2011/04/26

このBlogはなにを伝えたいのか(1)


※このエントリは、下のエントリに補足が必要であると思いましたので、
その続編という位置づけにもなっています。
Buckets*Garage: 新しい季節をおくる諸君へ:趣味はどう選ぶべきか


いつぞやの評論で、太宰治がこんなことを言っていました。


「発表した作品にたいしてあとで説明を付け加えるのは、恥だと思っている。」

わたしも、その通りだと思っています。
恥だと思うというのは、ある作品を、その作品そのもので完結する形で書ききったのならば、余分な説明をごちゃごちゃ付け加えて、読者にはこう読んでほしい、こう評価してほしい、と後付で弁解するような姿勢は作家として未熟であり、人間としても見苦しい、という意味合いだったと理解しています。

◆◆◆

わたしとしては、ここで書き散らかしている散文というのは、もっと公に公開するために書く文章と比べて、また違った意義のあるものになっていると思っているのです。
それというのは、より公式的な場で発表する文章が、一言一句誤りのない、精確で緻密な文章表現を要求されるのに対して、こういった、面識のある人たちを中心としながらも公に向けて広がりを持たせられるコミュニティの中で発表する文章というのは、実生活に即した事例を例えに引きながら、砕けた表現を使えるからです。
それはとりもなおさず、読者の理解の助けになるという利点がありますから、わたしはそういう意味で大事にしていますし、読者からの反応も楽しみにしています。

もちろん、だからといって誤字脱字があってもよいなどとは考えてはいませんが、これとて、たとえばここにある内容を書籍化するときには、再三再度の読み直しと突き詰めた表現の修正が必要になってきますから、もしそういったクオリティが要求されるのであれば、ここでやっているような、週に数本といったペースではとても発表できなくなってしまいます。

◆◆◆

なぜこんなまえがきが必要になっているかと言うと、最近のエントリの反応を見ていると、
人によって読み方は様々なんだなあ、
と思わせられるところが多くなってきたからです。

もっとぶっちゃけて言うと、論理的に読んでくれている人と、そうでない人の開きが大きくなってきたなあ、ということです。
そうすると、どうしても、「あの時の自分はこういうことが言いたかったのだ」と言わなければなりません。

たとえば、これはあえて指摘されなかった例を使って説明するのですが、わたしは以前に、「趣味はどう選ぶべきか」と題した文章の中で、「趣味は、あまり多くないほうがよい」、と言いました。

これなどは、ここだけを知識的に受け取ってしまうと、とくにわたしと直接面識のある人であれば、こんなふうに思ってしまうかもしれません。

「あれ、あの人って前に、私にこう言わなかったっけ。『あなたの今までやってきたことは、ある時にすべて活かすことのできる瞬間が来ますから、どれもあきらめないで、ずっと大事に持っていてくださいね』と。そうすると、これって矛盾してるんじゃないかしら。」


そもそも、このエントリのきっかけとなった学生さんからのご質問は、
「なにか新しいことをしようと思うのですが、どんな趣味を選べばいいでしょうか?」
というものであったのに、わたしはそれに対して、
「あなたは自転車に乗るべきです」、「そっちのきみには水墨画が向いているでしょう」
などといった、どんな趣味をすべきか、という具体的な答えは出していません。

この答え方を、小学校の「こくご」のような見方で採点すると、赤点になってしまいますね。

◆◆◆

では、わたしはこういった意味で、食い違う内容と形式を含んだ文章を発表しているのでしょうか。
ここについて、今回は恥を忍んで補足して説明しておきたいと思いますが、
これは、まったくの誤解です。

上で述べた理由によって、細かな誤りが含まれていようとも、
時間の許す限り自分なりに見なおしていますし、筋は通った文章しか発表していないつもりです。
ですから、この箇所については、「意図してこう書いたのだ」と理解してくださると助かります。
より進んで、「意図して書いたとしたら、その意図の中身はどういうものだったのだろう」とまで考えてもらえれば、いちばんうれしい読み方をしてもらっていることになります。

そしてこういった読み方をしていただくためには、
どうしても、目の前にある文章を、「論理的に読む」という姿勢を持っていただくことが、
どうしても、どうしても必要なのです。

これはどれだけ強調しても、わかろうとしない姿勢を固めてしまった人たちには
単なるあてつけにしか見えないところなのですが、論理は直接は目には見えないために、
どれだけの地位を持った人間であろうとも、見ようとしなければ見えないことも少なくないのです。

◆◆◆

たとえば、こんな話でわかっていただけるでしょうか。

ある人が、「生命は常に大事だ」という信念を持っているとしましょう。
この人は、ごく近しい人たちにたいしてのみならず、道行く人が困っていれば助け、
傷ついた動物がいれば仕事を休んででも治療に連れてゆくような人です。

