2012/10/14

日常生活での「相互」の浸透のあり方:「やる気があったらなんでもできる」は本当か (1)


夜風が涼しくなってきましたね。


今年の夏は、後進たちだけでなく周りの人たちにも走ることを勧めたので、生真面目に取り組んでくれている人は、この数カ月でずいぶんと実力がついたことがわかってきたのではないかと思います。
事実、新しいことに向きあいはじめた数ヶ月というものは、自分の心身に眠っていた可能性の開花が自分でもよく感じられるために、その実感だけで意欲を維持できるものです。

自分でスケジュールを組み身体を動かすことで実力がつくという量質転化、身体を動かすことで精神面が整ってゆくという相互浸透の過程は、実践のなかで実感として掴んでいってもらうのがよいので、数ヶ月と言わず、ずっと継続していってもらえればと思います。
(残る法則性である「否定の否定」は?という質問がありそうですが、たとえばものごとの上達における「故障」がどういう位置づけのものであるかを、まずは考えてみて、その考えを聞かせてください。)

ただそのとき、わたしたちの、そうした目的意識を持つ人間としての特殊性の土台には、やはり生命体としての一般性があるので、環境との相互浸透というものもふまえておく必要があります。
ランニングに関して言うならば、暑い季節が全体としては寒くなりつつありながらも個々としては寒くなったり暑くなりなおしたりを繰り返すという今の時期には、それ相応の心身ともへの影響が避けては通れない、ということになります。

わたしがここで、秋、という一言で済むはずの季節を迂遠に見える表現で述べたことは、とりもなおさず秋とはどういう季節かを、弁証法的に(=ここでは、重層的な過程と、対立物の統一の構造を踏まえながら)考えてほしいからなのですが、それはともかく、結論から言うならば、この時期には、心身が環境の変化に浸透しきれず疲れやすかったり、また寒さによって故障を察知する機能もが低下してしまったりといったような落とし穴がある、ということなのです。

「最近、なんだか走りこんでも疲れなくなってきたな」という実感による嬉しさのあまり、かえってバランスを崩したり故障として転化してしまうことのないよう、心身のあり方をしっかりと見ていてくださるようにお願いします。

念のため整理しておけば、「疲れなくなった」という現象が自らの実感としてあるとき、その原因を「あれだけ走ったから」という主体的な原因「だけ」に帰することなく、それを環境の変化を考慮に入れて、実体と環境との浸透においてあらわれた現象であると考えてください、ということです。
なぜにここまで当たり前の現象についても、その構造を述べているかといえば、たとえば生物の進化を考えるときにでも、<「相互」浸透>だけでも意識できているのならずっとよい研究になるのに…というものが目に付くから、ということがあります。

さて、この数行の前書きからしても、ずいぶん難しくなってしまっていることもあり、今回は寄せられた質問に答えたものを例に引きながら、これまでの簡単なおさらいと、実践から掴みとった実感をいかに論理的に見てゆくか、ということについて考えてゆくことにしましょう。
今回はそのなかでも、実践の中から「相互浸透」見つけるとき、それがしっかりと「「相互」の浸透」として捉えられているか、という問題意識で読んでくださると嬉しく思います。今回のタイトルは、そのような思いを込めて、「相互」の、と、括弧書きをしたものです。

実際のやりとりの流れを損ねないように表現を修正し、回答については加筆しました。
メールでの回答の際、文体を引き締めたいと考え、敬体ではなく常体(である調)を採用したため、以下の文章はその表現に変わります。

◆◆◆

いただいた質問は以下のものであった。
以前送っていただいたメールについてですが、私があなたから得た情報に照らし合わせて考えて出た結論は、 
「弁証法や個人と万物のつながりは人生の一般性(普遍性)としてどの人間の根底にも存在する。しかしながらそれを認識しながら(出来るかどうかより意思を持って)生きるか、物事・現象と向き合うか否かが重要である点が極意論の所以である」です。 
あなたの認識と比較してどのような差異(未熟さ、誤りを含む)が有りますか?
概念についてやや誤解があるようなのではじめに断っておきたいのだが、わたしがよく言う「極意論」というのは、こういうことである。

ひとつの対象と取っ組み合って、その過程における構造を引き出した結果、最終的にひとつの結論に達することがある。
たとえば、「人間とは認識的な実在である」や、「弁証法とは自然・社会・精神における一般法則である」など。

