、ということではありません。あくまでたとえです)
「タイトルのままだから避けたのだ」、という答えが成り立つようにも思えますが、一般性というものは、その作品を一語、一文で要したものであるがゆえに、タイトルとの近似はそもそも避けることができないという、形態としての必然性をもっています。ですから、もしある作品をじっくり読んで、それでもタイトル通りの一般性を使うべきであるなら、それを用いてもまったくかまわないどころか、それを採用せねばならないのです。

結論から言って、論者は、この作品の著者の言う、「非凡なる凡人」ということばの本当の意味が、もっとも深いところでは納得できていないままに評論を書き始めてしまっています。筆者は文中で、以下のように言っています。「どうだ諸君! こういうことはできやすいようで、なかなかできないことだよ。桂は凡人だろう。けれどもそのなすことは非凡ではないか。」
(ここでやや注意が必要だと思われるのは、筆者は冒頭で彼のことを「非凡人ではない。けれども凡人でもない」と言っているにもかかわらず、ここで「凡人だろう」と言ってしまっています。この作品は、明確な概念を用いてはいませんが、この作品を論じる側の人間は、やはりまっとうに論じられる程度には、明確な概念規定を与えておかねばなりません。ここでは、彼は「凡人である」としておきましょう。)

そう筆者が直接に指摘しているように、これは矛盾です。「凡人」なのに、そのなすことは「非凡」である、とは一体どういうことなのでしょうか。この矛盾に着目できてさえいれば、それが直接に明確な問いとなって、物語の理解を進めてくれる最良の手がかりになったはずです。

現実というものは、そこに現れる事実をもって、「凡人」はどうあがいても「凡人」のままである、という形而上学的な命題を打ち破ります。現実が「凡人」が「非凡」な仕事をすることを証明するのなら、その過程にはなにか隠された構造があるはずではないですか。
論者は、上記の引用文には一応の注意を払っていたようで、才能はなくとも一歩ずつ着実に階段を登ってゆけば成功できる、といったことを述べてはいますが、この作品の主張というものは、それだけに尽きるものでしょうか。

少なくとも、「正作」の生まれた家柄には、その成功のきっかけが、「そのままの形では」用意されていなかったことは、彼の父親や兄弟の顛末を見ればわかるとおりです。それでは、彼に非凡なる生き方をなさしめたのは、どういう要素の「組み合わせ」だったのですか。

答えを直接明かしてしまっては論理性が身につきませんから、ヒントのレベルでいくつか提示をしておきますと、上記した引用文に加えて、以下の箇所も重要です。「一転すれば冒険心となり、再転すれば山気となるのである」。
このように、この作品の中には、「凡人と非凡」、「冒険心と山気」といったように、通常の場合には対義語とされることばや、人間のうちのある気質の異なった側面というものが扱われています。一見矛盾に思われるこれらの現象が、桂家と、桂正作のありかたに現れていることに着目すれば、この作品を本質的に理解し、論じることができるはずです。正しい一般化の仕方を体得するために、ここだけは本腰を入れて取り組まねばなりません。

2 件のコメント:

  1. 「正しい(と思われる)こと」貫いて、実行する。

    普通のことに聞こえるけれど、
    正しさの度合いにより「非凡」になる気がしました。

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  2. 私も竹馬の友と、あんな夕飯をたべたいな。

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