この人が、あるとき災害に遭って、妻と娘と、飼い犬とで
限られた食料を分け合わねばならなくなりました。
飼い犬というのは、あるときに飼いきれずに捨てられていたところを、
この人が不憫に思って助けた犬でした。
そのまま無常にも時は過ぎ、食料が今日のぶんもあろうかといった段になったとき、
この人がとった行動は、「妻と娘のためにだけ、食料をとっておく」という選択肢だったのです。

さてそうすると、この人がとった行動からすれば、
彼は「生命は常に大事である」という信念を、曲げたことになるのでしょうか。
原則に文字通り従おうとすれば、自分はともかくとして、
妻も娘も飼い犬も、すべてに等しく食料を分け与えるべきだ、
ということになるかもしれません。

◆◆◆

しかしこういった原則論は、
「私も妻も娘も飼い犬も、すべては生命を持っているという意味では同じ価値なのだ」
という判断によるものですね。
この判断というのは、私・妻・娘を一括りにして「人間」だとし、同じように飼い犬も種別の上では「犬」だとしたうえで、さらに「人間」も「犬」も生命体として生命現象を営んでいる、という一般化を行ったことで、「どれもが生命を持っている」という結論にたどり着いたのです。
これを「家族」という範囲にとどめても、やはりすべての対象は同じ扱いになります。

こう言った判断は、後世には美談として残るものですから、
第三者からみた後日談ふうに言えば賞賛に価する態度に映るかもしれないのですが、
そこには当事者のそのときの意図がほとんど汲み取られてはいないのですから、この場合には
「もし自分が当事者だとすると、飼い犬のために妻と娘を犠牲にできるか」
と考えてみなければなりません。

この選択に、どんな場合にでも当てはまりうる答えを出すことはできませんが、
もし彼が、断腸の思いで飼い犬に食料を回さなかったとしても、
責めることができないことくらいは感じとってもらえるのではないでしょうか。
それは、わたしたちが人間の社会で育てられたことと同時に育まれた規律に照らした判断といえます。

これは常時は意識しにくいことですが、
わたしたちは常々、目の前に起こっている物事を抽象化・一般化するにあたって、
「実践上の必要で」、「生活に照らして」、判断しているのです。

つまり今回の例で言えば、
家族の構成員を、「人間と犬」の段階でとどめておくか、「生命」という段階まで上げて考えるか、
という抽象化にあたっては、その人の「人間観」を基礎として行われているということです。

ここを、「どんな場合であっても」生命は大事なのだ、等しく守られねばならない、
という原則論を現実に押し付けようとするときには、
つまりこのような的はずれな一般化が認められるときには、
浸水を避けて家に上がってきた蟻にも、食事を分け与えなくてはならなくなります。

それは差がありすぎるというのなら、カラスが子連れのカモを襲うのを見て、
カラスをほうきで追い払うご老人のことを想像してみるといいでしょう。
同じ「鳥類」なのに、なぜあれほど扱いの差があるのでしょうか。

わたしたちが当たり前にしている抽象化という作業においても、それがどのような論理のレベルで行われているかを見つめておくことが、正しい判断のためにはやはり必要です。

◆◆◆

こういったたとえは、文字の上では極端に過ぎるように見えるものですが、それでも、「正しく抽象化して論理をつかむ」ということが、ものごとを正しく把握するためには、どうしても必要になってくることに変わりはありません。
「正しく」抽象化する、と断るのは、とにかく抽象化しさえすればなんでもよいというわけではないのだ、抽象のレベルをどこまで引き上げるかが大事なのだ、ということを強調したいからです。

今回の場合であれば、それとは逆に、抽象化された論理的な表現をどうすれば正しく受け止められるか、という向きにも、抽象化がどのようなレベルでなされているのかを見抜く目が必要になってきます。

わたしはそのことをわかっていただきたいがために、
常々、「ものごとを見る目を高く持っていてほしい」という意味を込めて、
どんな立場でどんな生活をしてどんな仕事をするにあたっても、
「論理は大事なのだ。正しい実践のためにこそ必要不可欠なのだ」、と言っているわけです。

ここでいう本当の「論理」というものが、
読者のみなさんが「ああそうか、あの論理ね」というふうに、
ごく一般的に持っておられるイメージとは、あまりにかけ離れているのですよ、
ということをこそわかってほしいための、くどいまでのメッセージなのです。
だからこそ、形而上学に対する弁証法という論理を強調するのです。

しかしここを、「ああその論理ね、もう知ってるよ」といった姿勢で読まれては、
「論理的に考えてほしい」と言ったことを、知識的に受け取っていることにしかならないのです。
その姿勢では、わたしがこのBlogで強調したいことすべてが、まるで読めたことにはならないのです。
どうか、そこのところを、わたしの顔を立てると思ってでも、
いい大人になるためにやってみるかと思ってでも動機はなんでもいいですから、
もう一度ゆっくり噛み締めていただけたらうれしいな、と思うのです。

ここで書いてある文章を理解するにあたっての方針として簡単にいえば、
内容を書かずに考え方という形式だけを述べたり、行間が空いているようなところについては、
「ここには隙間があるようだけれど、これを書いた人間はほんとうはどういうことが言いたいのかな」
と問うてみてほしい、ということです。