しかしこれらの文言、学問的に言えば概念規定というものは、それ自体を丸暗記して他の学説と組み合わせたとしてもなんらの意味もなく、これを「習得する」という場合には、必ずその概念がいかなる成立根拠を持っているか、つまりいかなる過程的な構造がその一言として要されているか(止揚されているか)、という<過程性>をこそ、自らの脳裏にたどってみることでなければならない、ということである。

そういうわけで、目の前にある概念に含まれている過程をたどり、<過程性>を自らの脳裏に捉え返すことを促す意図を込めて、この論理は「極意論」である、と述べるわけである。
逆にいえば、「これは単なる結論、単なる極意でしかないのであるから、これだけをまる覚えしたり、金科玉条のごとく崇め奉るだけでは何の意味もありませんよ」ということなのである。



そう断った上で、あなたからもらった把握を検討しよう。

まず一文目。
「弁証法や個人と万物のつながりは人生の一般性(普遍性)としてどの人間の根底にも存在する。」
おおまかに言って今回のご質問は、「目的意識が人生に与える影響や如何に」というものであると理解した。
つまり弁証法性は、意識せずともわれわれの物質的なあり方、つまり身体の実体と機能と、精神的なあり方、つまり認識のあり方に宿っているが、それをなんとなく捉えておくか、またはそれを強く自覚して、目的的な技として高めようとしながら生きるかで、どのような差異が出るか、ということであろうか。

以下は質問をそのように理解して答えてゆくことになるが、これは結論から言えば、最終的にはサルと人間くらいの違いが出る、と思ってもらってよいと思う。

まず本題に入る前に、「弁証法は森羅万象における一般法則である」という論理について、今一度確認しておこう。

森羅万象はおおまかにわけて、自然・社会・精神という順番で発展してきた過程的な構造を含むものであった。

ここでは、そもそもの「自然」から生まれた生命現象が、単細胞生物として実体を得た後、地球との相互浸透によってカイメン、クラゲ、魚類、両生類、サル、ヒト…と発展してゆくにつれて、「社会」と呼ばれる集団生活を営むようになっていった。そのなかでヒトは、互いに関わりあうことをとおして、その社会生活のなかで人間たる「精神」を育んできた、ということである。

ここでしっかり把握しておかねばならないのは、自然・社会・精神という順序を誤ってはいけないことと、それらをいま目の前にあるものだけを捉えてイメージしてしまってはいけない、ということである。一言で言えば、<過程性>に着目しなければならない。

たとえば、太陽から振り飛ばされた地球は、同じく太陽を起源とする月によって太陽のエネルギーを媒介的に受け止められることをもって、物体は必ず冷える、という物理現象に抗うかたちで、冷えてゆかない、という化学現象を引き起こすことになった。

全体としては冷えてゆく、という物理的な一般性がありながら、その土台の上に、冷えるかと思えば冷えない、冷えないかと思えば冷える、という運動が、特殊性として起こり始めた、ということである。

この大きな対立物の統一の構造のうち、後者のなかにも見られるまたもやの対立物の統一の構造である、「冷えると共に冷えない」という現象こそが、波をはじめとする運動の形態となったのであり、それはわたしたち人間の身体の性質にも受け継がれている、ということは以前にお伝えしたとおりである。



だから、「弁証法は〜」という概念規定で意味されているのは、いまここに立っているわたしのなかに精神があり、社会があり、見果てぬ宇宙をはじめとした自然がある…などといった場所の拡がりなのではなくて、自然・社会・精神が、どのように生成され、そして発展してきたのか、という歴史的な過程のことなのである。

弁証法では、すべての森羅万象をこのように、その生成段階にまで遡って原理的・本質的に理解することを要請するのであるが、ここでもやはり<過程性>を重視して、自然という構造の上に社会の構造があり、その上に精神の構造がある、というふうに理解しなければならない。
繰り返すが、ここを、森羅万象のなかには自然と社会と精神があり…と、あたかも並列的な三要素として受験勉強的にまる覚えしてしまうと、いともたやすく形而上学(=非弁証法的な論理)に陥ってしまうことを覚えておいてほしい。

こう断った上で、人間の身体の生理構造と精神の認識構造というものの根底にも、自然と社会の構造が一般的に土台として存在するのか、といえば、それはそのとおり、である。


(2につづく)

1 件のコメント:

  1. >わたしがよく言う「極意論」というのは、こういうことである。
    >ひとつの対象と取っ組み合って、その過程における構造を引き出した結果、最終的にひとつの結論に達することがある。

    ~「極意論」についての「概念規定」をありがとうございます。~
    ~ずっと~探し求め続けていました。でも…発見できてませんでした。~
    ~出逢えた喜びとは、ちょっとした感動ですね~♪♪♪~



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