2011/12/11

文学考察: 破落戸の昇天ーモロナール・フェレンツ(森鴎外訳)

【注意】


ここから先は、最近このBlogの読者になった方が読まれると面食らうこと受け合いの内容なので、胃がキリキリ痛むのが嫌な場合は読まないほうがよいと思います。(今日の記事からは、胃の痛くなる記事には「千尋の谷」画像を使うことにしますので、一般読者のみなさんはスルーの目安にしてください)

わたしとしても叱るのが楽しいわけはないのですが、ひとつの道を見据えてもらうための「叱る」という振る舞いは、一般に考えられているような感情的に怒鳴りつけることではなく、本質的に言えば論理的な認識に基づいた技術ですので、どうしても避けて通ることができません。
どんな指導者でも感情のない人間はいませんから、内心に限れば後進の振る舞いに対して怒りを覚えてもかまわないのですが、そのような場合にでも、それをいちど飲み込んで冷静に分析してみたあと、「ここはどうしても叱りつけねばならない」と考えた(感じた、ではなく)のならば、その表現は、感情を込めたような叱り方をすることをも含めて、どうしても必要なことなのです。

そういうわけで、お目汚し御免。


◆ノブくんの評論◆

文学考察: 破落戸の昇天ーモロナール・フェレンツ(森鴎外訳)

町なかの公園に道化方の出て勤める小屋があって、そこにツァウォキイという破落戸が住んでいました。彼ははえらい喧嘩坊で、誰をでも相手に喧嘩をする。人を打つ。どうかすると小刀で衝く。窃盗をする。詐偽をする。強盗もするような、どうしよもない人物でした。ですが、そんな彼も自分の妻の事はその身を案じており、銭が一文もなくなった時などは、彼女がまたパンの皮を晩食にするかと思うと、気の毒にさえ思うというのです。しかしその一方で、ツァウォキイはそんな自分の気持を素直に表現することができず、逆に気持ちを隠そうとして、彼女に辛くあたってしまいます。そしてそんな彼は、やがて財産を全て失い、銭を稼ぐ術をも見いだせなくなった挙句、小刀を自分の胸に突き刺して死んでしまいます。
死後、彼は役人たちに緑色に塗った馬車に乗せられて、罪を浄火されるべく糺問所へと連れていかれます。そして、そこに連れてこられた人々は同時に、一日だけ娑婆に帰れる権利を与えられます。これをツァウォキイは、一度は拒否するも、徐々に自身の心が浄くなるにつれて、娑婆にいる自分の娘に会いたいという思いを強めていくのです。ですが、彼はやがてこの権利を行使するも、自らこのチャンスを台なしにしてしまいます。一体彼は何故、折角のチャンスを台なしにしてしまったのでしょうか。
この作品では、〈怒りでしか、自分の感情を表現出来なかった、ある破落戸〉が描かれています。
まず、上記にもあるように、ツァウォキイは娑婆で実の娘に会う機会を得ることができます。しかしいざ実の娘と対面し、「なんの御用ですか」と尋ねられ、上手く反応できず「わたしはねえ、いろんな面白い手品が出来るのですが。」と、誤魔化す事しか出来ませんでした。これに対し、娘は当然の事ながら、「手品なんざ見なくたってよございます。」と父をあしらってしまいます。そこで、ツァウォキイは怒りを顕にして右の拳を振り上げて、娘の白い、小さい手を打ってしまいます。こうして、彼は娘との折角の対面を失敗に終わらせてしまいます。ですが、これは完全な失敗と言えるのでしょか。というのも、父にぶたれたことに対して「ひどく打ったのに、痛くもなんともないのですもの。ちょうどそっと手をさすってくれたようでしたわ。真っ赤な、ごつごつした手でしたのに、脣が障ったようでしたわ。そうでなけりゃ心の臓が障ったようでしたわ。」と、あまりひどい事だとは思ってもいない様子。一体どういうことでしょうか。
さて、こうした怒りに関する複雑な感情は、現実を生きる私達にもしばしばあります。例えば、過去に父や母に怒られた事を思い出し、その時は分からず、苛立ち、悲しく思っていても、大人になるにつれてそれが有難いことだったと感じることはなかったでしょうか。私達がこのように思えるのは、こうした親の怒りの中に、私達に対する思いが含まれているからに他なりません。
そして、物語に登場するツァウォキイに関しても同じことが言えるのです。そもそも、彼が怒りを顕にした理由が、娘を思うあまり、辛くあたられた事にあるのですから。
こうした私達の感情は、私達が思っている以上に複雑で、その表現の仕方もそれと比例するように同じく複雑なものへとなっているのです。