(2につづく)

2011/04/22

ひさしぶりのどうでもいい雑記

ちょっと砕けた話でもしましょうか。


わたしは研究の他には、学生さんと夢について、生き方について、人間というものについて議論するのが好きだ。
べつに相手は学生さんでなくてもいいのだけれど、スレた大人とはウマが合わないのだから仕方がない。

◆◆◆

そんなわけで、我が家にはどこからともなく学生たちや志のある社会人たちしか来ないのだけど、
あるときどう調べたか、クレームの電話がかかってきたことがある。

いわく、「お前、学生を集めてなにか企んでいるらしいな」。
学生が来るのは確かだし、学問を万人の手に還そうとしているのも確かですが、
別に無理に来させているわけではありませんと言ったら、
「じゃあ洗脳しているということを認めたことになるぞ」という返事であった。

もうここまで来るとおかしくなってきて、
失礼ながら自分でも吹き出すのをこらえることができないほどで、
失礼のないように受け答えをするので必死だったので、
ケイサツを呼ぶだの訴えるだののあと、おわりの挨拶が
「いまどきアカなんか流行らんぞ!」
ということくらいしか覚えていないくらいなのだが、
もうここまでキチガイ扱いされると返す言葉もない。

わたしは学生を集めて黒魔術にかけて、
政府を転覆させんと革命を狙う悪の枢軸、といったところらしい。
出すところに出すというなら、勝手にすればいいと思う。

わたしとして言えることは、学生たちは勝手に来ているのであって、もっと言えば、彼女・彼らの、大学でのあまりの扱いの酷さに、このままでは彼女・彼らの志だけがくすぶってせっかくの可能性が潰れてしまうだけだと同情するあまりに、なにかできることがあればと授業やら議論をしたりしているだけである。
もし訴状やら事情聴取なんかが来たときには、「XXの話によれば、XXがXXをXXしてXXにXXしてしまい、XXたちが取り残されてXXになってしまうそうなのでなんとかしてくれませんかということでこんなことになっているのです」などと、知る限りの事実をありのままに証言すればいいのかもしれないが、これって、他でもないご本人の損にしかならないんじゃないのかなあ。

わたしは学生から、な〜んにももらったことはないぞ。むしろ、持ち出しのほうがはるかに多いくらいである。ありがたく受け取って、またお返しをするのは、形にはならないものばかりだ。だからわたしのところには、本質的なものを見つめて目をそらさないような、そんな人間しか来ない。

◆◆◆

わたしはこういう話を人としていると、研究でも実生活でも、
なんとも社会とは矛盾に満ち溢れているなあ、
まだまだ自分にもやれることがあるなあ、
昔の偉人たちも、こういう矛盾に潰されずに歩みを進めていたんだなあ、まだ道は遠しだなあ、
という、笑いやら悲しみといった雑念を、はるか彼方に置き去りにしてきたような、
見渡す限り色があるようでないような平野でひとり雲の行き交うところをながめているような気分になって、
我が身を越えたはるかな気持ちになってくるのである。

まあそれはどうでもいいことなのだが、ともかく、
やるべきことの遙かさや深みに圧倒される毎日にあって、
「後進の抱える人間存在に関わる本質的な問題は、すべての生活に優先する」
という学者であるための鉄のオキテに従って、
こうして表面上はゆったりとした時間を過ごすことがあるというわけだ。

◆◆◆

そんなときは決まって外にでるから、
こういった話は公園のベンチなんかに座ってすることが多いのだけど、
決まってやってくるのが、鳥なんかである。

ハトは足をよじ登ってくるわ、スズメは肩に止まるわ。

ふつう、鳥って肩までは来ないよねえ。エサ持ってるわけでもないのに。
というふうに、これは不思議だなぜだろうなぜかしらと首をかしげていたら、
相方には笑われるわ、まわりの人たちに写真を撮られるわで、話どころじゃない。

動物のほうでも、自分にエサをくれる人間がわかったときには集まってくるものだけど、
わたしは日常的にエサをやっているわけでもないし、
間食をする習慣がないのでやれるものは持っていない。
木かなんかに見えているのかしら。
それだったら、ベンチでチュンチュンやっているので十分ではないか。
第一、なんで学生には止まらんのだ。

わたしとしては問題を解くどころか、
むしろ肩に糞を落とすかもしれないという現実的な問題に向き合わされ、我に返るばかりである。

これ、認識論をやっている人間としては、やっぱり解かねばならない(?)のだが、これは難問である。
禅の悟得の問題を解こうとしている方もおられるが、あの理論で解けるのだろうか。
精神がないから認識もしないはずの動物が人という対象によってその行動を変えるということは、やはり対象の方にしか問題がないことになるから、人の生活に近い動物は、精神がないながらも認識のあり方に近いものを、人間を含めた社会性の中で本能の上に生成させてきつつあるのでは…そういえば北海道を自転車ツアーしたときは、やたらトンボにたかられたっけ、あれはさすがに関係ないよねえ…うーん、わからない。

