2011/04/22

ひさしぶりのどうでもいい雑記

ちょっと砕けた話でもしましょうか。


わたしは研究の他には、学生さんと夢について、生き方について、人間というものについて議論するのが好きだ。
べつに相手は学生さんでなくてもいいのだけれど、スレた大人とはウマが合わないのだから仕方がない。

◆◆◆

そんなわけで、我が家にはどこからともなく学生たちや志のある社会人たちしか来ないのだけど、
あるときどう調べたか、クレームの電話がかかってきたことがある。

いわく、「お前、学生を集めてなにか企んでいるらしいな」。
学生が来るのは確かだし、学問を万人の手に還そうとしているのも確かですが、
別に無理に来させているわけではありませんと言ったら、
「じゃあ洗脳しているということを認めたことになるぞ」という返事であった。

もうここまで来るとおかしくなってきて、
失礼ながら自分でも吹き出すのをこらえることができないほどで、
失礼のないように受け答えをするので必死だったので、
ケイサツを呼ぶだの訴えるだののあと、おわりの挨拶が
「いまどきアカなんか流行らんぞ!」
ということくらいしか覚えていないくらいなのだが、
もうここまでキチガイ扱いされると返す言葉もない。

わたしは学生を集めて黒魔術にかけて、
政府を転覆させんと革命を狙う悪の枢軸、といったところらしい。
出すところに出すというなら、勝手にすればいいと思う。

わたしとして言えることは、学生たちは勝手に来ているのであって、もっと言えば、彼女・彼らの、大学でのあまりの扱いの酷さに、このままでは彼女・彼らの志だけがくすぶってせっかくの可能性が潰れてしまうだけだと同情するあまりに、なにかできることがあればと授業やら議論をしたりしているだけである。
もし訴状やら事情聴取なんかが来たときには、「XXの話によれば、XXがXXをXXしてXXにXXしてしまい、XXたちが取り残されてXXになってしまうそうなのでなんとかしてくれませんかということでこんなことになっているのです」などと、知る限りの事実をありのままに証言すればいいのかもしれないが、これって、他でもないご本人の損にしかならないんじゃないのかなあ。

わたしは学生から、な〜んにももらったことはないぞ。むしろ、持ち出しのほうがはるかに多いくらいである。ありがたく受け取って、またお返しをするのは、形にはならないものばかりだ。だからわたしのところには、本質的なものを見つめて目をそらさないような、そんな人間しか来ない。

◆◆◆

わたしはこういう話を人としていると、研究でも実生活でも、
なんとも社会とは矛盾に満ち溢れているなあ、
まだまだ自分にもやれることがあるなあ、
昔の偉人たちも、こういう矛盾に潰されずに歩みを進めていたんだなあ、まだ道は遠しだなあ、
という、笑いやら悲しみといった雑念を、はるか彼方に置き去りにしてきたような、
見渡す限り色があるようでないような平野でひとり雲の行き交うところをながめているような気分になって、
我が身を越えたはるかな気持ちになってくるのである。

まあそれはどうでもいいことなのだが、ともかく、
やるべきことの遙かさや深みに圧倒される毎日にあって、
「後進の抱える人間存在に関わる本質的な問題は、すべての生活に優先する」
という学者であるための鉄のオキテに従って、
こうして表面上はゆったりとした時間を過ごすことがあるというわけだ。

◆◆◆

そんなときは決まって外にでるから、
こういった話は公園のベンチなんかに座ってすることが多いのだけど、
決まってやってくるのが、鳥なんかである。

ハトは足をよじ登ってくるわ、スズメは肩に止まるわ。

ふつう、鳥って肩までは来ないよねえ。エサ持ってるわけでもないのに。
というふうに、これは不思議だなぜだろうなぜかしらと首をかしげていたら、
相方には笑われるわ、まわりの人たちに写真を撮られるわで、話どころじゃない。

動物のほうでも、自分にエサをくれる人間がわかったときには集まってくるものだけど、
わたしは日常的にエサをやっているわけでもないし、
間食をする習慣がないのでやれるものは持っていない。
木かなんかに見えているのかしら。
それだったら、ベンチでチュンチュンやっているので十分ではないか。
第一、なんで学生には止まらんのだ。

わたしとしては問題を解くどころか、
むしろ肩に糞を落とすかもしれないという現実的な問題に向き合わされ、我に返るばかりである。

これ、認識論をやっている人間としては、やっぱり解かねばならない(?)のだが、これは難問である。
禅の悟得の問題を解こうとしている方もおられるが、あの理論で解けるのだろうか。
精神がないから認識もしないはずの動物が人という対象によってその行動を変えるということは、やはり対象の方にしか問題がないことになるから、人の生活に近い動物は、精神がないながらも認識のあり方に近いものを、人間を含めた社会性の中で本能の上に生成させてきつつあるのでは…そういえば北海道を自転車ツアーしたときは、やたらトンボにたかられたっけ、あれはさすがに関係ないよねえ…うーん、わからない。

◆◆◆

それにしても、人間からは狂人扱いされるのに動物からは慕われるという事実から察するに、
わたしを慕ってくるような学生というのは動物レベルということだろうか?
とからかったら、相方から「それは形而上学的な考え方で、弁証法的ではないでしょ」とやられた。

後進も、さるもの。
歩みは、ままならぬもの。
まだまだ、先は長いようである。

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