2011/12/24

文学考察: 牛乳と馬(修正版)

ハレの日だろうが変わらず修練に打ち込む学生諸氏の姿を見ると、


とても嬉しく、心の芯が暖かくなります。

その熱意に応えるべく、また負けじと思えばこそ、前進するための張り合いが出てくるものです。
年末でも年始でも変わらぬ熱意で連絡をくださるみなさんの内容には、いつも心を打たれるばかりで、なかなかにまともな返事をできないかわりに、ここでお礼を言いたいと思います。

ただ、季節の移り変わりを肌で感じることや、節句に主体的に取り組むということについては、どれほどに時間が許さない場合にも残り香に触れるということくらいはしてもらいたいなと思っていますから、ひとりの自立した<人間>として、メリハリをつけて毎日を大事に過ごしてくださるようにお願いしておきます。


◆ノブくんの評論◆

文学考察: 牛乳と馬(修正版)
ある日、秋子は軍馬とぶつかりそうになったことをきっかけに、その馬の主である小野田という男と知り合いになります。そして、この出会い以来、彼は何かにと理由をつけて牛乳を彼女の家まで届けることとなりました。そしてこの謎の男との出会いは、秋子の家族に異変をもたらします。特に彼女の姉である夏子は、彼が運んでくる牛乳は馬の臭いがする、夜、何も音がしないにも拘らず、馬の足音が聞こえてくる等と言い、小野田を意識している節がありました。
ですが、このような生活にも、別れの時が刻々と近づいていました。秋子の一家は今住んでいる土地を去り、東京に帰ることになっていたのです。そこで夏子と母は、彼をお食事に招こうという事を話し合っていました。これに関して、秋子は内心反発していましたが、結果的に自分から、彼を招いてしまうこととなってしまいます。
翌日、彼は彼女の家を訪れました。ですが、夏子の様子がいつもとは違い、妹の秋子ですら、姉から氷のような冷たいものを感じとらずにはいられませんでした。やがて姉は冷たい口調で、「わたし、小野田さんに伺いたいことがありますから。」と言って他の者を追い出してしまいます。そしてその内容とは、そもそも小野田は夏子の恋人の友人ではないのか、ということです。姉は彼の正体について薄々感づいていたのです。更に彼の方でも、その恋人から夏子に向けて、「愛も恋も一切白紙に還元して、別途な生き方をするようにとの切願だった。ついては、肌身離さず持ってた写真も返すとのこと。」との伝言を依頼されていました。しかし、この伝言を聞いて夏子は倒れてしまい、それが災いしたのかやがて死んでしまいました。
 
この作品では、〈事実を伝えようとしないこと、知ろうとしないことがいい事もある〉ということが描かれています。 
はじめに、秋子は、姉が死んでしまったことに対して、下記のような憤りを述べています。
「わたしは小野田さんを憎む。あのひとは本質的にはまだ軍人だ。軍馬種族だ。それについての憤りもある。わたしたち、お母さまもお姉さまもわたしも、まだ甘っぽい赤ん坊だ。ミルク種族だ。それについての憤りもある。」
では、これらはそのぞれのどのような行動、または態度を見て避難しているのでしょうか。まず、上記の憤りは、「結果的に」姉が死んだことに対して、彼女が事実を知ったために死んだのだと考えている事から感じているものなのです。そして小野田に対しては事実を告げようとした、その態度を非難しています。彼は姉が病気であると知り、恋人の伝言を伝えようか否かを迷っていました。ですが、それでも最終的には姉にそれを伝えてしまった為に、またそこから、軍人が上官の命令に対して、苦悩しながらもそれを実行する様を彷彿した為に、秋子は彼を「本質的には軍人」なのだと評しているのです。
では、一方の秋子達達、一家の態度についてはどうでしょうか。それについても、やはり彼女は憤りを感じています。姉は小野田が何か隠している事は知りつつも、その中身に対しては深く考えていませんでした。母は何も考えず、彼を招いてしまいました。秋子は秋子で、彼に心を許して小野田を家に入れてしまいました。これらの警戒心のなさから、自分たちを「まだ甘っぽい赤ん坊だ。ミルク種族だ。」と称し、避難せずにはいられなかったのです。