◆◆◆

それにしても、人間からは狂人扱いされるのに動物からは慕われるという事実から察するに、
わたしを慕ってくるような学生というのは動物レベルということだろうか?
とからかったら、相方から「それは形而上学的な考え方で、弁証法的ではないでしょ」とやられた。

後進も、さるもの。
歩みは、ままならぬもの。
まだまだ、先は長いようである。

2011/04/21

資料の添付

前回のエントリで言及したので、
薄井坦子『科学的看護論 第3版』について、
わたしが苦労しながら読んだときに作った資料を貼っておきます。

※ダウンロードは下のリンクから。これはただの画像です

http://dl.dropbox.com/u/10755624/生物体を支える諸過程.graffle.pdf

◆◆◆

なぜお前が看護学などやっているのかと言えば、
学生に教える必要があったという表面的な理由よりも大事なことに、
この本が、学問体系、論理、認識について非常に優れたものを含んでいるからです。
つまり、学問をするにあたって読まなければならない本だからです。

論理的に最も進んだ書籍であれば、ジャンルなどにとらわれず、
しっかりと読みこなしておかねばならないのは、
本質的に万人の礎となろうとする学者にとっては常識ですが、
社会的評価だけを基準にペーパー、ペーパーと言っている研究者には理解しがたいところかもしれません。

ですから、「一流とはどういうものか」というものごとの見る目の高さがなければ、
言い換えれば知識的にしかものごとを見られず論理的に見れなければ、
手当たり次第に新しい論文を乱読するしかなくなります。
古典や価値のある本を1冊熟読することは、凡百の本を数百冊読むことにはるかに勝りますので、本屋さんの店頭に並んでいる雑書の類に道草を食わないようにしてください。

盲目の人間が目を移植されたあと、その日から目が見えるようになるだろうか?(5)

(4のつづき)



 もののついでに述べておきますと、文中で使った「健常者」という言葉について、感情的な感触から言えばわたしは好きではありません。できれば使いたくなかったのですが、湾曲表現はかえって読者の理解を妨げると思ったのでそのままにしてあります。軽率な表現と感じる方がおられましたら謝ります。
 そう言うのも、わたしの数少ない経験の中でも、健常者ではないと見做されている方の中にも、健常者とされる人間以上に前向きで、器質的欠陥をなんらのハンデとされない方もおられることを見てきているからです。左手の小指がなければ刀は振れませんから、身体的に損なわれていても気持ち次第でなんとかなる、などといったふうに精神での身体面の克服を過度に拡大することは誤りにつながることも確かですが、認識的実在としての人間の力は、計り知れぬものがあります。

 ところが、人間が認識的実在であるということは、悪い面にも働きます。わたしがここで警戒しておきたいのは、上で述べたこととは逆に、器質的には問題がなくとも認識には明らかな欠陥がある場合もある、ということです。残念ながら現代でも、「器質的に欠陥がなければ健常者なのだ」という現象論的タダモノ論がまかりとおっているという事実があります。学生を数多く見ているわたしにとっては、彼らにとってより致命的なのは、器質などよりもむしろ、目には見えない認識のあり方のほうがより深い問題となって顕れていることが目に付きます。

 たとえば、現象としては「優しい性格」とされる人のことを考えてみてください。それが相手の感情を的確に汲みとって、相手の発する言葉をいい加減に受け止めて減じたり自分勝手に拡大解釈したりせずに、そのままに受け止めようという意図をもって、実際に行動にうつせる性質を指しているのならば、これは文句なしの優しさというものです。この場合は、ものごとの受け止め方が深い、つまり認識の力がしっかりとある上で、理性的な判断が行われているわけです。
 しかしこれとは違って、認識の受け止め方がぼんやりしているために、目の前でどんな非行が行われていようとも、目の前の人物にいかなる欠点があろうとも、「まあいいんじゃないかなあ、人それぞれだし」などといった受け止め方や行動をする場合があります。

 日常生活のなかでは、両者ともに「優しい性格」とみなされることが多いでしょう。しかし後者の場合には、自分が危機的状況になったり孤独を強く感じたりすると、とたんに振る舞い方の指針を失い、異常な行動をとることがほとんどです。こういったものごとの受け止め方の弱さが災いして大きな事件につながった場合、周囲は「いつも優しいあの人がどうして…」などと言ったりもするのですが、これなどまさに、心は眼に見えないからと軽視、または無視した結果なのです。
 アメリカ発祥の極端な行動心理学は、「人の内面は測れないから計測可能な外面だけを見るべきだ」などといって、学問の世界で堂々とこの誤りをやってのけるというアクロバットを披露しています。墜落するのは勝手ですが、わたしたち人間の上に落ちてこないようにしてほしいものです。悪口はともかく、こういった流れは日本の心理学界にも無批判に入ってきており、認識の在り方についての理解は、学者のなかでもまるで進んではいないことがあります。このような場合には、研究すればするほど人間観が歪んだとしても不思議ではありません。