◆わたしのコメント◆

この評論を評価するにあたって、結論から言っておきます。
これではダメです。

ここ一ヶ月ほど、なにもコメントをせずに修練の様子を見ていましたが、11月に入ってからの評論内容は、どれもあまりに不出来なものです。

わたしが最も重視しているのは、表現はともかくその根底にある論理構造ですから、細かな表現の不味さには、いつものとおりそれほどきつく当たるつもりはありません。
しかしそれはまだそのことを指摘するべき段階にまで達していないという一事をもっての見逃しにすぎない、ということを覚えておいてください。

◆◆◆

さてそう断った上で、ここ一連の評論について、本質的な欠陥を2つ挙げることにします。

ひとつめに大きな問題なのは、筆者が抜き出している<一般性>が、とても一般性だとは呼べない代物だ、ということです。

筆者は、今回の作品の一般性を〈怒りでしか、自分の感情を表現出来なかった、ある破落戸〉としていますが、果たしてこれが、作品全体の本質を抜き出したところの<一般性>でしょうか?
一般性を引き出すとは、作品そのものをその作品足らしめている本質的な核の部分を取り出して、過不足なく一言で表現することでした。
そこが把握されてさえいれば、たとえば友人に面白かった文学作品を説明するときに、「この作品を一言で言えば、●●ということになるね」とはじめに断った上で詳しい説明に入れますから、それにつづく説明も、理路整然としてくるのです。

これは学問の世界で言えば<概念規定>をすることと、難度はともかくその過程としては、論理的に同一です。
たとえばこころみに、わたしがどんなジャンルを専攻するにしても読むべき本としていつも挙げている三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』を見ると、彼は科学の歴史をざっとおさらいしたあと、弁証法は「世界全体の一般的な連関・運動・発展の法則についての科学」(p.23)だと明確に表現しているでしょう。
これは、論者があらすじ、一般性と書き進めているのと同じ構成であることがわかりますか。

◆◆◆

ひるがえって論者の文章の展開を見れば、そこでは一般性という土台のまずさに引きずられて、すべてが混沌の渦へと巻き込まれていってしまっています。

三流思想家よろしく、つづく論証部でまずい一般性への帳尻合わせすらしていないというのは、潔いというかなんというか、というところなので、あえて「論者の論理展開は」という表現を使いませんでした。

とにかく、<あらすじ>そのものからはじまって、その最後の<問いかけ>、その答えを結論から示しているはずの<一般性>、さらには評論を書く意義そのものである<評論>部がすべてにわたって何の連関も貫かれずに点在しているのですから、これでは読者は、とても論者の認識など読み取る気にはならない、というのが正当な評価です。
この文字列の中で唯一評価できることがあるとすれば、それは全体としての順序を言いつけ通り守っていることくらいしかないのですから…。

◆◆◆

もし正しい一般性をふまえることができれば、冒頭のあらすじは以下のようなものになるでしょう。

 「ツァウォツキイ」というひとりの破落戸(ごろつき)は、「妻」と二人で、とても貧しい暮らしをしていました。彼は彼で、そういう暮らしを妻に強いていることは心苦しく思っていますが、それをうまく優しさとして表すことができません。あの小さい綺麗な女房がまたパンの皮を晩食にすることになるのか、と思えば思うほどに、その気持ちはどういうわけか、妻への罵声となって口をついて出てしまうのです。そんな現状をなんとか切り抜けようとした彼は、ある日その目論見が裏目に出て博打で有り金をすべて擦ってしまい、あまりの失望に、妻の名を口にしながら刃物を胸に突き立てて自害してしまうのでした。
 死後の世界に逝った彼に、「役人」はこう言います。「自殺した者は、一日だけ娑婆に出ることが許されるがどうするか」と。一度はせっかくの申し出を断った彼ですが、十六年も経つころになったとき、自分が死んだころ妻のお腹にいたはずの「娘」のことを思い出します。そうして彼は地獄から現世に這い戻り、緊張の面持ちで自宅の戸を叩きます。ところが、扉を開けた娘は、彼の気持ちをよそに、見知らぬ者の来訪に戸を閉めようとするのでした。それを遮るような形で、ツァウォツキイは、思わず娘の手をはたいてしまいます。我に返った彼は、ひどくはずかしい気持ちを抱えたまま、地獄に帰ってゆくのでした。

正しい一般性はあえて明記しませんが、この作品は、登場人物の内面と表現のあいだの矛盾を、ドラマとして描いたことにあります。
そのことを把握することが直接的に、冒頭と終わりに、「この作品を児童にたいして読み聞かせることを望む」、と付言した作者の意図を汲み取ることにもなるのです。

◆◆◆

さて正しい一般性が把握できると直接に作品の意義をまともに受け止められたのちには、論者の書いたあらすじと、わたしの書いたものを比べてみてください。
わたしの書いたものは、とても一般的な、普通の言葉で書かれていることがわかるでしょう。

“それは、一体なぜですか?”

