この作品では、緒方氏何故死んだのかについて著者が考察している様が描かれています。著者は、そもそも彼が死んだのは彼の作家精神にあると考えています。では、緒方氏を殺してしまった〈作家とどのような職業〉なのでしょうか。
作家とは人間の複雑な心情、なんとも言えない不条理な事柄に芸術性を見出し、文章として表現します。それは時に、「不幸が、そんなにこわかったら、作家をよすことである。作家精神を捨て ることである。不幸にあこがれたことがなかったか。病弱を美しいと思い描いたことがなかったか。敗北に享楽したことがなかったか。不遇を尊敬したことがな かったか。愚かさを愛したことがなかったか。」と作家の目には甘美に映ることもあります。すると、察するにこの緒方氏という人物は作家が不幸や病気に憧れを感じるように、死に対して甘い憧れを感じ死んでいったのです。
◆わたしのコメント
筆者である太宰は、生業を同じくするある小説家の死に面して、追悼文を記しています。ある小説家というのは、緒方隆士氏その人であり、生前から筆者とは面識がありました。太宰は、彼とはそれほど深い関係ではなかったようですが、彼の小説家としての姿勢には敬意を持っていたようです。タイトルにもなっている「緒方氏を殺した者」というのも、実のところ、彼の中にある「一流の作家精神」なのだ、と彼は考えているのです。
さて論者の論じ方はというと、この作品の本質的な部分、「緒方氏を殺した者は、実は彼の中の作家精神なのだ」というところをざっと流しています。そうしてそれに続けて、「では、緒方氏を殺してしまった〈作家とどのような職業〉なのか」と、「作家」というものについて問うているわけです。
肝心の論証については、そのほとんどが作中の引用で済ましてしまっているため、乏しい表現からその主張を推し量るしかないものですが、要するとこうなるでしょう。作家とは人間の複雑な心情を受け取り表現する仕事だから、緒方氏も、人間の負の側面、究極的には死に憧れを感じてしまったのだろう、と。
どうやら論者は、緒方氏が、作家として仕事にのめり込むあまりに、自殺を選んだと思ってしまっているようですが、実際には彼は病死です。この評論全般については、論理の修練という目的があるとはいえ、この程度の情報を仕入れないままに独断で語りきってしまうという姿勢は、残念と言わざるを得ません。もしその知識がなかったとしても、緒方氏は「歯ぎしりして死んでいった」と書かれているのですから、「死に対して甘い憧れを感じ」ていた、などとは口が裂けても言えないはずです。
結論から言ってしまえば、この作品の一般性は、<顛倒した表現>です。その一般性を念頭に作品を理解すれば、「作家精神とは何か」、「筆者が追悼文をまともに書けなかった理由は何か」、「息子の戦死の報を聞いた母親は、なぜああいう行動をとったか」という疑問が、読み解けてくるはずです。作品で描かれたことを踏まえて何かを語るという場合には、まずは作品で描かれたことはなんだったのか、ということを、自分のものにできていなければなりません。
2人の関係はよく知らないけれど、敬意を作品に反映させる、
返信削除小説家という仕事にあついものを感じさせられました。