◆◆◆

 話をもとに戻しますと、「優しさ」ひとつを大きく見ても、これだけの違いがあるのだということです。現象としては同じような行動をとっているようには見えますが、その過程における認識の構造はまるで異なっています。ましてや、ある人の中に見た目には厳しいものの裏には優しさが潜んでいることが見抜けなければ、まるで正反対の評価にもつながってしまうでしょう。いまの教育の立場にある方は、どうもこういった認識のあり方に眼を向けるという訓練を、まるでなさっていないのではないかなと思われる節があります。文学の世界の人たちも、こういった矛盾をもっと扱って欲しいと思うのですが…。もし文学を通して読者を真に人間たらしめようとするのならば、退廃的な恋愛ばかり描いている場合ではありません。
 少なくとも、後進を指導する立場にある人間であれば、ここを「感受性を伸ばす教育が必要だ」などという段階でとどまることなく、「感受性がどういうものなのか」、「どうすれば伸ばすことができるのか」と理性的に考えを進めていってもらいたいと思います。学者であれば、前者は過程的構造の解明と理論化、後者は理論の現実への適用、技術論、教育論にあたりますね。現実の人間は、感受性の欠如を指摘されても、それをどう伸ばしてゆけばいいかが皆目わからないから、困っているのです。「感受性をつけろ」などといった意見が、訓戒としてだけならばともかく後進の本質的な発展に結びつくかと問うてみることができないのは、知識一辺倒の受験アタマを現実に無理やり押し付けようとしているからです。言葉というものは、あらゆる特殊な事情を捨象して抽象したものなのですから、そのままではその内実に含まれている像の厚みまで伝わるわけがないのは当然です。それを受け止める側の認識の解明がなされていないから、なんらの実践的な意味のない指導になってしまうのです。

 またよくある「子どもは愛されるべきだ」などという意見は、単なる教育についての思想なのであって、教育「論」ではあっても断じて教育「学」ではありません。以上のような、象牙の塔からの天の声や、感性的な教育論ではいけないのです。もし机の上で熱心に本を読んで、ある仮説を持ったとしたら、それを実践面でも使ってください。複雑な現実を読み解く指針としてみてください。どうしても、それがなんらの指針にもなりえないという事実を突きつけられて、愕然とするはずなのです。アイデアレベルの教育論では、子どもはまっとうに育たないことが、もはやあまたの実例を通してわかっているのですから、わたしたちは「学問」をしてゆこうではありませんか。

 わたしたちは大人としての意識を持って、これから環境を作ってゆかねばならない立場にありますね。子どもと大人の違いというのは、子どもが環境に甘んじておればいいのにたいして、大人は、自らが環境を作ってゆき、そしてまた、自らが環境を作っていることを意識的に捉え返していることが最低条件なのです。

(了)


◆よりくわしい学習のために◆

 人間の認識のあり方について、より進んだ学習をしたい場合には、以下の文献をあげておきます。ただどちらも、三浦つとむが『弁証法はどういう科学か』で述べている弁証法という論理を多分に含んだ理論を展開しており、一部にはそれを大きく超える論理も含まれていますから、三浦つとむの上記本を中心として、わからない部分を『新しいものの見方考え方』などで補いながら、認識・論理についての基本的な理解と合わせて読み進めてほしいと思います。また前述したように、学習を進めるとともに、実践で使ってみることを忘れないでください。

【指定参考文献】
・薄井坦子『科学的看護論 第3版』
・海保静子『育児の認識学』

2011/04/20

盲目の人間が目を移植されたあと、その日から目が見えるようになるだろうか?(4)

(3のつづき)



 評論についての評価は以上として、ここでの術後の女性の認識について、少しつっこんで考えてみましょうか。術後、自分がベッドに横たわっていることに気づいた女性の立場に立って、彼女のものの見方を想像しながら、考えを進めてください。

 彼女は、それまでの視覚を除いた四感をとおしての生活のなかで、五感を持った人間からの、主に音声を通した表現から、世の中には自分の感じられること以上になんらかのものがあるようだ、ということは知っています。その像はうまく結ばれてはいないけれど、窓際にでたときの陽の光の暖かさ、手を握られたときの暖かさが物質面だけではないこと、ベッドから裸足で降りたときのひんやりとした床の冷たさなどを知っています。ですから、盲目時に培ったその像は、目が器質的に働きはじめたことと浸透する形で認識の中の像として結実することを、大きく手助けするはずです。
 そういう意味では、赤ん坊が生まれると同時に感じる温度、音、空腹感などがそれとわかりようもなく迫ってくる世界からの大きな衝撃の波をうけて、「おぎゃあ」という驚きの声をあげることとは違っています。彼女の場合であれば、赤ん坊の「なにがなんだかわからないけれどなんとかしてくれ!」という鳴き声とはちがって、世界を理解する手がかりをあらかじめ獲得しているからです。