これが、2つめの欠陥についての指摘です。これは絶対に、明確な答えを出して、肝に銘じて日々の修練に当たらねばなりません。

これら2つの大問題については、答えだけならば「Buckets*Garage: どうでもよくない雑記」の記事で確かめられます。
この記事の日付をみてください。恥ずかしくなりませんか。

このこをふまえて、たとえばわたしは、「破落戸」という言葉に振り仮名を振りましたが、これは読者の立場にたてば、これほどの熟字訓ともなれば、一般読者にその知識を要求することはあまりに無謀だと判断したからです。
このレベルの漢字知識は、出題範囲としては、たとえば漢字検定の1級(最上級)にもなるわけで、一度でも試験会場に足を運べば分かるとおり、受験者はほとんどがいかにも作家!という出で立ちであるほどの、場違いな難しさなのです。

論者は、いったい誰にたいして文章を書いているのでしょうか。
いったい、表現を何だと思っているのでしょうか。

◆◆◆

失敗の構造に照らして今回の大失敗を整理しておくなら、一般的には論者のものごとの学び方が狭隘で、歪であることが原因となって、これらの失敗は論理的帰結としてどうしても発生せざるを得なかったのだ、と言えます。

ある程度の認識・技術を持っている者が、たとえば数ヶ月山ごもりをして作品をものすことは、実に有意義な成果をもたらすことが知られていますが、それはあくまでも、「ある程度の実力があってこそ」なのです。
それを現象的に真似して、物理的に原稿用紙に向かって背中を丸め込むようにして、精神的にも自分の世界に閉じこもってしまってはいけません。(もっとも、物理的にも背筋を曲げるべきではありませんが)

何回も指摘しているとおり、論者の認識力、論理力はこれほど長くの間の修練にもかかわらず、未だ土台が作られてきているかと思えば気を抜いて崩れ去ることを繰り返している段階でしかないのですから、お手本は常に、机の前に貼っておいて毎日確認するくらいでなければなりません。(わたしがコメントで数回、「驚いた」と率直に評価したものがありましたね。あれはなぜ褒められたのでしたか?もういちど確認してください)

これをたとえて言うなら、論者の誤り方は、習字をするときに先生の手本を毎度毎度見ながら、何百回も何千回も繰り返し腕を手首を動かすことをとおして、その筆の運びが自らのものとなるように技術面を修練すると共に、その表現に込められた意図をさえ汲み取ることのできる感受性と、最終的には作品の根本となる先生の認識の在り方そのものをも身につけてゆくべきところを、論者は、毎度毎度、先程書いた自分の下手な文字をなぞるようにして、結局のところ自分の下手な実体技と認識のままにお手本を矮小化してわかった気になってしまっている、ということなのです。

ここが天才肌の人間ならば、道を踏み外した表現技法、武道で言えば喧嘩殺法のような素人芸でも数年間は目立つことができますが、それも所詮数年なのであり、そもそも一流とは、といえば、自らの心技体を、歴史性を捉え返してその極端である現在に受け継いでゆくことのできた者だけに与えられるラベルであるだけに、一個人の自然成長に任せていてはとてもたどり着けないものなのです。

大原則をふり返るならば、人間は個としての生を生きながらも、全体としてしか人間足り得ない存在である、という一事をしかと胸にいだき、一時も忘れることのないように生きてほしいと思います。

たとえ論者本人に悪気がなくとも、結果から判ずれば、歴史に冠たる作家と、その作品を矮小化して受け止めてしまっていると見做さなければならないのですから、彼らの足跡を土足で踏みにじったと断じなければならないことにもなるわけです。
学ぶためには必須の謙虚さというものの欠如は、なにもその精神性だけに由来するのではなく、認識の土台や意志の力が欠如しており、そのことが間接的に謙虚さを欠いていることを導いているにすぎない場合にも、絶対に見過ごすことはできない厳しさがあるのです。

だから、わたしはどうしても、叱らねばならないのです。
この必然性を、そこに止揚されている感情と共に読み取ってもらえるでしょうか。

◆◆◆

今年度はあと2週間ほどで終わりますから、この期間のあいだに、これまでのアドバイスをすべて取り戻すつもりで修練に取り組んでください。
これまでの記事を「一般性」で検索すれば、30件ほどは同じ失敗への指摘は見つかりますから、それらをしっかりと読んで受け止めた上で、年内には合格点をもらえる評論(単なる文字の羅列ではなく!)を提出してください。

繰り返しになりますが、気の抜けた素振りなどいくらやっても無駄です。
それどころか、形・型が悪いということは、やるだけ無駄どころかやればやるほど下手になるだけに、むしろ寝転んでいたほうがいくらかましというほどの恐ろしさを持っていることを、今回の失敗からしっかりと学んでください。

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