2010/11/28

PSP-3000レザーケース

手元にあったものにかたっぱしからレザーケースを作ろう、という企画のうちのひとつ。


第何弾かはもう忘れちゃった。
毎日睡眠時間を削りすぎて、先週はろくに寝てないもの。。

書物と向かってする研究だと、集中力が切れると眠くなってくるのだけど、
こういう作業は時間を忘れて夜通しやっちゃう。

実を言うと、わたしは社会の動きなんかよりもよっぽど芸術のほうが好き、、、
(と書いてみたら、芸術も武芸なんかも、もちろん人間なんかより自然も大好きなので、もしかするととくに好きでもないのは人間の、とくに社会の動きだけかもしれないという気がしてきた。まあいいや。)
なもので、芸術に携わる人たちとの交流もけっこうあるのだ。

◆◆◆

ってわけでこの前美大に通う学生さんと話していたら、
大学側が省エネだとかで夜間のアトリエ開放を中止したらしい。

その学生さんは意欲のある人で、
「仮にも芸術家を育成する場で、創作活動を阻害していいはずがない」
と憤慨していたのだ。

わたしも、画用紙サイズ(A3大です)の作品をカラーで描くとなると、
平気で三日三晩飲まず食わずの寝ずで作業をしてきた経験があるので、
彼の気持ちはとってもよくわかる。


わたしは直接その大学にものを言う立場にないのでどうにもできず心苦しかったが、
テレビに彼の作品を大写しにしながら、
その世界観について語り合っているうちに、気も紛れたようだ。
とりあえず、彼の嘆願書に署名して、その場は別れた。


しかし今の美大というものは、
学生のことよりも財政のことのほうを気にせざるを得ないような状態なのだろうか。
もともと日本には芸術の世界というものがほとんど存在しないし、
まともに認知もされていないという状態なので、ありうるかもしれないとは思う。

科学に携わる人間が公の場でものをしゃべることはたまにあるが、
芸術に携わる人間のそれというものは、とんと見たことがないもの。

◆◆◆

しかしそれでも、市場などないことを承知しながら、
それでも道をつくるために働こうと、泥まみれになってもがいている人間が、
どれほどの苦労をしているかを想像してみたことがあるのだろうか。

周囲の冷ややかな目だけならまだしも、
それ以外の考え得る幸せや豊かさをかなぐり捨ててまで身を切っているにもかかわらず、
親族一同から変人、気狂い扱いされるという惨めさというものは、
一般の人々が持っている「惨め」という像とは全く違う。

社内の業績で最下位をとったなどというものとは、レベルが違うのである。


彼らは誰かの歩んだ道を歩ければまだ幸せともいえるほうで、
ほとんどが道をつくるどころか、道の作り方から作らねばならないのである!
1から2を作るのではない。
0から1を作るということが、いかにその身に応えるものか。
小さな人間の身を遥かに超える重圧を、彼らは背負っているのだ。


そうだからこそ、先生方だけは、身を切って道を歩もうとする学生たちの、
唯一の味方であってほしい。

◆◆◆


その実大きな組織に守られながら、
その中でくだを巻いていればいい人間の苦労と彼らのそれが、
ひと味も二味も違うということが想像できなくて、なにが人間だと言えるだろう。
(大きな組織というのは、会社組織だけではない。国家もそうだ)

自分でない人間の気持ちや仕事、生き方について理解するときに
一番分からなければならないのは、「わからないことはわからない」という姿勢である。

世の中には、想像してもそうする手がかりすらつかみ得ないという物事が、
確かに存在するのである。
一般には心霊や神などがそういった扱いを受けることが多いが、
もっと身近なところに、ありすぎるほどある。
それが、人の気持ちだ。


それでも、「やってみなければわからない」、
「体験したことのない人間には私の気持はわからない」
という極端な経験主義に陥らないためには、どうしても、
ある経験を持った人の気持ちを、「我が一身に繰り返す」かのごとく、
観念的に追体験してみることができなければならない。

経験主義がはびこれば、体験者がいなくなる、という条件一つで、
もう一度戦争が起きることすら防ぎようがない。


わたしたちは、齢を重ねたりそれなりの地位についたり後輩の目がある前なんかだと、
どうしても「そんなことは前からわかってる」という姿勢を取りがちなのだ。

わたしは学生たちの話を聞きながらよく相槌を打つが、
その相槌一つひとつに、確かな重みが含まれているかどうかは、自戒したいと思っている。

◆◆◆

余談だけれど、、、

我が家には担当の先生から見捨てられたような学生たちがよく来る。
だけど、アトリエ替わりにはまだしたことがない。

我が家を、多様なジャンルで我が道を目指す人たちの、
交流の場にしたいと常々思っているのだが。



◆◆◆

やっと本題に入ることができた。
わたしはなんでいつもこんなに脱線しちゃうのだろうか。

PSP-3000ケース。ぴっちりにしすぎたので初代は入りません。
でも、使ってるうちに馴染んでくるのが革のいいところ。
ボタンで止めているので、すっぽ抜けたりせずにすむ。
ボタンを開けると、ケースに入れたままでACコネクタとアクセスできます。
ン十年ぶりにリメイクされたタクティクス・オウガ。
もう数年間はこれだけでいいかも。

これは自分用というよりも、頼まれたときのために作ったのだけど、
意外と良く出来たので売り物にしたくなくなっちゃったぞ。

…と、こんなヨコシマな感触がアタマをよぎるたびに、
その道40年の尊敬する、一流の彫刻家から聞いた一言が身に染みる。


わたしは、失礼にもこう言ったものである。
「良い作品ができると、商品扱いにするのがもったいなくなりませんか?」

彼は少し間を開けて、こう答えた。
「有るか無いかと言えば、ありますね。でも、プロですから」


わたしが正しい道を歩めているとしたら、
彼らのことばが私の中で、生きているからだ。

2 件のコメント:

  1. プロの言葉の響きは、何か違うものを感じさせられますね。

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  2. PSP-3000の革ケース拝見させて頂き大変好印象を受けました。そこで、お幾らかで譲っていただけないものかと連絡させて頂きました。お時間できた際で結構ですので、ご連絡いただければ幸いです。

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