2011/12/14

文学考察: 破落戸の昇天(修正版)

来ました。



◆ノブくんの評論◆

文学考察: 破落戸の昇天(修正版)
街中で道化方として生計を立てているツァウォツキイは、喧嘩っ早く、他人には暴力を振るい、窃盗や詐欺などもする、どうしようもない破落戸(ごろつき)でした。そんな彼は妻と二人暮しをしていましたが、夫である彼がこのような調子なので二人は非常に貧しい生活をしていました。そして彼は、自身の妻にそのような生活をさせていることに心苦しさすら感じていました。ですが、そういった事を彼女にうまく表現できず、どういうわけか彼女を怒鳴りつけてしまう始末。そして彼はそうした生活を自分の力でなんとか打破しようと、賭博に有り金を全てはたいてしまいます。しかし結局は負けてしまい、その絶望の挙句、自らの命を断ってしまいます。
その後、彼は死後の世界へと連れてこられ、そこで自らの命の浄火(極明るい、薔薇色の光線を体に当てて、悪の性質を抜き取る作業)を強制されます。またそれと同時に、彼はそこで役人から一日だけ娑婆に帰れる権利を得ることになります。はじめ彼はこの権利を拒みましたが、16年間の浄火の末、自ら「生きている間に見ることの出来なかった、自分の娘の姿を見たい」と申し出てきました。こうして彼は自身の娘と対面する機会を得ることが出来たのです。ですが、娘の方は当然父の存在など知る由もなく、全くの他人だと考え玄関の戸を閉めようとします。それに彼は怒りを顕にして、娘の手をはたいしてしまいます。そして、我に返った彼は恥ずかしい気持ちの儘、死後の世界へと帰り、やがて地獄へと送られてしまいます。
そして彼が地獄に送られている一方、娘は母にその出来事を話して聞かせました。その中で娘は、読者である私達が想定していなかった驚くべき感想を述べはじめます。それは一体どのようなものだったのでしょうか。
 
この作品では〈ある気持ちを隠すため、別の気持ちを相手に見せなければならなかった、ある男〉が描かれています。 
まず、上記にある、父に手を打たれた娘の驚くべき感想とは、「ひどく打ったのに、痛くもなんともないのですもの。ちょうどそっと手をさすってくれたようでしたわ。」というものでした。では、彼女は父であるツァウォツキイの、一体どのような性質を感じ取り、このような感想をもったのでしょうか。
それを知るために、彼が妻を怒鳴っているシーンをもう一度確認してみましょう。この時、彼は何も妻が本当に憎いだけで怒鳴っていたわではありません。上記のあらすじにもあるように、彼は妻に苦しい生活をさせている事に対して、気の毒にすら感じています。ですが、彼はそのような気持ちを一切妻に見せようとはしませんでした。むしろ、それを隠そうとして彼女を怒鳴ったのです。そして、草葉の陰でひっそりと泣いている辺り、彼が妻に自分の気持を素直に表現しなかったのは、「もしも、妻に見せてしまったら、妻は自分に……」となんらかの形で彼女が彼に気を使うだろうと考えたからではないでしょうか。だからこそ、ツァウォツキイは妻に対して自身の怒りを持って接していかなければならなかったのです。
そして、こうしてツァウォツキイの気持ちをひとつひとつを読み取っていくと、彼の怒りという感情が、実に複雑である事が理解できます。すると、物語の終盤で娘の手を打った、彼の怒りには一体何が含まれていたのでしょうか。そこには、16年間娘を思い続けていた苦しさ、その娘にやっとの思いで出会えた嬉しさ、しかしその娘に戸を閉められる悲しさ。こうした娘への強い思いがそこには含まれているのです。ですが、彼は死者という現在の立場から、それを素直に表現することが出来なかったために、手を打つしかなかったのでしょう。また娘は娘でそうした彼の気持ちを受け取ったからこそ、ツァウォツキイに手を打たれた事に対して、あのような感想を持つことが出来たのです。
また、これらの事を踏まえた上で、作者が「小さい子供を持った寡婦がその子供を寐入らせたり、また老いて疲れた親を持った孝行者がその親を寝入らせたりするのにちょうどよい話」と、何故読者を限定するような事を冒頭で述べているのかが理解できるはずです。例えばあなたが子供だった頃、親に叱られた時、あなたは怒っているという表面だけを読取り、親がどうして自分を叱るのか、理解出来ずに泣いたことはないでしょうか。そんな時、この作品を予め読んでおり、人間のある気持ちというものは複雑なもので、そこには様々な気持ちが含まれれいる事を感性的ながらにも知っていれば、自分を叱る親に対する見方も違っていたのかもしれません。まさにこの作品は、親の気持ちを知る為に描かれたものだと言っても過言ではないでしょう。

