革いじりは年内に残りひとつ、と言ったけども、
もう一つ忘れてました。
ずっとまえに作ったタバコケースのオーナーが、実はまだ取りに来てないのですが、先日唐突に電話があり、「取りに行くついでに筆箱も頼む」と言われていたのでした。
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筆箱は、この前の蝶番式がたぶん2つめだから、今回で3つめか、ここまでくればそんなに時間はかかるまい、と構えていたら、いまいちな出来映え…。
…ファスナー部が曲ってしまいました。ほかにも、あちこち気に入らない。
もともと依頼された品の条件はといえば、「ペン3本くらい入ればいい」といういい加減なもので、わたしとしてはペン3本しか持ち歩かないなら、3色ボールペンを鞄に放り込んでおけばいいじゃないか?という言葉を堪えて電話を切ったものでした。
そういう理由があって、「じゃあホントに3本「しか」入らない」やつを作ってやろうと思い立ったのが運の尽き。
革細工って、小さなものをつくろうとすると極端に難しくなっちゃうんだよねえ。
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わたしにとっては、「タダほど怖いものはない」と言うのは、タダであげた、という気持ちの中に「タダだしいいや」という甘えがあったことをあとで思い出してとっても嫌な気分になる、という意味です。
ダメな道具を作ったり、使ったりするのを見て見ぬふりをするというのは、人間として失格だと、どうしてもそう思えて仕方がありません。
ひとりの人間として生きるというときには、ものの選び方や買い方は、資源や他の人たちのはたらきのつながりを抜きにしては語れません。
もともとひとつの道具というのは、ある材料から作られるわけですね。
そのときに、たとえばひとつの革素材と向き合ったときに、ある人間は、大して素材と向き合ったりせずに、とりあえずいい加減に切り出してみてやっぱり大きいからと切り刻んでいったら結局尺が足りなくなって新しく切り直した、としましょう。
それに対して、同じ筆箱を作るときにでも、もう一人の人間は、一枚の革を前にして、これをもっとも無駄のないデザインで、無駄のないやり方で一ミリも無駄にせずに、頭の中も型紙も完璧に整えてから取り組もうと考えたとしましょう
このどちらもが、それほど大きな差がなく使える筆箱なのだから、そこに込められた思想性などはあろうがなかろうが使えりゃ同じ、ということになるでしょうか。
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地球にある資源やエネルギーというものを考えるときに、すくなくとも、藻類から石油が作られたり、炭素からダイヤモンドができたりすることをわたしたちは知識的に知っています。
ところが、それを人間が必要なだけ作ろうとしたときには、とてもとても難しくなってしまいます。そうして希少性が高まると、いろいろとややこしい経済的な要因がからんできて、オイルマネーやらブラッドダイヤモンドなどといった、人間の暗部ここに極まれりといった嫌な響きの言葉が生まれることになるわけですが、ああいう醜さが出てきてしまうのも、もとはといえば、人の手で作るよりもすでにあるものを掘り出して使ったほうがはるかに効率が良いからです。
たしかに、行く河の流れは絶えることがなく常に移り変わっているけれどもそれがひとつの河であることに変わりはないのと同じように、地球上の物質は基本的に姿を変えながらも一定であり、それは間違ってはいないのです。
それでもなお、一度使ってしまってはそれが巡り巡ってもう一度使えるようになるには気の遠くなるほどに長い時間と、人間ではとても生み出し得ない大きな圧力が必要になってくることもまた然りなのです。
そうすると、もし同じ素材とエネルギーを使ったときに、ばりばりムダを垂れ流した挙句、使い手にとってもイマイチなものを作るのと、商品化する前の飽くなき試行錯誤のなかで、「もはやこれ以外ありえない」というまでに作品の質を高めたものを作るのとでは、とても大きな差があるとは思えませんか。
それはなにも、ダメな商品を作っている作り手側だけの責任なのではなく、ダメな商品を買う側との関係性において論じられなければならないのですから、ものを選んで買う立場から言っても、同じ機能を持っているからといって半年でダメになるような商品を買っては捨て、買っては捨てするというのは、わたしはとても恥ずかしいと思うのです。
わたしたちが使わない日のないお箸も、もとの素材は想像しにくいものの携帯電話などの精密機械でさえも、もとを正せば地球にあったもので、それ以外ではないのでした。それを切り出したり組み合わせたりするために必要なエネルギーも地球のもので、工場や物流を支えている人たちが昨日も今日も命を保ち働けるのは、もとは地球から得たものを摂取しているからです。
さすがに「道具一つ選ぶのも地球の重みを考えろ」みたいなことを言い出すとエコ宗教の体を醸しだしてきますが、少なくとも値段が安いからといって、「とりあえず買っておけ」というようなものの選び方は、環境とも他人ともつながっていることを自覚するひとりの人間としては、ひとつも褒められたところはありません。
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これはさらに、人間の認識をいつも目的的に見続けているわたしたちにとっては(そうですよね、みなさん)、買い物をはじめとしたものの選び方は、選んだ道具を自分の目的とする用途にどれだけ合致するかという問題意識をとおして、自らの認識の力を質的に向上させる契機となるものであり、さらには身の回りの道具が自らの心身に浸透するとあっては、その選び方一つといえど、蔑ろにできるわけもない、というのが正しいものごとの見方です。
同じ靴を買った友人と、1年後に靴を比べあってみればわかるとおり、そこには大きな差があることがわかるでしょう。
靴底の減り具合もまったく違いますし、保存場所では色味も、履き方によっては踵が潰れてしまったりもしているはずです。
さらには、たとえば靴の在り方がわたしたちの人間の足の形、足腰の強さ、姿勢や歩き方に影響を与え、それが量的に蓄積されたときにはどのような質的な現象として顕れてゆくのか、ということに着目して、弁証法は対立物が「相互に」(一方向ではありません!)浸透する、という構造をとても重視していたのでしたね。
直接的に自らの身体や生活を形作っている食料と違って目に見えにくいところですが、わたしたちが選んでいる道具についても、それがわたしたちにとってどのような位置づけにあるものなのかと一歩進めて、一歩深めて考えてみてほしいと思います。
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さて、どうでもいい話ばかりをしてしまうのがいけないところですが、かくかくしかじかそういう理由で、わたしは昨日の晩はぐっすり眠れませんでした。
自分がダメな側に回ってしまったような気がしたからです。
そういうわけで、タイトルにもあるとおり、結局4号も作ることになったのですが、まずは3号から反省。
横幅は、定規(手持ちの)が入るぎりぎりの30mmちょい。
時間がないなかで急いで型をつけたら、ちょっと右に傾いてしまった。
あ〜。
正方形のつもりで作ったら、ぜんぜんそんなことなかった。
ああ〜…。
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もしデッサン用に使うとしたら、あたらしい鉛筆が6本、短くなったのが3本と練り消しくらいは入るから悪くないかな、とは思います。ただ細かなところがやっぱりよくない。
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というわけで、結局リベンジ。
ペンケース004(右側)。
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接着剤をつけてから縫うので、どうしてもファスナーが波形になりますが、003よりもずいぶん良くなりました。
分断されていた縫い目も繋げました。
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柿渋染めに色もちゃんと付いたし、やっぱり焦って作ったらダメなんだよねえ。
作り手の精神状態がモロに反映されてしまうのは、料理と同じです。
あー、やっと人間としての責務を果たした…。
これでぐっすり眠れる。おやすみなさい。
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