 しかしここを逆に言えば、四感で成立させることのできていた認識を、五感めの器質が物理的に追加されたからと言って、あらかじめ持っていて、なおのこと完成している四感による認識と、あたらしく獲得しつつある視覚とが、うまく相互浸透しうるかどうかは未知数である、ということでもあります。わたしの限られた経験と知識を披露するのもためらわれるのですが、あえて誤解を恐れずに言えば、ある程度の年齢となって世の中についての認識のあり方が完成されたあとでは、生まれた時から五感を持って対象に向き合ってきた人間と比べて、やはり差が出るのではないかな、という印象を持っています。これは積極的な面と、消極的な面を含んでいます。個人的なお付き合いのある方が言うには、「目が見えなくても色はわかりますよ」とのことでしたので…。
ともあれ認識というものは、人間ならば誰しもが当たり前に持っている働きであるにもかかわらず、歴史的に見れば哲学的にしか完成されていません。そこういった思考実験で得られた仮説を、その段階に留めることなく、現実の中で確かめてゆくことで科学的な学問として確立してゆかねばならない時が来ているのです。

◆◆◆

 人間の認識を考えるにあたって対象とするものは、こういった文学作品に限られるわけもなく、ましてや健常者とは呼べないとされる人たちのことを熱心に調べまわる、ということに限られるわけでもありません。日常的に問題意識を持って、つまり「この人はこういう行動をしているけれど、どういうことを思ってそうしたのだろうか?」と考えて仮説を立てて、それを確かめてみることを通して心の眼を高く持っておこうとすればいいのです。いいですか、「日常的に」、ですよ。意識的に実践する場合は、そういうものごとの見方をしなければ身体が変になるくらい、徹底してやってください。

今回の問で登場した女性についても、「生まれつきの盲目」ではなくて、「小さい頃は目が見えていたけれど事故で盲目になり、再び光を取り戻した」場合には、どういう認識のあり方になるかを考えてみてください。今回の場合とはまるで違ったものになりますよ。そういった思考訓練が正しく成された後であれば、後述する人間の認識についての交通関係を描いた書籍などは、なるほどと心の底から納得しながら読めるようになっているはずです。

さて、問についての直接的な言及はここまでです。問に答えを与えるならば…もう言わなくてもおわかりですね。こういった基礎的な誤りに気づかないまま作品を書いたり考察を進めてしまったということは、筆者である太宰の、人間の認識への理解が、「器質的に整えば認識も直ちに付いてくるはずだ」というタダモノ論の域を出なかったのだ、ということです。逆に言えば、人間の認識への理解は、半世紀とちょっとでここまで進展したのであり、またこれからの発展の余地を多分に残しているということにもなるわけです。

◆◆◆

ここで終わるつもりでしたが、太宰の誤り方というものは、現代でもよく見かけるものだなと思いますので、もう少し指摘しておこうと思います。以下は、眼に見える「現象」に引きずられて、その「過程に含まれるもの」を見落とすことの危うさを述べておきます。認識についての科学を、より学習を進めたい方は参考にしてください。

(5につづく)

2011/04/19

文学考察: 女人訓戒ー太宰治(修正版)

文学考察: 女人訓戒ー太宰治(修正版)


 今回のものは残念ながら、あまり意味のある評論になっていませんので、
一般読者のみなさんは以下の評論及びコメントを参照なさらなくてもけっこうです。


◆ノブくんの評論

 著者は辰野隆の「仏蘭西文学の話」という本の中のある文章に興味を惹かれています。それはある盲目の女性に兎の眼を移植したところ、なんと彼女は数日で目 が見えるようになりました。ところが、その数日の間、彼女は猟夫を見ると逃げ出してしまうようになってしまったというのです。一体、彼女は何故逃げ出すよ うになったのでしょうか。
 この作品では、〈物質から精神へ、また精神から物質へのある流れ〉が描かれています。
まず著者はこの問題を解くにあたって、タンシチューを食べるようになった為に英語の発音が上手になった女性や、狐の襟巻きをきると突如狡猾な人格になる女性のエピソード等を持ち出しています。その中で彼は、「狐がマダムを嘘つきにしているのでは無く、マダムのほうから、そのマダムの空想の狐にすすんで同化して見せているのである。」と述べています。つまり彼女たちは、自分の認識を物質(兎の目や襟巻き)に向けることによってそれを膨らませ、自ら兎になっていき、又私たちが考える狐のように狡猾になっていったのです。ここから、著者は物質が人間に影響を及ぼす場合、物質よりも人間の認識のあり方こそ、強く影響を及ぼしているのだと主張していることが理解できます。ですから、盲目の彼女は兎の目を大切にするあまり、猟夫を恐れるようになっていったのです。
 ここまで述べると、人間の認識こそが影響を及ぼしており、物質からの影響はまるでないように感じます。ですが果たしてそうでしょうか。一体私たちの認識というものはどこからきているのでしょうか。もう一度はじめの問題に戻って考えてみましょう。
 そもそも、盲目の彼女は一体何故、兎の目をそこ迄大切に思うようになっていったのでしょうか。まず彼女は盲目の為、世界に光があることや色があることを一切知りません。そんな物理的に障害を持って生まれた彼女が、目を移植したことによっていきなり光や色を認識できたでしょうか。はじめに目を開けた瞬間、彼女は世界の明るさに驚き、目を瞑ったのではないでしょうか。やがて、そのうち光にも慣れていき、今度は世界に色があることを知ります。そして、次第に物質と物質の境界まではっきりと分かるようになります。こうした過程を辿っていくうちに彼女は、自分の目で世界を見えることに対して大きな感動を覚えていくことでしょう。この感動とは、無論これまで目が見えなかったという物質的な要因があってこそ、感じているのです。だからこそ、彼女は移植した自身の兎の目を大切にするようになっていったのです。
 確かに、物質への感じ方はその人物の認識が影響を及ぼし、自身の行動や別の物質に影響を及ぼしていることは事実です。ですが、その認識というものは、その人物の環境や性質が大きくかかわっていることを忘れてはなりません。