◆わたしのコメント◆

前回のアドバイスを受けて書き直してくれたようです。

指摘しておいたのは、次の欠点でしたね。
1. <一般性>は正しく把握できているか
2. 読者の立場に立って表現を工夫できているか

そこが補われているかどうかを見てみましょう。

◆◆◆

ひとつめの一般性を、論者は〈ある気持ちを隠すため、別の気持ちを相手に見せなければならなかった、ある男〉と書き換えてくれていますが、これでもやはり、間違いです。

前回のコメントで、一般性とは、その作品の本質を抜き出したものを一言で表したもの、という言い方をしておきました。
あえて明確な書き方を避けたのは、これまでの修練とそれにたいするコメントを見なおして、自分自身の力で、論者本人のアタマに、改めて一般性についてのしっかりとした像を持ってほしかったからですが、残念ながらそれは叶わなかったようです。

一般性は、作品全体をとおして筆者が主張したかったことを、自分で作品全体を把握した上で書き出してこなければなりません。
ここは、作品に目に見える形で現れている表現を「抜き出す」のではなく、あくまでも作品を自分のもののように噛み砕き、わが一身に起こったことのように観念的に繰り返すことを通して、その内容を掬いとってこなければならないからこその、「書き出す」、「引き出す」などという表現がふさわしいことになることを是非ともわかってもらいたいと思います。

ところがそう言ってもわからないから困っているはずなので、より浅い段階までいったん降りてから登りなおしてみましょう。
そもそも、という話ですが、作品全体が持っている構造を見なおしてみるときに、ひとまずこの作品上の最大の見所は、以下の点にあることがわかります。

相手にたいする愛情を素直に表現できない「ツァウォツキイ」の内面を、彼と一度も会ったことのないはずの彼の「娘」が一目で理解できたこと。

ここは論者も少しはわかっていますね。

◆◆◆

この作品の流れを大きく捉えると、主人公であるツァウォツキイは、その不器用さが災いして、妻に辛く当たるしかなかったどころか命を断つことにまでなり、あの世で命の浄化さえ受けたにも関わらず、娘と会って詫びることのできる最後のチャンスを、やはりみすみす逃してしまった、という展開になっていました。

これを表面上だけで読み取ろうとして、主人公は、妻にたいしてと同じ過ちを、娘にたいしても繰り返してしまっているのですから、「結局主人公はなにも変われなかったのだ」としてしまえば、作品そのものの主張がなかったことにもなりそうです。
ところが最後に、娘は、「彼に手を打たれたにもかかわらず、彼の気持ちを理解することができた」、ということをもって、この作品はひとつの教訓を残すことになっているのですから、どうしても(=論理的帰結として)、そこに着目しなければならないことになります。

ここには矛盾があり、論者もいちおうはそれに着目しているようです。

(余談ですが、この矛盾は、弁証法で2つに区分される矛盾のうち、<非敵対的矛盾>です。一見すると相反しているように見える事柄が、実はその矛盾があるおかげでそれを含む実体が成り立っていると見做されるときに、それを<非敵対的矛盾>と呼ぶのでした。細胞が死ぬから個体としての生がある、そこにあるとともにないということが運動の本質である、などがこれに当たりますから、<対立物の相互浸透>とも関わりが深いことがわかると思います。
文学作品の場合は、一応は物語としての態をなしているものであれば、そこに含まれる要素は、ほとんどの場合が「非敵対的矛盾」であると仮定してもよいのであり、むしろひとつの作品の中に<敵対的矛盾>が含まれていることが読者にとって明らかな場合などは、その作品そのものの質が傷つけられているのだと判断すべきところです。たとえば、ひとつの物語を読み進めていて、登場人物の言動がなんの脈絡もなしに大きく変わったりすると、わたしたちはその作品を三流だと見做しますね。
もしある作品に、互いに相入れることのできない矛盾、つまり<敵対的矛盾>があると判断した場合は、はっきりとそれを指摘しておくことも、文学作品と真剣に向き合う者としての責務です。作品についての謙虚な、時には信仰心に近いまでの、読み込む探究心というのは作品理解には欠かせませんが、作品にどんな粗があっても擁護するというような意味での信仰心は、本質的には誰にとっても益することがありませんから棄ててください。)

ただ「いちおうは」と断らねばならなかったのは、とりもなおさずそのことが、他ならぬ<一般性>として正しく表現されていない、という一点につきます。

◆◆◆

前述したように論者は、この作品の<一般性>を〈ある気持ちを隠すため、別の気持ちを相手に見せなければならなかった、ある男〉としていますが、これは<一般性>ではなくて、「作品の主人公」を一言で書き抜いたにすぎません。

ひとつの作品の本質的な理解に必要なのは、「この作品の主人公はどういう人か」ではなくて、「この作品とはどういうものか」でなければならないのですから、作品の一般性を問われたときに、何らかの主体を挙げることに血道をあげるような姿勢では、どうあがいても本質的な理解に辿りつけるはずがないのです。

論者は、『走れメロス』の<一般性>を、「友人との約束を守るために走る、ある男」とでも表現し、『人間失格』の<一般性>を、「快楽に明け暮れたある男」と表現するのでしょうか?