わたしのコメント◆

「秋子」の視点から紡がれたこの作品は、偶然知り合った「小野田」が、秋子の「姉」に、彼女の恋人が戦死したことを告げるまでを描いています。

おおまかなあらすじは論者がまとめたもので把握できますが、全体の構成について補足しておくと、「小野田」が「姉」に恋人の戦死を告げるまでには、相当な月日が流れており、この作品の文量のほとんどが、その付き合いがしだいに深くなってゆく描写に当てられています。

この作品を大きく分けたとき、
1.偶然知り合った「小野田」と「秋子」の家族との付き合い、
2.「小野田」の告白、
3.「姉」の病状の悪化と死、
という構成になり、紙数のほとんどが1.に割かれているわけですね。

この構成が作品内容に多大な影響を与えているのは、ひとえにその構成が、「小野田」の心情の揺れ動きを表しているからであり、彼が戦友の遺言に従い、偶然を装って「秋子」の家族に近づいてから、「姉」が病弱であることを知り、実際に彼女に恋人の死を告げるまでにはそれだけの逡巡があったということを表してもいるのです。

さいごの小野田の告白についても、秋子の一家が家族揃って転地するという前日に、姉に問いただされる形ではじめられるのですから、小野田の胸中いかほど、と察するに余りあるものがあります。
作中には、小野田がなにを考えて一家を探し、戦友の遺言を伝えるべきか否かを迷ったのかという表現は、「直接には」ほとんど出てきませんが、そのことがかえって、この作品を再読に値するものに仕上げているのです。

◆◆◆

作品の内容を結論から触れることにすると、感受性の強い秋子は、小野田が心の底に一物を抱えていることを見抜き、彼に最後まで心を許しませんでした。
それでも、彼女は小野田の逡巡を知らなかったわけではありません。
一家が転地をする予定であった前日に、姉と小野田がふたりで話したあと、姉が気を失い広縁に倒れている傍らで、彼女自身の写真が引き裂かれているのをみて、それまでの小野田にたいする疑惑が現実のものであったことを知り、すべてを悟っているのです。

ところが彼女はどうしても、それを受け入れることができません。
小野田が姉のことを気遣い、戦友であり姉の恋人でもある人間の死を隠していたことを知っても、それを打ち明けるようにほかでもない姉が迫ったことを知っても、それでもどうしても、小野田のことを許すことはできないのです。

秋子にとっては、姉の心情や体調がどうであるかがどんなことよりも優先されるのであって、実のところ小野田の逡巡がどうであるかが判明したあとにも、そのことが彼を許す気持ちにはまるで繋がってゆかないのです。

秋子の姉にたいする強い思いがあったればこそ、秋子の「小野田にたいする理解」が深まることと裏腹に、それがまるっきり「小野田を許す気持ち」には繋がらないどころか、彼への憤りへとさえ繋がってゆくところが、この作品の終焉をしこりを残したまま迎えることになる必然性を生み出しているわけです。

◆◆◆

通常の人間ドラマの描き方であれば、たとえば自分の家族を殺した犯人を追い詰めた場合にでも、当人の事情を深く知ってゆくにつれて、主人公の心の中に得体の知れないわだかまりが生まれ始め、あれほど憎かったはずの家族の敵を討つことへのためらいへと繋がってゆくことがあっても何らの不思議でもありませんね。

ところが、この作品はそうではない。そこが、この作品をこの作品たらしめているところであると言えそうです。


これを形式面から整理して言えば、論者の言うとおり、秋子はあくまでも姉の死という「結果」から、小野田当人も憎んでいますし、彼女の一家の防衛能力のなさについても憤りを感じることになっているのだ、という説明になってきます。

秋子はどんなことがあっても、結局は彼女の世界観から一歩も出ることはなかったのであって、そうだからこそ彼女の一家の世界観に、異分子である小野田の闖入を許してしまった自分たちの情けなさ、そして小野田本人への憤りがさいごまでくすぶり続けたのです。