◆わたしのコメント

 これではダメです。

 まず評論の姿勢として、作品を頭ごなしに批判しようとする態度が、評論することの意味そのものを失くしています。
 常々言っているように、評論とはあくまでも原文を忠実に理解した上で、要点をあらすじとしてまとめ、さらに要して筆者が最も述べたかったことを一般性として措定したあと、作品全体が、一般性を使ってそこからほとばしるかのごとく解けうることを示したのちに、問いかけとしての一般性の答えを最後の締めとするものです。

 わたしがコメントや作品のなかにある見落としを指摘していることに引きずられて、評論の姿勢まで批判的なものとしては絶対にいけません。以前にもことわっておいたとおり、わたしは論者・読者の理解を助けるために、作品のなかに含まれる構造を学問用語で解説しているにすぎません。それを形だけを真似して、学問用語などで評論を書こうなどというのは、筆者への敬意を欠いた思い上がりも甚だしい行いというべきです。
 わたしが解説している過程的構造は、作品の理解のために活かせばいいのであって、「おれはこんなにわかっている」と自慢気に専門用語をひけらかしながら主張するものではありません。極意論的に言いますが、作品に含まれている論理性を本当に理解していれば、つまり認識の上では過程的構造を把握できていれば、評論という表現の上ではものものしい学問用語は一切出てきません。さらにいえば、それこそを、形式を壊して内容をすくいとる「止揚」というのです。

◆◆◆

 今回の評論については内容に言及するのも馬鹿馬鹿しいほどですが、作品の中に「物質から精神へ、また精神から物質へ」という2つの流れがあることを指摘したうえで、結論が「両方とも大事」とはなんともはや、というべきです。作品から忠実に抜き出した重要な問題に、自ら解答を与えるのが評論というものなのに、自らの問いかけに答えることをしないどころか問題をぼんやりと散らかした上で満足気に筆を擱くとは、どういうつもりなのでしょうか。
 弁証法は「あれかこれか」ではなく「あれもこれも」を主張するのですが、そのことは、「あれもこれも同じく大事である」と、あれも大事だがこれも少しは大事だということの区分を形而上学的に相対化して述べることとは決定的に違うのです。あなたは、「もともと空気中にも水分が含まれているから、雨でも晴れでも同じである」と主張するのが弁証法だと勘違いしていませんか。そんなものは、冗談ならばさておき弁証法では決してありません。あなたのしているのは、弁証法ではなくて単なる相対主義です。弁証法は、対極が互いに浸透することを認めた上で、「どのような条件においてはどちらになりうるのか」を明らかにするものです。この誤解を解かないことには一歩も前に進めないほど大きな落とし穴に嵌っていることをしっかりと反省してください。

 わたしが上で述べたこと、以前に指摘しておいたことをまずはしっかりと踏まえてください。

 作品の評論をするにあたっては、筆者が「女性の細胞は、全く容易に、動物のそれに化することが、できるものなのである。」などと述べていることを重要なキーワードとして読みといてゆかなければならないでしょう。現代における科学的な認識論からすれば、あらゆるところで筆者が踏み外しをしていることを認めるのは難しくありませんが、些事に言及していては、本質を掴みきれずに終わってしまいますからね。

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 総評として、評論そのものの姿勢の誤りに引きずられて、一般性、論証、結論のすべてが誤っており、読後に浮かぶ感想は、「一体これはなにを言いたいのか?」というものでしかありません。恐ろしいほどの誤り方です。すべて書き直す必要があります。

盲目の人間が目を移植されたあと、その日から目が見えるようになるだろうか?(3)

(2のつづき)