やりかたが間違っている場合には、どれだけ苦しんでのたうちまわってどれだけの時間をかけようとも、絶対に正しい答えには辿りつけないのです。自分が気づかずに間違ったやり方を採用してしまっていることを認識した上で、間違ったやり方を、できるだけ早くに棄ててください。

「作品の本質」を引き出す代わりに「作品の主体」を探し回るというやり方でどつぼにはまっていたことは以前にもあり、その時も厳しく指摘したことがあるので繰り返しませんが、表面上のわかりやすい表現に囚われることを辞めて、もっと背筋を伸ばして作品全体を見渡した上で、しっかりとその全体の構造を掴みとる修練をしなければなりません。

(また余談になりますが、わたしがこうやって厳しく指摘することについて、「なにもそこまで厳しくなくとも…本質を主体と違えることは、とくに子どもならばよくあることではないか」と、小学校教師、とくに国語教育をずっとやっておられたような方は同情をくださるかもしれません。
ところが、この同じ誤り方は、個別研究に突入して学問に帰ってこない研究者や、逆に世界には構造しか存在しないというところまで極端に振れてしまうような構造原理主義者は論外ながら、名のある学者にもよく見られる欠陥なのです。マルクス以前の経済学者や、光を扱っている宇宙物理学者、色素なる概念を提出せざるを得なかった色彩学者がどのようなドツボにはまり込んで身動きがとれなくなっていたか、また現在そうであるかを調べてみれば、ここはとても人事だとは言っていられない重要事であることがわかります。
ひとりの母は、母であり娘であり叔母であり祖母であることもあるのであって、そのうちのどれかでなければ困るというようなものではありませんし、逆に構造の糸なるものを手繰り寄せなければ実体が掴めないような幽霊でもありません。
こんなたとえ話では当たり前の話なのに、その常識を自分の専攻する世界では発揮できないというアタマを作ってしまうのは、基礎的な学問の土台を持たないからです。その修練を何度も何度も繰り返し、叱られて叱られて築きあげていないから、認識のしかたそのものがダメになり、自分の踏み外しに気づけないようなことになるのです。認識の仕方がダメだというのは、本人は黒だと信じきっていることが、本質的には白だったり光の反射であることがありうるだけに、とても恐ろしいのです。だからわたしは、どんなジャンルで一流を目指すにしても、弁証法という論理学を学ばなければならないと指導に必死なわけです。)

◆◆◆

論者が引き出してきた仮説としての一般性が誤りであることは、論証部で、「子を叱る親の気持ちをわかってもらいたいがために書かれた作品」と、他でもない論者が引き出してきた「ある男」という一般性が、なんらの強い関連性も感じられないところからも、これは<敵対的矛盾>であるからどこかがおかしいのだと、論者自身の手によって修正されなければならないはずのところでした。
親は子どもに、「ある男」その人をわかってもらいたいのですか?そうではないでしょう。

作品によっては、一般性を主体の形として引き出すのがふさわしいこともありますが、無理に主体として一般性を挙げなくとも、論者は、すでに本質の近くにまで歩みを進め、自分の言葉で述べているではないですか。
例えばあなたが子供だった頃、親に叱られた時、あなたは怒っているという表面だけを読取り、親がどうして自分を叱るのか、理解出来ずに泣いたことはないでしょうか。そんな時、この作品を予め読んでおり、人間のある気持ちというものは複雑なもので、そこには様々な気持ちが含まれれいる事を感性的ながらにも知っていれば、自分を叱る親に対する見方も違っていたのかもしれません。まさにこの作品は、親の気持ちを知る為に描かれたものだと言っても過言ではないでしょう。
(誤字の修正:「読み取り」、「含まれている事を」)
あなたは、大きく言えば、「人の内面と表現には隔たりがあり、相手の表現だけを見ていては大事なことを見落としますよ」、と筆者は言っているのだと理解したわけですね。

では、ここを作品になぞらえる形で<一般性>として表現すれば、どうなりますか?

次に、その<一般性>に照らして評論全体を整えたときには、どのようなものになりますか?

◆◆◆

ここまでがしっかりと踏まえられ、さらには表現できるようになってはじめて次の段階に進むことができます。

それは、「2.」の「読者の立場に立って、細かな表現を工夫してゆくこと」ですが、次の修正版を待って、歩みをすすめることにしましょう。

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