では試みに、秋子が小野田になにを望んだかを考えてみるのなら、「いくら戦友の頼みであるとはいえ、病弱の姉を見ればその報がいかに姉を傷つけるものであるかは理解してくれて当然なのだから、どれほどに彼が自責の念に苦しめられたとしても、心に抱えて墓場まで携えていてほしかった」ということなのであり、もっと言えば、「彼女の一家に関わりすら持ってほしくはなかった」のだ、ということになりそうです。

◆◆◆

秋子の、小野田への恐ろしいまでの不酌量、しかもそれが不理解ではなくむしろ彼への心情理解から沸き上がっているところに、この作品の不気味さ、とともに特質があるという点からすると、論者の引き出した一般性〈事実を伝えようとしないこと、知ろうとしないことがいい事もある〉は十分な妥当性を持っていると言ってよいでしょう。

ほかにも、より低い観点から見れば、つまり論者の形式寄りの一般性よりも、より内容寄りの一般性としてならば、秋子が彼女の主観側から述懐していたように、秋子一家の「ミルク種族」と、小野田の属する「軍人種族」とが、決して相容れぬ世界観を秘め続けているところを、タイトルである『牛乳と馬』とからめて、<異なる世界観を決して受け入れることのなかった一人の女性の物語>などとしてもよさそうです。

もっとも論者にたいしては、かねてから「一般性を引き出すつもりで主体を探し回るのを止めよ」と厳しく言ってきましたから、そのことを念頭におけば、論者が今回の回答にたどり着いた過程も、実に理解できるところです。

ここについて付言しておくならば、上述の指導については、あくまでも一般性のすべてを登場人物の主体に帰することではいけない、ということですから、作品ごとの本質を一言で引き出そうとしたときに、それが自然と主体に近い表現となったときには、そのように明記してもかまわないのです。
あくまでも一般性とは、作品の本質を過不足無く一言で引き出したものである、というのが大原則ですから、本質さえ捉えられているのならば、表現は作品によって移り変わることも十分にありえるのですから。

もっとも、本質ありきの表現、という相互浸透については自分なりに理解してくれているものと思っています。

論者は今回、訓戒のような形で一般性を引き出してきて、それがこのような良い結果に繋がっているわけですが、だからといって、毎回訓戒風に書き抜けば一般性になるのだ、というふうな短絡には陥らないようにしてほしいと願っています。

本質のつかみ取り方がはっきりと自覚されれば、つまり文学作品の特殊性における本質というものの像が、自分のなかではっきりと掴み取れるようになったときには、その表現がどうであるかに自分の自信が揺るがされることは無くなります。
そのときまで、自分のなかでの「ああでもない、こうでもない」という過程を大事に、大事にしながら、自らの認識のありかたそのものを質的に転化されるまでの修練を続けてください。

◆◆◆

今回の評論を全体的に評すると、あらすじは悪くなく、一般性についての理解は十分であるものの、評論の質が安定するまでの一時的な措置であると読み取れるが、やはり論証部こそが評論の命であるからには、その中の身近な例示による論証をぜひ読ませてほしかった、ということになるでしょう。誤字脱字の多さについて指摘せざるをえないことは残念ですが、厳しく指摘しておきます。

文中に、「上記の憤りは、「結果的に」姉が死んだことに対して、彼女が事実を知ったために死んだのだと考えている事から感じているもの」だと、括弧付きで表現したことから察するに、そこに自分なりの力点が置かれていることはうかがい知れたため、そこをふくらませる形で今回のコメントを書いてきましたが、そのことが、論者が認識としてはおぼろげにあったものの表現にまで至らなかった内容についての手がかりになるのではないかなと考えています。

「認識→表現」に至る矢印は、学問でいうところの認識の実践的な適用である「技術」に当たる部分ですから、ここを伸ばしてゆくには、とにもかくにもアタマのなかにあるものをそのままにしておかずに、表現して、表現して、表現し続けるのみ、ということになります。
そのような目的意識をもって、修練に当たってください。


【評論中の正誤】
・では、これらはそのぞれのどのような行動
・または態度を見て避難しているのでしょうか。→非難
・では、一方の秋子達達、
・避難せずにはいられなかったのです。

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