 さて、前回のおはなしは、「人の立場に立って考える」ということを、理性的にとらえかえした「観念的二重化」のことをお伝えしておいたのでした。

 わたしは論者が、問にでてきた女性がもつであろう認識を、論者がいちおううまく追体験できていることを指摘しておきました。論者の言うところを見てみましょう。

その彼女が目を移植され、目をあけることができたとしても、まず世界の明るさに驚くのではないでしょうか。
そして、長い時間をかけて、光に慣れると、今度はぼんやりと色をとらえはじめるでしょう。
そして、その色がやがてくっきりと見えるようになり、物質と物質の境界が見えはじめる事でしょう。

 ここでは、女性がある驚きを持って新しい世界を受け止めていること、それがある期間を持って次の段階に進むこととが示されていますね。そこをふまえて、やや詳しく述べていきましょう。

 術後の回復を見て目に巻かれた包帯を取られることになった彼女は、それまでにも包帯から漏れた暗闇でないものにやや慣らされつつあったものの、それでもやはり、そこでの体験は「うわっ!?」という驚きに満ち溢れたもののはずです。それは、それが「光」とか「明るさ」だと他の人が呼んでいたものなのだとわかりそうでわからない、とにかく「これまでの世界にはないもの」がそこにある、という感触です。上では「暗闇」と表現しましたが、「光」と比べてみなければあるものを「暗闇」と呼ぶこともできないのですから、とにかくわからないものがある!という驚きに満ち満ちているのです。
 同じように、論者が一言で「色」や、「物質と物質の境界」といったものも、「なんだかあそこだけ周りとは違っている、動いている」という感触でしかなく、それが人の顔であったりとか病室に飾られた花瓶であったりなどということは、まるでわかりもしないのだ、ということを念頭において追体験しなければいけないことになります。論者は、ここをおおまかに捉えています。

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 それに加えて、論者がわたしのアドバイスをうまく受け止めてくれているなとはっきりわかる箇所は、以上のような内容を踏まえて、「長い時間をかけて」とことわりをいれていることです。ここは作中では、「奇蹟が実現せられて、其の女は其の日から世界を杖で探る必要が無くなった。」と書かれていますから、筆者である太宰は、「術後その日のうちに、彼女は物事がはっきりと見えるようになったのだ」と、なんの疑問もなく措定するという過ちを犯していることがわかります。
 ここでの踏み外しは、観念的二重化における落とし穴、「自分に備わっている認識のあり方を、当たり前のものだと思ってはいけない」に見事にはまっているわけです。太宰は、五感を持って生活してきた自分のことを念頭において彼女の認識のあり方を想像しました。そうすると、彼女はまるで、長い眠りについたあと、久しぶりに陽の光を見た人間のような反応しか示すことがないわけです。
 一言で言えば彼は、アタマの中に他人の認識のあり方をおいたつもりでいて、実のところ、それは自分の認識のあり方を自分のアタマの中においただけでしかなかったのです。「人の気持ちになってものごとを考えろ」と言われたときに、このやりかた、つまり「自分の他人化」ではなく「自分の自分化」をすると、むしろ害にしかなりません。

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 以上の二つの点について、わたしは論者の解答を悪くない、と言ったのでした。それというのは、ひとつに彼女の認識のあり方を考えるに当たって、自分の認識の押し付けて解釈しなかったという基本的な姿勢です。ふたつめには、物質的には満たされたはずの彼女の認識は、五感覚器官との相互浸透によって作り作られするなかでうまく働き始めるのだ、という過程的な構造が存在するということを理解していることです。

 ですから、上で述べた問の答えとしては、論者の答えが妥当です。

ですので、物質的に五体満足になったとしても、認識の上では、それに追いつく迄には時間がかかるはずです。

 ここでは、人間というものが、世界を、精神(認識)を媒介として理解する存在なのだ、という論理が浮上しつつあります。決して、物質的な、いわばカメラで撮った写真のような像を、そのままの形で受け止めているわけではないのです。そういう幻想を抱きがちなのは、わたしたちが物心のついた、ついてしまった大人なのであって、そこを器質的に違う人の認識、成長途中の子どもの認識、また未だ認識できないも同然の赤ん坊の認識、にまで無理やり延長して考えるところに、誤りが待ち受けているのです。
 弁証法の言うところの、真理はその適用範囲を的外れに押し広げれば誤謬に転化する、という対立物の相互浸透です。もう1年ほど前からの読者のみなさんにとっては常識になってしまいましたね。

 さてここで、悪くない、という評価は控えめなのではないかと思われる方もおられるでしょうが、これは「基礎的な踏み外しをしていないことは評価できる」という、条件付きの評価をしたのだと理解していただきたいと思います。ここには、「この先も踏み外しをすることなく観念的二重化をしていってほしい」という激励も含まれています。
 裏をかえせば、人間の認識のあり方というものは、それが眼に見えないものであるだけに、より深い構造を現実の実践に照らして手繰り寄せる際に、あらゆる落とし穴が待ち受けており、悪くすれば単なる解釈になってしまう場合さえある、ということなのです。

(つづく)